院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

デイトレーダー

2007-04-30 08:35:07 | Weblog
 デイトレーダーと言って、インターネットで分単位で株の売買をしている人たちがいるそうだ。

 彼らは、インターネットの瞬時性を使って、ちょっとでも値上がりをすれば売り、これから上がりそうな株をすぐ買うという。

 インターネット売買にハマると普通の仕事をやる時間がないらしい。仕事を辞めてデイトレーダー一筋で生活している人も出てきているという。

 儲けは多くて一日3万円という。月給にすれば90万円だ。おいしい商売である。

 でも、まてよと思う。

 数分の株の上がり下がりで商売することが、ほんとの仕事と言えるのか?

 彼らはなんの生産もしない。ただ、株の上下のあいまを縫って稼いでいるに過ぎない。

 私は、デイトレーダーはパチプロ(パチンコのプロ)と同じだと見ている。パチプロはなんの生産もしない。パチンコ産業のおいしい部分だけを取って生活しているだけであって、世の中での存在価値がない。

 デイトレーダーとパチプロに災いあれ。

命は平等か?

2007-04-29 09:34:37 | Weblog
 犬が人を噛んでも報道されないが、人が犬を噛むと報道されるとは、よく言われることである。

 これはつまり、珍しくないことは報道されないが、珍しいことは報道されるという意味だろう。

 交通事故死の一部は報道される。しかし、報道は詳細ではなく、報道範囲も地域に限定されたりしている。交通事故は珍しくないからだろう。

 毎年6000人以上が交通事故死している。阪神淡路大震災の死者と同じ程度の数である。

 数が同じ割には、交通事故死より阪神淡路大震災のほうが、圧倒的に報道数が多い。

 これはなぜだろうか?

 交通事故死が毎年6000人は珍しくないが、阪神淡路で6000人というところが珍しいからだろうか?

 一度に大量に死んだからだろうか?毎日少しずつなら報道されないのだろうか?

 死因が交通事故だろうと、大震災だろうと、犯罪によるものだろうと、当人(または家族)にとっては、「一回的な」重大な出来事である。自然死(寿命)でも同じことである。

 死に方によって、報道の格差があることに、若干の疑念を覚える。とくに一度に大量に死んだときの報道の詳しさに驚く。

 隣のお婆さんが老衰で亡くなったときには、なんの報道もなかった。

 マスコミは「人の命は地球より重い」というのなら、このお婆さんの死も報道せよ。

 それがイヤなら、阪神淡路をあんなに報道するな。

 マスコミにとっては、人の死に格差があるようである。いつも「命は平等」と言っておきながら、著名人の死だけ報道する。マスコミは自己矛盾を行っている。

 私がマスコミを嫌う、これは理由の一つである。

 「命は平等ではない」とマスコミがはっきり宣言しない限り、私のマスコミ嫌いは続くだろう。

魚介の図鑑

2007-04-28 15:34:40 | Weblog
 幼いころ列車の図鑑を好んで見ていたことは、いつぞや書いた。

 列車の図鑑以外にも好んで見ていたものに魚介の図鑑がある。動物の図鑑も買ってもらったけれども、私には魚介の図鑑のほうが面白かった。

 それはなぜかと言うと、動物の図鑑にはその動物の肉がおいしいかどうかはまったく書かれていなかったが、魚介の図鑑にはそれぞれの魚や貝がおいしいかまずいかが書いてあったからである。

 子供の興味は多岐にわたるけれども、おいしいかまずいかという情報は子供にとって非常に価値のあるものである。子供は名より実を取る生き物だからである。

 その図鑑には「おいしい」、「まずい」だけではなく、「食べられるが、美味ではない」とか、「食用には適さない」、「卵巣は有毒である」などと細かく書かれていて、とても楽しかった。

 父が私に図鑑を与えたように、私も子供に図鑑を与えた。しかし、私の子供たちは私のようには図鑑に興味を示さなかった。

 私が幼いころには、まだテレビはなく、映像的な娯楽が非常に少なかった。しかし、私の子供たちの時代は、テレビを通り越してテレビゲームの時代になっていた。世は映像で溢れかえるようになった。

 今さら動かない絵と文章だけの図鑑なんて、面白くなかったのかもしれない。

鯖の缶詰

2007-04-27 14:39:41 | Weblog
 鯖の缶詰のように中身が安い缶詰は、容器の金属の量をなるべく節約しなくてはならない。

 そこで、缶詰の金属が最も少なく、かつ容積を最大にするにはどうしたらよいか?という問題が生じてくる。

 答えは、缶詰の直径と高さが同じときが、最も容積が大きい。つまり缶詰を真横から見ると、ちょうど正方形になるという美しい法則が現れてくる。(鯖以外でも安い缶詰はみな同じ恰好をしている)。 

 証明は簡単である。

 [証明]

 缶の半径をr、高さをh、容積を1000、表面積をSとする。

    1000=π(rの2乗)h・・・・(1)

である。また・・・

    S=2π(rの2乗)+2πrh・・・(2)

である。容積が1000でSが最小となるようなケースを求めるのがこの問題である。

(1)より・・・

    h=1000/π(rの2乗)・・・・(3)

 これを(2)に代入すると・・・

    S=2π(rの2乗)+2000/r  ただしr>0

 この式の増減を調べるためにSで微分すると・・・

    dS/dr=4πr-2000/(rの2乗)={4π/(rの2乗)}×(rの3乗-2000/π)

となって、dS/dr=0(つまりSが最小)となるのはr=10/{2πの(1/3)乗}
のときに限る。

 ところで(3)を変形させると、h={1000/π(rの3乗)}×r=20/{2πの(1/3)乗}であるから、2r=hである。

 証明終わり

 ちなみに缶詰の形を円筒にこだわらなければ、表面積が最小で最大の容積をもつ形状は「球」である。こちらのほうは格段に証明が難しいと思う。

葬らいの方法

2007-04-26 13:46:59 | Weblog
 自分の葬儀は簡素にして欲しい、または葬儀はやらないで欲しいという人が増えているそうだ。

 葬儀は他人がやるものであって、自分がやるものではない。自分の葬儀を簡素にしてほしいと要求することは、自分の死後のことについて注文をつけるという点において、自分の葬儀は盛大にやってほしいと要求することと、本質的に同じである。

 繰り返すが、葬儀は他人(ないし家族)が自らを慰めるためにするものであって、死者のためではない。死者はもういないのだから。

 第三者の目から見て、現代の火葬はいただけない。火葬場へ行くと、なんだかオートメーションのように次々と死体が焼かれていく。あまりにドライである。

 かと言って、薪による荼毘ならよいかというと、森村誠一さんの山岳小説にその描写があるけれども、死体の脂がこぼれて炎がばっと上がったり、肉片の焦げたものの中身がまだ赤かったりして、これもあまり気持ちのよいものではない。

 理想の葬らい方法はなんだろうか?

 私はエジプトのミイラが最も理想的な死体の処理法だと思う。でも、相当に手間がかかっている。即身仏のミイラもあるが、断食してがりがりに痩せてからでないとミイラ化しない。だから、何もせずにミイラになるというのは、かなり難しい。(ちなみにミイラはポルトガル語である)。

 次に理想的なのが、従来からの埋葬である。これは穴を掘る手間だけだし、自然な死体の処理法でもあると思う。

 意外に理にかなっているのが鳥葬である。これは現在でもネパールで行われている。鳥葬を執り行えるのは村で選ばれた素行のよい青年たちだけである。青年たちは死体を鳥が食べやすいように頭蓋骨を斧で割ったりする。

 死体を再び自然の連鎖の中に戻すという点で、鳥葬は捨てたものではない。

 献体という手もある。医学生が人体を知るために3ヶ月ほどかけて詳細に解剖を行う。医学部での解剖実習は医者になる通過儀礼のようなもので、私は解剖実習が始まってから、しばらくの間、肉が食べられなかった。解剖実習がイヤで医者になるのを諦めた友人もいる。

 でも、献体も最終的には火葬にされる。

 水葬は衛生面で問題があるし、風葬もゴミを捨てるみたいな感じである。

 結局、最善の葬らい方法なんてないのだ。初めにも言ったとおり、私は自分の葬儀に注文をつける気はない。だから、葬らい方法にも注文をつけない。

動物園

2007-04-25 10:27:08 | Weblog
 動物園では熊がオリの中で、際限なく往復運動を繰り返している。あれは熊がノイローゼになっているのである。

 動物園は動物を一見可愛がっているように見えるが、オリの中で一生を過ごさせるという点で、極めて動物愛護精神に反する施設である。動物愛護団体は動物園に抗議しているのだろうか?あるいは、動物園反対運動でもしているのだろうか?いまのところ、聞いたことがない。

 グリーンピースという環境保護団体は、捕鯨船に体当たりするような過激な行動で知られているけれども、彼らが動物園をどう考えているのか、私は知らない。捕鯨船に体当たりをしておいて、動物園を不問に付しているとしたら自己矛盾である。

 動物園の歴史は古く、古代ペルシャにまで遡る。ただし、動物園は一般公開されておらず、王侯の権威付けのための個人的コレクションだった。中世ヨーロッパでも、動物園は王侯の個人的な持ち物だった。

 動物園が庶民に開放されるようになったのは、わずかに17世紀になってからである。

 フランス革命は、動物園を一部の特権階級の所有物から民衆の手に移すことに役立った。でも、当時の動物園は人間までも展示するようになった。「セムシ」、「コビト」、黒人などである。

 イギリスでは動物園見物ならぬ、精神病院見物が行われるようになった。庶民が休日にお弁当をもってピクニック気分で精神障害者を見にいくのである。なんと非人道的な!と思われる向きも多かろうが、なに現代でも動物に対して同じことをしているのだ。

 わが国でも明治時代に、「葦原将軍」と自称する妄想症の老人が松沢病院にいて、新聞社はネタがなくなると、「葦原将軍」に時局を語らせ、面白半分の記事にしていた。

 サーカスの動物の方が動物園の動物より繁殖力が強いことが知られている。理由は、サーカスの動物には「仕事」があるが、動物園の動物には何もないことだと考えられている。

 (この記事の動物園の歴史の部分は、碩学の精神科医アンリ・エランベルジェによった。ものすごく面白い本だから、一読をお薦めする。書名は『エランベルジェ著作集2』。出版社はみすず書房で、値段は6000円である)。

お経

2007-04-24 13:15:51 | Weblog
 お経とは、もともと梵語で書かれていた仏教の教えを漢字に翻訳したものだろう。

 それを音読みにするから、お経は意味が全然分からなくなってしまった。

 意味が分からなくても、お経を聞いていると、なんだか厳かな気分になるから不思議である。法事にお経は欠かせない。

 念仏さえ唱えていれば極楽へ行けると説いたのは法然だったか一遍だったか忘れたが、卓見である。

 文字もろくに読めぬ昔の人々には、とてもマッチした教えだと思う。庶民にはインド哲学の難しい内容は理解できない。

 今のわれわれも同じである。意味も分からずに厳かな気分になっていれば、それでよいのである。

職人と芸術家

2007-04-23 13:49:29 | Weblog
 私には職人と芸術家の区別が分からない。

 漆工芸の人間国宝と、日本画の大家の違いが分からない。

 両方ともに文化勲章をもらっている人がいる。両者には本質的な違いはないのだろうか?

 職人は同じものばかりを作っても許されるが、芸術家はそうでないのだろうか?いや、そうでもない。芸術家と言われる人でも同じような作品を作る人はいる。

 職人も芸術家も、頂点を極めれば区別がなくなるのだろうか?

 陶工でも、陶芸家として高く評価される人と、日用品としての皿を作って衣食している人がいる。前者は芸術家で、後者は職人なのだろうか?

 やっぱり区別はあいまいである。

デルモンテのトマトジュース

2007-04-22 16:09:30 | Weblog
 私が幼少のころ、どういう経路でうちに来たのかは分からないが、うちに1リットルほどの大きなトマトジュースの缶詰があった。

 当時、トマトと言えば今のような甘いものではなく、嫌いな人は絶対に食べられない野菜だった。

 それが「ジュース」と書いてある。家中の者が怪訝に思った。

 あるとき父が思い切って「開けてみよう」と言い出した。仮にも「ジュース」である。全員がオレンジジュースのような甘いものを想像していた。

 飲んでみて驚いた。「何?これ」というのが当時の家族の反応。

 甘くもなんともないではないか。しかも、血液のような色でどろっとしている。ちょっと飲んだだけで捨ててしまった。

 今でこそ、わが国でトマトジュースは当たり前の品物であるけれども、当時はそんなものだった。

 そのトマトジュースはデルモンテの製品だった。デルモンテのトマトジュースは50年近く前からあったのである。

漁師になりたい

2007-04-21 13:37:06 | Weblog
 私は漁師の生活を羨ましいと思う。

 板子一枚下は地獄という過酷な仕事なのだろうが、栽培漁業は別として、天然の恵みを取ってくることに魅力を感じる。

 農家のように自分で育てたものではない獲物を取るというのは、古来、人間のもっとも基本的な生き方なのではないか?

 しけの日には漁に出ないで、のんびりと暮らす。大漁のときは大漁旗を掲げて帰還する。羨ましい生活スタイルである。

 むかし、ニシンが大量に取れたころは「ニシン御殿」と言われるほどの豪華な家が建てられた。自然の恵みだけで御殿とは、羨ましいを通り越して嫉妬さえ感じる。

 私は漁師になりたい。でも、なれないのだ。

 漁師はよそ者を入れない。漁業権というのがあって、勝手に漁場に出ることもできない。

 漁師はしっかりと自分のテリトリーを確保してしまっている。だから漁師は世襲のようになっている。

 世襲に値するおいしい仕事なのだろうと考えるのは、私が本物の漁師の現場を知らないからだろうか?

醤油

2007-04-20 15:02:49 | Weblog
 アメリカではつい先日まで、ウスターソースは蔑まれていた。(ウスターソースがおいしいことは別問題として、とにかく蔑まれていた)。

 日本人は醤油を好む。アメリカのレストランで醤油を所望すると、周りの者どもはそれをウスターソースと勘違いして、日本人を蔑んだ。

 ところが醤油はウスターソースとは違うことがアメリカ人にも分かってきて、現在ではソイソースとしてアメリカ家庭の必需品となった。どこのスーパーでも醤油を置くようになった。

 でも彼らはまだ知らないだろう。わが国には2千もの醤油の醸造元があることを。

 酒と同じで、醸造元によって風味が違う。醤油はキッコーマンやイチビキだけではないのである。

 私の馴染みの寿司屋は、二つの小さな醸造元の醤油をブレンドして客に出している。キッコーマンやイチビキとも違う、その寿司屋独自の味と香りである。

 こういう「技」がアメリカに伝わるには、いま少し時間を要するだろう。

リゾートホテルのテニスコート

2007-04-19 14:52:20 | Weblog
 昔、温泉旅館の遊戯室には卓球台があった。

 浴衣姿の客が下手な卓球を楽しんでいた。

 今、リゾートホテルにはテニスコートが付いている。あれは昔の温泉旅館の卓球台の名残ではないか?

 温泉旅館では玉とラケットを貸してくれた。リゾートホテルはテニスボールとラケットを貸してくれるのだろうか?

 温泉旅館にわざわざ玉とラケットを持っていく者はいなかった。現在、リゾートホテルにはボールとラケットを持っていく客がいるのだろうか?

 それとも、客はわざわざテニスをするためにリゾートホテルまで行くのだろうか?

 私はついぞリゾートホテルに泊まったことがない。だから、以上のようなことが疑問なのである。

不良少年(少女)は都会の産物か?

2007-04-18 20:29:57 | Weblog
 私は都会でしか生活したことがない。だから、過疎の田舎のことは分からない。

 田舎にも不良少年はいるのだろうか?

 あまり聞いたことがない。小説などでは、田舎の少年が都会へ出て、立派な不良になって帰ってくるという筋書きが多い。

 田舎での「純粋培養」で不良になる者がいるのだろうか?

 暴走族は都会の産物である。みんなに迷惑をかけることを喜んでいる。北海道の原野に暴走族がいるとは聞いたことがない。

 田舎の不良少年とは、都会の何に当たるのだろうか?

 もしかしたら、田舎には不良少年はいないのではなかろうか?

 ちばてつや氏の名作漫画に「島っ子」というのがある。都会の少女が島に行って、いじめられても島に適応するのに頑張るという作品である。

 主人公の少女は、島の子供たちにさまざまな嫌がらせを受けるが、島の子供たちはいわゆる不良ではない。

 暴走族を代表とする不良少年とは、都会にしかいないのではないか?何か都会の沈殿物を吸っているのではないか?

 過疎の田舎にヤクザがいるということも聞いたことがない。

女性が一人で行ける店

2007-04-17 13:37:04 | Weblog
 私はよく一人で、寿司屋、焼き鳥屋、バー(ホステスなし)へ行く。そこで晩飯を済ませてしまうこともある。

 妻はそれをとても羨ましがる。上記の店には女性一人では入れないと妻は言う。

 ラーメン屋、うなぎ屋、定食屋にも一人では行きにくいと言う。

 そうかも知れないと私は妻に同情した。昼間ならともかく、夜間だと女性一人では確かに行きにくいだろう。特に焼き鳥屋やバーは夜間しかやっていない。

 男女平等というけれど、夜間に女性が遊びに(食べに)行く場所がわが国では用意されていない。こういう無言の差別がまだ残っている。

東京のタクシー

2007-04-16 13:17:54 | Weblog
 豊橋に流しのタクシーというのはない。タクシーに乗るには、タクシー乗り場へ行くか、電話でタクシーを呼ぶ必要がある。

 名古屋には流しのタクシーがあるし、電話で呼ぶこともできる。

 東京は電話で呼ぶことは普通はない。みな流しのタクシーで済んでしまう。

 豊橋で一番人気があるのは東海タクシーである。名古屋での一番人気はつばめタクシーである。いずれも乗務員の感じがよく、同じ金額ならこれらの会社にしようと誰しも思う。だから、週末ともなると、これらの会社のタクシーはひっぱりだことなる。

 東京ではタクシー会社を選べない。だから乗務員の質が落ちるかというと、東京はどこの会社の乗務員も感じがよい。

 これは一つの謎である。東京と大阪はタクシーの乗務員になるために地理の試験がある。この関門によって、乗務員の質が確保されているのだろうか?

 大阪ではタクシーに乗ったことがないから、大阪の乗務員のことは分からない。