院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

ルービックキューブ

2008-04-29 06:16:18 | Weblog
 ルービックキューブはよくできたパズルである。

 最初に流行ったのは1978年ころだろうか?日本中がルービックキューブに頭をひねっていた。

 私も少しやってみたが、あまりに難しいので止めてしまった。

 キューブを分解して、その動作原理を理解してから上達した奴もいた。

 京都大学名誉教授の木村敏先生は、当時わたしの近くにおられて、やはりキューブにはまっていた。若い者に負けてなるものかと、先生は必死になった。そういうところが木村先生が好かれるところである。

 木村先生は教室一番のキューブの達人になった。

 先日、どんな初期状態からでも最大26手でキューブは完成できると述べたが、そのころは、そんなことは証明されておらず、みんな試行錯誤だった。

 すでに結婚した息子や娘が生まれたばかりのころのことだった。

ドアミラーの愚

2008-04-28 08:28:07 | Weblog
 今、自家用車は全部ドアミラーである。

 ドアミラーは不合理である。フロントミラーに比べて絶えず視線を動かさなければならない。ドアミラーを見ているときには前が見えない。

 安全性を犠牲にして、デザインを優先させたのだろうか?危険きわまりない。

 タクシーは皆フロントミラーである。これが正常である。

 でも、タクシーはわざわざフロントミラーを特注しているのだろうか?特注せずとも、自家用車にフロントミラーを標準で付けてほしい。

 自動車メーカーは、ドアミラーのほうが危険だと先刻ご承知だろう。なのにドアミラーを付ける。罪なことである。

 自動車はまずもって安全でなくてはならない。デザイン優先はやがて自動車メーカーを滅ぼすだろう。

名著「ほんとうの環境問題」新潮社

2008-04-27 09:17:39 | Weblog
 この本には、私が2年間にわたって環境問題について思っていた疑問がすべて書いてある。

 もう、私がつべこべ言う必要はなくなった。読んで胸のすく思いである。

 これは名著である。多くの人がこの本を読んで、今の環境論議、とりわけCO2 問題、地球温暖化問題について、科学的な非合理性に気付くことを望むものである。

 著者は池田清彦氏と養老孟司氏である。池田氏は生物学者である。これまで納得のいく環境論を多くものしている。

 養老氏は解剖学者である。「バカの壁」でベストセラー作家になられたけれども、養老は20年以上前からエッセイを書いており、私はそのころからの読者だった。一読をお薦めする。

社説には主語がない

2008-04-26 08:36:24 | Weblog
 どんな言語でもそうなのだろうが、文法的に合っていても意味が曖昧な文章というのがある。

 日本語で典型的なのが・・・

 「兄は笑いながら逃げる弟を追いかけた」

というのがある。これでは、笑っているのが兄のほうなのか弟のほうなのか分からない。

 新聞の社説にはもっと変なのがある。これは文法的にもおかしいと思う。例えば・・・

 「司法にも、わがこととしてもっと関心を持ちたい」

といった類である。この文章の主語は誰なのか?いったい誰が「司法に関心を持ちたい」のかが分からない。

 主語が社説者ならば、「私は司法にも・・・」と書くべきだし、主語が読者なら、「読者には、司法にももっと関心をもってほしい」と書くべきである。

 主語を曖昧にした社説はずるいから、私は信用しないようにしている。

ペットボトルの「ペット」とは何か?

2008-04-25 08:35:20 | Weblog
 ペットボトルの「ペット」とは何か?と聞かれて、答えられる人は少ないだろう。

 しばし考えて、かわいいペットの名を冠して、ペットボトルメーカーが考えた愛称程度に思っている人が多い。

 でも、それは全然違う。「ペット」とは原語でPETであり、PETとはペットボトルの原料の名称である。

 これはポリエチレンテレフタレートの頭文字から来ている。意外にも工業的な名称なのである。

 ペットボトルを分別ゴミとして出せという。リサイクルをするというのが名目だが、ペットボトルはリサイクルできない。無理にリサイクルすると、膨大なエネルギーがかかる上に、リサイクルボトルは使用に耐えない。

 ペットボトルは燃やすのが一番コストがかからない方法である。だから、ペットボトルは「燃えるゴミ」なのである。

 ペットボトルだけ分別させている行政の神経が私には分からない。市民にとって無駄な作業である。

歌人・俵万智さん

2008-04-24 08:36:49 | Weblog
 歌人・俵万智さんは1988年、ベストセラー「サラダ記念日」で現代歌人協会賞を受賞し、一躍時の人となった。

 俵さんは、高校の国語の教師をしていて、有名になってからも国語教師を続けると頑張っていたが、学校側とすれば有名人が一介の教師をやっていては困るのだろう。俵さんもそれを察知したのか、やがて教師を辞めてしまった。

 その後の俵さんの経歴は輝かしい。国語関係の審議会の委員をされたりしている。

 その代わり、俵さんは結婚適齢期を逃した。有名になるというのは大変なことである。

 俵さんは「未婚の母」という道を選んだ。それでも、なんとかやっておられるようだ。

 へたに「サラダ記念日」を出してしまったがゆえに、俵さんの平凡な女性生活は奪われた。

 俵さんには、「未婚の母」(これは欧米では普通である)として、力強く生きていって欲しいと思う。

俳人・黛まどかさん

2008-04-23 06:54:10 | Weblog
 俳人・黛まどかさんは美人である。有名俳人・黛執氏の娘さんである。

 彼女は、1994年、句集「B面の夏」で角川俳句奨励賞を受賞した。角川書店の雑誌「俳句」には角川俳句賞というのがあって、毎年一人受賞者が出る。ところが、黛まどかさんは角川俳句賞を取っていないのである。

 私が思うに、角川書店が黛まどかさんを売り出すために、むりやり「奨励賞」をでっちあげたのではないか?黛さん以外に「奨励賞」なんて受賞した人はいない。

 知り合いの雑誌記者が黛さんを取材に行ったことがある。そしたら、対応に出たのはマネージャーだったという。マネージャーを持っている俳人なんているか?

 そう、黛さんは俳人というよりタレントなのである。事実、俳句番組の案内役などをやって、ときどきTVに出る。

 ただ最近は、黛さんも低空飛行である。あまりTVに出なくなった。今でも美人であるが、ビッグになれなかったのは、彼女の背が低いというところにあったのではないかと、私は考えている。彼女は昔「ミス着物」だった。

秘すべきポルノが秘されていない

2008-04-22 08:26:56 | Weblog
 原因があれば必ず結果がある。食物を食べれば、排泄がある。

 TVのCMなどで、美女が食品を食べるシーンがある。私が異常なのか、美女が食べると、美女の排泄にまで考えが及んでしまう。

 だから、美女が食べ物を食べるシーンは、写さないほうがよいのではないか?美女がものを食べるシーンは、極言すればポルノである。

 話は跳ぶようだが、根本的には同じことなので、SEXについても言いたい。SEXは今の世では秘すべきものとされている。だが、本当に秘されているのかどうか?

 夫婦は赤んぼ子供ができると、赤んぼを親類や知人に見せに行く。赤んぼを見せるということは、SEXの結果を見せに行くことである。私たちはSEXをしましたという証拠を見せることである。

 美女の飲食。赤んぼのお披露目。これらはみなポルノだと思うのは、私が異常なのだろうか?

東京一極集中

2008-04-21 05:49:19 | Weblog
 東京一極集中が止まらない。

 地方から東京への集中は昔からだった。歌謡曲「僕は泣いちっち」、「木綿のハンカチーフ」などは、恋人が東京へ行ってしまったことを嘆く歌である。

 今や東京だけが栄えて、他の県、すなわち山口県とか福島県とかは田舎になってしまっている。

 幕藩体制時代はそうではなかった、各県に都があった。だから今ほど地方と東京の格差はなかった。

 東京の土地はバカ高い。そんなにしてまで、東京に集中することがわが国を栄えさせることになるのだろうか?

 東京にマンハッタンみたいにビルを乱立させることが、よいことなのだろうか?

 高層マンションもたくさんできている。マンションの3LDKに住んで楽しいか?

 私は各県に都を分散すべきだと思っている。

有名なパズルを考える

2008-04-20 07:34:21 | Weblog
 ひさびさに数学の話題を2つ。

 昔、15ゲームというのがあったのを覚えておいでだろうか?4X4の計16のマス目があって、そこに15個のチップが置かれている。一つだけ空いたマス目を利用して、15のチップを正規の形に直すゲームである。

 このゲームには結果Aと結果Bがあって、AからBへ、またBからAへ変換することが不可能である。それは数学的に証明されているのだが、その証明法は忘れた。

 ルービックキューブがリバイバルで流行っているらしい。最初のブームからもう30年近くたつ。私も凝ったが、なかなか難しいパズルだった。

 ルービックキューブは、スタートがどんな形をしていても、最高26手で完成できる。つまり、初期状態がどんなに複雑でも、うまくやれば手数は26手を超えないということである。これも数学的に証明されているのだが、私は証明法を知らない。(知ったとしても、たぶん理解できないだろう)。

アメリカ人のジーパン

2008-04-19 08:24:52 | Weblog
 また昔の話である。アメリカ人の年収が日本人の年収の10倍くらいあったころの話である。

 真夏のビーチにアメリカ人がジーパンをはいて訪れた。アメリカ人は暑いので、自らのジーパンをハサミで切って、短パンにしてしまった。ジーパンの腿から下の部分を彼らは捨てた。

 それを、日本人の主婦が我先にと拾いに行ったのである。ジーパンの生地で、買い物袋などを作るつもりなのである。

 このころのアメリカと日本の経済力の違いは格段の違いだった。わが国の主婦の行動を笑えはしない。

 このごろ、ようやくわが国の経済はアメリカに追いついた。アメリカ人が捨てたシーパンの生地を拾いにいく主婦もいなくなった。

 でも軍備ではまだ相当にアメリカに水を空けられている。これからは、中国やインドがのして来るだろう。わが国が世界の小国になる日は着実に近づいている

一見さんお断り

2008-04-18 08:28:59 | Weblog
 ついこの前まで、東京皇居前のパレスホテルは一見さんお断りだった。

 日本人でパレスホテルに泊まるためには、常連さんの紹介が必要だった。なぜかというと、同ホテルからは皇居の中が見えるからである。

 一方、西洋人は一見でもパレスホテルに泊まれた。その結果、一時はパレスホテルは外人ばかりになった。

 最近では、パレスホテルも日本人に対してシキイが低くなった。一見さんお断りでは商売ができなくなったからだろう。

 パレスホテルの宿泊料はハンパではなかった。一見さんでなくても、泊まるのには大枚を要した。

 一見さんお断りの店は、京都の料亭や、東京の吉兆にまだ残っている。お断りと言われると、なおさら行きたくなるものである。

 パレスホテルはついに大衆の軍門にくだった。京都の料亭や、吉兆が大衆化されるのにそう時間はかかるまい。

 しばし待って、私ももと一見さんお断りに店に行きたいものだと思っている。でも、格式ばかりで、料理にはさほど期待していない。

民俗学と文明

2008-04-17 08:43:25 | Weblog
 昔、民俗学ブームというのがあった。柳田民俗学がその最高峰だった。

 民俗学がはやったのは、物質文明が発達したからだろう。TVが見られる時代に、ある地方では昔、仏壇の鐘をチンモモと言った。チンと音がしてから後の余韻をモモと表現したのだろうというような考察が柳田民俗学だった。

 要するに物質文明が発達して、チンモモに興味を寄せる余裕ができたということだ。食うや食わずでは、チンモモもガンモモもなかろう。ちなみにガンモモとはお寺の大きな鐘(手で叩く鐘で釣り鐘にあらず)は、まずガンと言ってから、あとにモモと続くと柳田民俗学では説く。

 そんなどうでもよいようなことが、庶民の興味を集めるようになった。生活が豊かになった証拠である。

 沖浦民俗学は、沖浦氏が86歳のご高齢でありながら、面白い。それは、沖浦氏が現代人だからである。文明を知り尽くしているからである。

 沖浦氏は、何回も東南アジアに現地調査に行っている。むろん、飛行機を使ってである。柳田民俗学の時代には途方もないことである。沖浦民俗学は文明の利器を最大限に利用している。

 民俗学の母体は物質文明なのだと思わせられる、これは好例である。

方向音痴

2008-04-16 08:24:11 | Weblog
 白状すると私は方向音痴である。一度行った道を元へ戻ることができない。

 歩いて行ってもそうなのだから、車で行ったら余計に分からなくなる。行くときに右に回ったら、帰るときに左に回らなければならないのに、そんなことが分からなくなる。

 将棋の名人、高段者は、一回通った道は確実に覚えてしまうという。道に迷うということがない。

 後輩で将棋の強いやつがいて、その後輩が車で行った道をしっかり覚えるのである。あてずっぽうに運転しているようでいて、ちゃんと元の位置にもどることができる。

 これは、もしかしたら先天的な能力ではあるまいか。私は中学生のころ幾何がよくできた。しかし、それも2次元までで、3次元の幾何となると、とたんにこんがらがった。

 私は代数がよくできた。しかし、込み入った立体図形の問題には歯が立たなかった。

 学生時代から、碁を自己流にやったが、6級止まりでそれ以上には行けない。たぶん空間認知能力が劣っているのだ。

 タクシーの運転手さんは、すごいと思う。少なくとも空間認知能力において、私より優れている。

 自分で車を運転して変に迷うより、事故のリスクもないので、私はもっぱらタクシーを愛用している。

解剖実習

2008-04-15 08:45:49 | Weblog
 解剖実習は医学部の3年生で行われる。すべての臨床実習に先立ってプログラムが組まれている。一体を2,3ヶ月かけて、それこそ血管の一本、スジの一本まで細かく解剖する。

 解剖初日はショックだった。ご遺体にメスを入れるのは相当な勇気が要った。その日の晩、仲のよい者が集まって、お互いのショックを慰めあった。

 1ヶ月くらいは肉が食べられなかった。肉の匂いとご遺体の匂いがかすかに似ているのである。

 やがて慣れて、なんでもなくなったが、解剖実習は一生忘れられない体験である。解剖実習は医師になるために避けて通れない関門である。

 解剖実習がイヤで、とうとう医学部を辞めてしまった友人が他大学にいた。医学部以外に解剖実習がある学部があるだろうか?

 臨床実習が始まると、体のあそこがどうなっていたかとても気になり、もう一度解剖実習がしたくなった。

 臨床実習の前に解剖実習をやるだけではなく、臨床実習の最中にも解剖実習が必要ではないか?