木の根につまづいた拍子に、手に持っていたリンゴをトートバッグごと、湖へ放り込んでしまった。
せっかく湖の女神へ、以前携帯電話を拾っていただいたお礼に手渡そうと思って持参したのに。
途方に暮れて湖畔に立ち尽くしていたけれど、女神が姿を現す気配はない。
携帯電話がブルブル鳴った。
!女神からのメールだ。
それを開いてみて、僕は目を丸くした。
バッグに入っていた数だけのリンゴの絵文字が、件名欄に並んでいることに驚いて―。
節分の昨日、グループホームぽらん気仙沼では恵方巻つくりを行ないました。
まだ準備中の写真ですが、とってもおいしそうですね。
(長いままでは高齢の利用者様には危険なので、切ってお出ししました。)
よく見ると、かまぼこに鬼の絵が入っています。
利用者様・職員で一緒に賑やかに食べて、無病息災を願いました。
新年会終了後、僕はかたわらに立っていたざしき童子へ頭を下げた。
ホール係の制服で変装した彼女は、事前に思い描いていたもてなしをきれいに実現してくれた。
テーブルをまんべんなく回り、漫然と席に着いたままの客には主賓へ挨拶に行くよう促したり、絶妙のタイミングで主賓の料理を取り分けたり。
「どうもありがとう。」
どういたしまして、とやや得意げに彼女は頷いた。僕の心を読んだのだろう。
なにかお返しがしたいな。
「じゃあ、こうして。もう二度と災害ボランティアに単身出掛けるなどと言い出さないで。こんな風にあなたは責任ある立場で、もしものことがあっては取り返しがつかないし、代わりもいないのだから。」
それとこれとは別でしょう、と言いかけてやめた。
今夜は気分がよかったから。
「もちろん、災害ボランティアで汗を流すことも尊いけれど、あなたはあなたしかできない方法で、支援することを考えて。」
「例えば、、募金?」
「そう。」
「情報発信?」
「そう。」
「被災後の体験=しくじりの披瀝?」
「そうよ!」
二人して声を上げて笑った後、こんなにも屈託なく笑ったのはいつ以来だろう、と僕は思い巡らしていた。
「リバティ・バランスを射った男」(1962年)がどうしてこんなにももの悲しいのか、初めて観た時から考え続けていた。
ピーター・ボグダノヴィッチ(映画評論家・監督)もそう感じていたらしく、大胆にもジョン・フォード監督本人に尋ねている。
あっさり否定されているが。
今はなぜだか分かる。
ジョン・フォード一座(ジョン・フォード・ストック・カンパニー)がみな老いてしまっているからだ。
番頭格のワード・ボンドにいたっては病死して不在。
主演のジョン・ウエインも、ジェームス・スチュアートも、役を演じるには老けすぎている。
ヒロインのヴェラ・マイルズにしたって、「捜索者」(1955年)の娘役の輝きはない。
さらに、恋心を寄せていたマイルズの気持ちが離れたのを感じ取って、未完成の新居に火をかけるウエインの凶暴な失意とジェラシーがひどく胸をこたえるのだ。
「映画の巨人ジョン・フォード」(2006年)ピーター・ボグダノヴィッチ監督
皮肉屋フォードがボグダノヴィッチのインタビューに対してまともに答えようとしない(18分30秒から)
手のつけられない小悪党のリバティ・バランス=リー・マーヴィンの衣裳はイディス・ヘッドがデザインしたものだ。