「弘前からねぷた絵師のタナカさんがいらした。イベントのことでけせもい市内の方と打ち合わせ、日帰りだという。事務所に入って来るなり、勢いよくマスクを外した。普通、入って来るなり急ぎマスクを着けた、だと思うけど、『ああ、このひとは僕と本気で話そうとしているのだ』と胸が熱くなった。さすがに僕は仕事柄マスクを外すことはできなかったが。
両手で抱えるほど大きなねぷた絵の灯籠をいただいた。『理事長が喜ぶと思ってさ。』
僕は僕できっとなにか持参するだろうからと赤のし袋をあらかじめ準備していたのだが、中に入れた金額をはるかに上回る逸品だった。
二時間近くたっぷり話し込み、タナカさん、先方が待ってるんじゃありませんか?と何度も促してやっと彼は腰を上げた。
へば、また、と言いながら手土産の海苔だけ持ち、のし袋はを机の上に忘れたふりをして置いて行く。それを無理やりポケットに押し込むと、へばや、ちょっと待ってろ、と車へ駆けて行った。戻ってきた彼から差し出されたのは、2メートル四方の七福神図だった。
これは、、別に行き場所があったんじゃありませんか?との問いには答えず、『理事長はわど一回枠作りしてるはんで、ひとりでできるもんな』とにっこり笑った。またもや津軽のもてなしに完敗してしまった。
現在あちらでは弘前城雪灯籠まつりが開催中だという。タナカさんもきっと出展していることだろう。」
今風の言い方?をすると、トラップ大佐ってヒドくないですか?
婚約者の男爵夫人をソデにして、若い家庭教師に熱を上げて。
しかも、男爵夫人を演じているのは、ハリウッドきっての美人女優エリナ・パーカーだというのに。
テレビで古ぼけた映画を観始めたころ、西部劇や社会派ドラマに出ているすごくきれいなひと、というのがパーカーの第一印象だった。
フランク・シナトラを束縛する悪妻を演じた「黄金の腕」(1955年)、チャールトン・ヘストンをイラつかせる新妻役の「黒い絨毯」(1954年)、カーク・ダグラスを破滅させる「探偵物語」(1951年)、北軍将校ウイリアム・ホールデンを誘惑する南部美女役の「ブラボー砦の脱出」(1953年)などなど。
アカデミー主演女優賞に三度もノミネートされた確かな演技力が、いつもその美貌をさらに引き立たせていた。
では、トラップ大佐はなぜそんな才色兼備の麗人よりも、ヘルメットみたいな髪型の若いコを選び、しかも観客がそれを納得しているのか。
「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年)の俳優たちの年齢を改めて考えてみると、撮影時、退役軍人のトラップ大佐を演じているクリストファー・プラマーは老け役だが、まだ35歳。
ジュリー・アンドリュースは29歳、一方エリナ・パーカーは42歳。
たしかに、先に列挙した50年代の作品の頃よりもだいぶ貫録が増し、プラマーのそれを上回ってすらいて、どこから見ても堂々たる男爵夫人だ。
それがあだとなっているのか。
クーデターを題材にした映画はたくさんあるが、その中で「パワープレイ」(1978年)はピカ一の傑作だ。
ビデオ発売時には、「将軍たちの夜」の3名の将軍のうち2名、名優ピーター・オトゥールとドナルド・プレザンスが出演していることから、「参謀たちの夜」と無理目の副題がついていた。
この映画で主演を務めているのはデヴィッド・ヘミングス。
驚愕の結末は一度観たら忘れられないが、ややふっくらしたお人よしの風貌のヘミングスだからよけい悲惨に感じるのかもしれない。
予告編
ヘミングスは60年代にミケランジェロ・アントニオーニ監督の問題作「欲望」(1966年)で一躍スターダムにのし上がったイギリス人俳優だ。
売れっ子の写真家を演じるヘミングスはまだやせて尖っている。
ストーリーには関係ないが、ジェーン・バーキンがモデル志望の女の子役で顔を出していて、これがとってもかわいいので二枚写真を貼り付けておく。
大作ミュージカル「キャメロット」(1967年)では悪役モードレッドを演じた。
個人的に最も怖いホラー映画、「サスペリア2」(1975年)。
フリーマントルの小説「消されかけた男」をテレビ映画化したもの(1979年)。
このどんでん返しも、忘れ難い。
人気テレビシリーズ「ジェシカおばさんの事件簿」で監督を手掛け、ちゃっかり出演も果たしている。
余韻の残るエピソードだった(1987年、シーズン3)。
ヘミングスはアンジェラ・ランズベリーの後ろ。右端はナカトミ社長ことジェームズ繁田だ。
監督を手掛けた、怪作にして大傑作(1981年)。ぜひどうぞ。
他にも「バーバレラ」、リチャード・レスターの「ジャガーノート」やケン・ラッセルの「レインボウ」、スコセッシの「ギャング・オブ・ニューヨーク」(2002年)などなど、こんなにもいい映画に出ているというのに、今一つ人気が続かなかったヘミングスはホントお気の毒としか言いようがない。
NPO法人なごやかの女性職員と他法人の介護職員が結婚することになり、私はなごやかの井浦理事長や新婦の所属事業所であるグループホーム虔十のY管理者とともに披露宴へ招かれた。
新婦側主賓の理事長はモーニング、Y管理者は淡い水色が基調の和装で、この時点で新郎側とはもう勝負あり、の観があった。
理事長の祝辞はいつもながら行き届いていた。
新婦の人柄を称賛し、続いて先方の法人を持ち上げ、新郎の将来についての期待を述べ、そして新婦をくれぐれも大切にしてくれるよう新郎とその家族へ柔らかく申し入れる。
新婦側参列者全員の気持ちを代弁しているように聞こえた。
お色直しのあと、キャンドルサービスのBGMを聴いて、おや、と思った。
「虹の彼方に」、「ムーンリバー」、「マイ・ラブ」―理事長を見やると、新婦から選曲を依頼されてね、とにっこり笑った。
終宴後、Y管理者がカメラマンを呼び、理事長と記念写真を撮っていたのだが、それを終えると理事長が自分とY管理者の分の、引き出物が入った大きな紙袋二つを両手に下げてスタスタ出口の方へ歩き出したのには驚いた。
Yさんも私もあわてて追いすがって止めると、お着物の女性には荷物持ちが必要だし、僕はそれが似合うんだよ、と理事長が言い放ったのを聞いて、私はなんだかクラクラめまいがした―。
仕事から戻ると、リビングのソファで母親があおむけにぐったりしていた。元々白い顔から全く血の気が失せている。
あわてて声を掛けようとした僕に、父親がやめとけ、と目くばせしながら首を横に振った。
どうしたのかと小声で尋ねると、長女(上の妹)の勧めで着物専門の買取屋を呼んで見積もりさせたところが、あまりの安さにすっかり気を悪くしたのだという。
ここに額を書くのはやめておくが、次女(下の妹)の夫の実家の呉服屋からいただいた大島紬の反物が300円だったと聞いて、申し訳ないなと思いながらも吹き出してしまった。
(学生時代に売ったレコードの方がまだ高いや。)
キモノは世界に誇れる文化だし、和装の女性くらい美しいものはない。
でも、脱いだ途端にそれこそタンスの肥やし、今や誰もいらないものに変わってしまう。
これまでは、来年、成人式の振袖をレンタルで済ませると言っている娘へ、どうせなら買ってもいいんじゃない?などと軽口を叩いていたが、、、やめた。
振袖はレンタルでいいし、キモノは着たくなったら神社のフリーマーケットででも買ってくればいい。喪服も洋装で構わない。
そういえば、若いころに知己を得た日本舞踊のお師匠さんが言っていた、自分くらいの年齢になると、もう高い着物などまったく不要、軽くて暖かければそれでいいのよ、と。
その方は銀座の老舗和装店がご実家で、そんなことおっしゃってよろしいのですか、と僕はおっかなびっくり答えたものだ。
ともあれ、母にとっては災難な一日だった。