院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

日本人のマナー

2014-11-30 05:05:48 | 社会

(名鉄名古屋本線。ウィキペディア「名古屋鉄道の車両形式」より引用。)

 いまから20年と少し前、私は名古屋から豊橋の勤務先まで名鉄(名古屋鉄道)で通っていました。

 当時、名鉄の駅は汚く、たばこの吸い殻やゴミが落ちていて、ホームや線路に痰を吐く人がたくさんいました。駅のトイレも、どうやったらここまで汚くできるのだろうと思えるほどの不潔さでした。

 そのころ、歌手の安室奈美恵さんが大人気で、駅の太い柱に彼女のポスターが大量に貼られていました。乗客は列を作らず、電車の扉が開くとわれ先に乗ろうとするので、扉のところで人垣ができてつっかえてしまいます。押し合いへし合いして、やっと乗車ができました。

 いまは全然違います。ホームにはゴミが落ちていないし痰を吐く人もいません。乗客は整列して扉が開くのを待っています。トイレがきれいになったばかりではなく紙さえ常備されるようになりました。

 こうなったのは同じ人のマナーがよくなったからではありません。マナーの悪い人が死んだか、老いて電車に乗らなくなったか、のどちらかです。ジェネレーションが変わっただけなのですね。

 風俗習慣というものは、その人たちが死に絶えないと変わらないものだと私は思っています。

どうしてもCO2 で地球温暖化が起こっていることにしたいNHK

2014-11-29 05:30:20 | 環境

(IPCCの Core Writing Team。IPCCのHPより引用。)

 NHKはなんでも地球温暖化のせいにしようとしています。サンゴの枯死や大型台風なども地球温暖化の影響だと匂わせます。少し前まで二酸化炭素と言うときには必ず「地球温暖化ガスの」という枕詞を付けていました。一種の洗脳ですね。

 国連のIPCCが二酸化炭素による地球温暖化を言いだしてから10年以上たちます。それなのに、IPCCはいまだに実態のはっきりしない組織です。科学者が2千人が集まっているといいますが、どうもそうではないらしい。(2千人の科学者が統一見解を出すなんてありえません。本当の科学者はそんな妥協はしません。)

 IPCCの構成員の全員が科学者なのではないそうです。何割かは科学者だそうですが、気象以外の部門の科学者が多く、気象学者はごく一部だそうです。そして、科学者ではない多くの行政マンがIPCCのメンバーになっているらしい。行政マンなら妥協して統一見解を出すのはお手の物です。

 そもそも日本人のIPCC代表は誰なのでしょうか?報道されたためしがありません。誰だか発表されないのは、IPCCがどれほど科学的なのかを追及されたらボロを出してしまうからではないでしょうか?

 とにかくIPCCの実態がわからない。少なくとも日本代表は、IPCCのどこが科学的に正しくどこが政治的な産物か、はっきりさせてください。CO2 の排出権など国民の財布がかかっているのですから・・。

(かつて京都議定書をまとめたのは、後輩の同級生でした。優秀な官僚ではありますが、科学者ではぜんぜんありませんでした。)

絶滅寸前の「秘宝館」

2014-11-28 05:05:45 | 読書

(青弓社刊。)

 1970年代に温泉地を中心として「秘宝館」なるものがいくつも建てられました。

 展示品は雑多で、女性ヌードの等身大模型、交尾をしている動物の剥製、ペニス信仰のご神体、妊娠子宮の医学模型、観音像、春画などでした。一言で言って猥雑でキッチュな展示品です。俗悪と言ってもよいでしょう。

 私が思うに、「秘宝館」が温泉地に建てられたのは、温泉地の性風俗と無関係ではないでしょう。いまでこそ家族連れで賑わう温泉地ですが、私が青年のころは男性客だけなら売春の「御用聞き」が部屋まで来たし、小グループで「お座敷ストリップ」の注文ができ、海辺の船では「本番ショウ」をやっていました。(船上でやったのは官憲が入れないようにするためだといいます。)

 温泉地とは以上のような属性をもっていたので、そこに「秘宝館」ができるのは私にはなんの不思議もありませんでした。

 そこで上掲の本ですが、著者は1977年生まれの女性研究者で、「秘宝館」を世界に類を見ない「変わった博物館」だと位置づけ、文化的、歴史的な考察を行っています。著者は「秘宝館」をニュートラルに研究しています。そのため、俗悪、猥雑という価値判断を避けています。

 むかしの温泉地の風俗を知っている私にとって、俗悪、猥雑というキーワード抜きで「秘宝館」を語ることはできません。それらを抜きにして「秘宝館」を考察している本書は、だから「そうだそうだ」と膝を打てない面があるのでしょう。ですが、こういうところにまで目を付ける女性研究者が出現してきたことに、隔世の感を感じます。

 ひとむかし前なら、毒にも薬にもならないような研究に、ひとりの女性が没頭することはありえませんでした。以前にこのブログに書いた東南アジアの民族音楽研究者も女性でした。そのときにも述べましたが、こういう研究者が出てくるのは日本が豊かになった明らかな証拠なので、私は喜びをどうしても隠せないのです。

映画「はやぶさ」

2014-11-27 03:27:25 | 科学

(映画「はやぶさ」のDVDジャケット。発行元は調査中。)

 昨夜、NHKBSで映画「はやぶさ」を放送していたので見ました。筋立ては大したことはないのですが、実録なのでやはり泣けました。泣ける映画は好きです。(渡辺謙主演の「遥かなる帰還」とは別物。)

 本来の穴とは別の穴からイオン粒子を噴射させるなんて、作った人にしかできない仕業だと感心しました。主演の竹内結子がオドオドしてはまり役でしたね。彼女のような美人学者ってたまにいるんですよ。色恋沙汰がゼロなのもよかったです。

 とにかく「はやぶさ」によって宇宙始まって以来、知性が初めて小惑星「イトカワ」を見たのだから、すごいことですよね。

 ただし、本当に「イトカワ」の土を持ってこられたかは怪しいです。カプセル内の鉱物は、外国の学者が指摘していたように地球の粉塵だったかもしれません。

 あのとき、いつもは小意地の悪い日本のマスコミはなんにも言いませんでしたね。「はやぶさ」の帰還に水を差しませんでした。よく戦った者はくささないというオリンピックの精神だったのかもしれませんね。

年賀状考(その2)

2014-11-26 05:38:42 | 文化

(「虚礼廃止」のポスター。西都市のHPより引用。)

 年賀状を誰に出して誰に出さないかは、どうでもよいようでいて、どうでもよいことではありません。故山本夏彦翁のエッセイに「上役はたくさん来る年賀状の山から、誰から来ていないかをたちどころに察知する」とあります。別におべっかのために年賀状を出すわけではありませんが、山本翁の言っていることもまた真実でしょう。

 年賀状を出さない方針の人がいます。亡父がそうでした。その人なりの美学なのでしょうが、私が妻と結婚後、妻の親から年賀状が来るので、亡父は妻の親だけには年賀状を出すようになりました。出さないのが亡父の美学なら、妻の親にも出すべきではないと当時思いました。

 むかしは議員から年賀状が来ました。それが「虚礼廃止」の掛け声のもと来なくなりました。思うに「礼」の中で「虚礼」でないものがどれほどあるでしょうか?対人関係が「虚」だからこそ「礼」は必要なのではないでしょうか?議員から「虚」ではなく「実弾」が贈られてきたらそれこそ大問題です。

 私は年賀状はなるべく出すべきだと考えています。出さない主義だとか、「虚」だとか「実」だとかうるさいのです。年に一回50円程度の音信に、あまり主義主張を込めたくはないのです。


※今日、気にとまった短歌

  雨戸には父の修理の跡のあり真似て釘打つ台風の前  (名古屋市)吉成益人

年賀状考(その1)

2014-11-25 05:47:23 | 文化

(日本橋郵便局元旦出発式。日本橋経済新聞より引用。)

 私はたぶん、小学校で年賀状について教わってから、これまで一年も欠かさず年賀状を出してきたように思います。思いを込めたりそうでなかったり、年により相手によりさまざまでした。

 子どもの写真を年賀状に載せるのは、子どもがいない人への配慮に欠けるのではないか?との議論が毎年行われますが、くだらないと思います。年賀状に写真をつけるのが容易になってから、年賀状のバラエティーが増えて面白くなりました。

 その年に旅行に行った写真が割と多いです。この人は家族であそこに行ったのかぁと思いめぐらすのも楽しみです。(子どもの写真云々をあげつらう人は、家族がいない人はどう思うか、旅行するゆとりがない人には酷だと文句を言うのでしょうか?そういう人は友だちにしたくありません。)

 とどのつまり、年賀状は存在証明だと私は思っています。ですから、子どものころは意匠を凝らしましたが、せんだってまでは一色刷りの印刷で済ませました。ただし、住所電話番号メールアドレスといった基本情報は遺漏なく載せています。(電話番号以下がない人がいますが、それらを知っていてほしくない相手なら年賀状も必要ないでしょう。)

 私は昨年の年賀状には3人目の孫との写真を載せました。やはり文章だけよりも写真は多くを語りますね。今年も写真を載せる予定です。

(年賀状ではありませんが、論文や著書を出すとその別刷や初版本を知りあいに贈る習慣があります。いただいたら読まないうちにでも礼状を返すのが常識です。以前に別刷や著書を贈ったら、半数以上の人がナシのつぶてで驚きましたね。ただし、実力がある人や社会的に活躍している人からは、すぐに返事が来ました。)


※今日、気にとまった短歌

  不用心だからと母は言いながら父の下駄そのままに十六年  (豊田市)徳井晃子

漫画「インベスターZ」の描かれ方(その2)

2014-11-24 04:48:42 | 漫画

(明日のジョーのソングファイル。)

 漫画の原作者という立場を確立したのは梶原一騎でしょうね。「巨人の星」や「明日のジョー」は不朽の名作です。

 それまでは、漫画家はストーリーも絵も両方作るものとされてきました。ちばてつやは自分のストーリーの傾向がすでに出来上がっていたのに、あえて「明日のジョー」を描いたときには私は驚きました。ですが、大ヒットとなりました。

 「美味しんぼ」の原作者、雁屋哲はのちにグルメ小説を書きましたが、面白くなかったです。雁屋のアイデアには漫画というジャンルがもっとも適しているのでしょうね。(里中満智子の小説もつまらなかったです。)

 前回お示しした三田紀房は、株取引の漫画の原案を作っていますが、彼は株取引ができないそうです。なぜかと言うと、彼が取引をするとインサイダー取引になる恐れがあると言います。そこまで株に深くかかわっているのですね。

 思えば梶原一騎は巨人軍の沖縄キャンプに同行して取材しました。雁屋哲もしょっちゅう海外に取材旅行に行っていますよね。勉強の量が半端ではありません。

 そのうち、漫画の原案作りも作画も行わない、ちょうど映画の監督のような人が出てくるだろうと考えてみたのですが、じつはその役は出版社の編集者が務めているのかもしれませんね。

(私が思春期のころ、漫画編集者の地位は低いものでした。有名出版社の編集者ということで縁談が決まっていたのに、漫画の吹き出しに写真植字の活字を張っているところを婚約者に見られて、破談になったという話がありました。)


※今日、気にとまった短歌

  赤い鼻こすりて友は顔をあぐいよいよ反論始めるらしい  (柏市)重藤竹夫

漫画「インベスターZ」の描かれ方(その1)

2014-11-23 20:22:55 | 漫画
   (講談社刊。)

 ひな壇芸人のおふざけ芸のバラエティーばかりで、まったくつまらないテレビのゴールデンタイムですが、深夜にはけっこう面白い番組をやっています。

 エッチな番組だけではなく、私たちが知らない業界の紹介などがあります。先日は漫画界の裏側を放送していました。漫画の原作者が出て、制作場面の実際が紹介されていて驚いたことが2、3ありました。

 まず漫画の原作者のギャラは、絵を描く人と折半だそうです。折半でない場合は、画家の方が多いと言います。

 売れっ子漫画家はキャラクターの顔だけ描いて、体や背景はアシスタントがやることは知っていました。手塚治虫もそうでした。ところが上掲の漫画の作者は違うのです。

 三田氏はキャラクターさえも描きません。ネーム(セリフ)が入った鉛筆の荒原稿をそのまま外注に出すのだそうです。すると外注は背景はもちろんキャラクターの顔まで描いてくれます。そんなこと可能なの?と思いました。

 それが可能らしいのです。三田氏はあらかじめ外注先に何パターンもの顔を送っておきます。漫画のスケッチに「顔の何番」という指定をしておくと、外注先が「何番」の表情を選んで背景から何から全部描いてしまいます。

 これなら同時に何本も連載することが可能です。先日ご紹介した「乙嫁語り」は衣装の描き込みなどすべて自分でやっているでしょうから、三田氏よりもずいぶん原始的だなと思いました。


※今日、気にとまった短歌

  街角でぶつかる出会いなど無くて田んぼの向こうに君は見えとる  (三田市)今北紀美恵


ダーウィンの進化論はそんなに正しいのでしょうか?(その4)

2014-11-22 05:16:46 | 読書

(映画「バックトゥザフューチャー」のサウンドトラック版CD。)

 人間が対象を把握する仕方に「説明と了解」という2つの仕方があると19世紀以来言われています。物理学などの自然科学では「法則を説明」するという把握が行われます。それに対して、歴史学のような分野では、「筋道を了解」するという形で把握が行われるそうです。

 たとえば、元寇が来たとき神風が吹かなければ歴史は変わっていたでしょう。あの日、信長がお腹をこわさなかったらとか、家康が転ばなかったらとか些細なことで歴史は変わっていたはずだと考えられます。

(「バタフライ効果」といって、ブラジルの蝶々のはばたきがテキサスに竜巻を起こすようなことが、カオスの世界ではありえます。)

 進化で言えば、巨大隕石が恐竜を絶滅させたから哺乳類が栄えたと言われています。このように、進化においては「ほかでもありえた」ということが沢山あります。

 タイムパラドックスでは、過去をいじると未来が変わってしまうという設定で、過去をいじったために未来が化け物のような生物で満たされるSFがあります。これも「ほかにもありえた」生態系です。

 生命が誕生してからこれまでに、「大絶滅」が4回起こっているのだそうです。その都度「ほかにもありえた」生態系が出番を阻まれています。現在ある生態系が唯一無二というわけではないのですね。

 地球上には現在400万種以上の生物種がいるそうです。著者は、その1000倍は絶滅しているといいますが、それは4回の大絶滅以外にも、ちょっとしたことで出番がなかった生物種も入っているのではないでしょうか。

 生物学は自然科学ですから「説明」という把握のされ方をします。一方、進化論は生物の歴史ですから「了解」という把握のされ方をするので、進化論は「説明と了解」の両方にまたがっていると著者は主張します。

 地道に「適者生存」の原理で「自然淘汰」によって合目的的な生物だけが生き残ったと考えられるだけではなく、それこそ家康が転んだだけで(バタフライ効果で)生態系がガラリと変わってしまう可能性があります。それを著者は「理不尽」と名付けたのでしょう。

 本書『理不尽な進化』の著者は自分を素人と規定していますが、なかなかどうして素人にはこれだけ書けるものではありません。繰り返しを省き過去の学者たちをもっと整然と並べれば、けっこうな名著になると私は思います。

ダーウィンの進化論はそんなに正しいのでしょうか?(その3)

2014-11-21 08:04:36 | 読書
   
(『だんだん物語』の原書。)

 「キリンの首はなぜ長いの?」という子どもの質問があります。それに対して、高い木の葉っぱを食べようとしていたら、だんだん首が長くなったんだよ、という大人の答えが上掲の『だんだん物語』という子ども向けの本には載っているそうです。

 それは「獲得形質は遺伝する」というラマルクの考え方で、正しくありません。しかし、いろんな分野で目的論的な説明がなされたのも事実です。たとえば、アステカの食人風習について、実はそれによってタンパク質不足を補っていたといったような説明がそれです。目的を別に設定して、現状を正当的に説明してしまうわけです。

 進化論も同じようなことをやっていると批判されます。アメリカのグールドという古生物学者が1978年「スパンドレル論文」と呼ばれる論文を提出して、合目的論者を批判しました。自然淘汰だけによって進化は行われてきたのではなく、偶発的な事件によることが大きいというのが論文の主旨です。

 スパンドレルというのは大聖堂の球場天井の建築のことらしく、そこにはキリスト教の聖者たちが描かれています。聖者たちがあまりに荘厳に描かれているので、スパンドレルという建築構造は絵画を立派に見せるために設計されたように見えますが、じつは力学的な構造に過ぎないのだそうです。

 現在の進化論は、スパンドレルが絵画用に作られたと主張するようなことを、進化の説明で行っているというのがグールドの主張です。勝手に「目的」を設定してはいけないというわけですね。

 それに対して、ドーキンスという人が、生物は必ずしも最適に適応化した行動をとっているわけではないと実例を示し反論しました。完全に合目的的な行動をしなくても生物は生存しうるのであり、それらの行動が合目的的ではないことを示すためにも、やはり合目的的な尺度を措定して比較しなければならない、としました。

 この論争は20年続いたそうです。結果はどうかというと、生物は合目的的な存在だと決めてかかって研究した方が、疑って研究するより成果があがることが示され、いまのところ合目的論者(適応主義者)のほうが”実用的には”分がよいそうです。

 以上のようなことが『理不尽な進化』には書かれています。ここから先は、学問を研究するときの認知の仕方といった哲学的な考察に入っていきます。次回になるべく分かりやすく解説します。

ダーウィンの進化論はそんなに正しいのでしょうか?(その2)

2014-11-20 05:40:46 | 読書
    (前回掲示した本の目次)

 「適者生存」というテーゼがトートロジー(同語反復)だと批判している派は、現在生存している生物種のことを他ならぬ「適者」と呼ぶのだから、「適者生存」は意味をなさない、あるいはいつも「真」なのは当然と指摘します。私も論理的にはそれが正しいと思います。

 一方、そうでない派は、自然科学を探究するときには一定の指針が必要だと主張します。「適者生存」は指針であって、必ずしも真理とは限らないと言います。自然界には神羅万象が無限に存在するのだから、何の指針もなしで闇雲に研究することはできない。それは物理学でも同じだと。

 私は進化論のテーゼだけを論理的に攻撃しても意味がないと思います。やはりテーゼは指針だという派のほうに組したいです。「適者生存」はダーウィニズムの「旗」のようなもので、「旗」がトートロジーだとは揚げ足取りのように感じられます。

 「適者生存」の結果なのでしょうが、生物は「合目的的」にできています。それが、あまりに精妙なので、神の仕業とされることがありました。ところが、「適者生存」、「自然淘汰」というダーウィニズムの考え方によって、神を持ち出さなくとも「合目的性」は説明できるようになりました。ところが、ここでもまた進化の考察に「合目的性」を措定すること自体が批判されます。それについては次回に。


※今日、気にとまった短歌

  父母の言ふ「持つべきは子」を聞きたくて今日も見舞ひぬ二時間かけて  (荒川区)高仲絹

ダーウィンの進化論はそんなに正しいのでしょうか?(その1)

2014-11-19 04:22:49 | 読書
   (朝日出版社刊。)

 「据え置き電話が携帯電話になりスマホまで”進化”しました。もう据え置き電話だけでは社会に”適応”できません。据え置き電話はやがて”淘汰”されるでしょう」などと言います。お気づきのようにこの文章にはダーウィンの進化論の用語が散りばめられ、主張の正当性が進化論で補強されています。

 自らの主張を進化論の用語で正当化することが一般的に行われているけれども、進化論はそんなに自明か?と本書の最初のほうで著者は問うています。著者は進化論のこうした万能的な援用を「言葉のお守り」と侮蔑的に名付けて、論理的ではないと指摘しています。(でも、進化論の用語で説かれると本当に分かったような気になってしまうのですよね。)

 この辺からして、すでに興味がわくでしょう?繰り返しの多い冗長な文体ですが、先を読みたくなります。この先には、21世紀に入ってから「適者生存」という進化論のテーゼがトートロジー(同語反復)だと西欧で批判された経緯が書かれているのですが、まだ全部を読んでいないので、それについてはまた次回。

未婚女性のあこがれは「専業主婦」!?

2014-11-18 05:14:59 | 経済

(カリスマ主婦モデルを載せる雑誌『VERY』。光文社刊。)

 むかしの多くの主婦は、家庭や夫に縛り付けられるのはイヤだ、自分も社会に出て夫から独立した仕事がしたいと思っていました。1999年の男女雇用機会均等法の大幅改正で、雇用上のいかなる女性差別も禁止されるようになったのは、上のような主婦たちの声が大きな力となりました。

 ところが、現在の未婚女性の憧れの職業は「専業主婦業」だそうですね。180度逆転とはこのことです。実際いまでは、妻に主婦をさせている夫は高収入で実力がある一部の男たちに限られます。

 男たちの収入は雇用機会均等法の前より確実に下がりました。それは、法律が改正される前から分かっていました。なぜなら、主婦が労働市場に参入すると労働人口が増えて、賃金が下がるからです。こうして男性の賃金が下がったから、夫一人だけの収入では所帯をやっていけない社会構造になりました。

 要するに、労働力が余るようになったから賃金が下がったという当然のことが起こりました。こうして、「替わりはいくらでもいる」状況になった結果、ブラック企業なんかが跋扈するようになりました。

 お断りしておきますが、女性が社会進出してはいけないと言っているわけではありません。労働人口が増えると、雇用者側の買い手市場になるという当たり前のことを言っているだけです。

家族制度と雇用・人事制度(現代の奴隷その7)

2014-11-17 05:55:48 | 社会

(細川家集合写真(1957)、ウィキペディア「家族」より引用。)

 今回ご紹介した書物『グローバリズムという病』は、今後エコノミストや知識人によって批判が加えられることでしょう。私はこの方面では批判を行う力量がありませんので、とりあえず肯定的に引用しました。

 本書には家族制度と雇用・人事制度(ひいては社会制度)との深い関係を、フランスの家族人類学者エマニュエル・トッドの説を援用して説いた部分があります。

 かいつまんで言うと、日本の家族構造はドイツのそれと類似していて、いずれも「権威主義的家族」だそうです。それは、親子関係が権威主義的で兄弟関係も格差的な家族です。

 日本に老舗が多いのは、長子相続、権威主義的直系家族の所産だそうです。その周辺に一族郎党がいて、例えば一族の当主が朝倉家の家臣で、織田信長との戦いで全員が討ち死にしたというように、家業を中心として社会ができていたといいます。

 ドイツでも企業の9割は中小企業で、家族的系経営で成り立っています。日本もドイツも「年功序列」、「終身雇用」で特徴づけられます。

 こうした家族構成という背景の上で社会構造が造られました。むろん企業も似たような構造をとらざるを得ませんでした。

 ところがグローバリゼーションは、こうした企業構造を破壊しようとします。そして、日本の家族構成が1980年代から崩壊し始めたころから、グローバル企業が日本に入り込むのが容易になったといいます。これ以上のことは、本書を直接ご覧ください。

 いずれにしても、権威主義的構造の企業内で、今は下っ端であってもいずれ齢が行けば上役となれるはずだったサラリーマンは、年功序列の廃止、成果主義の導入など、最後の砦を崩しにくるグローバリゼーションによって、本物の奴隷にさせられるかも知れませんね。

漫画は映画を超えている

2014-11-16 01:11:34 | 漫画
  (KADOKAWA刊。)

 私たちの親の世代は、映画が娯楽の王様でした。私も幼少のころから映画を見ていましたが、考え方や人生の指針などを映画から学んだことはありませんでした。

 むしろ、手塚治虫や白土三平やちばてつやらの漫画に影響を受けました。漫画は一人(と数人のアシスタント)で描きます。それに対して映画は、俳優や撮影器具や技術陣やセットなど、膨大な費用がかかります。

 そのわりに、映画の影響力は大したことはなく、漫画を超えるとは思えません。

 上に掲げた「乙嫁語り」という漫画は今年のマンガ大賞作品です。とにかく、絵の描き込みがすごいのです。舞台は19世紀の中央アジアで、民族衣装や民族建築が克明に描かれています。動物が動いている姿のデッサン力も非常に優れています。

 この漫画はストーリーで引き込む力はさほどではありません。ただ、画力がすごいので何となく引っ張られてしまいます。これと同じことを映画でやろうとしたら、衣装や建物や馬などを揃えねばならす、平原でのロケが必要ですから、それこそ何100億円とかかってしまうでしょう。その一点だけでも、漫画のほうが映画よりも優れているとは言えないでしょうか?