今はどうだか知らないが、昔、リオのカーニバルでは必ず死者が出た。
わが国でも、諏訪大社の御柱祭(おんばしらさい)や岸和田のだんじり祭りでは死者が出た。今は安全第一で死者はめったに出ないが、当事者は祭りが面白くなくなったという。
ある未開民族では、部族間の戦争が儀式化されており、戦いはやるのだが、一人死者が出ると、それで戦いをぱっとやめてしまうという。死者が一人出れば、それで満足ということなのだろう。
日本でも大昔の大工事では、わざわざ人柱(ひとばしら)を立てて一人を殺すことによって、工事の安全を祈った。だが、安全を祈るというのは名目で、大勢がかかわる大工事には一人くらいの犠牲が必要だったのではないか?それでやっと民衆の心が静まったのかもしれない。
マヤ文明の祭祀のときの犠牲も同じことだったのではないか?犠牲を殺す石の台が残っている。人間一人の命を犠牲にすることが、民衆の気持ちが収まるには必要だった。
「一人くらいは死ぬことが必要」という大衆の願望が、時代や民族を問わず存在するのではないか?人間の命をひとつ犠牲にすることが、大勢の心の安寧を保つために必要なことだったのではあるまいか?
祭りはハレとケだけでは十分に説明ができない。
このようなことを言った文化人類学者や民俗学者はいないので、私がここで仮説を立てておく。
わが国でも、諏訪大社の御柱祭(おんばしらさい)や岸和田のだんじり祭りでは死者が出た。今は安全第一で死者はめったに出ないが、当事者は祭りが面白くなくなったという。
ある未開民族では、部族間の戦争が儀式化されており、戦いはやるのだが、一人死者が出ると、それで戦いをぱっとやめてしまうという。死者が一人出れば、それで満足ということなのだろう。
日本でも大昔の大工事では、わざわざ人柱(ひとばしら)を立てて一人を殺すことによって、工事の安全を祈った。だが、安全を祈るというのは名目で、大勢がかかわる大工事には一人くらいの犠牲が必要だったのではないか?それでやっと民衆の心が静まったのかもしれない。
マヤ文明の祭祀のときの犠牲も同じことだったのではないか?犠牲を殺す石の台が残っている。人間一人の命を犠牲にすることが、民衆の気持ちが収まるには必要だった。
「一人くらいは死ぬことが必要」という大衆の願望が、時代や民族を問わず存在するのではないか?人間の命をひとつ犠牲にすることが、大勢の心の安寧を保つために必要なことだったのではあるまいか?
祭りはハレとケだけでは十分に説明ができない。
このようなことを言った文化人類学者や民俗学者はいないので、私がここで仮説を立てておく。