院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

懐かしのソノシート

2014-09-30 00:33:54 | 音楽


 ソノシートと聞いてなんのことかお分かりになる方は、けっこうご年配です。ソノシートとは、LPレコードが高価だったころ、LPにまで録音するにはどうか?という音源を録音してLPの10分の1ほどの価格で売り出されていた、ぴらぴらの樹脂にレコード溝を彫った製品です。

 上の写真はソノシートが2,3枚挟まれていた「ジャケット」というか「冊子」です。表紙に曲目、中の紙に録音されている曲や演奏者の解説が書いてあります。

 私は中学2年生のころからレコードを聴くようになりました。クラシックとか当時流行ったポール・アンカとかリトル・ペギー・マーチのレコードです。(この歌手たちを知っているだけでも齢が分かりますが。)

 明治20年台生まれの祖母が、孫がレコードなるものを好きらしいと内容はともかく、何も分からずに「レコード状のもの」を買ってきてくれたのが上の3冊です。

 録音されていたのは和製ジャズでした。「スターダスト」、「ムーングロウ」、「枯葉」といった現在でも名曲として残っているスタンダードが入っており、中学生の私は夢中になりました。

 そこから私のモダンジャズ遍歴が始まったのでした。(その後の「遍歴」は 2006-07-30 にあります。「まんぼう」のマスターは2年前に亡くなりました。)

 ところで、写真の3冊は一昨日のネガフィルムと同時に書庫から出てきたものです。よほど大事にしていたのでしょう。私は東京を離れるにあたって、これらも行李に入れたようです。

 東京を離れてから3年後に祖母は亡くなりました。

甘やかされて育つとロクな人間にならないでしょうか?

2014-09-29 05:29:27 | 教育
  (草思社刊。)

 以前、大女優の息子が女優の邸宅のガレージで大麻パーティーを開いて捕まり、ドラ息子の典型とされました。こうした極端なケースがあるから、表題の「甘やかされて育つとロクな人間にならない」というテーゼが真実味を帯びるのでしょう。

 欲しいものを何でも与えられて育った人間が、私の周囲に何人かいますが、彼らは長じてから人並み以上にマトモな人間になりました。人格も穏やかです。

 また逆に、欲しいものを一切与えられず、本人が苦労して努力を重ねてやっと育った人間には、どこかギラギラとした出世欲や猜疑心があります。どうも人間は苦労すればよいとは限らないようです。

 どちらの育て方が正しいのか結論を求めるには、今のところ統計学的な手法しかありません。まず、「甘やかす」とはどういうことかの定義から始まります。次に「ロクな人間」とはどのようなものなのかを明らかにしなくてはなりません。

 そんなことをしていては物事の本質を逃してしまうという意見があるでしょう。それはその通りです。ですが「甘やかされて育つとロクな人間にならない」と一方的に断言することも、統計学的な手法と同じく、本質を逃しているのです。

(だから上掲のような本は批判的(科学的)な視点で読まないと、情緒的にごまかされる可能性があります。「ひ弱」とか「フワフワ」がどうとでも解釈できる用語だからです。)


※今日、気にとまった短歌

  僕たちの未来のようにのっぺりと裏が白紙の求人チラシ  (碧南市)磯貝達也

子ども用カメラ「フジペット」

2014-09-28 00:35:50 | 生活

(フジペット。アローカメラのブログより引用。)

 豊橋の自宅の書庫を整理していたら、古いネガフィルムが出てきました。66版と呼ばれていた6cm×6cmの白黒のネガです。焼き付けをしてみました。

 なんと写っているのは、私が小学校の時の遠足の写真でした。小野君と長谷川君と野口先生の姿が見えました。小学校5年生ころの写真と思われます。小学校を卒業して以来、小野君にも長谷川君にも会っていません。(野口先生とは高校生の時に会ったのが最後でした。いまでもご健在かどうか知りません。)

 この写真は私が写したのです。上掲のフジペットという固定焦点の(ピントを合わせる必要がない)子ども用のカメラです。構造は現在の使い捨てカメラと同じです。

 映像が懐かしいという以上に、私はこのネガが50年近くも私にくっついて移動してきたことに驚きました。東京から名古屋の大学に進学したときに、すでにこのネガは私の行李の奥に入っていたはずです。それに気づかぬまま、名古屋から浜松、また名古屋、そして現在の豊橋まで、市内での引っ越しも含めると計7回の転居に耐えて、今やっと再発見されたのでした。

 私が名古屋に行くときに、なぜこのネガを持ちだしたのか、まったく覚えがありません。そのころ新幹線ができたばかりでした。そのとき「名古屋まで新幹線で3時間だから、すぐだよね。まあいいよね」と母が自分に言い聞かせるように言ったのを覚えています。母は今でも東京の同じ家に住んでいます。

マニュアル主義批判

2014-09-27 22:49:10 | 文化

東京消防庁のHPより引用。)

  医療事故や災害などで不手際があったとき、それを糾弾する言葉として「マニュアルさえ用意されていなかった」という言い方があります。私は常々、この言葉に違和感をいだいてきました。

  いろんな想定外の事象が起こりうる仕事に必要なのはマニュアルではなくて、心得、手引き、ガイドラインの類でしょう。上の「消防のマニュアル」はわずか8ページしかありません。やはり上の冊子は「心得」くらいにとどめておいたほうがよいでしょう。

マニュアル主義がもっとも力を発揮するのは、コンピュータやスペースシャトルの製造や保守のような機械技術においてです。これらの分野は、まったくマニュアルどおりにやらないと機械が動きません。そして、大勢の人の分担作業になりますから、細部まで統一されている必要があります。

 医療の世界では、「マニュアルさえ用意されていなかった」という批判を免れるためだけに、およそ実行不可能な文書が用意されています。臨床現場では、こうした文書はまったく役に立ちません。現場は想定外の連続なのですから、機械の製造や修理をイメージしたマニュアルを作れと言われても困るのです。

  きのうに引き続いて狩猟採集民族を考えると、彼らは足跡、物音、匂いなどを五感を総動員して感知し獲物を仕留めます。その感覚の鋭さは先進国人には理解不能だといわれています。こうした「技」はマニュアル化できません。「技」は親から子へ、年長者から年少者へと引き継がれますが、実地による継承しかできず、文字にして残してもナンセンスです。

 農耕文化の場合は、どのくらいの広さの畑にはどれだけの種が必要で、それをいつ植えて、いつ収穫するかといった計画性が必要です。マニュアルとは優れて農耕民族的な産物だとは言えないでしょうか?

 医者の技術に限らずどんな技術も、言語化(マニュアル化)できる部分と絶対にできない部分とがあります。たとえば自転車の乗り方を教えるのに、どんなに文書や図解や動画を駆使しても、それだけでは不可能であると言えばご理解いただけるでしょうか?


人間に向いた仕事なんてない!

2014-09-26 00:02:39 | 歴史

ニュートピアのHPより引用。)


 新入社員で「この仕事は自分に向いていない」と3か月以内に退社してしまう若者が多いそうです。ここで、私は「自分に向いている仕事なんて元来ない!」と主張しますが、だからと言って「辛抱が足りない!」と言いたいわけではありません。

 そうではなくて次のように言いたいのです。「現代社会において、人間に向いている仕事なんてない!」と。

 人類は7万年くらいは狩猟採集で生活をしていました。約5千年前から農業を始めたのがいけないのです。(ここからは昔からの私の読者には自明のことですので、読み飛ばしてください。)

 移動しながら動物や植物を採って食べる、というのが元来の人間の働き方でした。ところが農業が始まってから人間は定住を余儀なくされ、半年先の秋の実りを想像しながら春に種をまくという、たいへんな抽象労働を行うようになりました。抽象労働はもともと人間には向いていないのです。

 さらに近代以降、機械文明が発達して、やり投げや小川を跳んで跨ぐことが上手な人よりも、言葉で他人を操る人のほうが価値があるという奇形的な世界が現出しました。

 このような現代の労働に向いていない人のほうが健康だと私は思います。仕事の構造が極端に抽象的になって、人間世界の全員が仕事の局所しか取り扱わないようになりました。本来は獲物を獲って捌いて料理するまで、すべてが見通せたのです。これらが見通せない仕事なんて、人間には耐えがたいものです。

 適者生存の法則で、耐えがたい世界でも生きていける人間が生き残ったのではないでしょうか?しかし生き残った人間でも、わずかに残されている原始の心は「いやだいやだ」とわめいているように思えてならないのです。

美玲ちゃん殺害事件に寄せて--3.11直前の幼女殺害事件の記憶

2014-09-25 00:00:28 | 社会

(長田署のツイートより引用。)

 美玲ちゃん殺害事件は卑劣で痛ましい事件ですが、今日述べることは美玲ちゃん殺害事件そのものではなく、いわゆる3・11の東日本大震災の直前に起きた幼女殺害事件のことです。

 幼い女の子が殺害された点では今回とまったく同じで、連日報道されていたのですが、3・11の大災害によってふっとんでしまった事件です。ふっとんでしまったために覚えておられる方はいないと思われますのでここに記します。

 2011年3月初め、スーパーマーケットのトイレから、母親が目を離したすきに女の子が一人いなくなりました。事件を短く言うと、ある男がリュックサックに女の子を詰め込んで自転車で運び、最終的に下水が川に注ぐ地点で女の子の遺体が発見されたというものです。

 いま流行の防犯カメラに、男がリュックサックをしょって自転車で走っている映像が捉えられており、犯人も逮捕されました。美玲ちゃん殺害事件と同じ許しがたい犯行ですが、3・11以後、パタリと報道がなくなり、いまだに報道されません。

 たぶん犯人は精神鑑定によって心神喪失とされ、責任能力なしとして無罪になったのだと私は推測しています。私はリュックサックを用意するなど計画的な犯行とみていたので、責任能力なしとは考えていませんでした。

 ふつう心神喪失による事件には計画性がありません。(このブログの金山駅老女刺殺事件(2011-03-25)をご参照ください。)

 美玲ちゃん殺害事件の容疑者は知的障害者の手帳をもっていたと報道されました。その点は今回、どのように評価されるでしょうか?

 弁護士は犯人の刑罰を軽くさせるのが仕事ですが、精神鑑定を濫用し過ぎているように感じられます。人殺しは全員アタマがおかしいという見方もできますが、それでは殺人者全員に精神鑑定が必要になってしまいます。

 ここで強調しておきたいのは、多くの弁護士は精神医学を知らなさ過ぎるということです。いや、弁護士だけでなく検事も裁判官も、法曹にはみんな最低限の精神医学を勉強していただきたい。そうしないと、精神科医に軽くあしらわれてしまうでしょう。

八幡洋氏のハーマン批判

2014-09-24 00:42:36 | 心理
   (みすず書房刊。)

 上の本の原書が出版されて、著者のジュディス・ハーマンという女性心理学者は時代の寵児になりました。硬い本なのにペーパーバックになり、版を重ねました。ハーマンは全米で講演旅行をおこなったりしました。

 ものすごく大雑把に何が書いてあるかというと、「現在の神経症症状はPTSDで、幼少時のつらい体験(トラウマ)が抑圧されて意識に登ってこないからである。だから、幼少時のトラウマを思い出して言語化できれば、PTSDは治癒する」ということです。

 こうした考え方はハーマンが初めてではなく、すでにフロイトが言っていたことです。フロイトの「抑圧」という概念は、現在批判にさらされていますが、全生活史健忘(いわゆる記憶喪失症)という病をうまく説明することができます。

 ハーマンがフロイトと違うところは、「思い出させ療法」を全米に広めたことです。その療法のおかげで、(これまで忘れていたが)自分は幼い時に父親からレイプされたと、裁判所に訴える中年婦人が万単位で出現したのです。すでに高齢になっている父親たちはびっくりしました。

 きのう紹介した八幡洋氏の「怪しいPTSD」は、ハーマンを徹底的に批判しています。その後、ハーマンや「思い出させ療法」がどうなったか、父親を裁判所に訴えた婦人たちがどうなったか、ここで言うのはやめておきましょう。「怪しいPTSD」に詳述されています。
 

PTSDに「潜伏期」があるのはなぜでしょうか?

2014-09-23 00:13:32 | 心理
  (中公文庫。アマゾンで目次と「はじめに」が読めます。)

 東日本大震災いわゆる3・11が起こったとき、ある有名なタレント女医が「PTSD(心的外傷後ストレス障害)が1か月以上たったら起こってくるかもしれない」と発言していたので、私は「困ったな、これではPTSDに罹るように暗示をかけているようなものではないか」と思いました。(PTSDは、トラウマの受傷から症状が出るまで1~2か月の「潜伏期」があるといわれています。)

 少ししてある男性医師が「PTSDはレイプで罹りやすく、自然災害では起こりにくい」と発言したからか、幸いに3・11とPTSDを関連付ける「運動」は起こりませんでした。

 私見ではPTSDはレイプでも起こりにくいのです。レイプで起こるのは、旧来からある急性ストレス反応にすぎません。したがって「潜伏期」もありません。あくまでも私見ですが、PTSDはベトナム戦争帰還兵に限られた特有の病態だと狭く理解しておいた方がよいと思います。その意味では、上の男性医師の発言もPTSDの拡大解釈の一例と言えるでしょう。

 かつてベトナム戦争を苛烈に戦って帰還した兵士がアメリカに帰国してから、廃人のように何もできなくなってしまうことが多発しました。アメリカ政府は彼らを救済しなくてはならない。そこで「発明」されたのが「PTSD」という病名です。病気であれば、帰還兵の現状をアメリカ政府として(年金などを支給して)救済することができます。

 PTSDはベトナム戦争に特有で、過去の他の戦争では発生していません。ベトナム戦争が他の戦争と違うところは、帰還兵が英雄として国民から歓呼をもって迎えられなかったことです。戦争中にアメリカでは反戦運動が起こっており、帰還兵を英雄どころか殺人者として迎える人もいました。

 私は帰還兵にはこれが応えたのだと思います。祖国に戻ってから、帰還兵は「自分は死線をさまよう激しい戦いをしてきたのに、自分はどうも殺人者としか思われていなしらしい」と気づき絶望しました。その絶望がPTSDの病像を呈したのではないでしょうか?母国での周囲の様子によって自分たちは見捨てられたと気づくまで、帰還から1か月以上を要したのたと私は思います。これがPTSDに「潜伏期」があるように見える主な要因ではないでしょうか?

 政府はPTSDという「病名」を作って、アメリカ精神医学協会の診断治療マニュアル(DSM第3版)に掲載させることに成功しました。つまり、PTSDは元来政治がらみの「病名」だったのですね。(DSMには原因は問わず現在の病像だけに注目するという有文律があります。ところがPTSDだけは原因を診断に必須としたので、大いなる自己矛盾を起こすことになりました。)

 こうしてDSM第3版のPTSDは一人歩きを始め、世界中で拡大解釈されるようになりました。

 そうなっては大変だという思いから書かれた本が上の本です。でも、その意図に反して、現在、精神科医でさえ安易にPTSDという診断名を使用します。この本は軽快な筆致で読みやすく、PTSD関連の本としては一押しの書物です。八幡洋氏の著作はみな読みやすく、本質をついているのでお薦めです。

「なまはげ」は地元の子どもたちのトラウマにはならないでしょうか?

2014-09-22 00:03:42 | 心理

秋田のがんばる農山漁村応援サイトより引用。)

 テレビなどで見ると、子どもたちは「なまはげ」に怯えきっています。あれはトラウマにはならないのでしょうか?

 たぶん、ならないでしょう。「なまはげ」は、地元のすべての幼児が経験するからです。昨日述べた、ある出来事を体験したマジョリティーには、それはトラウマとはならないとする仮説によれば、そういうことになります。

 「なまはげ」を演じる青年たちも、幼いころ「なまはげ」に脅かされました。その経験は青年たちにとって「艱難なんじを珠にす」というよい方向に働いたのだと思われます。青年たちにとってトラウマとなっていれば、この行事は続いていないはずです。

 逆に言えば、「なまはげ」を経験した幼児が少数なら(すなわちマイノリティーなら)、「なまはげ」はトラウマになるでしょう。


※今日、気にとまった短歌

  夏すぎて秋になる時こんなにもすとんとなるか虫達が鳴く  (瀬戸市)村瀬登美子

トラウマとは相対的なものではないでしょうか?

2014-09-21 05:08:23 | 心理
 2014-03-18 に「艱難なんじを珠にす」などの箴言を引いて、トラウマ概念の恣意性を批判しました。

 それでは、「艱難」が有益なものとして人間を成長させたり、逆にトラウマとなってその人をさいなむという2面性はなぜあるのでしょうか?ひとつの仮説ですが、ある「事象」が同じ文化圏での多数者(マジョリティー)に生じたら有益で、少数者(マイノリティー)に生じたら害になるとは言えないでしょうか?

 たとえば、むかしある部族が行っていた女の子の割礼という野蛮な行為はどうでしょうか?割礼を施される女の子が少数派だったら(割礼を受けた女の子にとって)割礼は必ずトラウマになるでしょう。しかし逆に、割礼をされなかった女の子のほうが希少だったら(つまり大多数が割礼を施されたら)、今度はされなかったほうがトラウマになるのではないでしょうか?(その文化圏内部に限っての話ですが・・。)

 上の例は適切ではないかもしれません。ここで私が言いたいことを理解されたかたは、もっと適切な例を考えてみてください。

洋菓子との出会い(4)(無塩バター)

2014-09-20 00:09:49 | 食べ物
(三省堂刊。)

 洋菓子にはバターをよく使います。前述のレシピ本には、「バター」のところが何故かわざわざ「無塩バター」と書いてありました。そこで自宅のバターを見てみると、随所に「有塩」と記してあるのです。ふつうにバターを買いに行くと「有塩バター」を渡されることが分かりました。

 思うに当時の日本では、バターはトーストに塗るしか用途がなかったのでしょう。だから、あらかじめ塩が入れてあったのだと思われます。クッキー作りにはバターをふんだんに使いますから、先述の手作りクッキーのお母さんは、無塩バターが手に入る店を知っていたのでしょうね。

 東京だけの現象かもしれませんが、昭和30年代からパン食が飛躍的に普及しました。それまでは、朝食はご飯にみそ汁と決まっていました。

 当時の俳句に次のようなものがあります。

    朝刊とパンとコーヒー風五月  浅野右橘

 この俳句はいま見ると当たり前ですが、昭和30年代にはかなりセレブに感じられたことでしょう。作者の故浅野右橘氏は私の俳句の師で、この俳句は写真の稲畑汀子編「ホトトギス新歳時記」の「五月」の項に載っています。

 コーヒーは、最初はマックスウェルのインスタントコーヒーから、家庭に普及していったと記憶しています。インスタントとは言え、ちょっとハイカラな飲み物でした。現在のようにコーヒー豆から挽くなぞということは、庶民には想像もつかない時代でした。(喫茶店はプロですから、当時から豆を挽いていました。本当かどうか、その搾りかすを牛乳会社が回収して、コーヒー牛乳の原料にしていたと聞いたことがあります。)

洋菓子との出会い(3)b(クッキー)

2014-09-19 00:02:25 | 食べ物

(お菓子の城。MAPPLE 観光ガイドより引用。)

 名古屋から車で1時間くらいでしょうか、国宝・犬山城で有名な犬山市に「博物館明治村」があります。広大な敷地に明治時代の郵便局や工場、夏目漱石の居宅など移築建築が沢山展示されています。明治時代の「陸蒸気」も走っています。たいへん優れた屋外博物館だと思います。

 子どもたちが幼いころ、何度も「明治村」に行きました。近くに「モンキーパーク」という京大霊長類研究所の関連施設や、「リトルワールド」という民間経営による世界の建築博物館があって、一度に2か所回ることもありました。

 「明治村」と名古屋の中間くらいのところに、写真の「お菓子の城」があります。ここにも数回寄ったことがあります。砂糖菓子でできた精巧な家の模型や花などが展示されています。運営はタマゴボーロの竹田製菓によります。当時はここでタマゴボーロ製造プラントが一基稼働していました。

 ここでは子どもがクッキー作りを体験できました。生地は既にできたものを渡されるので、まあ粘土細工のようなものです。うちの子どもたちが小学校に上がるか上がらないかの年頃に、ここでクッキー作りを体験しました。前述の手作りクッキーのお母さんは、それよりさらに30年以上前、東京タワーが建設中のころにこれをやっていたのだなと感慨深いものがありました。

 すでに3児の母親となっている娘は「お菓子の城は夢の世界だった」と述懐しています。

洋菓子との出会い(3)a(クッキー)

2014-09-18 05:26:02 | 食べ物

(泉屋のクッキーの詰合せ。amazon より引用。)

 私が幼いころはクッキーといえば泉屋の缶入りと決まっていました。それは豪華だから自ら買うものではなく、よそ様からいただくものでした。

 小学校3年生のころ、どうしてだっだか同級生の女の子の家に遊びに行きました。そこのお母さんがおやつにクッキーを出してくれました。それは泉屋のクッキーではなく、そのお母さんの手作りでした。

 クッキーは泉屋で買ってくるものとこころえていた私はドギモを抜かれました。それが泉屋のクッキーと同等においしいのです。いまでは珍しくない「手作りクッキー」ですが、当時の私には「ありえない」ことでした。

 寝る部屋と食事をする部屋は別にしようと、政府は「寝食分離」を訴えていました。女の子の家は東京の目黒区にあった2DKの国家公務員宿舎でしたが、いちおう寝食分離がなされていました。私の家はふとんを畳んだ部屋にちゃぶ台を出して食事をしていましたから、寝食分離が達成されていませんでした。

 女の子の父親は高級官僚で、やがて一家でイギリスに行ってしまいました。私が行ったことがある一番遠くは熱海でしたから、外国とはどんなところかと思いを馳せました。

 私はその女の子に好意を抱いていたわけではありません。ですから、どういう事情で遊びに行ったのか、皆目思い出せないのです。女の子の名前も・・。

洋菓子との出会い(2)(カスタードクリーム)

2014-09-17 00:04:06 | 食べ物

銀座コージーコーナーのHPより引用。)

 菓子パンにクリームパンというのが昔からあります。いまでも昔と同じグローブのような形です。

 昔のクリームパンに入っていたクリームは、黄色い糊を甘くしたような感じでした。現在のクリームは、もっとカスタードっぽくなっています。それでも、シュークリームに入っているカスタードとは違います。

 きのう述べたレシピ本にカスタードクリームの作り方が載っていました。で、中学生の私は作ってみました。うまくいかないのです。小麦粉が固まってダマになってしまいます。洋菓子店「モンブラン」のカスタードクリームのように滑らかにならないのです。これは技術だと、こればかりは素人にはマネできないと思いました。

 大阪のたこ焼きは、外はカリカリでも中味はとろーっとしていて、しかも中味はナマではありません。他の地方のたこ焼きは中まで固まっており、丁度お好み焼きを丸くしただけの感じです。 小麦粉が違うわけではなく、技術が違うのでしょう。

 カスタードクリームにもたこ焼きにも技術が必要だと、むかしから思っています。だから旅館で、パラフィンで客が煮たり焼いたりする料理が出ると腹が立つのです。素人では煮たり焼いたりが満足にできないからこそ、料理人が存在するのではないでしょうか?(2013-07-13 参照。)


※今日、気にとまった短歌

  自らを飾るも隠すもまだ知らぬ幼(おさな)が歌う「ありのままに」と  (春日井市)山崎美帆


洋菓子との出会い(1)(ショートケーキ)

2014-09-16 05:23:27 | 食べ物

クックパッドより引用。)

 「三丁目の夕日」の時代、すなわち東京タワーはできたが新幹線や東京オリンピックはまだの時代、私は東京にいて中学生でした。

 食生活が劇的に改善しました。それまで塩じゃけがおかずでしたが、そのころハムカツが発明されました。ウスターソースをたっぷりかけて食べて、ちょっと贅沢な気分になりました。(少し高価ながらハム自体はそれまでにもありましたが、それをフライにしたのが画期的だったのです。)

 お菓子は煎餅、団子、饅頭だったのが、まれに洋菓子に接するようになりました。それまでも、自由が丘の「モンブラン」など有名洋菓子店はあったのですが、高価で手が出せませんでした。

 なぜかうちに洋菓子のレシピ本がありました。パティシエが書いた本格的なものです。私はレシピに従って洋菓子を作ってみました。何かの懸賞に当たって、使われていないガスオーブンがうちにありました。(当時は「天火(てんぴ)」と言いました。)

 私はショートケーキの制作に成功しました。そのときにもっとも嬉しかったことは、費用が店で買う値段の10分の1以下ですんだことです。これで洋菓子が高嶺の花ではなくなりました。西洋モノが一気に身近になったわけです。

 材料は小麦粉、玉子、砂糖、果物、生クリームだけです。生クリームは牛乳屋に頼んで取り寄せてもらいました。それは牛乳瓶に入って届けられました。値段は牛乳3本分くらいでしたから、さほど高い感じはしませんでした。(現在スーパーに売っているパック入りの生クリームは植物性で生クリームとは言えません。動物性はもっとおいしく、香り高いものです。)

 蒸しパンには膨らし粉を入れるのですが、ケーキのスポンジには膨らし粉を使いません。卵白を泡立てて、それを生地に混ぜて膨らませるのです。レシピ本には「卵白を泡立てたもの」と書いてあり「メレンゲ」という用語はまだ使用されていませんでした。

 レシピ本にはフランス語をカタカナでそのまま書いてあるので困りました。シュークリームはシュー・ア・ラ・クレームとありました。最初、意味が分かりませんでした。ブラマンジュというお菓子は、氷菓らしいとは分かったのですが、未だに実物を知りません。ガトー・ショコラとはチョコレートのお菓子らしい、という具合です。いくらレシピ本に書いてあっても、食べたことがなければイメージできないし、ましてや作れないと痛感しました。

 生クリームはすぐに手に入ったのですが、レシピ本に出てくるシナモン、ニクズク、月桂樹の葉などは、そもそもどこに売っているのか分からず、手に入りませんでした。だから、それらの香料がどのようなものかが分かったのは、つい最近のことです。

 スポンジを焼くのに、レシピ本には130℃で30分とありました。当時のオーブンの温度管理は手動でしたから、取り付けてある温度計を見ながら必死にガスの火力を調節しました。

 他にもいくつか妙なことに凝った中学生時代でした。そのあと数年で、自家用車、ステーキハウスと、わが国は飛躍的に豊かになっていくのでした。