院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

生物のコントロールに演繹的思考は通用しない

2014-03-31 05:16:23 | 医療

(家畜飼料。新見化学HPより引用。)

 むかしカルシウム剤を飲むことが流行った。骨が丈夫な赤ちゃんになるようにと妊婦が飲んだ。その結果、赤ちゃんの頭蓋骨が硬くなりすぎて産道を出られなくなった。

 出産時の出血を少なくしようと、当時、止血作用が発見されたビタミンKを妊婦が飲んだ。理由は分からないが、流産が続出した。

 生命体は精妙にできているから、演繹という人間の浅知恵は通用しないのだ。

続・小保方さんの学位剥奪の噂に寄せて

2014-03-30 22:07:10 | 教育
 この欄で2週間ほど前から、小保方さんの学位を剥奪する前に大学院側の学位授与権を剥奪すべきだと述べた。その主張はどうも正しいらしい。

 同時に、やはり医学博士号がもっともやさしい学位であることも、だんだん分かってきた。だが、少なくとも医学博士の学位論文でコピペや無意味な文献欄はありえないから、(そのような不備があってももらえる)工学博士号もやさしいのではないかと思ったが、小保方さんの学位論文は例外のようである。

 友人の国立大学工学部教授のY君によれば、教授会での学位審査のときに審査の対象となる「物証」は、主査と副査が連名で書いたアブストラクトだけなのだそうだ。100人もいる教授連が学位論文を直接読むわけではない。

 だから、指導教授はアブストラクトを書くのに細心の注意を払う。その大学院生の研究過程やこれまで書いてきた院生の論文の有用性を正確に書いてA4用紙にまとめる。そのアブストラクトが教授会の学位審査に架けられ、テニヲハの間違いまで指摘されるほど徹底的に教授陣に読みこまれ、まんいち不採択になったら、指導教授は辞職モノなんだそうである。

 やはり日本の学位もアメリカやドイツ並みに難しいことが分かった。だから、小保方さんの学位論文が教授会を通ってしまったということは、とりもなおさず教授会(または指導教授)の責任であって、教授会に学位授与の資格がないという私の主張はあながち暴論でもないようである。

(上記のアブストラクトは最終的に文科省に提出され印刷される。私の場合、アブストラクトはなんと自分で書いて出した。これだけ見ても医学博士号がいかに軽いものかがわかるだろう。また、他の理系学部では学位論文はジャーナル(学術雑誌)に載せる論文とは別で、重厚に表装して金文字を付けて国立国会図書館に納められるのだそうだ。ジャーナルの査読に通るかどうかは無関係だという。私の学位論文は表装なぞしなかった。あるのはジャーナルから発行されたペラペラの別刷だけである。)

人前で踊ったり歌ったりできる人、できない人

2014-03-30 06:14:46 | 心理

(YOSAKOI ソーラン祭り。Wikipedia より。)

 いまは中学校の体育でダンスを教えるくらいだから、若い人には人前で踊ることに抵抗のない人も多いだろう。だが、私が子供のころは違った。私自身のことを言えば、小学校の4年生くらいになると、もう地域の盆踊りにさえ参加するのがイヤだった。

 現在でもカラオケができる人とできない人がいる。できない人は技術以前に恥ずかしくてできないのだ。私はシラフではカラオケができない。酔えばできる。踊りは酔ってもできない。

 私より年上の人には、両方ともできない人が多い。若い人にはできる人が多い。人前で踊ったり歌ったりするのが好きな人と、絶対にできない人に人間を2分できるかもしれない。

 むかし、硬派軟派という言い方があった。この2分法と、人前で歌や踊りができるできないという2分法は、完全に同じではないが、けっこう重なる部分が多いような気がする。

(心理学用語を使えば「退行」(赤ちゃん返り)ができるかできないかとも表現できる。「退行」ができる人のほうが「大人」だったりする。)

混合診療解禁がもたらす困った事象

2014-03-29 05:49:16 | 医療
 混合診療が解禁されそうである。健康保険がまだ使えない高度先進医療を、本人の経済的負担で利用できるようにし、健康保険で科学的に有効だとすでに認められている医療はそのまま健康保険が適用できるようにするという方策だ。

 これにより、高度先進医療が利用しやすくなるのは確かだが、爆発的に増えるのは高度先進医療ではなく、民間療法や盲信的な医者が勝手に信じ込んでいる「療法」になるだろうことは、確信をもって予言できる。

 現在でも行われている「療法」に「○○イオン水の点滴」というのがある。「○○イオン水」とはポカリスエットを薄めたようなもので、点滴しなくても口から体に入れればよい。それをわざわざ点滴でやって、「腰痛に効く」、「がんに効く」という振れ込みで大枚を取るのだ。

 「○○光線の照射」というのも跋扈するだろう。遠赤外線のようなものを照射して、「胃弱に効く」、「痔が手術しなくてもよくなる」といった文言で、これも大金を取る。光線照射はX線でなければ医師免許は要らないから。医師の指示が必要な注射が「前処置」として行われるだろう。注射の中身はただの水である。

 ここで注意しなくてはならないのは、そのような「治療」を行う医者は患者を騙そうとしているわけではなく、自らその「療法」の効果を信じ切っていることだ。怪しい「療法」に執心している医者は、思われているよりもずっと大勢いる。

 (実際は何の効果もない)サプリメントが大流行の現在だから、医者が薦める「療法」ならもっと信用されるだろう。サプリメントは「○○に効く」とうたっては犯罪になる。だから、「こんなにたくさんの成分がはいっています」というような宣伝しかできない。サプリメントとは要するにプラセボー(偽薬)である。プラセボーも信じれば効いたような気分になる。

 アリナミンEX(2013-08-07)やQPコーワゴールドもプラセボーである。それでも売れるのだから、医者が狂信的に信じている「療法」はプラセボー以上に一大マーケットを造りだすだろう。

 混合診療の解禁を勧告した委員会は、周到にも「(健康保険外の医療は)医者と患者が合意の上で、自己責任でやってほしい」と明言している。「合意」さえすれば医者は何をやってもよいというわけである。

小保方さんの学位剥奪の噂に寄せて

2014-03-28 04:21:27 | 教育
 小保方さんの学位剥奪の噂に関連して、科学作家の竹内薫さんが日本の学位制度を批判していた(「週刊新潮」平成26年4月3日号)。

 私は知らなかったっが、90年代に大学院重点化政策というのが行われ、学位がどんどん与えられるようになった。だが、学位取得者(博士)の受け入れ先が少なく、08年ポストドクターを雇用する制度が作られた。それで、いったんは博士の就職先ができたが、有期雇用だったため、再び高齢のオーバードクター(簡単に言えば学位を持った失業者)が問題になっているそうだ。

 これまで、工学博士や理学博士が「量産」されたらしい。「量産」するために学位取得はものすごく簡単になったと竹内さんは言う。彼に言わせれば「ふざけるな」ということになるらしい。現在の日本の理工学博士には口頭試問がないという。医学博士でさえ行われた口頭試問がないとは!?。

 竹内さんは東大からカナダの大学院に行って学位を取得したのだが、その厳しいこと今でも夢に出るそうだ。口頭試問はデフェンス(防御)と呼ばれ、教授連の意地悪で矢継ぎ早の質問に的確に答えてデフェンスしないと学位はもらえない。

 私は先日この欄で、医学博士号があまりに軽いのを嘆いたが、どうも日本では、理工学博士でも同じことが起こっているらしい。医学博士号はもっていないと公的病院の院長副院長診療部長になれないから、すなわちいつまでもヒラで給料が上がらず、社会的外見もよくないから医学博士号を取るのだ。つまり、医学博士号は身過ぎ世過ぎのためで、学問のためではない。

 だから私は、理工学博士号に比べて医学博士号はそうとうレベルが低いのだと考えていたのだが、どうもそうではないらしい。理工学博士論文にコピペは当然だという話もある。医学博士論文にコピペはありえない。

 小保方さんの博士号を剥奪したら、他の大勢の博士も博士号を剥奪されることになるという人もいる。私はすでに言ったように、大学院の学位授与権のほうを剥奪すべきだと考えている。

「大丈夫」の横行

2014-03-27 05:19:33 | 日本語
 二回目に歯医者に行くと若い歯科助手がにこにこと「大丈夫でしたか?」と訊いてくる。私は一瞬考える。「前回、風邪をひいていたから、それについて訊いているのだろうか?」。いや、ここは歯医者だから歯のことを訊いているのだろう。だとすると「痛み?」、「ぐらつき?」、「噛みあわせ?」と考えは廻って、けっきょく「何がですか?」と訊きなおすことになる。

 レストランでコップの水が半分ほどになっているときに、ウエイトレスが「お水、大丈夫ですか?」と尋ねてくる。「もっと水が要るか?」なのか「まだ水は要らないのか?」のどちらの意味なのか分からず返答に窮する。

 気になり始めると、とくに若い人に「大丈夫」が横行しているのが目に余る。若い人の言葉使いに文句を言いたくないのだが、「大丈夫」はあんまりなので一言言ってみた。

大倉幸宏著『「昔はよかった」と言うけれど』

2014-03-26 06:12:09 | 読書
(新評論刊。)

 3月20日にご紹介した『本当はひどかった昔の日本』には古文書に出てくる子どもや老人に対する残虐な処遇などが書かれていた。

 上の本は友人に紹介されたのだが、もっと軽く、明治以降のマナーについての古今の比較である。電車で席を譲らない、人前で化粧する、電車内を汚すといった行為は、むかしのほうがずっとひどかったという内容である。それらが、当時の新聞記事や書物で立証されている。

 私は戦後生まれだが、幼少時に、道端で大の大人が喧嘩しているのを見たし、電車の席取り合戦も見た。旅館の備品を盗む人もいた。

 ところが、1970年を境いに国民がいっせいに紳士的になり、往来での大人の喧嘩を見なくなったし、電車内の秩序も格段に美しくなった。

 このような現象は日本だけに起こったのではなく、先進国に共通して起こったらしい。これを「ジェントル革命」と呼んだヨーロッパ人がいたことは、2008-10-28 の記事に書いたからご参照願いたい。


ロングセラー・中井久夫著『精神科治療の覚書』

2014-03-25 06:00:13 | 読書
(日本評論社刊。)

 この本は30年にわたるロングセラーである。初め「こころの科学」という雑誌に載ったものが単行本化されたもので、これまでに7万部売れた。この手の本で7万部は驚異的である。その新装版がこのほど、中井が文化功労者に推挙されたのを機に、出版された。

 一般向けに書かれた内容であるのもかかわらず、多くの精神科医や臨床心理士に読まれ強い影響を与えた。著者の中井久夫は「治療第一主義」で、それまでの精神医学が「成因論第一主義」だった流れをくつがえした。

 中井はこの本が書かれたときはまだ無名だったが、現在では「精神医療の巨人」、「精神医療の神様」と言われている。若年のころ中井の身近に仕えていた私から見ても、こうしたあだ名は過大とは思われない。

 無名に近かった中井を自分の雑誌に抜擢した編集者、清水長明は現在死んでいるのか生きているのかさえ分かっていない、日本評論社の幻の編集者である。

 本書には当たり前のことが書いてあると感じる読者もいるだろうが、この本が出た30年前は画期的な内容だったのだ。この本によって当たり前になったのである。本書を「精神医療の作法書」と呼ぶ人もいる。

 中井は言行一致の人である。自分でできないことは書かない。中井の膨大な著作の中に、中井自身ができないことは、いっさい書かれていない。それだけに、本書の説得力は強烈なのだ。

絵本は紙芝居の代わりにはならない

2014-03-24 05:01:28 | 教育

大府市のHPより引用。)

 保育士が園児の前で、紙芝居のように絵本を広げて読み聞かせる図をよく見かける。紙芝居の在庫が少ないから、絵本に頼らざるをえないのだろうか?それとも、絵本を読み聞かせよという声が大きいからだろうか?

 紙芝居として見せるなら、まず額縁がなくてはならない。子どもだからと侮ってはいけない。額縁がいかに重要であるかは油絵が好きな人なら分かるだろう。

 また、紙芝居なら表にセリフが書いてあってはいけない。セリフは裏に書いてあるからよいのであって、絵本のように表に書いてあると興ざめになる。

 だから、子どもは集団で絵本を見せられても、十分には面白くない。紙芝居のほうがずっと面白いはずだ。紙芝居ではなく、どうしても絵本の読み聞かせをやりたいなら、一対一で行わなくてはならない。2013-11-18 に書いたように、読み聞かせが紙芝居に勝るのはスキンシップだけだからである。


和声法の複雑化(音楽の根本問題・3)

2014-03-23 06:00:44 | 音楽
 中世ヨーロッパでは、和声(心地よいハモり)としては4度と5度(ドファとドソ)しか認められていなかった。3度(ドミ)はまだ不協和音だった。だが、じきにドミソが和声として認められるようになった。(いまやフォークソングは3度のハモりが定番である。)

 ベートーベンなどのロマン派音楽になると、7th が和声として入ってきた。(ドミソシ♭のような和音。これを7th コードという。フォークソングやポップスには普通に使用されるが、演歌にはめったに使われない。)

 ところが、モダンジャズになると9th , 11th , 13th が和声として使用されるようになり、和声の定義が格段に広がった。これらをあえてテンジョンノート(緊張の音)と呼ぶ。テンジョンノートやそれを使用したテンジョンコードはモダンジャズのサウンドをモダンジャズらしくする決定的な発明だった。

 それらとは別に、suspension4 (宙ぶらりんコード、ドファシ♭)というのが出てきた。このコードが和声学的にどう位置付けられているのかは知らない。sus4 はドファラに解決する。むかし「青い三角定規」というフォークグループの「太陽がくれた季節」という歌が大ヒットしたが、その歌の前奏に使われている(前奏の4小節で「sus4→解決」を2回繰り返す)。当時、しゃれているなと思った。

参考:「太陽がくれた季節」Youtube より。

屁理屈としてのシェーベルクの12音音楽(音楽の根本問題・2)

2014-03-23 00:11:52 | 音楽
 無調音楽の台頭に反対するかのように、シェーンベルクは有名な(1オクターブを半音ずつに刻んだ)12音音楽を提唱した。

 12音音楽のルールは、12音はすべて平等であるから、平等に用いなくてはならない。すなわち、12音のうち同じ音は12音すべてを使用してからでないと再び使ってはならないというルールである。無調音楽と同じく調性を無視しているが、そこに一定のルールを持ち込んだ。きわめて人工的なルールだけれども・・・。

 20世紀の初め、12音音楽はある程度受け入れられ、シェーンベルク以外にも作曲を試みる者がけっこういた。

 だが、調性を無視しようが無視しまいが、12音がとびとびの音であることには変わりがない。(とびとびであることにおいて調性音楽を決定的に超えるものではない。)また、1オクターブを12に分けることも恣意的である(半音音階)。全音ずつ6つに分けることも、権利上同じだからである(全音音階)。半音のまた半音まで細かく区切って24音とすることも可能である。
  .
..12音音楽は無調音楽のアンチだったかもしれないが、所詮、屁理屈だったと思う。

参考:アニメ「鉄腕アトムのテーマ」Youtube より。(前奏に入る前の音列が全音音階になっている。)

楽譜はなぜとびとびなのだろうか?(音楽の根本問題・1)

2014-03-22 06:02:27 | 音楽

プラムレコードHPより引用。)

 今回の話はなかなか文章では伝えにくいテーマだ。音楽を記号化したもの、すなわち楽譜はなぜ音がとびとびなのだろうか?(5線紙に別々の音符で表せるのだろうか?)

 もうすでにここで分かりにくくなっているのだが、楽譜には半音までしか書かれていない。半音のそのまた半音が音としては存在するはずである。そのまた半音もある。すなわち音とは周波数が連続的に移動しうるモノであり、とびとびである必要がない。

 胡弓やバイオリンなら、とびとびでない音の連続を出せるが、ピアノは楽器の構造からして、すでにとびとびの音列しか演奏できない。音を連続的に演奏できる胡弓やバイオリンでも、わざと一音ずつとびとびに演奏する。

 長調と短調の違いは、全音と半音の組み合わせが少し違うだけである。ここですでに、全音と半音という考え方が、音楽の音がとびとびであることを前提にしている。

 ビブラートや「しゃくり」があるではないかという意見もあろうが、それらはあくまでも、とびとびの例外というか装飾としてある。

 音楽は音をとびとびに発すると決まっているのは、なぜだろうか?

料理教室の先生とは何か?

2014-03-21 05:43:07 | 教育

Amazon より引用。)

 料理教室の先生とは、どのような存在なのだろうか?「先生」と言われるくらいだから、料理が上手なのだろう。

 それなら料理教室の先生は、レストランのシェフや料亭の料理長になれるのだろうか?なれるのに、あえて先生をやっているのだろうか?

 教えることと自分でやることとは別だという議論があることは承知している。野球のコーチと選手の関係から言われることだ。ならば、料理教室の先生は、むかしは「名選手」だったのだろうか?

 シェフが先生をやらずに実践オンリーなのは、名人級のシェフが必ずしも教え上手とは限らないからだろうか?ならば、プロのシェフになろうとする若者は、なぜ料理教室に行かずに、「名店」に入門するのだろうか?

 漠然とした印象だが、毎日、料理を実践しているシェフに、料理教室の先生はかなわないと思う。それなのに先生と呼ばれているのは、占いの先生、評論家の先生 etc. というのと同じではあるまいか?

 やはり、料理教室の先生とはアマチュアの中でだけ上手な人なのではないか?

古文書に見る『本当はひどかった昔の日本』

2014-03-20 05:53:13 | 読書
(新潮社刊。)

 上の本は評判がよいらしく、すでに多くの書評が出ているから、私が印象に残ったところだけを述べよう。

 犬公方、徳川綱吉の「生類憐れみの令」は、動物だけではなく赤ん坊や老人、病人も対象だったとは初めて知った。当時は捨て子や病人を捨てるのが日常茶飯事だったようだ。

 捨て子は犬に食われることがあった。少し成長した幼児の捨て子は犬と戦って、翌朝、幼児も犬も死んでいたという凄惨なことがあったらしい。

 江戸時代は儒教の影響が強く、子どもは親の持ち物で、煮て食おうが焼いて食おうが、すべて親の自由だったらしい。だから、親から虐待されたと訴え出ると、逆に罰せられたそうだ。

 実際、わが国ではつい最近まで、親が子どもを殺す罪よりも子どもが親を殺す罪のほうを重くした「尊属殺人」という考え方が残っていた。「尊属殺人」が法の下の平等に反するとして違憲判決が出たのが1973年だった。

 そのとき私は大学生だったが、「尊属殺人」の廃止にいくぶん抵抗感を感じたのを覚えている。

漱石と鴎外

2014-03-19 05:31:10 | 読書
 漱石と鴎外は、明治の新時代に入ってからの世相にちょうどマッチした人物なのではないか?小説家として偉大だったかは、私は疑問に思っている。

 二人とも東京帝国大学出身の大秀才で、洋行もしている。そのころ日本は「おしん」の時代である。彼らは赫々たる経歴から、一般大衆にとっては雲の上の人である。そこに、いろんなエピソードがくっついて、ヒーローに祭り上げられたのではないか?

 彼らの後の世代、つまり大正生まれの大衆には、彼らはもう神様のような存在だった。彼らを批判することなぞ、思いつきもしなかったのではないか?大正生まれの父親は、私に漱石を読めと薦めた。

 読んだが「坊ちゃん」以外はちっとも面白くない。中学生のとき私は父親に「お父さんは、ほんとうに漱石が面白いと思うの?」と問うた。父親は正直にも「実は、面白くない」と白状したことは、いつぞや書いた。鴎外も面白くなかったが、父親に薦められたわけではなかったので、父親が鴎外の作品をどう思っていたのかは分からない。

 つまり、漱石と鴎外は、大衆が膨らませてしまった虚像ではないのか?もっとも友人に漱石好きが二人いる。二人とも社会的業績が著しい畏友である。だから、私の感度が鈍いのかとも思うが、小説は娯楽だから、面白くない小説は読まないという結論になる。