久々に昭和30年代の話をしよう。
小学校4年生のころ、父に連れられて浅草へ行った。当時、私は東京の山の手に住んでいたので、教育熱心な父は私に下町も見せておきたかったのだろう。
当時の浅草は、浅草寺かいわい以外は極めて猥雑な街だった。
ヤツメウナギ屋があった。マムシやヒルを売っている店があった。子供の頭ほどもある稲荷寿司やだんごを食べさせる店があって、全部食べればタダだという。ただし、「相撲取りお断り」と書いてあった。
ストリップ小屋があった。派手な看板が出ていた。父が冗談に「入ろうか?」と言うので、私は「やだよ、やだよ」と赤面した。
当時は映画看板などはすべてペンキで描かれていた。それらは非常に写実的で、看板屋はどうして画家にならない(なれない)のだろうと不思議に思った。
ストリップ小屋の裏手には、バラックの屋台があった。なにやら訳が分からないものを大鍋で煮込んでいた。あれでは、ネズミや入れ歯が入っていても分からないだろう。匂いも臭くて、とても食べられたものではなかった。それでも、身なりの粗末な男たちが、鍋を囲んで昼間から酒を呑んでいた。
父と私は鉄板焼きの屋台に入った。私はソース焼きそばを食べた。おいしかった。焼きそばには青海苔がかかっていた。父はコップで焼酎を呑んだ。
「うらぶれているな」と子供心に思った。
コラムニストの故山本夏彦さんによると、浅草の全盛期は戦前で終わったという。戦後は東京の歓楽の中心は銀座に移り、浅草はもう復活できないだろう。銀座もいずれ下火になって、次は新宿かどこかだろう。以上のようなことは夏彦さんは書いている。
2年がかりで「坂東33ヶ所」を妻と回っている。その中に浅草寺も含まれている。いずれ浅草寺を訪れる予定である。
小学校4年生のころ、父に連れられて浅草へ行った。当時、私は東京の山の手に住んでいたので、教育熱心な父は私に下町も見せておきたかったのだろう。
当時の浅草は、浅草寺かいわい以外は極めて猥雑な街だった。
ヤツメウナギ屋があった。マムシやヒルを売っている店があった。子供の頭ほどもある稲荷寿司やだんごを食べさせる店があって、全部食べればタダだという。ただし、「相撲取りお断り」と書いてあった。
ストリップ小屋があった。派手な看板が出ていた。父が冗談に「入ろうか?」と言うので、私は「やだよ、やだよ」と赤面した。
当時は映画看板などはすべてペンキで描かれていた。それらは非常に写実的で、看板屋はどうして画家にならない(なれない)のだろうと不思議に思った。
ストリップ小屋の裏手には、バラックの屋台があった。なにやら訳が分からないものを大鍋で煮込んでいた。あれでは、ネズミや入れ歯が入っていても分からないだろう。匂いも臭くて、とても食べられたものではなかった。それでも、身なりの粗末な男たちが、鍋を囲んで昼間から酒を呑んでいた。
父と私は鉄板焼きの屋台に入った。私はソース焼きそばを食べた。おいしかった。焼きそばには青海苔がかかっていた。父はコップで焼酎を呑んだ。
「うらぶれているな」と子供心に思った。
コラムニストの故山本夏彦さんによると、浅草の全盛期は戦前で終わったという。戦後は東京の歓楽の中心は銀座に移り、浅草はもう復活できないだろう。銀座もいずれ下火になって、次は新宿かどこかだろう。以上のようなことは夏彦さんは書いている。
2年がかりで「坂東33ヶ所」を妻と回っている。その中に浅草寺も含まれている。いずれ浅草寺を訪れる予定である。