私もよい歳になりましたので、たまに幼少時を思い出して余韻にひたらせてください。読者のみなさまが飽きないように配慮いたしますから。
私は渋谷から道玄坂を世田谷方面に行った大橋池尻近辺で生まれ育ちました。とうじ玉川電車(玉電)という路面電車がありまして、それに乗って渋谷まで出て、渋谷から日赤産院行の都バスで通学していたのでした。玉電は現在、地下鉄の田園都市線になっています。
(玉電。ひどく混雑しました。ウィキペディアより引用)。
(上に向かう道が道玄坂。下が現在、世界的に知られている渋谷のスクランブル交差点。道玄坂の両脇に洋食屋が出来てきた。ウィキペディアより引用)。
道玄坂の反対側に行くと青山学院や表参道に着きます。大した距離ではありません。青山学院の近くに「紀伊国屋」という米国人向けのスーパーマーケットがあり、日本人から見ればとても贅沢なものを売っていました。(「紀伊国屋」は現在でもあります。)
それら以外は木造住宅で、周囲には
原っぱが残っていたのですよ(2007-05-18)。私はそこの原っぱで遊びました。
渋谷には東横百貨店があって、その
大食堂でホットケーキ(2014-07-07)やパフェーを食べるのが楽しみでした。大食堂は和洋中なんでも提供していました。デパートが一大レジャー産業だった時代のはなしです。
(東横百貨店。ウィキペディアより引用)。
現在の渋谷にはバスのプールがありますが、むかしからあそこはバスのプールでした。ただし、バスはみなボンネットバスで、最終が8時か9時だったと思います。まえに書いたように
渋谷は不夜城ではありませんでした(2017-08-17)。祖母は山手線のことを省線(しょうせん)と呼んでいました。
(とうじのバス。ウィキペディアより引用)。
まだ東京には進駐軍がいて、なんと戦車をのせたトレーラーが町なかを走っていました。空には双胴の飛行機。名称は知りません。米軍の兵士は簡易宿舎に寝泊まりしていました。私たちはその宿舎の形から「かまぼこ兵舎」と呼び、それらは東京の各地にありました。
(戦車を乗せたトレーラー。煙を吐いていました。ウィキペディアより引用)。
(かまぼこ兵舎。ウィキペディアより引用)。
信じられないかも知れませんが当時は年に一回、観光バスを仕立てて日帰りの「町内旅行」があったんです。海水浴をするためですね。年に一度の遠出ですから、町内の子どもたちは嬉しくて嬉しくて、朝早くおもてに出て観光バスを待ったものです。
行先は毎年、江の島。とうじから江の島のタワーはありました。ですが、今のような立派なものではなく、送電線の鉄塔のような、囲いは柵だけ、床は板張りで木の節穴から下界が見えるスリル満点の鉄塔でした。
(現在の江の島。ウィキペディアより引用)。
日にちは毎年、7月22日と決まっていました。たまに梅雨が明けていないことがあり、そういうときには江の島界隈の散策や水族館見学をしました。みな弁当をもっていきました。それが豪華なのです。私の父親は「江の島ごときで豪華な弁当をもってくるとは・・」とお高くとまっているところがありました。だから私はおにぎりだけ。もっとも近所の人がおかずをくれましたけどね。
江の島までの途中に観光バスのプールがあって、そこで運転手やバスガイドは休憩しました。居並ぶ観光バスのあいだを、アイスクリーム売りのおばさんが「アイスクリン、アイスクリン」との呼び声で回っていました。
町内の青年たちはバスが出発したと同時に酒盛りを始めました。そのときの青年で現在ご存命のかたも結構おられます。彼らが手拍子で大声で歌うのは決まって「ノーエ節」でした。ふつうの宴会でも最後は「ノーエ節」で締めていました。
長くなりましたので今回はこのへんで。渋谷は父が友人と飲みに行く場所でもありました。でも、とうじは汚い店しかありませんでした。中には低級なホステスがいる酒場もあったみたいです。友人に無理に連れていかれたなぞと父は言っていましたが、じつはそうでもなかったのでは?私も同じことを言いそうだから・・。(^^;
※私の俳句(秋)
新涼やサラダを混ぜる妻の素手