院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

集団活動はガキ大将から学んだ

2013-01-31 23:58:08 | 教育
 小学校とは勉強を習うというよりも、集団活動を学ぶところだと昔からよく言われるが、本当だろうか?離島の生徒が一人しかいないような分教場では、どうやって集団活動を教えるのだろうか?

 私自身は集団活動は、ガキ大将を頂点とした子どもたちの縦の系列で学んだような気がする。小学校は、「前に倣え」で列はまっすぐ作れとか、「気を付け、休め」を掛け声通りにやれとか、行進は足を揃えろといったことを、軍隊式に習うような、私にとって堅苦しい場所だった。最近流行し始めたように言われるけれども、いじめだって実は当時からあった。

 ガキ大将を中心としたグループは学年縦断型で、規律が緩く、ガキ大将は人望がある上級生が自然発生的に選ばれた。ガキ大将は原っぱでゲームをするときにも、幼い者、弱い者にはハンディをつけてやった。かけっこでは遅い子のスタート地点を少し前にさせた。ガキ大将は根本的に弱者にやさしかった。喧嘩が生じると裁判官的な役割を果たした。一目も二目もおかれたガキ大将の判定は、人情味があるもので、みな納得した。

 三人寄れば一人が仲間外れになるとは、ずっと昔から言われていたではないか?小学校のように、地理的な区分だけで子どもを集めても、集団になれば争いは避けられない。教師が指導してそれらの対立を収めるのだが、教師はその権威においてガキ大将に及ばなかった。

 私は大学受験に一度失敗して、予備校に通った経験があるが、予備校でいじめが発生することはなかった。目標は大学合格のただ一点だったから、目標を達成する以外の無駄な行動は一切生じなかった。だから、いじめなんていう受験に関係のない悠長なことをやっている暇は生徒にはなかった。

 小学校は集団活動を学ばせようという下心があるから、かえっていじめが生じるのではるまいか?いじめは「ヒマ」の代名詞ではないか?ガキ大将なら、もっとうまく子どもたちを統率していくはずである。マス教育は本当はだめなんじゃないだろうか?学校集団は心理的に必然性がない(学区による)集団だから、いじめが発生するのではないか?

 それにしても、ガキ大将という存在がなくなって、学年縦断的な子どもたちの系列がなくなってしまたのは何故だろうか?私の子どもたちの時代にはガキ大将という存在はすでになかった。ガキ大将は子供たちに一定の規律(掟)を教えていた。何故消えてしまったのだろうか?

日本精神病理学会

2013-01-31 04:13:08 | 学術
 精神医学の中に「精神病理学」という分野がある。この学問は、精神病はなぜ起きるのか?幻覚や妄想の本体は何か?といったことを研究する学問である。

 精神現象やその異常が自然科学的に説明できないから、精神病理学という人文科学的な見地から説明しようというわけである。物理学や経済学が数学を援用するように、精神病理学はしばしば哲学を援用する。そのために、ときに精神病理学はきわめて難解となる。精神病理学が理解できる精神科医はむしろ少数派だろう。

 精神病理学者たちの一番の弱点は「その学問て、治療に役に立つの?」と問われたときに露呈する。じじつ、精神病理学は治療の役にはあまり立たない。

 しかし、私見では精神病理学は精神医学の基礎論だと思う。今すぐに役に立つものではない。ちょうど材料の研究に似ていて、その材料がどんな物品に応用されるか分からない。それでも材料は研究されている。精神病理学はこれと似たところがある。

 精神医学の鑑定書は、よく文学的だと批判されるが、自然科学的な説明ができない以上、文学的にならざると得ないのだ。鑑定書は一本スジが通っていなくてはならない。そのスジの背景をなすのが精神病理学で、きわめて精緻に組み立てられている。

 精神病理学はすぐに治療に役立たなくてもよいのではないか?

 日本精神病理学会という学会がある。私も学会が設立された時からこの学会に加入している。ところが10年前、この学会が「日本精神病理・精神療法学会」と名称を変更されてしまった。精神病理学が精神療法に役立つはずはないから、この名称変更は精神病理学者が「それ、何の役に立つの?」と問われ続け、苦し紛れに学会の名称を変更したのだと私は思った。精神病理学者はもっと誇りをもったらいいのにとも思った。

 ところが今年、「日本精神病理・精神療法学会」は、名称をもとの「日本精神病理学会」に戻した。学会の幹部たちも、「精神病理・精神療法学会」では、あまりに座りが悪いことにたまらなくなったのだろう。

 学問にはすぐに役に立たないものも多いのだ。役に立たない学問をかかえておられるということは、その国が豊かであることを示している。

紅白歌合戦での美輪明宏さん

2013-01-30 05:50:49 | 芸能
 美和明宏さんの「ヨイトマケの唄」がヒットしたのは私が中学生のときだった。この歌は大ヒットして、40万枚も売れた。当時の大人たちはみな本物のヨイトマケを知っていたはずである。私も幼少時にヨイトマケを見たことがある。私はヨイトマケを見た最後の世代である。

 しかし、この歌はあまりに道徳的なので、私の胸を打つことはなかった。でも、ヒットした。それはもしかすると、美和明宏さんがシスターボーイ(今でいうオカマタレント)という異形(いぎょう)の人であり、オカマが今よりもずっと差別され時代で、背徳の匂いさえするような麗人が道徳的、浪花節的な歌を歌うミスマッチが受けたのかもしれない。

 美和明宏さんは2012年のNHK紅白歌合戦に出演した。私も見たが、私が中学生の時にこの歌を聴いたのと同じ感想しかなかった。つまり感動しなかった。

 ところが、紅白での美和さんの歌唱は、驚くほどの反響を呼んだ。AKB48のメンバーは、すごいオーラだった、鳥肌がったとヨイトマケの唄を絶賛した。彼女らは、本物のヨイトマケを見たことがないから、かえってイメージが膨らんだのかもしれない。

 ネット上でも賞賛の嵐が吹き荒れた。ネットの発言者も若くて、本当のヨイトマケを知らないだろう。私は、意外なものが受けるのだなと、感心した。紅白のプロデューサーには受けることが分かっていたのだろう。だから出演させたのだ。やっぱりプロだなと思った。

 私が見た本物のヨイトマケは、歌のとおり「母ちゃんのためなら、えんやこーら」と言っていた。三本の木で組んだやぐらのてっぺんに滑車をつけ、7,8人が力を合わせて木の固まりを持ち上げては落とし、地ならしをしていた。ヨイトマケはすぐにロードローラーや地固め機の出現にによって駆逐された。幼稚園児の私は、面白いなと思っていつまでもその作業を見ていた。差別的な視点なぞまったくなかった。

働きたがる精神病患者さん

2013-01-29 07:03:53 | 文化
 働くのが無理な精神病の患者さんでも働きたがることが多い。無理なのに、現代労働の対人関係の中に自らを投げ込んで、無残にも敗北して、再入院となる患者さんをこれまでイヤというほど見てきた。

 そもそも働くということは本能に近いものなのだろうか?それとも、文化に規定されているのだろうか?

 評論家の小浜逸郎は、「一生食べるのに十分なほど蓄えがあっても、人間は働くだろう」と推察している。

 私は「働かないだろう。しかし、何らかのアクションは続けるだろう」と思う。

 古代ギリシャを見ると、市民階級は食べるための労働をしなかった。それは奴隷の役目で、自分たちは知的な(一文にもならない)活動に力を注いだ。

 石油だけで食べていけるサウジアラビア人も、生産的な労働はしないようだ。

 働くのがとても難しい患者さんが働きたがるのは、生産が人間の本能だからではなく、日本の働きカルチャーの中で人並みでありたい、ということだと思う。

 働きカルチャーを失ったサウジアラビアの患者さんは、日本の患者さんほど働くことを渇望しないと思うのだが、これは調査をすればすぐに分かることである。

テロリスト擁護はタブー?

2013-01-28 05:49:16 | マスコミ
 テレビである識者が「テロリストだけでテロが可能なわけではない。テロリストはピラミッッドの頂点であり、彼らを支える多くの民衆がいる」と述べたら、アナウンサーにさえ切られ、別の話題に変えられてしまった。

 テロリストを擁護するような意見を、マスコミは潰すようだ。自由な報道のように見えて、実は思想統一や報道規制が、現代でも行われているのだ。

早稲田大学モダンジャズグループ

2013-01-27 06:32:36 | 音楽
 高校生のころラジオで大学対抗バンド合戦という番組があった。学生バンドの対抗戦で、いろんな大学のジャズバンドが出演していた。うまいバンドとそうでもないバンドがあった。

 私がこの放送に聞き耳を立てていたのは、むろん内容が面白いこともあったが、それよりも自分が受験勉強から解放されたら、大学で思う存分バンド活動ができると、自分を鼓舞する意味もあった。

 私は早稲田大学モダンジャズグループという、極めて特徴のない名称のバンドに惹かれた。アドリブも選曲も構成も他よりも格段に洒落ていたからだ。

 あるとき、早稲田大学モダンジャズグループの部室を訪問した。8畳ほどの狭い部屋で、楽器が雑然と置かれており、一人の学生が黙々とウッドベースの練習をしていた。聞くと、部屋が狭いばかりではなく、ハワイアンバンドと一日交替で使用しているとのことだった。

 高校生に対して学生は好意的だった。来年もし受かったらモダンジャズグループに入れてくださいと私は申し出た。むろん学生は快諾した。しかし、私は名古屋の医学部に行ってしまい、医学部がない早稲田に入ることはなかった。

 早稲田大学モダンジャズグループから、プロが生まれたという例はなかった。

 名古屋には愛知学院大学のスウィンギングオールスターズというビッグバンドと、南山大学のジャズバンドが有名だった。それらのバンドにドラムがすばらしく上手なN君がいた。N君とは面識をもてなかったが、あまりにうまいので、こちらが一方的に知っていた。

 N君はふつうの就職をせず、名古屋の有名なライブハウスの専属プレイヤーになった。私は何回か足を運んだ。N君の演奏は確かにうまいのだが、ブラインドで聴いてすぐにN君の演奏だと分かるような特徴はなかった。

 それから10年ほどたって、私には子供ができた。子供を連れてライブハウスに行った。N君はまだ演奏していた。1年ほど間を置いて、ふたたび子供とライブハウスに行ったときにはN君はいなかった。その後、何度行ってもN君はいなかった。N君が東京の有名バンドに移籍したという情報はなかった。

 以来30年、私は未だにN君の消息を知らない。

ものの値段

2013-01-26 03:00:42 | 経済
 ゴッホのひまわりが4億円とか、ピカソの何たらが10億円とか、私にはその値段のつけ方が分からない。美的価値だけではないと思う。歴史的価値とか記念碑的価値が含まれていなければ、わずか一枚の絵にそんな法外な値段は付かないだろう。

 ものの値段には私が理解できないつけ方が他にもある。焼き物の備前焼の値段がそうだ。ある陶芸家から聞いた話だが、備前焼は陶器としての価値より作者名が優先するのだという。作者名でものを買うということがあるのだろうか、とも思うが、昔の有名野球選手のサインが何十万円もする。サインに美的価値なぞないから、これは純粋に名前に付けられた値段だろう。

 ビートルズのサインはとりわけ人気があって、値段が高いという。人気があるとは、それだけ欲しい人がいるということだ。

 ここで、昔論じたオークションの考え方が出てくる。欲しい人がいれば、それだけ値段が高くなるという論理だ。

 でも、世の中のほとんどの物品はオークションに馴染まない。食物がそうだ。食物をオークションで売り買いはしない。一方で、ある野菜が不作だと、その野菜が値上がりすという。どういうメカニズムで値上がりするのか私は知りたい。

 また、穀物相場というものがある。これはどういう論理で値段が決まるのだろうか?

 以上のような素朴な疑問に明瞭に答えてくれた人は、まだいない。医者は医学のことしか知らない。ものの値段の決まり方は誰が知っているのだろうか?どういう人に尋ねれば私の疑問を氷解させてくれるのだろうか?

凝りすぎてつまらない脚本

2013-01-25 05:21:24 | 芸能
 2011-07-17 のこの欄の記事で、2012年はモデル・女優の武井咲さんの年になって、武井咲さんは大ブレークするだろうと予想した。そのとおり、2012年には武井咲さんはドラマ「Wの悲劇」「東京全力少女」と2本のテレビドラマに主演し、NHKの大河ドラマ「平清盛」にも出演した。

 好演だったと思うが、上記のドラマは3本とも面白くなく、途中で見るのをやめてしまった。視聴率はいずれも2ケタに達しなかった。だが、これは武井咲さんのせいではない。そもそも脚本が面白くなかったのだ。

 いずれの脚本も凝りすぎてかえって失敗している。テレビドラマなんて慰みに見るものだから、ストーリーを複雑にする必要はないのだ。水戸黄門がワンパターンで成功していたことに倣えばよかったのだ。脚本家の妙な野心を感じた。

 米倉涼子さんの「ドクターX」は、むちゃくちゃな設定で、手術もありえないようなものだったが、面白くて最後まで見てしまった。じっさい視聴率も2ケタで成功した。テレビドラマはそれでよいのだ。

 2013年は剛力彩芽さんの年だそうだ。剛力さんは国民的美少女コンテストの予選で落ちたそうだが、スカウトされて芸能界に入った。武井咲さんも米倉涼子さんも、国民的美少女コンテストで何かの賞を取っている。

 剛力さんは今「ビブリア古書堂事件手帳」というドラマに出ている。このドラマは今のところ、2ケタの視聴率を得ている。同名の小説をドラマ化したものだが、ドラマの2作目は1作目より面白くなかった。でも、助演にEXILEのAKIRAさんを起用したのは成功だと思う。

 小説の「ビブリア古書堂」はすでに漫画化されていた。その漫画を以前に読んだが、漫画化に成功していなかった。ドラマ化はどうか、今後に注目している。

ミスターキャンパス

2013-01-24 05:59:14 | ファッション
 ミスター慶応の候補者たちがテレビに出ていた。イケメンぞろいで、さぞモテるだろうと思った。

 私の学生時代は男子学生のコンテストどころか、女子学生のミスコンもなかった。そもそも女子が少なかった。のちにミスコンがどこかの大学で始まったが、一部の女子学生たちの反発があった。外見だけで評価するのは女性差別だという言い分だった。しかし、「ブスたちが怒っている」という陰の声に抗しきれず、沙汰やみとなった。

 韓国は学歴社会で、高学歴でないとモテないという。その傾向は徹底していて、キムタクは高卒だから韓国では相手にされず、逆にソウル大学出身のブサイク芸人のほうがモテるそうだ。(イケメンぞろいの韓国グループ「東方神起」の学歴はどうなのだろうか?高卒だったら日本だけでしか受けないはずだ。)

 ミスターキャンパスが普通に行われるようになると、ミスキャンパスは女性差別だという言い分は論拠を失う。いまどきの女子アナにはミスキャンパスの経験者がけっこういるらしい。

 ミスターキャンパスという制度こそなかったけれども、私の学生時代にもイケメンはいた。そして今のイケメンたちと同じく、女子に騒がれた。だったら昔のイケメンは手当たり次第に女子に手を出したかというと、そうではなかった。逆に女性恐怖症になった。

 今だから言えることだが、彼らイケメンたちの本命の彼女や結婚相手は地味だったり不美人だったりすることが多かった。美人でない女子たちはもっと希望をもってもよいと思う。

中卒の作家

2013-01-23 04:29:49 | 教育
 芥川賞作家の西村賢太さんは中卒である。でも、作品から感じられるインテリジェンスはそんじょそこらの高学歴者では及ばない。

 芥川賞作品はふつう面白くないので私は読まない。なぜか西村さんの作品は読んで、まあ面白かった。底辺労働者の生活が淡々と描かれていた。主人公の名前は作者と同じ賢太である。だから私小説といわれるのだろう。

 西村さんは「僕は中卒だから高学歴者が嫌いです」とはっきり言う。嘘でもないのだろう。西村さんは莫迦みたいなバラエティー番組にも出る。お金のために出ているのだろうと思うと、かえって面白い。

 西村さんはイケメンではない。右の目がしらにコブがあるから、なおさらだ。さぞかしモテなかっただろう。風俗に行こうと思っていたら芥川賞に選ばれたとの電話がかかってきたという。たまたま西村さんには才能があったからよいが、受賞もなにもなく老いていく底辺労働者は何万倍も多いのだろう。

 ほかに中卒の直木賞作家として出久根達郎さんがいる。彼は本の虫で、本が読みたいがために集団就職で古本屋に丁稚として入った。私は出久根さんの小説は全部読んだ。古本に関する該博な知識が興味をそそる。面白すぎる。

 だが最近、出久根さんは本を出さない。そのときのために、もともとの古本屋を廃業しなかったのだろう。

 前にも言ったが、私が好きな作家はやがて作品を出さなくなる。理由は分からない。

エベレスト第一主義を疑う

2013-01-22 05:00:32 | スポーツ
 「そこに山があるから登るんだ」という台詞はあまりにも有名である。

 エベレストに登る人たちも同じ気持ちで登るのだろうか?エベレストの登山道は今、捨てられた酸素ボンベやレトルト食品の容器などでゴミの山だという。

 最近も、高齢の女性登山家や、ツイッターで登山の様子を逐一流す青年がエベレストに挑戦している。彼らに限らず、エベレストをゴミの山にするほど多くの人たちが登頂を目指してきた。

 無粋かもしれないが、そんなに頂上に立ちたいならヘリコプターで頂上に降りればよいではないか。8000メートル以上のところまではヘリコプターが飛べないというのなら、ベースキャンプくらいまではヘリコプターを使ったらどうか?ベースキャンプに行くまでだってかなりの費用がかかるのでしょう?だったらヘリコプターのほうが安上がりではないですか?

 どうせチベットの町までは飛行機や車で行くんでしょう?そして酸素ボンベやレトルト食品など文明の利器を使うんでしょう?

 昔の富士山レーダーはヘリコプターで作られ取り壊された。だから、ヘリコプターは少なくとも4000メートルくらいまでは飛行できるはずである。ヒマラヤ越えをする渡り鳥もあるらしい。鳥が飛べるのだからヘリコプターも飛べるような感じがする。

 むろん、頂上に登るだけが目的なのではないという意見があることは承知している。じっさい、車ではなく自転車で世界一周をすることに価値が置かれることもある。

 しかし、話がエベレストになると、なんというか俗受けを狙っているような匂いが拭えないのだ。

 エベレスト登山の様子をライブでツイッターで流す青年にも、登山という泥臭い行為になぜインターネットという最新鋭のシステムを使うのかという疑念が残る。この疑念は、昔、登山に酸素ボンベを使用することが批判されたのと同類のことだろうか?

 ヒラリーやテムジンの時代ならいざ知らず、未だにエベレスト、エベレストと言っていることが私には解せないのである。

釣堀とパチンコ

2013-01-21 04:47:10 | レジャー
 昔、東京で釣堀ブームというのがあった。東京に住んでいたころだから、私が高校生まで(1968年まで)の出来事だった。

 空き地にテントを張ったり空き倉庫を借りたりして、板で囲って防水した20畳ほどの安手のプールがあちこちに造られた。そのプールに雷魚のような魚を放ち、客が30センチくらいの短い釣竿で放たれた魚を釣るのである。子どもだけでなく大人も夢中になった。

 私はプールの釣堀で遊ぶことはなかった。以前からプールではない普通の釣堀はあった。総武線の御茶ノ水駅から見えるところにも大きな釣堀があって、大人の客たちがそこそこ入っていた。今でもあの釣堀はあるだろうか?

 
 私は釣堀ブームのときも、それ以前も以後もほとんど釣堀で遊んだことはなかった。1、2回はあったかもしれない。しかし、まったく面白くなかった。なぜかというと、釣堀は海や川の釣りと違って、誰かが獲ってきた魚を釣らされるからである。何だか子どもが遊ばされているような感じがした。

 そんなことをするくらいなら、最初から獲ってきた人に頼んで魚を買えばよいではないか、という気持ちがあった。獲ってきた人がいったん釣堀に放した魚をまた釣るなんて、甲斐のない苦労である。

 話はパチンコに変わるが、学生時代にパチンコをよくやった時期があった。(私がいた名古屋はパチンコの発祥地である。)当時、自動玉打ち装置やスロットは、パチンコ台に付いていなかった。玉がよく出る台は打ち止めになるまでよく出た。出ない台は終始まったく出なかった。玉の軌道は釘の角度によってのみ制御されていたからである。

 よく出る台は、翌日に同じ台を目当てに客が集まると困るので、その日の晩のうちに「釘師」によって釘が締められた。だから、パチンコという遊戯は客と釘師の「勝負」のようなところがあった。

 パチンコがうまい人は、台の釘を見ただけで出る台か出ない台かの目利きができた。釘師は見破られないように釘を調整した。

 現在のパチンコ台にはスロットマシンが付いている。このスロットはコンピュータ制御されていて、絵を揃いやすくしたり揃いにくくしたりすることができる。だから、パチンコ屋は店の台全体をコンピュータで管理して、店全体として収益が必ず30%になるように調整することができる。そのため、釘師という職人は絶滅してしまった。

 パチンコ屋の儲けは30%と昔から決まっていたらしい。儲けが30%を超えると玉が出ないパチンコ屋として客が来なくなる。30%以下だと商売としてのうま味がない。

 パチンコがコンピュータ制御されるようになってから、私はパチンコをしなくなってしまった。相手がコンピュータでは、手に汗を握りようがないではないか。

 釣堀とパチンコは似ていないだろうか?私は似ていると思う。誰かに「遊ばされる」という意味において似ていると思うのだ。そりゃぁ娯楽産業はみな人を遊ばせて儲けている。音楽だって映画だって漫画だって、みな同じだ。

 しかし、音楽、映画、漫画その他類似のエンターテインメントは、作り手が命がけではないか?客に受けようと思ってしのぎを削っているではないか?

 それに比べると、釣堀やパチンコは安易な感じがする。なるほど、遊園地や動物園も遊ばせるためにできている。だが、それらは子どもが相手である。子どもが小さいうちは遊んでもらうのは仕方がない。しかし、釣堀やパチンコは大人が相手である。

 私は釣堀やパチンコ(スロット式)は、人を馬鹿にしていると感じる。だから、それらで遊んでいると、あたかも一人で遊園地のコーヒーカップに乗せられているような気分になるのだが、私の感じ方が異常なのだろうか?

園芸・家庭菜園

2013-01-20 06:31:15 | レジャー
 私の小学校に「園芸部」があった。むろん花壇で花を育てたりするクラブ活動なのだが、私は最初のうち「演芸部」だと思って、落語や漫才をやるクラブだと思っていた。

 植物を育てることは、小学校時に少しはやったが、のめりこむことはなかった。第一の理由は植物が育つ速度が遅すぎたからだ。毎日見ても少ししか育っていない。そのため、すぐに嫌になってしまった。子どものころは、一日がとても長かった。

 アサガオの観察という課題を与えられたときには少し熱中した。成績をつけられるというモチベーションがあったからだ。

 それ以来、植物とか園芸とはまったく無縁の暮らしをしてきた。アパート暮らしではプランター程度の園芸しかできない。30代で初めて名古屋の僻地に狭いながらも自分の一戸建てを買ったとき、6畳ほどの庭があった。庭があることが嬉しくて、そこで家庭菜園を始めてみた。(これは前々回にも述べた。)

 結果は惨憺たるものだった。大根、カボチャ、キュウリなどを植えたが、収穫は大根は虫にやられて全滅、カボチャはうらなりの実が一個、キュウリは5本くらい採れたか?八百屋で買ったほうがどれだけ安くておいしいことか。

 以来、再び引っ越してもう少し広い土地に住むようになったが、家庭菜園をやろうとは毛ほども思わない。やはり野菜は農家というプロには絶対にかなわないことを思い知っているからだ。

 私は凝り性で、いろんなことに凝ってきたし、今も凝っているが、園芸だけは駄目だった。だから、家庭菜園をこつこつとやっている人の気持ちが分からない。(私の血液型がA型だからだろうか?八百屋で買うよりおいしい野菜が山ほど採れるなら話は別だが。)

分類とは何か?

2013-01-19 05:18:46 | 科学
 昨日、性格の分類について書いたので、今日は分類という行為に対する私のスタンスについて述べよう。

 動物の分類はふつう脊椎動物と無脊椎動物に二分することから始まる。その下に「綱」だとか「目」だとかの細分類が行われる。

 だが、最初に脊椎動物と無脊椎動物を持ってくる必然性があるのだろうか?例えば、最初の分類を、目がある動物と目がない動物に分けても、同じように動物の詳細な分類が可能なのではないか?

 このような私の疑問に明快に答えてくれたのが、渡辺彗著『知るということ・認識学序説』(筑摩書房)である。渡辺の結論は「すべての分類は恣意的である」ということである。科学的な分類というものは存在しないと言い換えてもよい。

 渡辺は数理論理を用いて、白鳥と別の白鳥の類似度は、白鳥とアヒルの類似度に等しいことを証明した。だから、すべての分類は自分(分類者)に都合がよければそれでよいということになる。

 私の言葉でいえば、結核と赤痢を区別する「科学的な根拠はない」ということである。ただ、医学においては両者は効く抗生物質が違うので、両者を分けなくてはならない。要するに実用的な役に立つから、結核と赤痢は当面分けておいたほうがよいというわけだ。

 人類学の領域では、人種の分類は白人、黒人、黄色人種という分類がぎりぎりで、それ以上の分類は認められていないそうだ。

 疾病分類に話を戻すと、すべての疾病分類はプラグマティックな要請によるもので、それ以上の科学的根拠というものはない。アメリカ精神医学会が出したDSM(精神疾患の診断統計マニュアル)は、精神疾患が診断者によってあまりに診断が違ってくるのを防ごうとして編み出された。つまりDSMの目的は、診断者が違っても診断は同じになるようにしようということであって、結果として診断者たちにはきわめて評判が悪い分類法となった。(この分類を提唱した精神科医シュピツッアーは、DSMは誤りだったと最近、自己批判している。分類に誤りもくそもないのだが。)

 別の言い方をすれば、分類法は分類者の数だけあるということになる。渡辺の功績はそれを数理的に証明したことだ。渡辺の証明をなぜ私が理解できたかというと、高校時代にどんな参考書にも載っていない記号論理学(集合論、ブール代数、述語論理)を教えてもらったからだ。

 記号論理学を高校で教えたO先生は、「そんなもの入試に出ないではないか?」という生徒たちの雰囲気に抗して「必ず将来役に立つ」と一生懸命に教えた。

 おかげで、私は医者になってからJ・ピアジェの精神発達論が理解できた。ピアジェの論は、論理式で書けばすぐに理解できるのに、論理式を文章で説明するから何を言っているのか分からなくなる。

 「すべての分類は恣意的である」という主張が理解できたのも、O先生のおかげである。ただし、論理的には分類は恣意的なのだが、美人と不美人が画然と分類できるという動かしがたい事実があることも忘れてはならないだろう。

血液型性格論

2013-01-18 07:19:38 | 心理
 先輩が血液型がA型の人間は役に立つことしかしないと言っていた。先輩はA型で、趣味は釣りだが、食べられる魚しか釣らないという。ヘラブナ釣りのように食べるのが目的ではない釣りはA型の人間はしないそうだ。

 私はA型だが、私が凝った趣味を振り返ってみると、中学から写真に凝ったのは、美しい写真を撮りたいからではなく、自分で現像焼き付けをすると市価の10分の1以下でできたからだ。

 ワンチップマイコン(Z80などのLSI,1万円ほどだった)が売り出されたとき、自作のパソコン作りに凝ったのは、当時私が使用できるコンピュータは大学にある大型コンピュータだけで、1億円以上していたからだ。私は自宅で同じような性能をもつコンピュータが欲しくて、自作しただけだ。(当時は大型コンピュータもまだトランジスタの時代で、メモリが4Kバイトしかなかった。LSIだと4個で1Kバイトのメモリが売り出された。1個2500円だった。)

 坪庭がついた中古住宅を買ったときには、坪庭に花壇を造ることはせず、野菜を植えた。花は食べられないからである。(もっとも、ほとんど収穫できずに1年で辞めてしまった。)
 

 血液型性格論を俗論だと嫌う向きが多いけれども、有名なクレッチマーの性格分類よりはましである。クレッチマーは体型をでっぷり型、痩せ型、闘士型に分け、それぞれを循環気質、スキゾ気質、てんかん気質に対応させた。しかし、体型も気質も必ず中間のタイプが存在するするし、分け方が主観的である。

 それに比べると血液型性格論は、少なくとも血液型のほうは科学的、一意的に決定できる。この点だけでも、クレッチマーの性格分類よりよほど優れているとは思われないだろうか?