WHO本部(ジュネーヴ)に押し入ったテロリストの一人が、機構内部で秘かにアメリカ軍が研究開発していた細菌兵器の病原菌に感染してしまう。逃走した男はパリ・アムステルダム経由ストックホルム行きの大陸横断鉄道へ乗り込む。スキャンダル発覚を恐れたアメリカ軍は、あろうことか感染が疑われる乗客1000人もろとも、古いカサンドラ・クロス橋梁の崩落事故に見せかけて抹殺する計画を実行に移す―。
「カサンドラ・クロス」(1976年)は日本でも大ヒットしたパニック・サスペンス映画。
カルロ・ポンティ製作、ポンティ夫人のソフィア・ローレンが主演。バート・ランカスターが在駐アメリカ軍指揮官、エヴァ・ガードナーが乗客の有閑マダム役だった。
パンデミックも怖いけれど、このようなことが起きるのがもっと怖い。
ランカスター、ジョン・フィリップ・ロー、イングリッド・チューリン
マーティン・シーン、エヴァ・ガードナー
アンタはハイマン・ロスだろ?
テレビを点けたらフィギュアスケートの実況番組で、韓国の選手が映画「ある日どこかで」(1980年)のテーマ曲を使用していた。
亡くなった舞台女優の写真に恋した若い劇作家が無理やりタイムトラベルを試みる、リチャード・マシスン原作のサイエンス・フィクション。
音楽は、ジョン・バリーだ。そういえば、(バリー作曲の)「007のテーマ」で金メダルを獲った選手もいた。
二人の出会いのシーン、初めてなのに、「あなたなの?」「そうです」というやりとりは、まさにマジックタイムだな、と思う。
神々しいまでに美しいジェーン・シーモアの風変わりな老マネージャー役に名優クリストファー・プラマー(いわゆる、トラップ大佐)なのも、嬉しい。
こちらのシーンではラフマニノフ(「パガニーニの主題による狂詩曲」)が使われている。
時々子供を連れて行った市外の回転ずしは、大手チェーンから抜けて看板は架け替えたものの、機材はそのまま使用している、かなりレトロなお店だ。
レーンを流れているものも、おでんだったり、チビ一(ミニカップラーメン)だったり、巨大玉子焼きの上にシャリが載っている逆さまな握りだったり、自由というか一風変わっていて、それを子供たちが喜んだ。
客層は常連さんが多いのか、混んでいてもピリピリしたところがなく、レーンの中にいる中年女性の店員さんとのやりとりものんびりしていた。
ある時、ひどい偏食の僕は、旺盛な食欲の子供たちの様子を見ながらいつものようにフライドポテトをつまんでいたのだが、店の奥の席から入ったオーダーに耳を疑った。
「かんぴょう抜きのかんぴょう巻きを一つ!」
大きな声の主は若い父親で、どうやら子供に代わっての注文らしい。
店内がどっと沸いた。
ああ、それ、僕の子供の頃の好物だったんだ。
久しぶりに食べたい。
このなごやかな雰囲気なら大丈夫だろう。
「同じものを二皿!」
ところがなんてこと、一転して店内が静まり返ってしまった。
首を伸ばしてこちらを見ている客もいる。
しくじった、やはり偏食は死ぬまで深く静かに潜航せよ、ということか、、、。
映画「赤い河」(1948年)の撮影中、ハワード・ホークス監督と主演のジョン・ウエインはロケ地のメキシコで記念に同じデザインのバックルを作らせた。
以来ウエインは「リオ・ブラボー」(59年)、「ハタリ!」(61年)、「エル・ドラド」(66年)、「リオ・ロボ」(70年)とホークスの作品に出演するたび律儀にそのバックルのベルトを身に着けており、そのことはシネフィル[映画通]の間ではよく知られたエピソードとなっている。
その後自分の映画制作会社を持って好き勝手に凡作を濫造するようになったウエインは、老いてネームバリューを失ったホークスやジョン・フォードの出演オファーから体よく逃げ回り続けた。
結局1977年12月、ホークスは世を去り、「リオ・ロボ」が遺作となった。
彼の葬儀ではウエインが「千の風になって」の原詩を朗読したという。
その時のウエインの胸中はどのようなものだったのか。
悔悟か、惜別か、それとも、安堵か。
「リオ・ロボ」撮影時のホークス(右)とウエイン
私のお墓の前に立ちつくして泣かないで
私はそこにはいない、私は眠っていない
私は吹きわたる千の風になり
やさしく舞い落ちる雪になり
おだやかに降りそそぐ雨になり
実り豊かな畑となる
私は朝の静寂の中で
優雅に円を描いて空を駆る
美しい鳥たちの中にいる
夜には星の輝きになる
私は咲き誇る花々の中に
静かな部屋の中に
歌う鳥たちの中に
愛しきすべてのものの中にいる
私のお墓の前に立ちつくして嘆かないで
私はそこにはいない、私は死んではいない
カーク・ダグラスが亡くなった。103歳、大往生である。
ドク・ホリディをダグラスが、ワイアット・アープをバート・ランカスターが演じた「OK牧場の決闘」(1957年)は、同じ題材の「荒野の決闘」とは大きく異なり、講談調の男臭いアクション映画である。
結核を患うドク役のダグラスの豪快な飲みっぷりが最高で、よく真似てはそのたびみっともなくむせたものだ(注:上の映像はスペイン語吹替版です)。
この映画の撮影中にダグラスとランカスターは友情をはぐくみ、生涯の親友、そして自他ともに認めるライバルとなった。
イディス・ヘッドが衣裳を担当している
ダグラスの自伝「くず屋の息子(上下)」早川書房(1989年)刊は僕の映画話の最大のネタ帳である。
面白いエピソード満載なのだが、とりわけ忘れられないのは、何度か共演したジョン・ウエインとの「戦う幌馬車」(1967年)撮影時のものだ。
たしかに、ウエイン後期の凡作はすべてその通りになっている、と思い当たり、以来それを観るたび吹き出してしまう。
少し長いが下に引用する。
※
ウェインの身体の不調は傍目にも見てとれたが、それで仕事をあきらめるような男ではなかった。プロに徹しているという点では、私は常々、彼のことを感心していた。いつもまっ先にセットに現れ、たいていのときは、特殊効果の連中のしていることを点検していた。そして何にでも、くちばしを入れた。私は話しかけるべきだった。このことではずっと悔やんでいる。しかし実際には、それどころではなく、彼にすっかり辟易していた。ウェインは監督をいいようにこき使っていた。自分の製作会社を設立し、自分を押さえつけていた ジョン・フォードのような強い監督たちから離れると、今度は、彼が監督を牛耳る支配者となったのである。「なんだと、こんな所にカメラをすえる気か。まったくもう。あっちにすえるんだ!」口ケ地はまったくの田舎だった。カメラをどの方角に向けようと関係ない。どこも美しい景色だった。勢ぞろいの場面では、しばしばウェインを真ん中にして片側にカウボーイが数人、反対側にも数人が並んだ。ウェインは左を向いて何かしゃべり、右を向いて何かしゃべる。そして一 同、前進するという具合だ。ある時点でふと気がつくと、いつのまにか私もこの振り付けにまきこまれ、彼の右に来ていた。ウェインが左の男を振りむいているあいだに、私は身をかがめ、焚き火にかけてあったコーヒーを注いだ。得意の芝居を続けようと、こちらを振りかえり、しゃがみこんでいる私をさがす羽目になったときの彼のあの表情は、一生忘れられないだろう。彼はどなりつけてきた。「いったいぜんたい…… !」 「 いやね、ジョン、みんなまるでロケッツ(ニューヨークのダンシング・チーム)みたいに勢ぞろいしていただろう。あれじゃ芸がないと思ってね」 彼は渋々ではあったが、承服した。