院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

被災者、こころのケアを拒否

2011-06-30 23:28:45 | Weblog
 数日前の毎日新聞電子版に表題の見出しで記事が載っていた。被災者とはむろんこのたびの東日本大震災の被災者である。

 拒否の理由は、あまりに同じことばかりを聞かれるからだそうだ。こころのケアは、人が入れ替わり立ち替わりしたら、できるものではない。第一、ラポール(疎通性)が生じようがないではないか?

 もちろん、これらの「こころのケア」の中には調査研究もたくさん混ざっていることだろう。「傾聴ボランティア」や研究者や本当にケアをしようと思っている人が、ぜんぶ一緒くたになって、被災者には見えるのだろう。

 ラポールがついている同じ人が長期にわたってケアしなければ、こころのケアといっても仏作って魂入れずとなってしまう。

 この中に研究者によるアンケート調査なぞが混ぜこぜになっているとしたら問題である。調査というものは、どんなにマイルドあっても、ある程度相手を侵害するものだ。

 今後、アンケート調査の分析が行われ、学者が「被災者は云々」と述べだしたら、その学者をあまり信用しないほうがよい。彼にとっては、被災者よりも自分の研究のほうが重要だからである。

 この記事を書いたのは女性記者だった。彼女はさっそく中井久夫氏のところへ出向いた。中井氏は阪神淡路大震災のときに「こころのケアセンター」の初代所長を務めた。

 これは私の推測だが、中井氏は「こころのケア」という用語に違和感を抱いていたのではあるまいか?でも、それは人口に膾炙した用語だし、わざわざ名称にこだわる必要もないと考えて、「こころのケアセンター」の所長を引き受けたのではないか、と私は思っている。

 学者によるアンケート調査が被災者にとってどんなに迷惑なものであるかは、中井氏がすでに『1995年1月神戸』(みすず書房)の中で述べたところである。

「・・かな?」に関する内舘牧子さんの意見

2011-06-29 16:41:38 | Weblog
 6月28日(火)発売の「週刊朝日」のコラム「暖簾にひじ鉄」で、シナリオライターの内舘牧子さんが「・・かな?」という言葉遣いに苦言を呈していた。

 私が 2011-06-15 に書いたことと同じだ。気がつく人はちゃんと気がついているのだなと思った。

 私は内舘牧子さんのコラムのファンである。相撲に関する内舘さんの意見は極めて核心を突いている。内舘さんは横綱審議会の委員でもあった。現在は東日本大震災の復興委員会のメンバーをされているが、それについては彼女はまだ語らない。

歌は世に連れ

2011-06-28 11:59:23 | Weblog
 レコードはラジオ以前からあった。クラシック、邦楽のレコードはあっただろうが、流行歌というのはあったのだろうか?あったとしても、ごくローカルな歌に限られていたのではないか?

 それなら、ラジオ放送が始まったころの音楽番組とはどのようなものだったのだろうか?調べれば分かるだろうが、私には調べるエネルギーがない。だから、この記事はすべて推測である。

 私は初期のラジオ放送で流されたのは、クラシック、邦楽以外では日本民謡ではなかったかと考えている。これにより、それまでローカルだった民謡が全国区になった。東北の民謡が九州で聴かれるようになった。

 すなわち、ラジオ放送初期の流行歌に該当する歌と言えば民謡だったと思う。相馬盆歌や佐渡おけさなど今でも知られている民謡は、ラジオによって全国区になったのだと思われる。

 戦後、NHKのど自慢が始まった。当時のことは知らないが、私が少年のころでもレパートリーには民謡が多く含まれていたように思う。故三橋美智也さんや故三波春夫さんや故春日八郎さんが活躍していたころにも、民謡はのど自慢の一分野をなしていた。

 歌謡曲と言っても三橋美智也さんは民謡系、三波春夫さんは浪曲系、春日八郎さんは純粋系だった。演歌というのはまだなかったように記憶する。演歌がのしてきたのは作曲家の故古賀政男さんが朝鮮のメロディーを歌謡曲に取り入れてからだと思う。

 演歌の躍進はそこから始り、黄金期がしばらく続いた。演歌に翳りが見えたのは、ニューミュージックやロック系の歌謡曲が盛んになってからだ。そのころには民謡はのど自慢からほとんど姿を消してしまった。

 そして今、演歌は老人のものとなり、やがて民謡と同じ道を辿ってのど自慢からも姿を消すだろう。すでにCD店では演歌のCDを売っていない。

 もうなくなったNHKの歌番組のナレーションが記憶に残っている。ナレーターは名ナレーターだったが、すでに故人であり、私はその人の名前を忘れてしまった。ただ、以下のようなナレーションだったことは覚えている。

 「思い出は歌に寄り添い、歌は思い出に語りかける。そして、そのようにして歳月は静かに流れてゆきます」

GPSによるアメリカの支配

2011-06-27 13:07:50 | Weblog
 GPSなしには、もはや日本人の生活は成り立たない。カーナビはもちろん、飛行機や船舶の運航や、最近では携帯にGPS機能を付けて、個人の位置情報を得るまでになっている。

 GPSはもともとアメリカの軍事用に開発された。GPS衛星は30個飛んでいる。そのうちの数個が民生用のGPSとして使われている。この数個をアメリカが止めたらどうなるか?我が国は大災害並の被害を被り、産業はストップするかもしれない。

 だから、GPSは核爆弾ほどに恐ろしいものなのだが、それを自覚している日本人は少ない。アメリカが数個の衛星を停止させるだけで、ものすごい被害を他国に及ぼすことができる。

 残りの20数個の衛星はすべて軍事用だから、民生用GPSを止めても、アメリカはこれらを利用できる。(私の想像だが、軍事用は暗号化されているのだろう。)

 現在、GPSを我が国ほど便利に使用している国を私は知らない。我が国はカーナビの輸出国だ。かなりの国はGPSを使用しているのだろう。

 つまり、アメリカが他国を支配するのに核爆弾は要らないのである。

 それを嫌って、EU+中国は独自の位置情報システム「ガリレオ」を計画中だが、まだ実現に至っていない。我が国も別のシステムを準備中である。

 兵器などの軍事力だけでなく、アメリカはこのような面でもすでに世界を支配している。

いじめっこ

2011-06-26 07:37:52 | Weblog
 小学校2年生のころ、いじめっこと揉み合っていて、ちょっとしたハズミで相手の子が公園のゴミ箱に頭から入ってしまった。

 私はしまったと思い、どんな手ひどい報復が来るのかと、戦々恐々としていた。ところがその子はいっこうに報復してこなかった。というより私に従順になった。

 そのとき私が学んだのは、徹底的にやっつければ、かえって報復はないということだった。

 だから革命政権は、革命後に大量殺戮(粛清)をするのだろう。

 日本も鬼畜米英と言っていたのに、戦後はアメリカに従順になってしまった。

司法書士のレベル

2011-06-25 08:28:43 | Weblog
 司法書士の試験が司法試験の次に難しいとは初めて知った。合格率2.8%だそうである。

 弁護士のお世話になったことはないが、司法書士には不動産の売買などで随分お世話になっている。

 司法書士の試験がそんなに難しいと私が知らなかったのにはワケがある。

 昔、不動産を初めて買ったとき、ローンを組んだ銀行が紹介してくれた司法書士に登記の手続きをしてもらった。そのとき、一時的な税制措置として、不動産取得税かなにかが、条件に当てはまる物件にかぎり安くなったのだ。当該不動産はその条件に合っていた。だから手続きさえすれば、税金が減免されるはずだった。

 登記が終わってからその旨を司法書士に話したら、「いろいろ変わるから、全部は勉強しきれない」と開き直った。えっ?それでもプロ?私は医者になってから10年ほどたっていたが、医者だったらそんなこと許されない。おかげで税金を25万円も余計に支払うことになった。

 ああ、司法書士って先生、先生と呼ばれてもこの程度か、と思った。それ以来、司法書士を信頼できなくなった。昔は司法書士のことを「代書屋」といった。やっぱり代書屋は代書屋でしかないのか、というのが当時の私の印象だった。

 それが弁護士の次に難しい資格だと最近知って驚いた。

 昨今、若い弁護士が収入の道がなくて困っているという。司法書士は銀行や不動産屋と結びついていれば、食うに困らないだろう。なんだか立場が逆転している。

 最近、また司法書士のお世話になることがあった。今度の司法書士は女性だったが、私の質問にすべて的確に答えた。昔の司法書士より、今の司法書士のほうがレベルが高いのだろうか?

2011年リビア騒乱

2011-06-24 14:24:50 | Weblog
 チュニジアやエジプトで、あんなに早く政府転覆がなされたのに、リビアの内戦は3ヵ月たっても収まりそうにない。これは、なぜだろうか?

 私はリビアでは、チュニジアやエジプトほどには民衆の不満が高まっていなかったと見ている。もっときつい表現を使えば、リビアの反政府勢力は隣国を真似ただけの烏合の衆ではないかと思っている。

 前からおかしいと感じていた。2011-05-07 にここで書いたように、反政府勢力が英仏に爆撃を頼むなんて信じられなかった。英仏に対してはリビア国民は強い悪感情をもっていたはずである。その英仏に依頼するとは矛盾している。(NATOというけれども、NATOも一枚岩ではなく、リビアに関しては英仏だけが動いている。)

 イギリスはイギリスで、何が目的でリビア政府側を爆撃しているのか分からない。イギリス空軍自体が分からずに爆撃しているのだから、イギリス空軍の士気が下がっても当然である。爆撃が続けられなくなったらカダフィ側が勢力を取り戻すだろう。

 フランスやアメリカの動きは、情報がないので分からない。しかし、英仏米はカダフィを殺害しようとは思っていないようだ。カダフィという「重し」がとれたら、リビアは今のフセインなきイラクのように混乱するだろう。英仏米はそれが恐いのかもしれない。

 だいたい爆撃だけで済ますという意味が分からない。爆撃後は上陸しなければ戦争には勝てない。でも、英仏米ともに上陸なんて考えていないだろう。つまり、勝つ気がないのだ。

 奴隷貿易や植民地政策によって、さんざん痛めつけられてきたアフリカである。そのアフリカが一丸となって北側と対峙しようと、アフリカ共和国を構想したカダフィである。カダフィは何者かである。

 カダフィを殺害する気もなく、上陸する気もなく、英仏はいったい何をしたいのだろうか?反政府勢力を正当政府と認めた国はおっちょこちょいである。日本はまだ認めていないから今後も事を慎重に運んで欲しい。

 おおかたの方々はお忘れだろうが、かつて我が国はアメリカの圧力によって故安倍晋太郎官房長官がリビアを名指しで非難したことがある。今、日本は無関心を装うべきである。未だに何も言わない元宗主国イタリアは利口である。

 この内戦は、イギリスの脱落によって、意外にすぐに収束するかもしれない。

病院食

2011-06-23 15:00:39 | Weblog
 病院食といったら、まずいと評価が定まっている。健康保険で一日の食費が決められているからだろうか?実はそうではない。

 病院にいる栄養士は調理師ではない。だから、栄養のことだけ考えて、見た目や味のことを考えないというのも当たっていない。

 もう30年以上も前、当時の信州大学精神科教授・故西丸四方先生は、病院の食事はまずいのに、たまに近所の主婦らが手伝いに来ると、おいしくなると言っていた。むろん価格は同じである。

 要するに病院には、おいしく作ろうという気構えがないだけと分かった。

 昨年、私が元いた総合病院に入院したときも、病院食はまずくて、まるで動物の餌のようだった。一番驚いたのは、缶詰のみかんに大根おろしをまぶした一品だった。どうして、このように異常なことを思いつくのだろうか?みかんと大根おろしは別々に出せばよい。

 故西丸先生以来、病院食は変わっていないのだなと察した。

 そうかと思うと、産院ではレストランと見まがうような食事が出るところがあるらしい。産院は健康保険ではなく、自費だからだという意見もありそうだが、要はヤル気の問題だと思う。

 夕食が(職員の都合で)4時に出るという批判が前にあった。でも、この点は改善されたようだ。

市民マラソンと祭と災害ボランティアの共通点

2011-06-22 09:02:14 | Weblog
 市民マラソンが盛んである。応募者が多すぎて、抽選に当たった人しか参加できないそうだ。参加者はマラソンで勝つことを目的としない。自己ベスト更新だったり完走が目的だったりする。

 ここからは私の推測だが、市民マラソンの本質は走ることではなく、群れて大騒ぎするところにあるのではないか?つまり、ひとつの祝祭ではないか?

 よさこいソーラン祭(札幌)やにっぽんど真ん中祭(名古屋)が年々活発になってきている。2006-07-15 の記事でも述べたけれども、これらの新しい祭は旧来からの伝統的な祭がない地域で発達した。(札幌、名古屋には伝統的な祭がない。)

 京都の祇園祭、福岡の博多山笠、青森のねぶた・・こうした昔からの祭がある地域では、よさこいソーラン祭のような新規な祭は起こらない。

 もしかすると、人間にはときに群れて騒ぐことが必要なのではないか?みんな祭が好きなのだ。

 民俗学ではハレとケという。ケばかりの生活では、倦んでしまう。だから、ときにはハレが人間には必要なのだ。だから、祭がない場所では自然発生的に祭が生まれる。派手な祭がない地方の人は、祭がある場所まで足を運ぶ。

 市民マラソンも、よさこいソーラン祭も、ハレの役割を果たしているのではあるまいか?

 そこで唐突だが、または不謹慎かもかもしれないけれども、震災ボランティアに大勢の人が集まるのは、実は祝祭を求めてくるのではないか?つまり、市民マラソンやよさこいソーラン祭と、震災ボランティアは構造的に似ていはしまいか?

 ボランティアとは何の報酬も求めないとされているが、実は(大騒ぎこそしないものの)群れたり、そこに報道のカメラクルーが来たりして、災害現場は大いに祝祭的である。

 だから、ゴールデンウイークを潰してまでボランティアに行く価値があるのではないか?

 さいわいボランティアは賞賛こそされても、非難はされない。一人だけで人知れず善行を行っているボランティアは、さぞかしつまらないだろう。だから、言い過ぎかもしれないが、災害現場は多くのボランティアにとってハレの場所だと思うのだが、どうか?

 以上はボランティア精神がまったくない者の愚考である。あまり生真面目に反論しないでほしい。ひとつ間違えると、反論それ自体が災害ボランティアを返って傷つける偽善となる恐れがある。

教授の給料

2011-06-21 06:26:13 | Weblog
 中学高校にはとんでもなく出来る生徒がたくさんいた。中には全国模試で一桁に入る奴もいた。彼らはまさに日本の頭脳と言えるだろう。

 世に「教授病」というのがある。大学教授になりたくてなりたくて仕方がないような連中のことだ。教授になるために、論文の数を稼いだり、他愛もない内容の研究を国際学会で発表したり、彼らの努力は涙ぐましいほどである。

 中学高校の同期の中で教授になった者はけっこういる。だが、彼らは「教授病」ではなかった。好きな研究をして、適当に発表していたら、自然に教授になってしまったという感じである。たぶん、周囲が放っておかなかったのだろう。

 教授になった連中の昔の成績を思い出すと、「あいつ、大した成績でもなかったのに」という者は1人もいない。みな相当に出来る奴だった。教授になっても、さもありなんといった連中ばかりである。

 だが大学教授の給料は意外なほど安い。だいたい年俸1200万円くらいである。これでも教授としては多いほうである。でも、有名会社の社員の30代前半くらいの報酬だ。研究が好きだからやっていられるとしか思えない。

 一番給料が高いのは有名会社の役員である。大学教授の4、5倍だ。医者になった者は、教授と役員の間で下のほうくらいの報酬である。

 役員も医者も、その頭脳はさまざまであり、びっくりするほど出来る奴から、私レベルまで、そのスペクトルは広い。

 ただ教授だけはスペクトルが狭く、繰り返すが皆とてつもなく出来る奴ばかりだった。もっと教授を厚遇しないと、学術分野で日本が2等国になってしまうのは火を見るよりも明らかである。

美容整形への疑問

2011-06-20 11:57:42 | Weblog
 私は美容整形が好きでない。私の偏見かも知れないけれども、イヤなものはイヤなのだ。

 無論ピアスや入れ墨も嫌いである。女性の耳ピアスは、まあすでに市民権を得てしまっているようだが、男性のピアスは嫌いだ。

 鼻ピアスは、どうやって鼻クソをほじるのだろうと、いまもって謎である。

 とにかくインタクト(無傷で健康)な部分にメスを入れるというのが私の性に合わない。

 私の精神科の後輩で30歳そこそこで美容整形に転向したした奴がいる。明るくてとても気のいい男だった。美容整形を受けに来る人は、多かれ少なかれ心に苦悩があるから、美容整形でも精神科医の観点が必要だろうというのが理由だった。

 彼は2年ほどで私の年収の2倍を取るようになった。最近、会っていないが、もうとっくに手術を担当しているだろう。独立したかもしれない。

 芸能人の美容整形は、まあ仕方がないだろう。ピンクレディーのケイさんは、明らかに美容整形をしている。

 小坂明子さんも最近、美容整形をしたようだ。「もしも~私が~家を建てたなら~」という歌でデビューした。小坂さんはこの歌でヤマハ音楽祭でグランプリを獲得した。自作の歌だそうだが、よい歌だ。「あなた」という曲名だったか?忘れた。

 その小坂さんが、最近久々にTVドラマの主題歌でヒットした。彼女が歌う映像をTVで見て驚いた。綺麗になっているのである。私が見たところ、彼女は眼の手術と隆鼻術を受けている。

 隆鼻術は鼻は高くなるけれども、鼻の穴の形は変わらない。それで分かった。

 美容整形を繰り返す人は少なくない。弘田三枝子さんは「人形の家」でヒットしたころまでの美容整形は成功していた。

 だがその後も美容整形を繰り返したのだろう。(そのような人は多い。)今では原型を留めないような人工的な顔になった。私の独断と偏見で言えば化け物みたいになった。さすがにもうTVには出られないだろう。

 高須クリニックは親子3代に亘って美容整形外科だ。ジュニアがTVのCMに出ている。父親の母も美容整形外科医だった。何代も眼科医という家系が名古屋にある(馬嶋流眼科)。これは江戸時代からある。私が教わった眼科の先生にも馬嶋姓が沢山いた。

 何代も精神科医という家系を知らない。精神科は比較的、新しい診療科だからだろうか?でも、美容整形はもっと新しい科なのに、高須家は不思議な家系である。

私の浪人時代(2)

2011-06-19 10:47:16 | Weblog
 私の浪人生活は、よく言われるように灰色だった。来る日も来る日も「親不孝街道」を往復した。

 昼食は予備校の食堂のまずいランチで済ませた。安かったからだ。ときには親不孝街道にあるラーメン屋に入ることもあった。でも、とにかくお金がなかったし、使うものといえば、食事代くらいしかなかった。趣味のものは勉強の邪魔になるのであえて買わなかった。

 むろん恋愛なぞしている場合ではない。同性であっても予備校の生徒と個人的に親しくなることはなかった。予備校は友人を作る場所ではないと考えていた。それどころか、小学校の同級生が2人いた。でも、挨拶もせず、口もきかなかった。中学高校の同級生N君もいたが、互いに気恥ずかしく、やはり挨拶もしなかった。

 浪人生とは、学生でもなく社会人でもなく、ただのムダ飯食いでしかないことは、よく分かっていた。だから、もと知り合いでも口をきかなかったし、すでに大学生になっている友人と駅ですれ違うと、顔を隠して横道へそれた。彼はさぞかし青春を謳歌しているのだろうなぁと羨みながら、自分は勉強のために帰路を急いだ。

 そんな中、愚かにも予備校で恋愛している奴がいた。なかなか出来る男で、順位表の上位にしばしば出ていた。その男と20年後に親友になるとは、当時、夢想だにしていなかった。

 私は、恋愛なぞ始めたその男は、たぶん成績が下がるだろうと思っていた。だが意外にも下がらなかった。予備校の校庭をいつも彼女とおみき徳利のように並んで歩いていて、なぜ成績が下がらないのか不思議だった。

 私はストレスのため、ときどき神経性胃炎になった。夜中に急に吐き気がして、その晩に食べたものを全部戻してしまうのである。受験当日にこうなったらおしまいだなと思った。ストレス性胃炎は、大学入学後も数年間、私を悩ませた。

 40歳ころ名古屋近郊の公立病院に赴任した。そこであの恋愛男と出会った。上記のことを話すと、彼は非常に懐かしがって、あのとき付き合っていた女性が今の妻だという。ああ、そうだったのか。いい話ではないか。彼はその病院で外科部長をやっていたT君である。その病院を辞めたあとも、仲良くつきあっている。

 中学高校同期のN君も医学部に入り、10年ほど前の同期会で親しく話をした。でも、T君からもN君からも、不思議に浪人生活のつらかった話はでてこない。私だけが苦しんでいたのだろうか?

入試問題の記憶

2011-06-18 22:13:41 | Weblog
 大学入試のときの問題を覚えている人は意外に少ない。あんなに必死になって解いた問題なのに覚えていない。大学在学中でさえ、ほとんどの人がすっかり忘れている。今となっては、入試問題を覚えている同級生は私以外にはいない。

 私だって全てを覚えているわけではない。ただ、印象的な問題は覚えている。次に示すのは、とてもよくできている数学の問題である。

<問題>
 飛行機Aと飛行機Bがある。Aは双発であり、Bは4発である。個々のエンジンが一定時間内に故障する確率はどれも同じである。Aはエンジンが一つ残っていれば、墜落しないですむ。Bは二つ残っていれば、墜落しないですむ。つまり、Aはエンジンがすべて故障したとき、Bは三つまたは四つとも故障したときに墜落する。
 さて、飛行機Aと飛行機Bが墜落する確率はどちらが高いか?

 問題が上記のとおりだったか定かではない。常識で考えると、Aすなわち双発の飛行機のほうが墜落しやすいように感じる。

 だが、実はそうではない。A、Bともに、どちらが墜落しやすいかは一義的には言えないのが、この問題の面白いところである。本当のところは、航続距離によって確率が違う。

 航続距離が短いうちは、Aのほうが墜落する確率が高い。だが、もっと距離が長くなると確率が逆転して、Bのほうが墜落する確率が高くなる。だが、もっともっと航続距離が長くなると、再び確率が逆転してAのほうが墜落しやすくなる。

 なんと不思議な結果ではないか。航続距離によって確率が二転三転するなんて、よくできた問題だ。

 けっきょく私はこの問題を、時間内に最後までは解けなかった。でも、墜落の確率が何度か逆転するところまでは分かった。これには、かなり高い部分点を与えられたと考えている。

私の浪人時代(1)

2011-06-18 17:55:48 | Weblog
 昨日、勉強の仕方についての失敗談を述べたので、今日は大学受験の勉強について述べよう。

 私は国立大学の医学部を2ヵ所受験したのだが、当然いずれも落ちた。当時、医学部は今よりさらに難しかったように思う。と言うのは、ベビーブームで受験生が今の2倍くらいいたここと、医学部の定員が全国で約4000人で、今の約8000人に比べて、半分だったことである。

 大学に落ちた私は、予備校に行くことになるのだが、当時は予備校にさえ「入学試験」があった。(今もあるのかも知れないが。)

 私は予備校くらい1番で入れると思っていた。なぜなら、私より学力のある奴はすでに大学に受かってしまっているはずだから。

 そのとき私は、思いがけない経験をした。その時点で人生が変わってしまうほどの衝撃を受けた。

 私は予備校合格者2000人のうち、600番だったのである。これにはたまげた。何と言う生ぬるいことを考えていたのだろう。頭から冷水をぶっかけられた思いだった。

 その予備校は、上から100人東大、さらに一ツ橋、東工大が併せて50人、慶応、早稲田には400人くらい受かる予備校だった。全部足しても550人。600番では、これらのどこにも入れないではないか?

 私は誓いを立てて机の前に貼った。禁漫画、禁音楽、禁文学。ただし受かったら、これらを浴びるほどやる、と。

 私は猛然と勉強を始めた。予備校の授業は午前中だけしかない。昼に家に帰ると、すぐさま明日の予習。予習しておかなければ授業が理解できない。夕食をはさんで夜9時まで勉強した。

 9時まで勉強すると、さすがに疲れてくる。もう勉強を止めたくなる。だが、私はここでふんばった。「9時まで勉強なんて、受験生ならみなすることだ。ここからが勝負で、他の受験生に水をあけなければならない」と自分に言い聞かせた。

 好きな数学を9時までとっておいた。そして12時まで数学を勉強した。数学は苦しくなかった。

 こうして、ついに年間総合順位2000人中6番まで、はいずりあがった。でも1番にはなれなかった。こんなに勉強したのは、後にも先にもこの1年だけである。あんなに勉強したことはなかった。

講義と読書

2011-06-17 21:54:44 | Weblog
 私が多動児だったことは前に述べた。とにかく、じっとしていられず、床屋の椅子に静かに座っているのがたまらなかった。

 ただ読書だけは好きで、本さえ読んでいれば何時間でもじっとしていた。だから、床屋でも気をまぎらすために本を読んでいた。

 床屋の椅子もそうだが、学校の椅子もイヤだった。小学校のときは、授業の内容が知っていることばかりなので、なおさらムズムズした。

 中学高校の椅子も駄目だった。なまじ本を読むのが速かったために、「どうせ後で教科書を読めば分かることだ」と、マトモに授業を聴かず、よそ事をしていることも少なくなかった。授業時間が際限なく長く感じられた。

 だが、中学高校は甘くはなかった。成績はガタ落ちになった。後で教科書を読めば分かるというのが大間違いだった。教科書に書いてあることが分からないのである。

 妻はあまり本を読まない。その代わり授業をしっかり聴く。妻いわく「本だとすぐに読めないし、読むより聴いたほうが分かりやすい」と。まったく、もっともである。

 妻は今でも講演会や研修会に好んで出る。読んでも分からないからだそうである。私がようやく講義の重要さを再認識したときはもう遅く。大学入試はもちろん、国家試験も、その他あらゆる試験が終わってしまっていた。

 妻が現役で医学部に合格し、私が浪人したのは、この部分が違っていたのだろう。能力的な違いはないはずだ。それが証拠に、妻が私に質問にきたことは再三あるが、私が妻に質問に行ったことはない。

 これは負け惜しみだろうか?