院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

一人くらい死ななきゃ面白くない?

2013-06-30 05:33:55 | 文化
 今はどうだか知らないが、昔、リオのカーニバルでは必ず死者が出た。

 わが国でも、諏訪大社の御柱祭(おんばしらさい)や岸和田のだんじり祭りでは死者が出た。今は安全第一で死者はめったに出ないが、当事者は祭りが面白くなくなったという。

 ある未開民族では、部族間の戦争が儀式化されており、戦いはやるのだが、一人死者が出ると、それで戦いをぱっとやめてしまうという。死者が一人出れば、それで満足ということなのだろう。

 日本でも大昔の大工事では、わざわざ人柱(ひとばしら)を立てて一人を殺すことによって、工事の安全を祈った。だが、安全を祈るというのは名目で、大勢がかかわる大工事には一人くらいの犠牲が必要だったのではないか?それでやっと民衆の心が静まったのかもしれない。

 マヤ文明の祭祀のときの犠牲も同じことだったのではないか?犠牲を殺す石の台が残っている。人間一人の命を犠牲にすることが、民衆の気持ちが収まるには必要だった。

 「一人くらいは死ぬことが必要」という大衆の願望が、時代や民族を問わず存在するのではないか?人間の命をひとつ犠牲にすることが、大勢の心の安寧を保つために必要なことだったのではあるまいか?

 祭りはハレとケだけでは十分に説明ができない。

 このようなことを言った文化人類学者や民俗学者はいないので、私がここで仮説を立てておく。

学会費は今でも郵便振り込み

2013-06-29 04:43:00 | 学術
 私は5つの学会に入っている。(もっと多い人もいる。)学会とはその分野で最先端の知見を交換する場所だ。

 学会を維持するための年会費は5000円から1万5000円である。学会には学会費以外の収入はほとんどない。

 私はしばしば学会費を滞納して督促状をもらう。会費納入を忘れてしまうのだ。なぜ忘れるかと言うと、5つの学会すべてが郵便振り込みでしか学会費を納入できないからである。いつか納めようと思っていても、郵便局まで行くのが面倒で後回しにしているうちに忘れてしまう。

 最先端の研究を取り扱っている学会が、会費納入は古色蒼然とした郵便振り込みしかできない。学会の理事たちは学者バカに過ぎないのだろうか?

 今なら、コンビニ振り込みでもインターネット振り込みでもなんでも可能である。預金からの引き落としだってできるはずである。

 督促状を出すエネルギーがあるなら、その前に払い込み方法を改善せよ。学問の最先端を担っている誇りがあるなら、支払い方法も最先端の仕方をいくつも採用せよ。

 通信販売の会社なら、より便利な支払い方法を何通りも示して、とっくの昔に改善していることを学会はやらない。それなのに会費の集まりが悪いと不平を言っている。こういうのを殿様商売と呼ぶのだ。

海江田万里さんが軟弱に見える理由

2013-06-28 05:06:37 | 心理
 海江田万里さんの経済評論家時代の書いたものには説得力があった。評論家時代からしばしばテレビ出演していたが、なかなか鋭いコメントを付けていた。

 ところが、民主党代表としての海江田さんは、頼りなく見える。

 これは何故かと考えてみると、海江田さんの発言内容が甘いのではなく、海江田さんの話し方に問題があると気付いた。

 海江田さんは首を縦に振りながらしゃべるのだ。首を振りながらしゃべると軟弱に見える。

 首を振りながらしゃべるのは女性に多い。振らない女性の方が理知的に見える。あまり振ると、利口そうに見えない。

 公党の代表たる海江田さんは、そういった外見をもっと気にするべきである。

 (「首を縦に振りながらしゃべる人」を参照されたい。)

アベノミクスとは何か?

2013-06-27 05:23:04 | 経済
 私は株を持っていないし、売買もしたことがない。株を買うことは投資だと言うけれども、短期に売買するのであれば体のいい博打に過ぎない。

 どんな経済理論をもってしても株価の動向は読めない。それゆえ、株の売買は博打になりうる。極論すれば、証券会社は株式市場を賭場にしてテラ銭を稼ぐ胴元である。

 経済政策も同じである。何らかの経済理論に基づけば、経済政策が必ずうまくいくということはありえない。

 だからアベノミクスは必ず成功するとは限らない。経済は複雑系で、予測できない動きをするから、エコノミストや評論家が百家争鳴となるのだ。

 先日、日銀を退職した理事が、アベノミクスは博打だと言った。まさにそのとおりで、そんなことは私のような素人にも分かる。結果に確実性がないから、いかなる経済政策も博打である。

売薬のネット販売解禁に寄せて

2013-06-26 00:03:16 | 医療
 売薬のインターネット販売が自由化されようとしているが、自由化されても何の問題もない。なぜなら、ほとんどの売薬がプラセボーだからだ。プラセボーとは、ほんものの薬そっくりにできた錠剤などで、中味はうどん粉である。

 効くぞ効くぞと言われてプラセボーを飲むと、ほんとうに効く。これを「プラセボー効果」という。

 アリナミンはビタミン剤だが、普通に食事をしている人に余分に与えても、排せつされてしまうだけである。でも、飲んだ人は元気になったようなような気がする。そのため、この「薬」は武田薬品の大きな収入源となっている。

 けっこうな値段だが、買う人は買う。だが、病院でアリナミンをもらうと健康保険が利かない。それは、病院ではアリナミンをプラセボーだとみなしているからだ。

 QPコーワゴールドは、カフェインが入っているから、一時的に元気になる。ドリンク剤にはみなカフェインが入っている。

 そのようなわけで、これらの売薬をネット販売しても、どうということはない。

 実は、医者の処方箋が必要な薬にも効果が怪しいものがある。典型的なのはSSRIという仲間の抗うつ剤である。SSRIには、プラセボーと比べて、ほんのわずかにしか効果が上回らなかった薬がある。ある試験で効果があると認められても、別の研究者が行った試験では効果がなかったということもある。

 この場合、「効果あり」という結果を得た研究だけが採用され、「効果なし」と出た研究は闇に葬り去られる。

 今、世界中の精神科医が、「効果なし」と出た研究結果(これをネガティブデータと呼ぶ)も全部公表せよという運動をネット上で展開している。

 「トクホ」指定以外の食品も「効能」を謳ってもよいことになるらしいが、それについてはまた別の機会に。

才能は努力では追いつけない

2013-06-25 03:06:39 | 社会
 男子100メートル陸上で桐生祥秀選手が、いつ9秒台を出すか期待されている。

 女子では浜松私立高校の杉浦はる香選手が、400メートル陸上でいきなり日本記録第2位のタイムを出して注目されている。

 彼/彼女は、並外れた努力をして現在の記録を出したのではない。生来の才能である。余人がいくら努力しても、これらの記録は出せない。

 将棋や囲碁のプロ棋士も同じで、才能である。

 「天才とは99%の努力と1%の運である」とエジソンが言ったと伝えられる。本当にエジソンが言ったのなら、彼はささやかなウソをついたのだ。大多数のわれわれ凡人たちを安心させるためである。

 才能とは、もうどうしようもないものである。

含笑長屋

2013-06-24 00:00:06 | 芸能
 このほど名古屋の落語を聴く会、「含笑長屋」が46年間の幕を閉じた。

 名古屋にはない落語文化を名古屋に招こうという趣旨で、関山和夫さんという地元大学の先生が発起人となって、昭和42年に作られた会である。先日、関山さんが83歳でご逝去されたので、それを汐に解散となった。

 東京から噺家を呼んで、その名もぴったりの含笑寺という寺の本堂で「聴く会」を開いたので、「含笑長屋」という名称が付けられた。

 私は学生時代に友人に連れられて、ときどきこの会に足を運んだ。私が東京から名古屋に来たばかりのころだった。

 正直に言って、この会で面白い噺家に出会ったことはなかった。それまでは東京の末広亭などに通ったが、その末広亭の噺家も面白くなかった。私は末広亭で、真打が必ずしも面白い噺家ではないことを学んだ。

 「含笑長屋」に三遊亭円窓さんという噺家が来た。この人は「円窓500噺」と銘打って、死ぬまでに500の埋もれた噺を発掘して高座にかけると約束した。だから、この人の噺は毎回新しいものだった。

 2001年、円窓さんは遂に500噺を達成した。大したものである。大変な勉強家である。

 だが、あくまでも私にとってだが、この人の噺は面白くなかった。醸し出す雰囲気にフラ(今の言葉でいえば、面白さのオーラのようなもの)がないのである。いくら勉強家でも、フラだけは学べない。この人は一時、テレビの大喜利にも出演していたが、やはり面白くなかった。

 以上は私の私的な感想である。円窓さんのことを好きな人が、友人にはいることを申し添えておく。

バーチャルアイドルの「追っかけ」

2013-06-23 00:49:35 | 芸能
 「クラリス」というアニメの女の子2人組アイドルが人気である。声優は中学生のやはり女の子の2人組である。声優の正体は明かされていない。

 アニメの女の子や声だけの声優がアイドルになりうるかというと、なるのである。

 25年ほど前、まだ幼なかった息子と娘を連れて「キャプテン翼」のアニメを見に映画館へ行った。近くに中学生らしい女の子が2人座ってアニメを見ていた。アニメに登場人物が出てくるたびにその子たちは、「あ、翼くんかっこいい!」、「ほらほら、岬くんが出てきたよ!」と小声で興奮しているのだ。

 彼女たちは、翼くんや岬くんの、言ってみれば「追っかけ」だったのだ。アニメの登場人物にも「追っかけ」がいるのだなぁと感慨深かった。

 考えてみれば、「AKB48」や「嵐」は生身の人間だが、ファンはいくら熱狂しても、結局のところ彼女ら彼らを実際の恋人にすることはできない。その意味において、アニメのアイドルも同じことである。

 だから、姿かたちはもちろん、声まで人工的に作られた完全なバーチャルアイドル「初音ミク」に「追っかけ」がいても、不思議はない。(もっとも「初音ミク」は実際に追っかけなくても、パソコンに取り込むことができるし、自由に歌わせたり踊らせたりすることができる。その分、「憧れ度」は昂まらないかもしれないが。)

動物愛護主義

2013-06-22 05:14:40 | 文化
 娘がまだ幼いころ、テレビで野牛がライオンに襲われるシーンを放映していた。

 それを見た娘は「牛さん可哀そう」と言った。

 私は「おまえだって牛さんを食べているじゃないか」と言った。娘はしばらく考えて、「お肉ならいいの!」と答えた。

 このとき、娘の心の中で何かが変化したはずだ。

 娘は動物愛護主義者にはならなかった。

犬にちゃんちゃんこ

2013-06-21 04:03:12 | 社会
 「犬にちゃんちゃんこ」という言葉は、犬は迷惑かもしれないのに、犬にちゃんちゃんを着せて喜んでいる自己満足的な人を揶揄するものだった。

 ところが、犬にちゃんちゃんこを着せる人が激増したために、表題の言葉は意味を失いつつある。なぜか、そうされる犬にはプードルが多い。

 なんと、原宿あたりには犬のちゃんちゃんこを売る専門店までできているらしい。そこまでいくと、当方のほうが非常識ということになりそうである。常識とは常にマジョリティーの所有物である。犬のちゃんちゃんこは、すでにマジョリティーに側にいる可能性がある。

 「犬死に」、「夫婦喧嘩は犬も食わない」、「犬も歩けば棒に当たる」などが、差別的表現とみなされるようになるかもしれない。そして、徳川綱吉が高く評価される時代が来るのではないか?

 以前は犬の葬儀や法要は、僧侶が副業でやっていた。(今でもそうだ。)。犬専門の僧侶が出てこないことを願っている。(犬が僧服を着て出てきたりして。)

私の床屋嫌い

2013-06-20 04:36:08 | 生活
 私が子どもの頃、多動児だったことはいつぞや述べた。教室で隣りの子にちょっかいを出したり、話しかけたりして、教師からしょっちゅう叩かれたり廊下に立たされたりしていた。

 今で言えば体罰だが、教師が根っから私を憎んでいるわけではないと分かっていたから、現在、教師に恨みはない。

 廊下に立たされるのは、猛烈に恥ずかしかった。誰かが通りかかると、物陰に体をずらしたりしていた。恥をかかされることのダメージは、叩かれる痛さよりも大きかった。

 廊下にまで出されたのは、私だけだった。廊下に出すということは、授業を受けさせないということで、今なら大問題になるところだ。でも、私は授業を受けなくても常にクラスで一番だったので、教師も安心して私を廊下に出したのだろう。

 あるときクラスメートの男子が私が行きつけの床屋に居た。彼がほとんど動かないことに私は驚嘆した。私ならもじもじして、あんなにじっとしていることはできない。すごい根性だと思った。

 そのころ達磨大師が洞窟で何年も座禅をして、ついに足がなくなってしまったという話を聞いて、私は戦慄を覚えた。そんなに動かないとは、死刑にされるよりもつらいではないか。

 床屋で動かないクラスメートは、もしかしたら達磨大師のような偉人なのかもしれないと思った。

 同じころ、キリスト教だか仏教だか忘れたが、「無言の行」というものがあると聞かされた。これも私には信じられないことだった。一日中、なにもしゃべってはいけないなんて、拷問みたいじゃないか。

 多動児の片鱗が残っているのだろうか、私は今でも床屋が嫌いである。客商売をしているから、定期的な散髪は欠かさないが、毎回、清水の舞台から飛び降りるようなつもりで床屋の門をくぐっているのだ。

富士山の呼び名

2013-06-19 04:16:37 | マスコミ
 昔、日本列島の太平洋側を「表日本」と呼び、日本海側を「裏日本」と呼んだ。日本海側は太平洋側よりも天気が悪く、寒冷である。大学受験生も日本海側に住みたくないのか、受験生の人気は日本海側の大学のほうがやや落ちる。

 ある時、「裏日本」という呼び名は差別的であるとの理由で、マスコミはその呼び名をやめ、「日本海側」に変えた。「表日本」は「太平洋側」になった。

 ところで、富士山は世界文化遺産に指定される予定で、地元の業者は観光客の増加に期待している。

 富士山を呼ぶのに「裏富士」という言い方がある。富士山を山梨県側から見た様子をそう呼ぶ。「裏富士」という言葉には独特の味があって、俳句にも使われる風流な呼び名である。じっさい「裏富士」には静岡県側から見たのとは違った趣きがある。

 さすがのマスコミも「裏富士」という呼び名は残すだろう。

伝統俳句と現代俳句の違い

2013-06-18 06:01:54 | 俳句
 伝統俳句と現代俳句の違いは、添削が可能であるか否かというところにあると私は見ている。

 例えば、先日の「NHK俳壇」というテレビ番組で行われた視聴者の俳句に対する添削は・・

    原句  青蛙涼しき目元アイライン

 講師は、この俳句は「3段切れ」と言って、575がばらばらで調べが悪い。そこを直したほうがよいと、次のように添削した。

    添削後 青蛙目元涼しきアイライン

 このように一字一句を問題にした添削が、現代俳句では可能だろうか?次に手許にある現代俳句雑誌からランダムに引用してみる。

    あまねくは墨田区耳たぶのかたさ

    さきがけて咲きしへんぽん孤塁の旗

    すなあらし私の頭は無数の斜面

 平仮名を多用し、字余り字足らずをいとわないのが現代俳句の特徴かもしれない。上記の句を添削できる人はいるのだろうか?添削するも何も、それ以前に私には意味が解らない。

 こういう句なら、適当に気の利いた言葉をつなげれば、私でも出来てしまうような気がする。

 ピカソや山下洋輔のような前衛芸術家は、前衛ではない通常の絵画や音楽が、すでにものすごくうまい。彼らが(技術の要らない)前衛に挑戦することを許されたのは、彼らには前もって卓越した技能があったからだ。現代俳人たちは伝統俳句をとっくに卒業したのだろうか?彼らは伝統俳句程度なら、ものすごくうまいのだろうか?そのような話は聞いたことがない。

よく飛ぶボールが何故いけないのか?

2013-06-17 04:02:29 | スポーツ
 私はプロ野球に興味がないと先日書いた。だが、よく飛ぶボールを無断で採用したのはけしからんと騒ぎになっていることくらいは知っている。

 ホームランが出過ぎるようになったというが、それは野球場が狭いからで、野球場の大きさに合わせてボールを飛ばないようにするのは、本末転倒のような気がする。

 友人の素人ゴルファーに聞いた話だから間違っているかもしれないが、ゴルフボールは飛ぶように飛ぶようにと技術の粋が凝らされきた。ゴルフボールの表面に付いているポツポツの窪みは、よく飛ぶようにするためだそうだ。大昔のゴルフボールにはポツポツはなかったと友人は言う。

 友人によれば、ゴルフのルールは極めて単純で、出発点から穴に入れるまでの打数が少なくなることだけを競う競技だという。だから、ボールはなんでもよく、ゴルフクラブも何を使ってもかまわない。自分に有利だと思ったら、ホッケースティックを使っても打ち出の小づちみたいなものを使っても制限はないそうだ。

 今のようなボールやゴルフクラブセットに統一されてきたのは、それらが「打数が少なければよい」というルールに、もっとも有利だからだとのことだった。(友人は素人だから、本当は違うのかも知れないが。)

 これが本当だとすると、柄を胸に当てる方式のパターを禁止するのは、ゴルフルールの単純さに水を差すことになると思うのだが、どうか?