院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

誰も改良しなかった医療器具

2013-09-30 04:09:54 | 医療


 上の写真は額帯鏡である。患者の背後にあるライトを凹面鏡で反射させ、真ん中の穴から患者の耳や鼻を覗く。とてもよく見えるが扱いはなかなか難しい。一コマ漫画では医者のシンボルとして描かれるけれども、これを使用するのは耳鼻科医だけである。

 最近では、ほとんどの耳鼻科医が額にLEDライトを着けるようになり、未だに額帯鏡を使用している耳鼻科医は絶滅危惧種である。

 私はすべての医療器具がこのように刻々と進化して、便利になっていくものだと思い込んでいた。

 次の写真は、気管にチューブを挿入するときに使用する器具である。喉頭鏡という。



 写真のように柄を手で持ち、横臥している患者の頭側に立つ。そしてこの鎌の刃のような部分を患者の口腔に挿入して、上に押す。そうすると舌根がどかされて気管の入り口が見える。そこにチューブを挿入して、気道と呼吸を確保する重要な器具である。救急救命センターや手術室でしょっちゅう使用されている。

 この器具はアメリカ製で鋼鉄でできている。ずっしりと重く、手技が下手だと患者の前歯を折ってしまうことがある。そういうことがないように術者は修練しなくてはならない。

 私はこれまで、この器具は改良されつくした結果が現在の姿だと思い込んでいた。ところが、この器具は作られてから70年間、まったく改良されていないという。

 名古屋市立大学芸術工学部の國本桂史教授は、出来の悪い器具に術者のほうが慣れる必要はないとの当然の考えから、医療器具の改良を始めた。とうぜん上の器具も対象となった。鋼鉄を特殊なプラスティックに変えるだけで軽くなり、前歯を折るリスクが減った。

 驚いたことに手術着も普通の仕立て屋が作る以上の工夫がされておらず、抗菌性や通気性や重量などがまったく考慮されてこなかったという。國本教授の発想によって、日本の医療器具や衣服の使い勝手がどんどんよくなって行くだろう。

 これらは医者がかえって気づかない領域だ。ちなみに名古屋市立大学は私の母校である。

旅館の料理批判

2013-09-29 01:06:10 | 食べ物
 旅館の食事の量が食べきれないほど多いことは、いつぞや批判した。



 さらに、品数と量がいくら多くても旅館の食事はおいしくない。なぜかどこの旅館でもワンパターンのように出されるのが刺身と天ぷらだ。

 刺身が立派な料理であることもかつて述べた。天ぷらも難しい料理で、天ぷらを揚げる技術だけで生活ができる。

 そのように難しい料理を、旅館は総花的に提供する。しょせん刺身と天ぷらを同じ職人が作るには無理があるのだ。だから、旅館の料理がおいしいはずがない。(そのため私は、食事代が別のホテルに泊まることが多い。)

 幼いころ、山の宿の夕食時に父親が、「山奥に来てまで海水魚の刺身は食いたくない」と言っていたのを思い出す。

煮たり焼いたりする料理

2013-09-28 04:02:19 | 食べ物
 料理は芸術である。煮たり焼いたりする行為は、料理人の芸術的技能をもって初めて可能である。

 したがって、カルビなどの焼き肉は料理とはいえない。料理を焼くということは、料理人がやってこそ生きてくるのであって、客が焼いてしまっては元も子もない。(日本料理では、串打ち三年焼き八年といわれるほど高度な技術である。)

 煮るという行為も同じである。微妙な火加減はプロにしかできない。下のような小型のパラフィンコンロを出す旅館は二流である。煮るという高度な作業を素人の客に任せているからだ。



 古来、庶民の家では火は台所の釜戸にしかないものだった。七輪や火鉢が発明されて、釜戸の火が座敷に持ち込まれたのは、わずかに江戸時代のことである。(上流階級は別。)釜戸の火を別室に分けることが可能になったのは、庶民生活にとって一大革命だったと柳田國雄は記述している。

(寄せ鍋やすき焼きが料理と呼べるかどうかは、現在考察中なので、しばし待たれたい。)

ステロタイプな漫画批判

2013-09-27 04:59:57 | 漫画


 また新聞の投書欄ネタで恐縮である。

 きのうの中日新聞愛知県版に中学生の女の子の投書が載っていた。「マンガだけで学ぶのは問題」という見出しで、「(マンガが図書館に置かれているが、それが悪い点の一つは)マンガに慣れてしまうと小説に抵抗を感じてしまうことです」とある。要するにマンガは読みやすいが、文字だけの小説も読みましょうという趣旨だ。

 私は50年前にまったく同じ言葉を大人から聞いた。そのころ「トキワ荘」には、映画と同じくらいに影響力がある物語が、たった一人で紙とペンだけで造れると気づいた人たちが集まっていた。だが、50年後にマンガが世界各国語に翻訳されて輸出されるようになるとは、当時誰も思っていなかった。

 実はもっと以前(大正時代)には、猿飛佐助や霧隠才蔵を生み出した立川文庫に少年たちが夢中になった。しかし、立川文庫は大人たちには好まれなかった。それはまさに小説だったのに。

 投書の女の子は高校受験を控えている。入試は文字で行われるから、文字情報のほうが重要だと考えても無理はない。でも、投書のような立派な文章を書く利発な子である。あと数年すれば、日本語以外の言葉の大切さや、数学的記述の重要性も理解できるだろう。

 さらにもっと成長すれば、一流のマンガ家が、へたな小説家や学者よりよっぽど凄いことが分かると思う。

自分で作らにゃ意味がない?

2013-09-26 06:42:21 | 技術

(オリンパス・フォトパスより。)

 だいぶ昔の話だが、友人同士が言い争っていた。一方はWINDOWSの素晴らしさを語り、他方はマックOSがいかに優れているかを主張して互いに譲らなかった。激しい応酬になり、君はどう思うかと私に話を振られた。

 私が「どちらも僕が作ったOSではないから。僕が作ったものなら自分のOSの良さを主張するけど」と答えたら、白けて対立は終わってしまった。

 鉄道ファンが鉄ちゃんと呼ばれて、カメラを構えて駅や踏切に人垣を作っている。確かに鉄道は美しい。それは単に彫刻のように鑑賞するためのものではなく、輸送するという機能があり、その機能を実現するために知恵の限りが尽くされているからだ。

 だが、私は鉄ちゃんにはなれない。なぜなら、それは所詮他人が作ったものだからだ。私ならもっと美しい鉄道を作りたい。

 私が住む豊橋の近くに日本車両という電車を製造する会社がある。そこの社員を知っている。彼は鉄道の床下のバネの強度はどれくらいなければならないか、といったことまで知っている。彼はもと鉄ちゃんである。本当の鉄ちゃんは、ここまで極める必要がある。彼から見れば、新型車両の前で群れなしている人々は鉄ちゃんのうちに入らないだろう。

 私がプロ野球やサッカーを見ないのは、「自分でやらなきゃ意味がない」という気持ちがあるからかも知れない。

(いつものことですが、私の意見はかなり偏ったものでしょう。プロの妙技を鑑賞することも大きな楽しみの一つだと思います。反論を期待します。)

ボランティア部?

2013-09-25 06:21:12 | 社会


 私はつい先日までボランティアという存在を高くは評価していなかった。所詮ひま人の自己満足だと思っていた。

 むかし勤めていた病院にもボランティアはいた。彼ら彼女らは一目でボランティアと分かる大きなバッジをつけて、患者さんの車いすを駐車場から診察室まで運んでくれたが、便所掃除をしてくれる人はいなかった。

 私が「もしかしたら、これは本当のボランティアかもしれない」と思ったのは、新潟県のタンカー座礁事件に大勢のボランティアが重油の片づけに集まったときだった。でもまだ半信半疑だった。

 このほど、各地の台風禍に片づけのボランティアが来ているのを見た。その中に大学生の一団があった。彼らは「ボランティア部」とも言うべきサークルを作っていて、片づけの方法や隊の統率などを訓練しているらしい。これはまさに「野球部」とか「水泳部」というのと同じではないか!

 すでに90の大学に「ボランティア部」があるという。彼らはどうも本物のようだ。このような若者が育ってきた日本を、私はいい国だと思う。

ハートマークはダサくはないか?

2013-09-24 04:53:58 | ファッション


 近年ハートマークが多用されるが、子どもっぽくはないか?

 とくに若い女子が何にでもハートマークを付ける。ハート形のケーキやチョコレート、ハートマークが入った弁当なぞが存在する。文章の最後にハートマークを付けたりする。

 love という語には性愛の意味だけではなく、慈愛の意味もある。だから、I love New York. といった言い方が成り立つので、 この人は別にニューヨークにエロスを感じているわけではない。だが love の部分にハートマークが用いられることがある。

 上のように手でハートマークを作るときには、慈愛ではなく必ず性愛の意味だ。

 少なくとも私の時代、思春期以降の者にとっては男女を問わず、ハートマークはひどく子どもっぽくてダサいものだった。最近はハートマークから「ダサい」という属性が消えてしまったようだ。

マルセル・デュシャンの「泉」

2013-09-23 06:22:43 | 技術


 画家マルセル・デュシャンが、1917年のニューヨーク・アンデパンダン展に、男性便器を「泉」(上の写真)と名付けて匿名で出品し、展示を拒否されたことは有名な話である。

 デュシャンはそれに抗議し、物議をかもしたが、デュシャンの行為はその後のコンセプチュアルアートの先駆けとなった。デュシャンは従来の一点しか存在しない絵画を「網膜的絵画」と批判し、自らも絵画制作をやめてしまった。

 デュシャンは芸術作品は一点だけである必要はなく、またそれを芸術かどうか決めるのは作者ではなく見る側だとも主張し、「泉」の前1913年に自転車の車輪を「出品」して、これをレディ・メイドと呼んだ。(「泉」を「噴水」と訳す人もいる、「噴水」のほうが「噴出孔」は何かと連想が及んで面白いと思う。)

 私はデュシャンの主張に賛同できない。1970年ころ、名古屋の愛知県立美術館で前衛作品展が開かれた。お調子者がそこにゴミの山を出品して芸術作品だと言い張った。主催者側は不潔だと撤去を申し入れた。出品側は拒否し、それが芸術作品と言えるかどうか集会が開かれた。団塊世代の名古屋人ならご記憶かもしれない。

 集会を開いた人がアホなら、出席した人もアホだと思った。同じアホだった私も集会に出て双方の言い分を聞いていたが、「暇な人たちだなぁ」と思った。むろん私も含めて。

 芸術作品には驚異的な技術が伴っていなくてはならないというのが私の考えである。ダビンチのモナリザはもちろん芸術作品である。同じ観点から、昭和の写実的な映画看板も芸術作品だと思った。ただし、ダビンチも無名の看板画家も、自分を芸術家だと思っていなかっただろう。

 芸術作品は時代の関数である。ダビンチの時代に、もし写真技術が発明されていたら、ダビンチのような先進的な人なら真っ先に写真技術に飛びついていただろう。当然、モナリザという写実画も生まれなかった。

 モナリザに対して、世紀の名画だとか、謎の微笑だとか、モナリザの絵には謎のメッセージが隠されているなぞと、現在あれこれ論じている人たちは、愛知県美術館に集まってゴミを作品かどうか論じていた人たちと同類に思えてくるのだ。

(現在開催中の愛知トリエンナーレの出品作も、ほとんどがゴミの山だと私は思う。なぜなら、それらは超絶技巧を必要としないから。)

中日新聞の若者投書欄

2013-09-22 04:09:26 | マスコミ
 

 先日も述べたように中日新聞愛知県版の投書欄は、金曜日は若者専用だ。

 今回の投書欄には次のような投書が載っていた。

 「悪ふざけ写真冗談ではすまぬ」(18歳女子)、「高校生活最後すべてに全力」(17歳女子)、|携帯電話との距離感大事に」(18歳女子)。

 これらの見出しを見ただけで、おおよその内容が分かるだろう。中日新聞の担当者はわざと低レベルな投書を掲載しているとしか思えない。

 たとえば「悪ふざけ写真・・」の投書は、「やってはいけないことは小学生でも分かる」とした上で「悪ふざけのために店が閉鎖されたら、損害賠償を請求されるのは当然」と続く。

 私なら次のように考える。その店はもともと収益性が悪く、経営側は閉鎖するかどうか迷っていた。そこに今回の悪ふざけの写真がSNSに流れた。経営側はそれをよい機会だとばかりに店を閉鎖した。経営側はすべてを悪ふざけをしたアルバイトのせいにすることに成功した、と。

 18歳にもなったら、この程度のことは考えてほしい。でも、こんなふうに裏を読んだような投書は、ぜったいにボツになるだろうけれど。

ドラマ「半沢直樹」

2013-09-21 05:41:18 | 芸能

楽天インフォシークより。) 

 ドラマ「半沢直樹」があまりに人気があるので私も一回見た。確かに面白かった。その回には金融庁の銀行監査の係官が来て、銀行側が戦々恐々とする場面があった。

 監査官の親玉は、いかにも憎たらしく描かれていた(上の写真)。銀行側の落ち度を重箱の隅をつつくように執拗に探すのだ。多くの視聴者はこれをドラマだから絵空事だと思ったのではないか?でも私は有りそうなことだと思った。

 大きな病院には厚労省の医療監査というのが入る。この監査官がきわめて意地悪なのだ。わざと経過が複雑なカルテを選んで、ちょっとした計算上のミスを捉えて主治医を犯罪者のように追及する。

 医療監査官には収益を没収する権限がある。没収は病院の死活問題になる。だから、院長以下、医者全員が監査官に平身低頭して、極力失礼がないようにする。それでも私が勤務していた病院は2000万円まきあげられた。

 監査官はじつは医者なのだ。医者になる人はたいてい、患者の役に立とうとして医者をこころざす。ところが監査官になった医者は、なにがしたくて医者になったのか疑問に思うような人だった。患者のために一生懸命な医者を罪人扱いして、ドラマほどではないが声を荒げることもあった。

 医療監査官の態度があまりに医者の人格を無視したようなので、病院の側から「あの傲慢さをなんとかしろ」という声が最近ようやく上がってきた。

(この監査とは別に、保健所による医療監視というのがあるので混同しないでほしい。保健所の監視は和気あいあいとしたものである。)

なぜ書き言葉が話し言葉に?

2013-09-20 05:36:59 | 日本語


 「滑舌」(かつぜつ)という言葉をよく耳にする。これは元来書き言葉で、話し言葉に使われることはなかった。なぜか最近よく使われる。

 「ちなみに」もAKB48のような若い女性さえ、最近はよく使用する。これも元来は書き言葉だった。

 「しかも」もそうだ。これは男性言葉で、かつ書き言葉だった。

 AKB48の女の子がこれらの言葉を使用し始めたとき、彼女らが「のたまわく」とか「しこうして」なぞと言っているような違和感を覚えたが、「ちなみに」や「しかも」にはもう慣れてしまった。

長寿の秘訣

2013-09-19 04:16:44 | 生物


 長寿が本当にめでたいかどうかは、ひとまず置く。だが、世間は長寿者を羨ましがったり、祝ったりする。

 そして長寿者に判で押したようにぶつけられるのが「長寿の秘訣は?」という愚問である。その本当の答えは「運です」である。

 西洋のことわざに「長生きしたかったら長生きの両親から生まれなさい」というのがある。つまり長寿は、本人の心がけではどうにもならないことなのだ。

 ところが「秘訣は?」という問いに「運です」と答えた長寿者はめったにいない。なにかしらテキトーな理屈を言うのが常である。「毎日おちょこ一杯の酒を欠かさないこと」、「毎日、梅干しを食べること」、「よくしゃべり笑うこと」。変なのになると「毎朝、東に向かってお辞儀3回する」なぞというのもある。

 年長者を敬うのは儒教の教えだが、長寿者といえども浅はかな人がいる比率は、青壮年と変わらないようだ。一言正しく「運です」と言ってくれれば、どれだけ説得力があるか分からないのに。

 私は浅はかだと思われるのがいやだから、長寿者になったら「運です」と答えることに決めている。だが最近、体の方々にガタがきている。「運です」と答えるまでには間に合わないだろう。

ダリの絵はつまらない

2013-09-18 05:28:25 | ファッション
 中学生のころ画集で初めてダリの絵を見た。なんの感動もなかった。驚異的な写実力だが、奇妙なものが並べてあるだけじゃないかと思った。


(Wikipedia "Dali" より引用。)

 その絵が億単位の値段なのだ。中学生の自分には分からないが、もっと成長したら分かるかもしれないと思っていた。みんなが良いというから、それなりにすぐれた作品であって、鑑賞できないのは私が未熟なせいだと思っていた。

 だが、還暦を過ぎた現在に至るまでついに良さが分からなかった。柔らかい時計?そこのどこが良いの?頭で考えた理屈じゃないですか。思いつきだけで奥深さも何もないじゃないですか。

 ダリには超絶技巧の写実力以外に何もない。こんなものに何億円も出すなんて気がしれないと、この歳になってやっと言えるようになった。私は他人より幾分か多く絵画に親しんできたからだ。実はシュルレアリズム全体が、いっときの人気取りのこけおどしだったのかも知れない。それに乗せられた人々の気の毒なことよ。

 デュシャンの「泉」については、いずれ述べる機会があると思う。

私の酒場放浪記

2013-09-17 05:27:12 | 食べ物
 外で飲むならライブハウスと寿司屋が私の行きつけだ。居酒屋はあまり行かない。常連に話しかけられるのがうっとうしいからだ。

 バーもあまり行かなかった。なんだかきどっているのだ。あるバーではサントリーリザーブを置いていないという。角瓶とダルマがあるのにだ。何かこだわりがあるのだろうが、理由は聞かなかった。



 それにバーは高い。オールドパーをキープしたら2万円以上も取られた。料理もへんに手が込んでいる。なにもバーで珍しい料理を食べたいとは思わない。それだったらレストランに行く。

 酒場の親父としゃべりたかったら、馴染みにならなくてはならない。だが、しゃべっていて胸を打たれる親父はめったにいない。

 焼き鳥屋や炉端焼きは親父がしゃべらない。食わせるのがメインだからだろう。クラブはホステスの話が馬鹿らしいから、誘われなければ自分からは行かない。キャバクラは行ったことがない。本当は行ってみたいのだが。

 最近、寿司屋以外は行かなくなってしまったけれど。

イプシロンの打ち上げ成功が意味するもの

2013-09-16 06:44:58 | マスコミ


 イプシロン打ち上げ成功をマスコミも国民も讃えている。国民が喜ぶのは自然だが、マスコミが讃えるのはどうしてか?

 このたびの打ち上げ成功は、我が国が3分の1の価格で大陸間弾道弾を製造できるようになったことを意味する。北朝鮮のロケットがミサイルならイプシロンもミサイルである。

 マスコミは陸上自衛隊がオスプレイを購入するのに反対である。オスプレイは墜落の恐れがあるし、陸自はすでにオスプレイの2倍の輸送力があるCH47大型ヘリを55機も持っているという。

 マスコミのお家芸だが、ここにも「本質隠し」がある。大型ヘリは航続距離が短く他国まで行けないが、オスプレイは他国の奥まで侵入できる。イプシロンもオスプレイも抑止力になりうるのだ。

 陸自の北富士演習場実弾演習の観覧チケットはすぐに売り切れた。マスコミは国民の演習好きを嘆いた。それならイプシロン打ち上げを見に肝付町に集まったロケット好きの人々のことも批判するがよい。