院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

医者への謝礼

2006-09-30 13:19:02 | Weblog
 先日、都立病院に入院している親友(医者にあらず)を見舞った。

 彼から「医者に謝礼を出すべきではないか?」との質問を受けた。私は「それはまったく必要がない。院内にも、いだだきものはお断りしますと書いてあるではないか」と答えた。

 でも彼は「それは表向きであって、実は・・・ということもあるのではないか?」と畳みかけてきた。「実は・・・もクソもない。本当に必要ないのだ」と説明した。彼はようやく納得してくれた。

 それにしても、いまだに医者への謝礼に腐心している人が多いのだなと、あらためて驚いた。

 ここではっきり言っておくが、医者にも看護師にも謝礼はいっさい必要ない。謝礼がないからと言って、患者さんを粗末に扱う医療者なぞ、いまどきいない。逆に、仮にもらったとしても、その人を特別待遇する医療者もいない。

 現在は日本中どこの病院へ行っても、公立私立を問わず謝礼はお断りである。

 私はと言うと、謝礼を出されると、特別扱いを催促されているようでイヤな感じがする。だから、謝礼は全部断っている。

 もっとも例外はある。それは、患者さんが亡くなったときに遺族がくださる謝礼だ。これは下心がなくて素直に受け取れる。杓子定規に断るのも供養にならないような気がする。

 もうひとつの例外は、患者さんが自分で漬けたキュウリの漬物などを持って来てくれる場合である。これは嬉しい。値段もはらないし心がこもっているから、ありがたく頂戴することにしている。

工場見学その1

2006-09-29 13:33:21 | Weblog
 先日、職人の技を見るのが好きだと書いたが、私は工場見学も好きだ。工場は技の大所帯だからである。

 小学校2年生のときに、今はなきミツワ石鹸の工場に父に連れて行ってもらった。当時はまだオートメーションは普及していなかった。

 さて石鹸の作り方であるが、まず熱して解けている石鹸の原液を、車輪が付いた茶箪笥大の箱に注ぐ。その箱は周囲4面が外れるようになっている。石鹸が冷えて固まったら、4面を外す。そうすると、大きな石鹸のかたまりが台車の上に乗っている恰好になる。

 針金で茹で卵を薄くスライスする道具があるが、それの親玉のような装置があって、台車を押して針金の中に突っ込んでいく。それを針金の方向を変えて3回行うと、大きな石鹸のかたまりは普通の石鹸の大きさに細かく裁断される。

 人間が適当にやるものだから、できた一個一個の石鹸は形が不揃いである。会社のロゴや字が書いてあるプレス機があって、一個一個の石鹸はプレスされ、製品となる。

 裁断されたばかりの石鹸は、みな少しずつ大きさが違う。それをプレス機で強引に圧縮するので、一個一個の石鹸は重さが違うと思う。

 私はやったことがないけれども、同じメーカーの同じ石鹸でも重さがみな同じかどうか、興味がある方は測ってみてほしい。

東京の寿司は安い

2006-09-28 13:30:52 | Weblog
 東京は物価が高い。ただ寿司に関しては東京は日本一安い。そして、うまい。

 もっとも銀座の寿司屋は高い。雑誌に載っている店も、たいていは高い寿司屋である。でも、それらはむしろ例外である。

 東京には市井の名もない寿司屋に、うまくて安い店がたくさんある。それは築地市場が近くにあるからである。

 地方の漁港の近くにある寿司屋がうまいと考えられがちであるが、じつは違う。その漁港に水揚げされた魚はいったん築地に運ばれる。築地からUターンして漁港近くの寿司屋に戻ってくるだけであって、寿司屋が漁港で直接買い付けることはできない。魚の流通はそのようになっている。

 だから地方の寿司屋は輸送代のぶんだけ高い。そして、よい魚は全部東京がぶんどってしまうから、残り物しか地方に流れてこない。

 地方にもうまい寿司屋がないことはない。そういう店は独自に仕入れルートを開拓している店である。私が贔屓にしている寿司屋も独自ルートをもっている。でも、地方でそのような店を見つけるのは至難の技である。

医学は学問だろうか?

2006-09-27 09:56:59 | Weblog
 今はどうか知らないが、昔は医学部ではドイツ語が必修科目だった。

 私が医学生のころ、あるドイツ語教師が言った。「君たちのやっている学問は実学である。それにひきかえ、私の学問は虚学である」と。

 私はイヤな気がした。学生たちをヨイショしたのかもしれないが、語学が虚学なぞと卑下する教師に反感を覚えた。

 語学は立派な実学である。げんに卑下した教師は、私たちと比べようもなく流麗にドイツ語を日本語に訳せるはずである。

 この20年間で、医学におけるドイツ語の地位は大きく下落した。日本医学は北里柴三郎以前から、ドイツ医学を手本としていた。

 しかし、今の医学界はすべて英語になってしまった。昔、権威のあったドイツ語学術雑誌の凋落がはなはだしい。ドイツ人でさえ英語で学術論文を書く時代になってしまった。

 インターネットは99%英語の世界である。医学界でも、今は英語しか通用しない。英語の世界支配はここまで来てしまった。

 私はドイツ語がそんなに下手ではない。でも、私が上記のドイツ語教師に嫌悪感を抱いていたことが、彼にも分かったのだろう。その教師は、私のドイツ語試験を成績のいかんにかかわらず全部落とした。

 他にもドイツ語教師がいた。その教師は私を「優」で試験を通してくれた。個人的な好悪で私を「不可」にしたドイツ語教師を、私は今でも軽蔑している。

 話を元に戻そう。語学が虚学なら医学も虚学である。医学には論理がない。ただ、経験を集積しただけである。経験の集積は、ただそれだけのことであって、学問とは言えない。

 もっと言えば、法学、経済学、国文学なども学問と言えないし、さらに言えば物理学だって学問と言えるかどうか怪しい。

 私にとって、本当の学問とは数学だけである。ある公理系のもとで、まったく無矛盾な世界が構築される。これは美しい。でも、何の役に立つのかと言えば、ほとんど役に立たない。

 役に立たなくても、論理的に整合性のあるものが真の学問である。学問とはそういうものだと私は思う。

 そのような基準で見れば、医学は学問ではなく、単なる「生活の知恵」の集大成に過ぎない。

職人の技

2006-09-26 13:51:38 | Weblog
 子供のころ私は職人の妙技を見るのが好きだった。

 大工さんのカンナかけを飽かずに見ていた。紙のように薄いカンナ屑で辺りが覆われていくのを、感動のまなざしで見ていた。

 ペンキ屋さんが下書きもなしに看板に字を書いていくのに驚嘆した。下地を塗る職人と字を書く職人は別であるとは、父が教えてくれた。

 食べ物の実演販売を見るのも楽しみだった。渋谷の文明堂の店先では、どら焼きを鉄板(銅板?)で焼いて見せていた。型に入れるわけではないのに、どら焼きの皮は見事にみな同じ大きさに、しかも正円形に鉄板上で広がった。

 焦げもせず、ナマでもなく、丁度良い茶色になったところで皮はひっくり返された。私が延々と見ているので、同行していた母がシビレをきらせ、「もう行こうよ」と私の手をひっぱった。

 蕎麦打ちの実演も面白かった。これは今でも見かける。大きな包丁でとんとんと蕎麦を細く均等に切っていく。それがすごい速さなのである。大人ってすごいなあと思った。そして自分もああいう技を身につけたいと思った。

 今、私がもっている技は診断と治療であって、子供が見て分かりやすいものではない。少なからず残念な気持ちである。

 私はよく寿司屋に行く。テーブルではなく、必ずカウンターにすわる。職人の刺身を切る技、握る技を目前で楽しみたいからである。

行列のできる店

2006-09-25 13:20:15 | Weblog
 行列のできる店はおいしいのだろうか?私は行列してまで食べたいと思わないから、そういう食べ物屋に入ったことがない。たぶん、値段の割りにまずくはないのだろう。

 しかし、本当においしい店なら、そもそも行列を作らせないで予約を受けるはずである。その結果、2ヶ月先まで予約が取れないという店も出てくる。そのような店には、当然のことながら行列はできない。

 パリの三つ星レストランなどに、そういう店があるらしい。だから、行列のできる店が良い店とはかぎらない。

 もっとも、ロンドンでは回転寿司が流行していて、それこそ2ヶ月先まで予約が取れないらしい。だが、ロンドンの回転寿司なんてきっとおいしくないだろう。だから2ヶ月先まで予約が取れないからと言って、これも実はおいしさのバロメーターとはならない。

 要は自分の舌で試すよりない。わたしはパリもロンドンも行かないから、実行はできないけれども・・・。

 最近、「こだわりのラーメン」ブームが去って、ラーメン屋の行列が少なくなってきたように感じる。そのようなラーメン屋に入ったことがないから、行列ができなくなったら行ってみることにしよう。

追っかけ女性はいつまでも追っかけ女性

2006-09-24 09:32:06 | Weblog
 女性には男性スターをキャーキャーと追っかける層と、そうでない層がある。郷ひろみさんを追っかける女性たちがいた。光GENJIも追っかけられていた。SMAPもそうだった。

 古くはウエスタン・カーニバルで、平尾正晃さんやミッキー・カーチスさんが追っかけられていた。

 一方、追っかけなぞ全くしない女性たちも多かった。スターをTVでは見ても、実際の本人を追っかけることなぞ、恥かしくてできない女性たちである。そういう女性たちのほうが圧倒的に多いと思われる。

 私が大学生のころ、大学に学生バンドがあって、メンバーにハンサムな奴が多かった。そうしたら、女子高生の追っかけが発生した。アマチュア・バンドにも追っかけができるのかと、私は感嘆したものだ。

 韓流ブームで韓国の美男俳優に日本のおばさんたちが夢中である。追っかけは娘たちの専売特許だと思っていたら、なんとおばさんたちが追っかけをやるので、驚いてしまった。

 でも、最初に言ったように、追っかけをやらない女性は生涯、追っかけをやらない。今、韓流スターの追っかけをやっているおばさんたちは、昔、ウエスタン・カーニバルで平尾正晃さんを追っかけていた人と同一人物ではないか。

 人は何年たっても変わらないものだあと、嘆息する私である。
 

利用者による施設の掃除

2006-09-23 09:33:44 | Weblog
 昔、私は精神障害者リハビリ施設の2代目所長をしていたことがある。そのころ、施設での活動が終わると、利用者、スタッフが共同で、便所掃除も含めて施設の掃除をしていた。先代からの慣わしだった。

 私はスタッフの会議で異議を唱えた。「利用者に施設の掃除をさせるのは、おかしいのではないか?それは利用者の使役に当たるのではないか?」。

 そうしたら、ある保健婦さんから猛然と反発の意見が出た。「自分が利用した施設を掃除するのは当たり前ではないですか?掃除くらいできなくては社会復帰もおぼつきません」とのことだった。

 私は「入院患者に病室の掃除をさせる病院がどこにあるか?」と反論したが、その保健婦さんには「リハビリ」という名目で受け入れてもらえなかった。

 強硬な保健婦さんだったので、私は過去の知見を捜した。そうしたら、『学校掃除』(学事出版、沖原豊編著、1978)という本を見つけた。この本は、学校で生徒に教室の掃除をさせることの意義、ないし害を論じ、世界的には学校掃除はどのようになっているのかを研究した本である。名著だから、まだ絶版になっていないかもしれない。

 本書によれば、欧米では生徒に学校の掃除をさせない。掃除はあくまでも掃除人がやるものである。そこには古代ギリシャ・ローマ時代から、掃除は奴隷がする卑しい仕事であって、生徒にさせるのはもってのほかという考え方があるらしい。

 わが国では、そのような思考はなく、掃除は仏教、神道においても尊い仕事とされている。アジアでは、韓国、フィリピン、インドネシア、タイで生徒が学校の掃除を行っており、フィリピンはキリスト教、インドネシアはイスラム教だが、生徒による掃除に抵抗はないようである。

 一方、欧米では生徒に掃除なぞをさせると親が怒鳴りこんでくるという。日本でも大正時代から、生徒による掃除を嫌う層が特に「上流」にあったらしく、「上流」の子女に掃除をさせるとは何事か・・・と考える人たちがあった。

 昭和37年に、わが国で「生徒に掃除をさせるな」という訴訟があったらしい。結果は却下だった。

 学校での生徒による掃除は、宗教的背景もあり、是非については今後も議論して欲しいと思う。でも、リハビリ施設での利用者による掃除は、絶対に止めて欲しい。リハビリのために、掃除は何の役にも立たないと信じているからである。

中高年登山

2006-09-22 13:06:38 | Weblog
 私が少年のころ、若者の間で登山はちょっとしたブームだった。槍ヶ岳の頂上が銀座通りのようだった。ロッククライミングもはやっていて、毎年、谷川岳では何人もの若者が遭難した。

 最近、山で死んだというニュースをあまり聞かない。若者が登山をしなくなったためだろう。

 その代わりに、中高年者に登山が人気だという。でも、それは少し違う。かつて登山ブームだったころの若者がそのまま老いただけである。

 中高年者がいきなり登山に目覚めたわけではないのである。

ゴルフとパチンコ

2006-09-21 13:22:07 | Weblog
 私はゴルフをやらない。ルールも知らない。でも、世の中ゴルフが大はやりである。ゴルフ好きの友人は、ゴルフの日は嬉しくて早起きしてしまうという。よほど面白いのだろう。

 TVではしょっちゅうゴルフ番組をやっているし、ゴルフのTVゲームも人気が衰えない。

 作家の井上ひさしさんは、キャディーの女性に荷物を持たせて、自分は手ぶらで玉ころがしをするなんて許せないと思っていたそうだ。しかし、井上さんは、いざ自分がゴルフをやってみたら、面白くて面白くてハマってしまったという。

 穴に玉を入れるという面だけを見れば、ゴルフはパチンコに似ている。パチンコも好きな人は大好きである。

 私はパチンコもあまり好きではない。だから、私が無理にゴルフをやってもハマらないかもしれない。

「地域」という用語

2006-09-20 09:41:02 | Weblog
 昔、私は名古屋市衛生局(当時)に勤めていた。そのころ、保健婦さん(現・保健師)たちがしきりと「地域」という用語を使っていた。

 「地域のことを考える」、「地域に密着する」、「地域で支える」などである。まだ30代だった私は「地域」という用語の意味が分からなかった。

 で、親しい保健婦さんに聞いてみた。「地域って、行政区のことですか?」、「地域とは学区のことですか?」、「地域って境界線はあるんですか?」などなど。でもその保健婦さんは答えられなかった。

 自分でも分からない用語をどうして保健婦さんは多用するのだろうと、当時の私は怪訝に思った。

 しばらくたって、故山本夏彦さんのコラムに「地域と言うなご町内と言え、社会と言うな世間と言え」というのがあって、膝を叩いた。そうか「地域」というのは実態が分からない用語なのだなと理解した。

 山本夏彦さんは、「地域」という意味の分からない用語と、同じく意味の分からない「社会」という用語をくっつけて「地域社会」なぞと言うと、まったく意味が分からなくなると書いていた。

 でも、いまだに「地域」という用語は多用されている。「ご町内」と言ってくれれば分かりやすいものを。

ピアス

2006-09-19 13:30:45 | Weblog
 耳ピアスがどうしても好きになれない。なんの傷もない耳に穴を開けて針金を通すというのが、なんだかもったいない気がする。

 鼻ピアスはもっと気色が悪い。鼻くそをほじるときにどうするのだろうと、いらぬ心配をしてしまう。

 もっとも、インド人女性の鼻ピアスは苦にならない。それはインドの文化として定着しているせいだろう。

 仏像には耳に穴が開いているのが多い。だぶん、昔は耳ピアスをしていたのだろう。当時はそういう文化だったのだと思われる。だが、その文化も儒教の影響で途絶えた。身体髪膚これを父母に受く、あえて毀損せざるは孝の初めなり・・・というわけだ。

 その儒教思想も最近はあやしいから、耳ピアスが復活して、私のように儒教に郷愁を感じる世代は違和感を覚えるのである。

流行歌変わる

2006-09-18 08:38:40 | Weblog
 最近の流行歌が分からない。ちっとも良いと思わない。これは私が齢で流行について行けなくなったからではない。楽曲が根本的に違ってしまったのだ。

 その責任は小室哲哉さんにある。彼がプロデュースした曲は、ことごとく変なのだ。

 小室さんの出現によって、流行歌シーンが変わってしまった。まず、曲が単調である。それなのに(それだから?)覚えにくい。

 小室さんの曲で、スタンダードナンバーとなる楽曲は、出ないだろう。

トイレットペーパー

2006-09-17 17:46:44 | Weblog
 娘が高校生のとき、単身カナダへ旅行して、驚いて帰ってきた。カナダの公衆便所はどんな山奥にも身障者用があるという。無論、トイレットペーパーもある。15年近く前のことである。

 わが国の公衆便所は汚くて、トイレが近い私には悩みの種だった。もちろんトイレットペーパーなぞなかった。カナダはインフラが日本より随分進んでいるのだなと思った。

 ところが最近、わが国も捨てたものではない。身障者用トイレの普及は山奥では無理だが、すくなくともトイレットペーパーが置かれるようになった。山奥の寺のボットン便所にもトイレットペーパーが備えてある。

 日本も15年以上遅れて、カナダに近づいたのだなと思う。山奥のトイレにトイレットペーパーあるのを見つけると、ほのぼのとした気持ちになる私である。

童謡・ぞうさん

2006-09-16 07:00:28 | Weblog
 童謡に「ぞうさんぞうさんお鼻が長いのね、そうよ母さんも長いのよ」というのがある。

 私はこの童謡の題名は「ぞうさん」ではなくて、「遺伝」がよいのではないかと友人に言った。

 そうしたら友人は、「責任転嫁」の方がよいのではないかと言っていた。