小学校とは勉強を習うというよりも、集団活動を学ぶところだと昔からよく言われるが、本当だろうか?離島の生徒が一人しかいないような分教場では、どうやって集団活動を教えるのだろうか?
私自身は集団活動は、ガキ大将を頂点とした子どもたちの縦の系列で学んだような気がする。小学校は、「前に倣え」で列はまっすぐ作れとか、「気を付け、休め」を掛け声通りにやれとか、行進は足を揃えろといったことを、軍隊式に習うような、私にとって堅苦しい場所だった。最近流行し始めたように言われるけれども、いじめだって実は当時からあった。
ガキ大将を中心としたグループは学年縦断型で、規律が緩く、ガキ大将は人望がある上級生が自然発生的に選ばれた。ガキ大将は原っぱでゲームをするときにも、幼い者、弱い者にはハンディをつけてやった。かけっこでは遅い子のスタート地点を少し前にさせた。ガキ大将は根本的に弱者にやさしかった。喧嘩が生じると裁判官的な役割を果たした。一目も二目もおかれたガキ大将の判定は、人情味があるもので、みな納得した。
三人寄れば一人が仲間外れになるとは、ずっと昔から言われていたではないか?小学校のように、地理的な区分だけで子どもを集めても、集団になれば争いは避けられない。教師が指導してそれらの対立を収めるのだが、教師はその権威においてガキ大将に及ばなかった。
私は大学受験に一度失敗して、予備校に通った経験があるが、予備校でいじめが発生することはなかった。目標は大学合格のただ一点だったから、目標を達成する以外の無駄な行動は一切生じなかった。だから、いじめなんていう受験に関係のない悠長なことをやっている暇は生徒にはなかった。
小学校は集団活動を学ばせようという下心があるから、かえっていじめが生じるのではるまいか?いじめは「ヒマ」の代名詞ではないか?ガキ大将なら、もっとうまく子どもたちを統率していくはずである。マス教育は本当はだめなんじゃないだろうか?学校集団は心理的に必然性がない(学区による)集団だから、いじめが発生するのではないか?
それにしても、ガキ大将という存在がなくなって、学年縦断的な子どもたちの系列がなくなってしまたのは何故だろうか?私の子どもたちの時代にはガキ大将という存在はすでになかった。ガキ大将は子供たちに一定の規律(掟)を教えていた。何故消えてしまったのだろうか?
私自身は集団活動は、ガキ大将を頂点とした子どもたちの縦の系列で学んだような気がする。小学校は、「前に倣え」で列はまっすぐ作れとか、「気を付け、休め」を掛け声通りにやれとか、行進は足を揃えろといったことを、軍隊式に習うような、私にとって堅苦しい場所だった。最近流行し始めたように言われるけれども、いじめだって実は当時からあった。
ガキ大将を中心としたグループは学年縦断型で、規律が緩く、ガキ大将は人望がある上級生が自然発生的に選ばれた。ガキ大将は原っぱでゲームをするときにも、幼い者、弱い者にはハンディをつけてやった。かけっこでは遅い子のスタート地点を少し前にさせた。ガキ大将は根本的に弱者にやさしかった。喧嘩が生じると裁判官的な役割を果たした。一目も二目もおかれたガキ大将の判定は、人情味があるもので、みな納得した。
三人寄れば一人が仲間外れになるとは、ずっと昔から言われていたではないか?小学校のように、地理的な区分だけで子どもを集めても、集団になれば争いは避けられない。教師が指導してそれらの対立を収めるのだが、教師はその権威においてガキ大将に及ばなかった。
私は大学受験に一度失敗して、予備校に通った経験があるが、予備校でいじめが発生することはなかった。目標は大学合格のただ一点だったから、目標を達成する以外の無駄な行動は一切生じなかった。だから、いじめなんていう受験に関係のない悠長なことをやっている暇は生徒にはなかった。
小学校は集団活動を学ばせようという下心があるから、かえっていじめが生じるのではるまいか?いじめは「ヒマ」の代名詞ではないか?ガキ大将なら、もっとうまく子どもたちを統率していくはずである。マス教育は本当はだめなんじゃないだろうか?学校集団は心理的に必然性がない(学区による)集団だから、いじめが発生するのではないか?
それにしても、ガキ大将という存在がなくなって、学年縦断的な子どもたちの系列がなくなってしまたのは何故だろうか?私の子どもたちの時代にはガキ大将という存在はすでになかった。ガキ大将は子供たちに一定の規律(掟)を教えていた。何故消えてしまったのだろうか?