院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

クラス替えの思い出

2014-05-31 05:05:28 | 教育

国谷裕子さん。ウィキペディアより引用。)

 5月28日のNHKクローズアップ現代によれば、サラリーマンが転勤を厭うようになっているという。共働きが多くなってからだというが、当然である。会社もそれに対応して、転勤のないポストを考え始めた。

 私は自分が転勤や単身赴任を経験して、海外の先進国でも転勤や単身赴任があるのか知りたかったが、クローズアップ現代では言及がなかった。引っ越し自体も、新しい対人関係を構築するのも結構つらかった。

 小学校では毎年クラス替えがあって、担任が替わった。大好きな担任やクラスメートと離ればなれになるのが寂しかった。

 でも、今思えばよい経験だった。別れや出会いを毎年経験するのは、その後の私の人生にとって有益だった。それだけ広くクラスメートを作ることができたし、小さな別れを経験しておくのも悪くなかったと思う。

 ところが最近の少子化で、1学年が1クラスしかない小学校が増えたのだそうだ。そのため、クラス替えができない。少子化は経済問題として語られがちだが、それは大人の勝手な論理で、本当の変化はもっと微細なところにある。その変化の善悪はまだ分からないが・・。

権利はもつが行使はできない集団的自衛権とは何か?

2014-05-30 05:14:33 | 日本語

BLOGOSより引用。)

 マスコミからの情報だけで政治論議をしても床屋政談になってしまうから、この欄では政治の話はしないようにしている。だが、このたびの「集団的自衛権問題」について日本語として語義矛盾があるので、その点だけ表明しておきたい。

 報道では歴代内閣は「集団的自衛権は保有しているが行使できない」と表明してきたらしい。歴代内閣はなぜそのように表明してきたのか、その背景が語られないので背景を知りたい。

 権利とは必ず行使できるものであって、(有権者が選挙を棄権するように)「行使しない」とは言えても、「行使できない」とは言えない。そもそも「行使できない」ものを権利とは呼ばない。「行使できない」とはまさに「権利がない」というのと同義である。このように、まともな日本語ではない主張を、歴代内閣がせざるを得なかったその理由を知りたい。

放送大学の講義には、やさしすぎるものがある

2014-05-29 05:20:07 | 教育

掛川市のHPより引用。)

 私がテレビで野球やサッカーを見ないことは 2013-05-28 の記事に書いた。だが、ほかのチャンネルで面白い番組をやっているかというと、同じような芸人が騒いでいるバラエティー番組ばかりで見る気がしない。仕方なく私は「放送大学」を見ることになる。

 放送大学はしばしばNHKの教養番組より面白い。知らないことが沢山あるなぁと感じさせてくれるし、むかし知っていたことなら、いつの間にかここまで進歩したのかぁと思わせてくれる。

 放送大学では理系の授業も文系の授業もある。私にとって理系と文系の講義はそうとうに違うように見える。

 文系の授業は文化論や社会学や福祉学などをやっているが、ぜんぜん分からないという講義がない。前からなんとなく知っていることを整理してくれるような内容が多いので、まあ理解できてしまうのだ。

 それに比べて理系の授業にはぜんぜん理解できないものがある。例えば位相数学だ。講師はCGまで使って説明してくれたのだが、まったく理解できなかった。

 この前は、細胞の中のリボソームという器官でたんぱく質が作られる仕組みの講義があった。リボソームにmRNAがくっついて、遺伝情報に基づいてアミノ酸が結合させられていくのだが、この授業は文系の人は理解できないだろう。

 私はたまたま大学で生化学を習っていたし、元素記号にも馴染みがあったから、なんとか理解できた。しかし、DNAが塩基配列でできていることや、塩基3個で1個のアミノ酸が合成されること、またアミノ酸が立体構造を作りながらたんぱく質が出来上がっていくことなどの予備知識がなければ、まったく理解できないだろう。

 もしかしたら、放送大学の文系の講義は普通の大学のそれより簡単すぎるのではないか?放送大学の理系の講義は理系の私にとっても難しいから、余計にそう思うのだ。

ヨーロッパでの極右政党の躍進

2014-05-28 05:22:42 | 社会

(大躍進を受けて演説するフランスのマリーヌ・ルペン国民戦線党首。MSN産経ニュースより引用。)

 30数年前、西ドイツで行われた学会で発表するため、生まれて初めて海外旅行をした。当時は東西冷戦下でドイツはまだ東西に分割されていた。学会が終わったあと1か月ほどヨーロッパを回った。

 ドイツでは街が美しいので驚いた。街並みが保存されているだけではなく、道路にチリひとつないのだ。訊くと、移民が夜中に道路を掃除しておいて、昼間にドイツ人が歩くのだという。汚れ仕事を移民に押し付けているわけかと思った。

 言われてみれば、泊まったフランクフルトのホテルのフロントも、夕方の5時きっかりにドイツ人からイタリア人に変わった。本国人は夜間労働をしないのだ。

 パリでは鉄道の改札係が、これも午後5時きっかりに黒人に変わった。そんなことを日本でやったら、大問題になるだろうと思った。

 移民一世は食いつめて国境を超えたのだから3K仕事にも我慢できようが、二世三世となったら我慢はしないだろうと思っていたら、やがてそのとおりになった。

 結果、本国人と移民との間に軋轢が生じ、本国人が移民排斥運動を起こすようになった。ドイツのメルケル首相も「多文化共生政策」という美名の移民促進政策を撤回せざるをえなくなった。

 そうした下地の上での、このたびのヨーロッパでの極右政党の躍進だ。ヨーロッパは民主主義国家ばかりだから選挙で極右を選んだのは国民である。極右政党の移民排斥運動を国民が支持したのだ。わが国が移民をかたくなに拒んでいるのは、将来こうなることが目に見えているからだろう。日本は賢い選択をしている。

AKB48傷害事件によせて

2014-05-27 16:16:23 | 芸能

Yahoo!ニュースより引用。)

 今日の中日新聞一面のコラム子がAKB48が傷害された事件について、話の枕に明治時代の「ドウスル連」を使っていた。

 明治期に娘義太夫というのが流行った。若い娘が義太夫をうなって、絞り出すような声で話がクライマックスになると、押し寄せた男子たちが「ドウスルドウスル」と大合唱したのだそうだ。彼らは「ドウスル連」と呼ばれ、大人たちの顰蹙を買った。

 明治時代の若い娘が身もだえして、喘ぐように語るさまは、さぞセクシーだったに違いない。「ドウスル連」は、義太夫語りの娘が移動する人力車を押したらしい。コラム子は「ドウスル連」を現代の「追っかけ」になぞらえた。

(私は「ドウスル連」を昭和50年ころの古谷三敏の漫画「寄席芸人伝」で知った。コラム子の情報源も同じかもしれない。)

 現在のAKB48の追っかけは顰蹙を買っていないのだろうか?少なくとも私は顰蹙している。いい若い者が、日本中どこまでも娘たちを追っかけて、なにが握手会だ!他にやることはないのか!?

 日本中を追っかけることは、このたびの事件で記者のインタビューに応じていたファンの若者が、握手会は10回目だと言っていたことからも分かる。やすやすと記者の取材に応じて、テレビに映って恥ずかしくないのだろうか?

 世の中が彼らを顰蹙しなくても、私は彼らに娘を嫁にやらない。

(中日新聞のコラムの内容はAKB48ファンを扱ったものではなく、加害者に対する糾弾である。)

私のコンピュータ事始め(6)(ファミリーコンピュータ)

2014-05-27 00:14:18 | コンピュータ

(ウィキペディア「ファミリーコンピュータ」より。)

 PC-8801が出たころ、息子はまだ幼稚園だった。そのころから、ゲームセンターにはブロック崩しや卓球ゲームがあった。1個のボールが壁に反射して動作するゲームである。そのようなゲーム機で家庭用テレビで遊べるマシンがおもちゃ屋で売られていた。

 それを買いにおもちゃ屋に行ったら驚いた。それらのゲーム機を生産していた任天堂という会社が、すべてのゲーム機を回収してしまったいうではないか!あとになって分かったことだが、それはファミコンを売るための任天堂の策略だった。

 で、ファミコンを買って、また驚いた。PC-88が20万円か25万円のときに、ファミコンは2万5千円くらいだった。ところがその性能ときたら、マリオがぴょんぴょん動いて背景がどんどん左に流れていくではないか!PC-88では、絶対に実現できない機能だった。それが10分の1の値段だ。ゲームセンターや喫茶店でインベーダーゲームが大ヒットしたあと、商業用テレビゲームの映像は格段に向上した。今度はファミコンによって、商業用テレビゲームと同程度の映像が家庭で楽しめるようになったのだ。

 ここから任天堂の快進撃が始まった。一介の花札製造会社が、家庭用テレビゲームのパイオニアにのし上がった。ファミコンの肝は、グラフィック専用チップを搭載したことだ。これにより、アニメの動きが格段によくなったのだそうだ。

 かつて、IBM社は収入源としてソフトがハードを凌ぐと予言して、一時そのようになった。だが、このグラフィック専用チップの開発によって、ハードの進歩がなければソフトだけではどうにもならない、ということが明らかになった。グラフィック専用チップは、ワイヤードロジックそのものである。

 任天堂のその後の栄枯盛衰、はみなさまご存じのとおりである。最初のファミコンのソフトは、カセットといわれるROM(読み出し専用メモリ)で提供された。カセットの中にはROMが2つ入っており、左側がプログラムが入ったROM、右側がグラフィックだけが入ったROMだった。

 グラフィックの最小単位は16バイト16バイトで、そのアドレスをプログラム側から操作することによって、早くてスムーズな動きを実現していた。以上のことが分かったのは、私がROMの読み出し回路を自作して、カセットを調べたからである。そこまでして中味が知りたくなるほど、ファミコンは革命的だったのである。

 グラフィック専用チップは確か本体内部にあったと記憶する。そのチップと、CPUやグラフィックROMがどのように関係しているかまでは分からなかった。

私のコンピュータ事始め(5)(シンセサイザー)

2014-05-26 05:03:22 | コンピュータ

(現在のシンセサイザー。ECHIGOYA MUSIC ONLINE のHPより引用。)

 PC-8801/9801シリーズのマシンの裏側には、インターフェイス基盤を挿入するスロットが付いていた。PC-88/98の仕様は外部のハードと接続することを前提にしていたのだ。

 そのころ、キーボード付きのシンセサイザーが廉価で売られるようになり、私はヤマハのDX-7とローランドのMKS-7のキーボードなしのモデルを購入した。廉価になったとはいっても相当な散財だった。(DX-7と聞いてピンとくる人は、ある程度の年配でかなりの音楽好きである。)

 このブログの読者なら私が音楽好きであることはご存じだろうが、私が弾ける楽器はクラリネットやサキソホンなどの木管楽器だけである。ピアノやギターは弾けない。木管楽器は和音が出せないので、一人で弾いていても面白くない。

 そんなとき登場したのがシンセサイザーだった。シンセサイザーなら一人でオーケストラができる。でも、私はキーボードが弾けないから、パソコンでシンセサイザーを操作することにした。

 シンセサイザーでオーケストラをやることは、レースを編むような地道で根気が要る作業だった。シンセサイザー用のパソコンソフトがまだ十分でなく、BASICで書かれたと思われる遅くて低機能なソフトを購入した。そのソフトで各楽器の音程と長さをコツコツと入力した。

 それでも、たった一人でオーケストラ演奏ができる。どんな名人でもやれないようなバカテクの演奏ができる。パソコンでシンセサイザーをドライブすることは、まだ30歳台だった私の重要なホビーとなった。

◆ 今日、心にとまった短歌

   大きめのセーラー服着て自転車でひょろっと一回よろけ出て行く (松本市)山本公策

私のコンピュータ事始め(4)(PC-8801/PC-9801シリーズ)

2014-05-25 00:40:55 | コンピュータ

名古屋エコ買取HPより引用。)

 その後、日立や東芝からもワンボードマイコンが発売されて、それらはテレビに接続してBASIC言語を使うことができた。だが、それらの寿命は一時で、すぐ1982年にはNECがPC-88と翌年にはPC-98を急きょ発売して、ワンボードマイコンは短い寿命を終えた。これらには入出力にキーボードとテレビが標準装備されていた。

 NECのPCシリーズは日本を席巻したが、20万円も30万円もしてけっこう買うのがきつく、私はPC-98は中古を買った。88にはOSとBASIC言語が合体したような奇妙なOSが付いていた。だが、それがマイクロソフトのビル・ゲイツが巨万の富を築くきっかけだった。

 98にはMS-DOSというOSが付いて、すべてのアプリケーションソフトがMS-DOS上で動くようになった。このとき発売されたワープロソフト「一太郎」が大ヒットして、作者は大儲けしたが、いまはどうなったか。私は手書きで論文の原稿を書くのをやめて、「松茸」というワープロソフトで書くようになった。(学会が論文をワープロ原稿しか受け付けなくなったのは、もっとあとになってからである。)

 実用ソフト以外に、さまざまなゲームソフトも開発された。パソコン通信も始まった。(だが、まだインターネットの「イ」の字もなかった。)

 EPSONという会社がPC-98シリーズのコピー機を1,2万円安く発売し始めて、ある程度のシェアを取ったが、コピー機会社に過ぎず2流の感は否めなかった。苦節何年だったのだろうか?いま、EPSONはプリンタメーカーとして押しも押されもせぬ地位にいる。ご同慶の至りである。

 その後、アップルのマッキントッシュが一世を風靡し、やがてマッキントッシュのスペックをまるごとコピーしたWINDOWSの天下になったことは、みなさんご存じのとおりである。当然、アップルはWINDOWSを「盗作」として訴えたが、顛末は知らない。ともかくWINDOWSは今、大手を振ってまかりとおっている。

人間ドック学会の「正常血圧の定義」を批判する(コンピュータ番外編)

2014-05-24 04:10:57 | 医療

第54回人間ドック学会学術大会アプリより引用。)

 人間ドック学会が正常血圧の上限を147mmHg と発表して物議をかもしている。高血圧学会は上限を140mmHg としてきたからである。

 このことは昨日触れた正規分布と関係しているから、ここで少し解説しよう。

 生物学的な値のほとんどのものが正規分布する。例えば身長なら、極端に高い人や極端に低い人は少なく、平均的な人ほど多くなって身長は正規分布する。血圧も補正を加えれば正規分布する。それでは、何を正常と言い、異常と言うべきなのだろうか?

 昨日の正規分布の図の平均値あたりの値は「正常」と言ってもよいだろう。

 そこで、人口の95%の人が覆われる範囲を「正常」と定義することによって、正規分布の平均値の両側に幅を持たせるようにする。その「幅」の上限が「正常の上限」だと「定義」しても、文句を言う人は少ないだろう。

 そう、「その領域に入る確率が95%なら文句を言う人が少ない」というのが、正常値の決め方である。このやり方だと、アメリカ人は日本人より長身だから、アメリカ人の上限は日本人のそれより高くなるはずである。

 人間ドック学会は、薬を飲んでいなくて病気にもかかっていない「正常」な人約1万人にこの方法を適用した。その結果、自動的に算出された血圧が上限147mmHg という数字だったのである。

 一方、高血圧学会は、血圧と脳卒中の関係を10年くらい追跡して、最高血圧が140㎜Hg 以上だった人が有意に脳卒中になる確率が高かったので、140㎜Hg 以上を危険としたのだ。

 どうも世間には、高血圧学会が上限を低く設定したのは、患者を多くして医者が儲かるようにしたとの風評があるが、そんな程度が低い話ではない。将来、脳卒中になる確率が高くなるというエビデンスがあるからこそ、そう決めたのだ。(エビデンスが見いだされるよりずっと昔から、高血圧と脳卒中に関係があると分かっていたのだが、正確な血圧の値は分かっていなかった。)

 私は、人間ドック学会がなぜわざわざ147mmHg を正常の上限と発表したのか理解できない。それはあたかも「身長の正常値」を発表するのと同じことで、なんの意味もない。将来予測のない「正常値」と、脳卒中の確率が高いという予測付きの「正常値」と、どちらが有用だか明らかである。

 糖尿病の人の場合、将来、糖尿病性腎症になって透析を受けるようになってはいけない。そのためには血糖値をいくらに抑えておかなければならないかという10年以上追跡した研究がある。(糖尿病性腎症とは腎臓内の細い動脈が動脈硬化を起こして、腎機能を失うことである。)

 そのとき同時に血圧が測られていた。結果を見ると、なんと血糖値より血圧のほうが糖尿病性腎症への寄与度が高いというエビデンスが得られた。血圧が130mmHg のところに分水嶺があって、どうも130mmHg 以上の人が有意に糖尿病性腎症になりやすいことが分かった。それで糖尿病学会では血圧130mmHg が上限と決められた。

 高血圧学会も糖尿病学会も理由もなく血圧の上限を決めたわけではないのだ。それに比べて、人間ドック学会は「理由もなく」上限を決めているように、私には見える。それとも、人間ドックとは「現在の健康状態」を見ているだけで、将来予測を期待されても困るとでも開き直るつもりだろうか?

私のコンピュータ事始め(3)(デジタル回路の隆盛)

2014-05-23 04:57:38 | コンピュータ

テキサスインスツルメンツ社のHPより引用。)

 ワンボードマイコンが発売されたのは、8ビットのワンチップCPU(中央演算装置)が開発されたことによるが、それ以前にデジタル論理チップが廉価で出回っていたことも大きい。

 工学部の人々は測定器をデジタル化するようになった。彼らは論理チップを組み合わせるだけで測定器を制作する派と、マイコンを使ってハードはそのままに、ソフトだけで目的の測定を実現しようとする派に分かれた。

 論理チップを配線(ワイヤー)するだけで所期の目的を達することをワイヤードロジックと呼んだ。一方、IBM社は今後、自社の収入源はハードは1割でソフトが9割になるだろうと予言した。そして、短期的にはそのようになった。

 論理チップは上掲のテキサスインスツルメンツ社がたくさんの種類を提供しており、私はいろんなチップを使ってワイヤードロジックに挑戦した。デジタル回路の工作はきわめて面白く、熱中した。(扱うのが0か1かだけなので理解しやすかったのだ。)

 私が作った回路は、ボタンを素早く連続して叩いて、その時間間隔を測るというものだった。多くの技術を工学部の友人に教わった。

 ボタンを叩く間隔は極端に長いものや短いものは少なく、平均値付近に集中して、予想どおり正規分布をなした。たったそれだけのことだが、達成感があった。医学部を卒業して3年目のころだったと記憶する。


(ウィキペディア「正規分布」より。)

(心理学の方面で「タッピング検査」というボタンを叩いて器用さを測る装置がある。複数のボタンがついているだけの金属製の箱で、動力やセンサーは付いていない。「器用さ」は検査者が目視で測る。私の回路を使えばこの検査が数量化できると思った。)


私のコンピュータ事始め(2)(ワンボード・マイコン)

2014-05-22 04:53:57 | コンピュータ

(ウィキペディア「TK-80」より。)

 大型コンピュータは当時の値段で1億円くらいした。だが、コンピュータの取り扱いを覚えた私は、どうしてもコンピュータが欲しかった。入力したプログラム通りにラインプリンタから印刷物が出てくる快感は、これまで味わったことのないものだった。でも1億円ではねぇ。

 大学を卒業して2年たったころ、上のキットが出た。コンピュータの中身を勉強するため、NECが出した製品である。私は飛びついた。10万円ほどしたが高いとは思わなかった。別に5Vの電源が必要だったが、当時住んでいた浜松では売っていなかった。そこで、上京したおり秋葉原で電源を買った。電源だけで5万円もした。

 入力は右下のキーボードから行う。16進数のマシン語で入力するのだ。これによって私はマシン語とアセンブリ言語を覚えた。

 メモリは増設RAMを別に買わなくてはならなかった。RAM1個で0.25Kバイト。4個付けて1Kバイトにしかならなかった。当時、RAM1個が2,000円以上した。だが、自分のコンピュータを自由にいじれるのだから、高いとは思わなかった。

 出力装置は右上の8個の日の字型LEDである。この素子は現在でも使われている。でも、普通は数字しか表せない。ところが、このキットでは日の字型の1辺ずつを光らせることができた。だから、日の字の中央の横線だけを光らせて、さらにその右の日の字の中央の横線を光らせる。そのとき、前の横線を消すという動作を繰り返すと、日の字の中央の横線だけが、左から右に弾丸のように走っていくように見える。

 なんの役にも立たない動作だが、成功すると嬉しかった。私が現在でもハードのことをある程度知っているのは、このときの経験による。

 (あれ以後、私の5回の引っ越しに付き合って、TK-80と電源は自宅の納戸にまだ置いてある。)

私のコンピュータ事始め(1)(大型コンピュータ)

2014-05-21 04:45:20 | コンピュータ

京都コンピュータ学院のHPより引用。)

 上の写真は1970年ころの東芝製TOSBAC-3400である。

 私が初めて触ったコンピュータはこれだったような気がする。テレビがない。まだ出力装置にテレビは使われていなかったのだ。当然、入力にもテレビは用いられず、入力はパンチカードで行われた。

 左の機械に傾斜したガイドが付いているのがお分かりになるだろうか?これは、ガイドにパンチカードの束を積んで、ザーッと読み取る機械である。

 出力はラインプリンタだけだった。アルファベットの活字がいくつもついた薄い鉄製のベルトが水平にぐるぐる回っており、その後ろに小さなハンマーが横並びになっている。ベルトの活字がまさに紙の印刷すべき場所に来た時に、そのハンマーがベルトを後ろから一瞬叩く。そうやってバリバリと文字列が印刷されていく仕組みだった。そんな仕組みでは、当然漢字なぞ印刷できない。

 右側に並んだ箱にはメモリが入っている。トランジスタでできたメモリで、なんと4Kバイトしかなかった。トランジスタだから当然、熱をもつ。熱のためトランジスタが誤動作することがある。そのため、電算室(当時はそう呼んだ)には常に冷房がかかっていた。

 一般家庭に冷房が行きわたっていない時代に、電算室だけは聖域のように冷房が利いていたのだ。

 当時、詠まれた俳句に次の句がある。詠み人はサラリーマン俳人だったが名前を忘れた。

    電算室に入る椿のやうに濡れ

3Dプリンターは革命的技術だろうか?

2014-05-20 05:42:24 | 技術

ビックカメラHPより引用。)

 3Dプリンターでピストルが造られたとか、製造現場でもう金型が要らなくなるとか、なにか革命的な技術が創造されたかのように報道されるが、3Dプリンターはさほど革命的な技術ではないと思う。

 所詮一つの材料(樹脂)で外形をこしらえるだけだ。カラープリンターやヘリカルCTのほうがよほど革命的だ。

 カラープリンターは、カラー写真に劣らない品質の映像を印刷する。それまでにインクの配合など、どれだけの試行錯誤がなされてきたか計り知れない。

 ヘリカルCTもCTの平面画像を何千枚とコンピュータ処理して3D映像を作り出す技術だ。臓器表面のグラデーションなど、どうやって実現したのだろうかと思わせる。

 それらに比べると、3Dプリンターは物体表面をスキャンして、ヘッドをそのように動かすだけの技術だから、どうということはないのではないか?そう思うのは、私が機械の素人だからだろうか?

キャンディーズはなぜ受けたのか?

2014-05-19 05:01:03 | 音楽
キャンディーズ 春一番(アルバムヴァージョン)


 現在は美少女アイドルグループの戦国時代らしいと前々回述べた。そこで、今もしキャンディーズがデビューしたとするなら、AKB48やももクロなどに勝てるだろうか?キャンディーズは後楽園球場を初めて満員にしたアイドルグループではなかったか?

 公平に見て、キャンディーズは現在のアイドルグループに比べて、歌唱力においても美人度においても、まさっているわけではなかった。

 ではなぜ往年のキャンディーズがあれほど受けたかというと、歌がすべてディスコ音楽だったからである。ときまさにディスコブームだった。そこにうまく乗ったわけである。その後、ディスコはどんどん勢いを増し、その象徴である六本木の「マハラジャ」はついに伝説となった。

 だが、キャンディーズの曲はディスコ音楽として楽曲自体がよかった。だから、今でも曲が生き残っている。

 ついでに言うと、キャンディーズの楽曲は延々と踊るための曲だから、サビがない。サビがないことと、(ももクロの歌のように)サビが次々と繰り出されることとは、実は同じことではあるまいか?全部サビだとサビがないのと一緒である。ももクロの楽曲では(盛り上げどころとしての)サビがはっきりしないことは、聴いてみれば分かる

 もっとも、ももクロの楽曲は印象が薄く、キャンディーズの楽曲のように未来まで残りそうなものが今のところないけれども・・。

ポップスの「サビ」の変遷

2014-05-18 06:19:14 | 音楽
JULIE LONDON I Left My Heart I San Francisco


 名曲「思い出のサンフランシスコ」で言うなら、when I come home to you...からがサビである。「サビ」という言葉は、私が高校で音楽活動をやっていた昭和40年代には、すでにあった。

 それ以後、日本の歌謡曲でもサビがはっきりしてきたように思う。三波春夫の「大阪万博の歌」は、「1970年の、こんにちは」がサビである。尾崎紀世彦の「また会う日まで」は「2人でドアを閉めて・・」からが、はっきりとしたサビだ。

 かぐや姫の「神田川」や森山良子の「この広い野原いっぱい」はまだサビが強くない。

 メロディーの途中でコードを4度上げるのは作曲の常道だが、これはサビとは言えないだろう。だが、5度上げるとサビのように聴こえる。アメリカ黒人のブルースは基本的に次のようなコード進行で、この進行の12小節が延々と繰り返される。

 CFCC
 CCCC
 GGCC

 これだと9小節目のGからがサビのように聴こえる。でも、まだサビの部分で盛り上がるほどではない。サビで朗々と歌い上げるようになったのは、もっとあとのことだ。

 まして、ももクロらの歌のように「前サビ」なんてあり得なかった。だが、歌の要素で消え去ったものもある。「思い出のサンフランシスコ」で言うなら、I left my heart... と本題に入る前に語りのような長めの前置きがある。むかしの歌には、これがあったのだが今はない。

 こうしてポップスはどんどん変わっていく。