院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

昭和30年代の浅草

2007-05-31 12:27:11 | Weblog
 久々に昭和30年代の話をしよう。

 小学校4年生のころ、父に連れられて浅草へ行った。当時、私は東京の山の手に住んでいたので、教育熱心な父は私に下町も見せておきたかったのだろう。

 当時の浅草は、浅草寺かいわい以外は極めて猥雑な街だった。

 ヤツメウナギ屋があった。マムシやヒルを売っている店があった。子供の頭ほどもある稲荷寿司やだんごを食べさせる店があって、全部食べればタダだという。ただし、「相撲取りお断り」と書いてあった。

 ストリップ小屋があった。派手な看板が出ていた。父が冗談に「入ろうか?」と言うので、私は「やだよ、やだよ」と赤面した。

 当時は映画看板などはすべてペンキで描かれていた。それらは非常に写実的で、看板屋はどうして画家にならない(なれない)のだろうと不思議に思った。

 ストリップ小屋の裏手には、バラックの屋台があった。なにやら訳が分からないものを大鍋で煮込んでいた。あれでは、ネズミや入れ歯が入っていても分からないだろう。匂いも臭くて、とても食べられたものではなかった。それでも、身なりの粗末な男たちが、鍋を囲んで昼間から酒を呑んでいた。

 父と私は鉄板焼きの屋台に入った。私はソース焼きそばを食べた。おいしかった。焼きそばには青海苔がかかっていた。父はコップで焼酎を呑んだ。

 「うらぶれているな」と子供心に思った。

 コラムニストの故山本夏彦さんによると、浅草の全盛期は戦前で終わったという。戦後は東京の歓楽の中心は銀座に移り、浅草はもう復活できないだろう。銀座もいずれ下火になって、次は新宿かどこかだろう。以上のようなことは夏彦さんは書いている。

 2年がかりで「坂東33ヶ所」を妻と回っている。その中に浅草寺も含まれている。いずれ浅草寺を訪れる予定である。

ちり紙交換が絶滅した理由

2007-05-30 10:25:22 | Weblog
 昔、ちり紙交換で生計を立てている人が大勢いた。しかし今、ちり紙交換は絶滅した。なぜか?

 結論から言えば、製紙会社のために役所が便宜を図ったからである。

 ちり紙交換がまだ機能していた時代、古紙には価格の上下がしばしば起こり、製紙会社は困っていた。そこで、安定供給を役所に働きかけたのだろう。

 役所は、子供会、老人会を使って、古紙を体系的に集め始めた。そこから供給される古紙は価格が安定していた。製紙会社は喜んだ。

 役所は、子供会、老人会に弁当代ほどのお金を与えた。これは税金からである。

 税金で子供会、老人会を釣って、役所は製紙会社のために古紙の安定供給を実現したのである。

 役所は古紙のリサイクルに、資源保護とか、熱帯雨林を守るためというウソの名目をつけて、老人子供をだました。

 おかげで、ちり紙交換では生計が立てられなくなり、ちり紙交換やっていた人たちは失職し、税金が使われ、製紙会社が喜ぶという構図ができあがった。

 以上は、再度『環境問題は・・・』からの受け売りである。

 この本の著者が大学で以上のような講義をすると、学生たちは一様に愕然とするという。それは学生たちも子供のころ、汗水をたらして古紙集めをした経験があるからである。

紙の生産と熱帯雨林の関係

2007-05-29 11:38:15 | Weblog
 今回も『環境問題は・・・』からの受け売りである。

 現在、世界のパルプ原料は、14%が先進国からの輸入で、開発途上国からの輸入は2.5%に過ぎないそうである。

 ということは、わが国で使用されるパルプは、ほとんどが先進国からの輸入ということになる。

 熱帯雨林の減少に危機感が持たれているけれども、わが国の紙の使用と熱帯雨林の減少とは何の関係もない。

 それがあたかも、紙をリサイクルしないと熱帯雨林が壊滅するかのように言われて、子供会や老人会は古紙の回収に奔走している。

 何の関係もないことにエネルギーを使わせられるのは、たまらない。ここでもまた、バカなマスコミと役所が大きな役割を果たしている。

 じつは紙のリサイクルには、まったく別の大問題があるのだが、それは次回に譲る。

酸素の供給源

2007-05-28 12:36:18 | Weblog
 森林がCO2 を吸収して酸素を出すということをしないのであれば、生物が吸ったり、山火事などで消費される酸素はどこから供給されるのだろうか?

 『環境問題は・・・』の本には、その辺のことは書かれていなかった。

 私が想像するに、酸素はちょっと使ったくらいでは何ともならないほど沢山、大気中に存在するのではなかろうか?

 新幹線は片側が2席で、もう片側が3席なのに、満席でも新幹線は傾かない。それは、人間の重さなぞ問題にならないほど車両が重いからである。

 ちょうど、これと同じように、生物や山火事が消費する酸素なぞ、地球全体の酸素の量から見れば問題にならないのではなかろうか?

 ほかの理由や、酸素の未知の供給源があるのなら、知りたいものである。

森林はCO2 を吸収するか?

2007-05-27 08:56:04 | Weblog
 『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』という本を読んだ。科学的データに基づいた極めて面白い本である。一読をお薦めする。(武田邦彦著、洋泉社刊、1000円)。

 本書によると、森林はCO2 吸収しないのだという。

 これまで私は、動物が消費した酸素は、植物がCO2 を吸収して酸素を吐き出すことによって、平衡が保たれていると漠然と考えていた。ところが本書を読むと、どうもそうではないらしい。

 森林は成長するときに大いにCO2 を吸収して酸素を出すけれども、枯れるときにはその反対で、ふたたびCO2 を排出しながら朽ち果てていくという。だから、成長と枯死が平衡状態に達した安定した森林は、吸った分だけいずれCO2 を出すのであり、全体として見ればCO2 を減らしはしない。納得できる論議である。

 ところが林野庁は「森林がCO2 を吸収する」と公言してはばからない。本書の著者は、これを「故意の誤報」と切り捨てた。林野庁が国民をだまし、税金をかすめとるために平然とウソをついていると指摘した。

 ヨーロッパでは森林がCO2 を吸収しないのは常識なのに、京都議定書での交渉では、日本があまりにうるさいので、森林の面積とCO2 排出権を交換できるように、政治的配慮から認めたとのことである。(条約というものは、いつの世でも政治的である)。

 そのため、日本はCO2 を吸収しもしないロシアの森林に対して、ロシアに2兆円を支払って排出権を買おうとしているのだそうだ。これが事実なら、担当者は国賊ものである。

NHK「ナビゲーション」報道の誤り

2007-05-26 09:02:32 | Weblog
 NHK総合TVの中部地方版で5月25日(金)7時30分から放送された「ナビゲーション」に疑義がある。

 表題は「心 語り尽くしたい ~うつ病 患者たちのNPO~」である。

 心の内を話す場所のないうつ病の患者さんに、語りの場を提供するNPOの活動を報道したものだった。

 報道の姿勢には問題はないのだが、番組に「元うつ病」と自称して出てくる患者さんの一部が、本物のうつ病ではないと私は思う。

 番組が偽っているとも思わないし、出演した「元うつ病」を自称している患者さんも、事実そう診断されたりして、そう思っているのだろう。

 しかし、「苦しみぬいて自殺未遂を繰り返した」と報道された人は、腕を何度も浅く切るという行為を繰り返しているだけだった。これは「自傷行為」と言うのであって、自殺未遂ではない。

 本物のうつ病の患者さんは、もっと致命的な自殺未遂を犯すものであり、死ぬはずもないような「自傷行為」は繰り返さない。

 この番組は、結果として「自傷行為」を繰り返す人をうつ病の仲間に入れてしまった。このような誤解が拡散するのを、私は恐れている。

「地球温暖化係数」

2007-05-25 13:23:16 | Weblog
 地球温暖化によって、南極も北極も氷に影響がないとすると、海水面が上昇するという根拠がなくなる。

 根拠がないのに、大騒ぎしているのが今のマスコミである。マスコミの素人判断は困ったものである。影響力が大きいだけに、マスコミにはもっと真実を伝えてほしい。

 私は、いつぞや述べたように、地球温暖化はCO2 を初めとする地球温暖化ガスのせいではないと思っている。億年単位の気候変動か、太陽の活動の変化が(地球が本当に温暖化しているのなら)影響しているかもしれない。

 地球温暖化をいわゆる温暖化ガスのせいにするのは間違っていると思う。

 「温暖化係数」というのがあるそうだ。ガスが同じ量でどれだけ温暖化に寄与するかというと、メタンはCO2 の20倍。亜酸化窒素は300倍。フルオロカーボンに至っては1000倍だそうである。

 この係数はどうやって計ったのだろうか?少なくとも私は、この報告の論文を読んでいない。

 温室効果なぞという、あいまいな概念の上に、「温暖化係数」という、これまたどうやって計ったのか分からない数値が出てきた。

 すべてマユツバである。「温暖化係数」と言い出した論文を読ませてほしい。論文を読めば、それがマジメな論文か、一般受けを狙ったものかはすぐに分かるはずである。

地球温暖化によって、南極の氷は解けるか?

2007-05-24 12:08:46 | Weblog
 南極は大陸の上に氷が山ほどある。だから、南極の氷が全部解けると、海水面は60メートル上昇する。

 では、地球温暖化によって、南極の氷が解けるのだろうか?

 答えは「否」である。

 南極の平均気温はマイナス50度である。地球温暖化によって、気温が2度上昇したとしても、南極の気温はマイナス48度である。

 氷は0度以上で解ける。マイナス48度では、絶対に解けない。昨日、地球温暖化によって北極の氷がどうなるかという問題を論じたが、南極でも氷は解けない。

 地球温暖化によって極点の氷が解けて、海水面が上昇するというのは、ウソでなければ勘違いである。

 この勘違いによって、南方の島々が水没すると右往左往している。罪な勘違いと言わなければならない。

北極の氷が解けると、海水面が上昇するか?

2007-05-23 08:44:08 | Weblog
 地球温暖化説は本当なのかと、再三、私は疑問を呈してきた。

 100歩譲って、地球温暖化が起こっているとしてみよう。地球温暖化論者は、気温が上がると極点の氷が解けて海面が上昇するとすると言っている。今回は、それに論駁する。

 昔、子供向けのクイズに「コップに氷を浮かべて、水をすれすれまで張っておくと、氷が解けたら、水はコップからこぼれるか?」というのがあった。

 答えは「こぼれない」である。

 氷は体積が大きくなったぶんだけコップから顔を出しているだけであり、氷が解けると体積が縮まって、水はコップからこぼれないのである。

 北極の氷は水に浮かんだ氷である。だから、解けても体積が少なくなって、海水面は上昇しない。

 これは中学生程度でも分かる問題である。それなのに、海水面が上昇すると言い張る人がいる。そういう人たちはボケでいるのではないか?

 南極の氷が解けるとどうなるか、これはちょっと複雑で、次回に論じたい。

政治経済学部とは何か?

2007-05-22 13:01:28 | Weblog
 早稲田大学に政治経済学部というのがある。難関学部である。

 私は経済学部なら何となく分かるけれども、政治経済学部というのが何を学ぶのかよく分からない。

 政治によって、何か政策が打たれれば、それは経済活動に影響を与える。経済がおかしくなれば、政治によって対策が打たれる。

 この両者の関係を研究するのが政治経済学なのだろうか?

 なんだか生臭くて、こういうテーマはアカデミズムに似合わないような気もする。

 政治経済学部というのは、本当は何を学ぶところなのだろうか?しかも、その学部が難関なのである。

 どうしてそんなに人気があるのか、不思議である。

赤だし

2007-05-21 12:33:04 | Weblog
 東京に住んでいたころ、私は関東風の白味噌や合わせ味噌の味噌汁が嫌いだった。甘酒のようでイヤだった。

 名古屋に移って、赤だし(赤味噌)の味噌汁に初めて出会った。味噌汁とはこんなにおいしいものだったのかと驚いた。

 私は一転して味噌汁が好きになった。赤だしは甘くないところがよい。

 だから京風の味噌汁も嫌いである。味噌汁で赤だしに勝るものはないと思っている。

 みなさま、名古屋へ来たらぜひ赤だしを味わってください。その辺にある定食屋の赤だしでも、十分においしいですから。

アメリカ英語

2007-05-19 10:18:47 | Weblog
 中学生時代、アメリカンポップスに凝っていたころ、歌詞が全然聞き取れなかった。中学で英語を習っているのにである。不思議に思った。

 中学の英語の教師はみなキングズイングリッシュをしゃべっていた。一方、アメリカンポップスは米語だった。

 後になって思えば、キングズイングリッシュを標準語とすれば、米語は大阪弁みたいなものであって、それで聞き取れなかったのだと気がついた。

 正規に日本語を学んだ外国人は、大阪弁を聞き取れないだろう。

 現在、わが国で話されている英語は、キングズイングリッシュと米語のどちらが多いのだろうか?

トマトケチャップ

2007-05-18 13:33:04 | Weblog
 私がトマトケチャップを初めて食べたのは幼稚園のころだった。

 ケチャップはまだハイカラな食べ物で、わが家にはなかった。

 では、どこで食べたかと言うと、原っぱに山積みになっていたケチャップの空きビンからである。

 原っぱに行ったら、知らない子が空きビンに指をつっこんで、ビンに残った何かを食べていた。知らない子は、おいしいから食べてみろと私に勧めた。

 食べてみたら、おいしかった。汚いことをすると思われる向きも多かろうが、子供は汚いものである。そうやって免疫を付けていくのだ。純粋培養ではひ弱になる。

 原っぱがあった場所は渋谷の表参道のすぐ近くである。あんな繁華街にもまだ原っぱがあったのである。

 近くに紀伊国屋という高級スーパーがあった。(今でもある)。進駐軍の奥様方が、そこへ車で乗り付けて、大量の食料品を買っていく。日本人禁制ではなかったと思うが、日本人の姿は紀伊国屋にはなかった。

 日本人がいなかったのは、紀伊国屋にあるのは舶来品ばかりで、高すぎて買えなかったからだろう。

 原っぱにあった空きビンの山は、紀伊国屋から出てきたものと考えられる。

 わが家は正規のルートでは紀伊国屋でケチャップを買えなかったけれども、私は家族の誰よりも早く紀伊国屋の舶来のケチャップを食べていたのである。

少年少女合唱団の面白い顔

2007-05-17 13:06:41 | Weblog
 わが国の少年少女合唱団(特に中学生)は、なぜあんなに面白い顔をして歌うのだろうか?

 口を大きく開けるのはよいが、目まで大きく見開いたり、体を独特の仕方でゆっくり揺らしたり、わざとらしくて見ていて噴き出しそうになる。

 ああいう顔をしないと、良い声が出ないのだろうか?そういう顔をせよと教わっているのだろうか?それとも、コーチに言われたとおりに歌うとあんな顔になるのだろうか?

 もしかすると、合唱団仲間での流行なのかもしれない。いずれにせよ、あの顔はわが国独特のものだろう。

 なぜなら、ウィーン少年合唱団は、ああいう顔をして歌わない。

死ねば「無」になる

2007-05-16 10:40:08 | Weblog
 わが国は平均寿命が世界一だと威張っている。

 寿命が長いことがそんなに良いことなのだろうか?

 死んでしまえば、すべて「無」になる。生まれる前の、何にもない状態になる。完全な「無」だから、寿命が長いことや、ひいては宇宙が存在することさえ無意味になる。

 3歳で死んでも、100歳で死んでも同じことである。寿命が長いからといっても、全員が死亡する。あとには何も残らない。

 骨が残ると言う人もあろうが、死んだ人には骨は認識できない。だから、どうでも良いことである。

 こんなにも平等に死は訪れる。これは一つの救いである。生前、ホームレスだった人も、プール付きの大邸宅に住んでいた人も、みんな必ず「無」になる。ほんとに平等である。

 「無」になることは怖いことではない。だって、「怖い」ということさえ「無」になるのだから・・・。

 だから、現在、私たちが生きて、しかも自我をもっていることが奇跡というほかはない。なんで自我なんてあるのだろうか?自分自身を内省する自我なんて、他の動物にはない。

 人間は変に自我なぞをもってしまったゆえに死を怖れるのだ。これは、むしろ異常事態で、かつ特例である。

 霊魂の存在をうんぬんする輩がいるけれども、霊魂が存在するよりも、現在ただいま、自我が存在することの方が、よっぽど不思議なことである。

 繰り返すが、自我があることが特別なのであって、ほんとは何もないのが普通なのである。