院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

馬になったお坊さん

2018-01-29 20:32:40 | 読書

 
 学校2年生のころ「今昔物語」に夢中になった。5センチくらいの厚い本だったが、総ルビで苦痛にならかった。

 なかに「馬になったお坊さん」という話があって、とくに私の興味を引いた。詳細は省くが何度も読んだ。

 あんなに面白い物語も珍しいと思う。

 ※今日の俳句
   春暁の夢のあたたかきなるかな
   ひとし

ベストセラー「90歳、何がめでたい」

2017-12-22 02:41:39 | 読書

(amazon より引用。)

 今年の総合ベストセラーは上の本だそうだ。私も読んだ。

 だが、さして面白くない。ややくどい。佐藤愛子は私が学生時代に文壇デビューした。さすが、サトウハチローの妹、佐藤紅緑の娘と血筋を感じさせた。

 ところが、90歳で著書を出すのはすごいと思うが、上の本にはデビュー当時のような軽さがないのだ。

 デビューしたての頃はさぞモテたことだろう。吉行淳之介の妹、吉行和子と同じく美人だった。文壇で吉行和子と双璧をなしていただろう。

 これで上の本がもっと面白ければ、向かうところ敵なしなのだが、そうでないところにホッとさせるところがある。

 ※今日の俳句(冬)
   お終ひは雑炊にして総ざらへ
   ひとし(豊橋)

小説にかんする誤解(2)「赤ひげ」

2017-07-19 12:00:25 | 読書
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「赤ひげ」に「医は仁術」という言葉が出てくる。今では「医は仁術」は、いい意味で使用される。だが「赤ひげ」の本文のなかでは、この言葉は悪い意味で用いられている。

赤ひげ曰く、「人間は風邪ひとつ治せないのに ”医は仁術” なぞと自分で言って、民衆をだます医者が多すぎる」。

もとの意味が正反対になってしまった、これは好例である。


 ※私の俳句(夏)

    母を訪ふ介護ホームの青すだれ

小説にかんする誤解(1)「金色夜叉」

2017-07-19 05:55:53 | 読書
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上の写真は熱海にある「貫一お宮」の銅像である。貫一は下駄をはいている。貫一は本当に下駄をはいていたのだろうか?

「金色夜叉」の本文を読むと、「(貫一の)靴音が去って行った」という記述がある。じつは貫一は熱海では靴をはいていたのだ。つまり、この銅像は大いなる誤解である。

次の岩波文庫の挿絵は、ちゃんと靴をはいている。これが正しいのだ。




※私の俳句(秋)

     法師蝉聴き漱石の「こころ」閉づ

著書を贈られたら礼状は読まぬうちから

2015-10-24 14:02:53 | 読書
現代の統合失調症治療の再検討 (こころの科学叢書)
中里均
日本評論社
(画像をクリックすると amazon の当該ページに跳びます。)

 著書(論文も含む)を知り合いに贈ったことが何度かある。返事があるのは、なんと半分以下だ。

 むかし、夏彦翁が「読まないうちから礼状を出せ」と言っていた意味がよく分かった。著書を出すのは一種の名誉である。そんなものを贈られても面白くない気持ちはよく分かる。だからこそ、礼状は早いほうがよいのだ。

 私は著書を贈られたその日に礼状を書く。読む読まないは当方の勝手である。私は著者も気づいていない部分を好意的に指摘するようにしている。(そういう指摘は読まなければできないけれども・・。)


※今日、気にとまった短歌

  一人(いちにん)の老人死ねば図書館のひとつが消ゆるが如しと聞きぬ (愛知県南知多町)杉山智栄

絶滅寸前の「秘宝館」

2014-11-28 05:05:45 | 読書

(青弓社刊。)

 1970年代に温泉地を中心として「秘宝館」なるものがいくつも建てられました。

 展示品は雑多で、女性ヌードの等身大模型、交尾をしている動物の剥製、ペニス信仰のご神体、妊娠子宮の医学模型、観音像、春画などでした。一言で言って猥雑でキッチュな展示品です。俗悪と言ってもよいでしょう。

 私が思うに、「秘宝館」が温泉地に建てられたのは、温泉地の性風俗と無関係ではないでしょう。いまでこそ家族連れで賑わう温泉地ですが、私が青年のころは男性客だけなら売春の「御用聞き」が部屋まで来たし、小グループで「お座敷ストリップ」の注文ができ、海辺の船では「本番ショウ」をやっていました。(船上でやったのは官憲が入れないようにするためだといいます。)

 温泉地とは以上のような属性をもっていたので、そこに「秘宝館」ができるのは私にはなんの不思議もありませんでした。

 そこで上掲の本ですが、著者は1977年生まれの女性研究者で、「秘宝館」を世界に類を見ない「変わった博物館」だと位置づけ、文化的、歴史的な考察を行っています。著者は「秘宝館」をニュートラルに研究しています。そのため、俗悪、猥雑という価値判断を避けています。

 むかしの温泉地の風俗を知っている私にとって、俗悪、猥雑というキーワード抜きで「秘宝館」を語ることはできません。それらを抜きにして「秘宝館」を考察している本書は、だから「そうだそうだ」と膝を打てない面があるのでしょう。ですが、こういうところにまで目を付ける女性研究者が出現してきたことに、隔世の感を感じます。

 ひとむかし前なら、毒にも薬にもならないような研究に、ひとりの女性が没頭することはありえませんでした。以前にこのブログに書いた東南アジアの民族音楽研究者も女性でした。そのときにも述べましたが、こういう研究者が出てくるのは日本が豊かになった明らかな証拠なので、私は喜びをどうしても隠せないのです。

ダーウィンの進化論はそんなに正しいのでしょうか?(その4)

2014-11-22 05:16:46 | 読書

(映画「バックトゥザフューチャー」のサウンドトラック版CD。)

 人間が対象を把握する仕方に「説明と了解」という2つの仕方があると19世紀以来言われています。物理学などの自然科学では「法則を説明」するという把握が行われます。それに対して、歴史学のような分野では、「筋道を了解」するという形で把握が行われるそうです。

 たとえば、元寇が来たとき神風が吹かなければ歴史は変わっていたでしょう。あの日、信長がお腹をこわさなかったらとか、家康が転ばなかったらとか些細なことで歴史は変わっていたはずだと考えられます。

(「バタフライ効果」といって、ブラジルの蝶々のはばたきがテキサスに竜巻を起こすようなことが、カオスの世界ではありえます。)

 進化で言えば、巨大隕石が恐竜を絶滅させたから哺乳類が栄えたと言われています。このように、進化においては「ほかでもありえた」ということが沢山あります。

 タイムパラドックスでは、過去をいじると未来が変わってしまうという設定で、過去をいじったために未来が化け物のような生物で満たされるSFがあります。これも「ほかにもありえた」生態系です。

 生命が誕生してからこれまでに、「大絶滅」が4回起こっているのだそうです。その都度「ほかにもありえた」生態系が出番を阻まれています。現在ある生態系が唯一無二というわけではないのですね。

 地球上には現在400万種以上の生物種がいるそうです。著者は、その1000倍は絶滅しているといいますが、それは4回の大絶滅以外にも、ちょっとしたことで出番がなかった生物種も入っているのではないでしょうか。

 生物学は自然科学ですから「説明」という把握のされ方をします。一方、進化論は生物の歴史ですから「了解」という把握のされ方をするので、進化論は「説明と了解」の両方にまたがっていると著者は主張します。

 地道に「適者生存」の原理で「自然淘汰」によって合目的的な生物だけが生き残ったと考えられるだけではなく、それこそ家康が転んだだけで(バタフライ効果で)生態系がガラリと変わってしまう可能性があります。それを著者は「理不尽」と名付けたのでしょう。

 本書『理不尽な進化』の著者は自分を素人と規定していますが、なかなかどうして素人にはこれだけ書けるものではありません。繰り返しを省き過去の学者たちをもっと整然と並べれば、けっこうな名著になると私は思います。

ダーウィンの進化論はそんなに正しいのでしょうか?(その3)

2014-11-21 08:04:36 | 読書
   
(『だんだん物語』の原書。)

 「キリンの首はなぜ長いの?」という子どもの質問があります。それに対して、高い木の葉っぱを食べようとしていたら、だんだん首が長くなったんだよ、という大人の答えが上掲の『だんだん物語』という子ども向けの本には載っているそうです。

 それは「獲得形質は遺伝する」というラマルクの考え方で、正しくありません。しかし、いろんな分野で目的論的な説明がなされたのも事実です。たとえば、アステカの食人風習について、実はそれによってタンパク質不足を補っていたといったような説明がそれです。目的を別に設定して、現状を正当的に説明してしまうわけです。

 進化論も同じようなことをやっていると批判されます。アメリカのグールドという古生物学者が1978年「スパンドレル論文」と呼ばれる論文を提出して、合目的論者を批判しました。自然淘汰だけによって進化は行われてきたのではなく、偶発的な事件によることが大きいというのが論文の主旨です。

 スパンドレルというのは大聖堂の球場天井の建築のことらしく、そこにはキリスト教の聖者たちが描かれています。聖者たちがあまりに荘厳に描かれているので、スパンドレルという建築構造は絵画を立派に見せるために設計されたように見えますが、じつは力学的な構造に過ぎないのだそうです。

 現在の進化論は、スパンドレルが絵画用に作られたと主張するようなことを、進化の説明で行っているというのがグールドの主張です。勝手に「目的」を設定してはいけないというわけですね。

 それに対して、ドーキンスという人が、生物は必ずしも最適に適応化した行動をとっているわけではないと実例を示し反論しました。完全に合目的的な行動をしなくても生物は生存しうるのであり、それらの行動が合目的的ではないことを示すためにも、やはり合目的的な尺度を措定して比較しなければならない、としました。

 この論争は20年続いたそうです。結果はどうかというと、生物は合目的的な存在だと決めてかかって研究した方が、疑って研究するより成果があがることが示され、いまのところ合目的論者(適応主義者)のほうが”実用的には”分がよいそうです。

 以上のようなことが『理不尽な進化』には書かれています。ここから先は、学問を研究するときの認知の仕方といった哲学的な考察に入っていきます。次回になるべく分かりやすく解説します。

ダーウィンの進化論はそんなに正しいのでしょうか?(その2)

2014-11-20 05:40:46 | 読書
    (前回掲示した本の目次)

 「適者生存」というテーゼがトートロジー(同語反復)だと批判している派は、現在生存している生物種のことを他ならぬ「適者」と呼ぶのだから、「適者生存」は意味をなさない、あるいはいつも「真」なのは当然と指摘します。私も論理的にはそれが正しいと思います。

 一方、そうでない派は、自然科学を探究するときには一定の指針が必要だと主張します。「適者生存」は指針であって、必ずしも真理とは限らないと言います。自然界には神羅万象が無限に存在するのだから、何の指針もなしで闇雲に研究することはできない。それは物理学でも同じだと。

 私は進化論のテーゼだけを論理的に攻撃しても意味がないと思います。やはりテーゼは指針だという派のほうに組したいです。「適者生存」はダーウィニズムの「旗」のようなもので、「旗」がトートロジーだとは揚げ足取りのように感じられます。

 「適者生存」の結果なのでしょうが、生物は「合目的的」にできています。それが、あまりに精妙なので、神の仕業とされることがありました。ところが、「適者生存」、「自然淘汰」というダーウィニズムの考え方によって、神を持ち出さなくとも「合目的性」は説明できるようになりました。ところが、ここでもまた進化の考察に「合目的性」を措定すること自体が批判されます。それについては次回に。


※今日、気にとまった短歌

  父母の言ふ「持つべきは子」を聞きたくて今日も見舞ひぬ二時間かけて  (荒川区)高仲絹

ダーウィンの進化論はそんなに正しいのでしょうか?(その1)

2014-11-19 04:22:49 | 読書
   (朝日出版社刊。)

 「据え置き電話が携帯電話になりスマホまで”進化”しました。もう据え置き電話だけでは社会に”適応”できません。据え置き電話はやがて”淘汰”されるでしょう」などと言います。お気づきのようにこの文章にはダーウィンの進化論の用語が散りばめられ、主張の正当性が進化論で補強されています。

 自らの主張を進化論の用語で正当化することが一般的に行われているけれども、進化論はそんなに自明か?と本書の最初のほうで著者は問うています。著者は進化論のこうした万能的な援用を「言葉のお守り」と侮蔑的に名付けて、論理的ではないと指摘しています。(でも、進化論の用語で説かれると本当に分かったような気になってしまうのですよね。)

 この辺からして、すでに興味がわくでしょう?繰り返しの多い冗長な文体ですが、先を読みたくなります。この先には、21世紀に入ってから「適者生存」という進化論のテーゼがトートロジー(同語反復)だと西欧で批判された経緯が書かれているのですが、まだ全部を読んでいないので、それについてはまた次回。

吉本隆明の『共同幻想論』

2014-10-19 05:01:23 | 読書

(吉本隆明晩年のポートレート。TVランキングのHPより引用。)

 人間同士は心を通じさせることができます。言葉で通じ合うのではなくて、言葉に先立ってなぜか通じ合えます。

 この「先天的に通じ合える場」を吉本は「共同幻想」と呼んだというのが私の解釈です。あとから言語ができて通じ合える内容が詳細かつ複雑になりましたが、あらかじめ「通じ合える場」がなくては言語は成立しませんでした。

 自然言語は数学の言語ほどには厳密でなく、たくさんの「含み」(意味のハロ・暈)をもっています。「含み」を利用した言語の創造的使用が文芸です。言語にはあいまいさがあるがゆえに、言葉の美的使用が可能となったとも言えます。(この「あいまいさ」はソシュールの言う「言語の恣意性」とはとりあえず無関係です。)

 そのため、「先天的に通じあえる場」(共同幻想)における「言語の美的使用」について、吉本は語ることになりました。

 かつて哲学や精神医学の領域では「人はなぜ通じ合えるのか?」が問題となり、「共感覚」とか「共通感覚」という概念が作られていました。しかし、多くを論じたのは吉本が一番でしょう。

 吉本は柳田國男の『遠野物語』を引用して、「その村の共同幻想」という言い方をしています。が、それだと”人類に普遍的な”共同幻想という観念が、一地方のローカル文化に矮小化される恐れがあり、共同幻想という概念をかえって分かりにくくしています。(吉本自身が混乱しているのかもしれません。)

 ともあれ『共同幻想論』は学生運動華やかなりし時代に、「学生活動家」たちに熱狂的に読まれました。しかしながら、本書の中身は政治運動とはまったく関係がないので、私は不思議に思ったものでした。もっとも私の周囲にいた「学生活動家」たちに、ちゃんと理解して読んでいる人はいませんでしたけれども・・。

 吉本を読むのが当時のファションだったのでしょう。「学生活動家」であることもまたファッションでした。

内的状態を記述できる自閉症児

2014-09-07 00:01:10 | 読書
(エスコアール刊。)

 「みんなすごいスピードで話します。頭で考えて、言葉が口から出るまでがほんの一瞬です。それが、僕たちにはとても不思議なのです」

 上の発言は「すぐに返事をしないのはなぜですか?」という質問に対するある自閉症児の答えの一部です。その自閉症児とは写真の本の著者で、本が出版されたときにはまだ中学生でした。

 著者は上掲の本で、「どうしてオウム返しをするのか?」、「手足の動きがぎこちないのはなぜか?」、「ものを回すのはなぜか?」といった、自閉症児に対して多くの人がもつ疑問に答えています。どの回答も「ああそうだったのか!」と思わせるものです。

 この著者はテレビに出ましたが、嬌声のような声で話し身振りも不自然で、一見して障害者と分かります。でも、母親とのコミュニケーションのために練習したボール紙のキーボードを使えば、自らの内的世界を健常者にも理解できるように、客観的に述べることができます。文章も下手ではありません。(それなのに、音声言語による会話は困難なのです。)

 私は自閉症児が自らの内面をこれだけ豊かに表現したものを見たことがありません。この本によって、自閉症児の気持ちへの理解がぐっと深まるでしょう。著者の陳述がすべての自閉症児に当てはまるとは限りませんが、少なくとも上掲の本は、自閉症児と健常者の思考を架橋するロゼッタストーンのように私には思えたのでした。

キーワード:「自閉症の僕が跳びはねる理由」

街の本屋、潰れるべし

2014-09-01 05:58:56 | 読書

「デンキ街の本屋さん」のHPより引用。)

 私の街の本屋に対する印象はあまりよくありませんでした。高校時代、近くの書店にはよく行きましたが、女店員がしょっちゅう替わるので商品知識なんて望むべくもありません。そこの親父にしてからが、たまたま繁華街の地主の息子だっただけで、読書好きだから本屋になったのではありません。

 繁華街だから何かよい商売はないかと考えて、ニッパントーハンが持ってくる本を並べておくだけの道を選んだのでしょう。売れなければ、ニッパントーハンが持って帰ってくれます。親父は本屋の番台に座っているだけでよい。

 ニッパントーハンが持ってきた本は引き取られますが、客に注文された本は本屋の責任で買い取らなくてはなりません。本屋にとって本を注文されるというのは、必ずしも喜ぶべきことではなかったのですね。

 私は本をよく注文しました。で、来るまで2カ月かかりました。なぜそんなに時間がかかるのが未だに分かりません。ひどいときには、2か月待って答えが「絶版でした」です。もうはらわたが煮えくり返りました。

 今、ネット書店なら早ければ翌日届きます。しかも、絶版の本ならちゃんと古本まで用意されています。むかしの本屋の動作のにぶさを知っている私には、ネット書店の動きは胸がすくほどに気持ちがよいのです。

 最近、フランスでネット書店をターゲットにした「本の送料をタダにしてはならない」という法律ができて、フランスの書店文化を守るためだとか言っていますが、あれはウソでしょう。既存の本屋の既得権を守るためです。どんな国よりも翻訳が多いわが国が、読書文化でフランスに劣るわけはありません。それでもネット書店にペナルティーを課そうとする動きはないのですから。

 私は街の本屋が潰れていくのを喜ぶ者です。企業努力もせず商品知識もなかったら、潰れるのは当たり前です。このごろ「本屋大賞」という賞がありますが、大賞の本が面白くないのです。書店員だからって、そんなに本を読んではいないものです。あれはたぶん売れ行きを見て、やや売れた本の中身をさっと眺めて投票するだけでしょう。(読書好きの書店員もいるでしょうが、投票というやりかたでは彼らの意見は反映されません。)

 先日、冒頭の本屋の前を通りかかったら本屋はすでになく、「コジンシドー」という学習塾になっていました。

註:ニッパントーハン=日販と東販、この2社の代理店で、わが国の書籍流通のほとんどを牛耳っている。

終戦記念日に寄せて(3)(「茶の間の正義」)

2014-08-20 05:20:17 | 読書
(文芸春秋刊、1967年の復刻版。)

 今日になっても新聞の投書欄は「二度と戦争をやってはいけない」という趣旨の発言でいっぱいです。まったくもっともで、私にはなんの反論もありません。と言うより、誰にも反対できない百点満点の意見です。

 若年のころから故山本夏彦翁のファンだった私は、翁の文章はたぶん全部読んだと思います。その中に上の本があります。題名の「茶の間の正義」と聞いて、なんのことかピンと来た人は、そうとうに勘が鋭い人です。

 「茶の間の正義」だけはでは分からなくても、翁のエッセイの題名「平和なときの平和論」と言われれば、かなりの人が「ああ、そうか」と理解できるでしょう。

 ちなみにこのブログの題名「院長のへんちき論」は、翁の著書「変痴気論」から拝借したものです。


※今日、気にとまった短歌。

  雛壇に同じ顔ぶれ同じ語彙満ち足り顔の論壇誌閉づ  (羽咋)三宅立美

『バカが多いのには理由がある』を読んで

2014-06-30 11:23:09 | 読書
(集英社刊。)

 「正義の分類」というのを私は本書で初めて知りました。大きく分けて4種類あるそうです。各政党は4種類のどれかを主張しているので、いずれも正しいが政党同士相容れないそうです。

 「正義の分類」が著者のオリジナルだったら、けっこうすごい人だと思います。『週刊プレイボーイ』に連載していた記事を一冊にまとめたそうですが、『週刊プレイボーイ』のヌードグラビアとはミスマッチな硬派な内容です。

 題名から衆愚批判だと思って読んだのですが、なんのなんの自分を含めた衆愚はどのようなメカニズムで生まれるかを考察した、深ーい書物でした。いまのところ、本書の主張に対する反論が思い浮かびません。政治評論家のような語り口ではなく、もっと上から政治評論そのものを俎上に乗せている感じで、私好みです。

(この本が出来たてほやほやなのは、集団的自衛権や嫌韓や反中を取り扱っていることからも分かります。でも、そこいらのマスコミとはぜんぜん視点が違います。)