院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

諸悪の根源は農耕にあり(3)

2013-11-30 06:01:47 | 文化

(Wikipedia, "bushman" より引用。)

 地球上に最後まで残っていた狩猟採集民族はブッシュマン(サイ人)だった。だから彼らは先進国の学者の研究対象となった。

 彼らには喧嘩はあったが、集団での戦いはなかった。戦って他人から奪わなくてはならないものはなかった。

 先進国の学者はわが国の学者も含めて、ブッシュマンのすみずみまで研究した。(日本のブッシュマン研究は、京大の田中二郎教授一派の仕事が有名である。)

 だが、彼らの狩猟採集生活は30年前にほぼ消滅していた。それは西欧由来の農耕民の制度に抗しきれなかったからである。

 そして1990年、ボツワナ政府の政策によって、保護区域外に住まいを限定され、ブッシュマンの狩猟採集文化はとどめを刺された。(「政府」という考え方そのものがすでに農耕民由来だった。)

 ボツワナ政府は中央アフリカに文明という戦争のタネを持ち込んだのだ。いずれブッシュマンの子孫も戦いに巻き込まれることだろう。

諸悪の根源は農耕にあり(2)

2013-11-29 06:23:53 | 文化
マヤ文明( ハイテクな )をUU( UFO University )から紹介


 狩猟採集生活なら、獲物は動物にせよ植物にせよいつ見つかるか分からない。すなわち計画の立てようがない。

 一方農耕生活は、まず暦を作って計画通りに物事を運ぶ必要がある。いつ種をまいて、いつ肥料をやって、収穫はいつといった見通しが必要だ。(古代の巧妙な暦は動画を参照。)

 仕事も集団でやらなくてはならない。役割分担も必要になってくる。

 こうした農耕のノウハウを戦争に利用したらどうなるだろうか?兵隊や補給部隊の枠割分担を行い、兵隊は一糸乱れぬ部隊に分かれて計画的に行動する。さぞ強い軍隊ができることだろう。

 農耕生活の計画性に慣れた民族が、狩猟採集民族を攻めて撲滅するのはいともたやすいことだった。こうして、もやは地球上から狩猟採集民族がいなくなった。

 あとは農耕民族同士の戦いになった。双方とも知恵の限りを尽くすから、戦争はますます大規模なものとなっていった。

 人類全員が狩猟採集民のままだったら、戦争はそもそも起こらなかった。文明は始まりのときから戦争の萌芽を含んでいたのだ。

諸悪の根源は農耕にあり(1)

2013-11-28 06:02:42 | 文化

(Wikipedia, "Ben-Hur"より引用。)

 人類は大昔から残酷な戦争を繰り返し、現在でも戦さが絶えない。

 戦争は国や民族という「組織」の戦いである。そもそも「組織」ができたのは、農耕が発明されてから以後のことである。

 農耕によって余剰ができてから、人類はヒエラルヒーを作るようになった。それ以前、狩猟採集時代は人々はバンドと呼ばれる10名から30名程度の小単位で広大な面積を動いていた。上下関係や人々を「統括」する国家というものもなかった。だから、戦争もあり得なかった。

 農耕が発明され人口が増えて、「国家」あるいは「民族」の名のもとに人々が集結すると、それまでなかったような行動、すなわち戦争が起こるようになった。

 高崎の猿山のサルたちは、独特の順位をもつ文化圏を形成していることが、むかし詳しく観察された。ところが後日、猿山のような厳しい掟は自然界には見られないことが分かった。つまり猿山の「文化」は、狭い場所に詰め込まれているサルにしか現れないことが知られるようになった。

 ニワトリはたまに争うけれども、仲間を殺してしまうことはなかった。ところが、小屋で飼われているニワトリには「いじめ」が発生し、「いじめられっこ」は他のニワトリから死ぬまで迫害を受けた。この現象を報告したのはコンラート・ローレンツだったか?

 人類も固まって農耕をやり、人口が無際限に増えたことが、それまで自然界にはなかった戦争という行動を引き起こしたのだと考えている。

発展途上国のインフラのあるべき姿

2013-11-27 06:31:16 | 経済
世界の秘境に嫁いだ日本人妻


 「秘境」といわれるような国の奥地に嫁いだ日本人妻をレポートする番組が流行っている。

 それを見て気づくことは、それらの国に鉄道がないことだ。現地の空港に降りると、あとはすべて大型バスや小型バスだ。一番先に整備されるのは道路のようだ。

 鉄道が作られる前に自動車が流入してきたからだろう。自動車の方が鉄道より経済的なのだろうか?

 同じような現象として、それらの国では固定電話よりも先に携帯電話が普及した。インフラの整備が簡単だからだろうか?

 昔から鉄道網や電力網が発達している国に、これらの国は追いつけるのだろうか?別の言い方をすれば、蒸気機関の時代を経ないで、いきなり電気やガソリンに跳んでしまってもいいのだろうか?ということである。

AKB48今年も紅白に

2013-11-26 05:04:14 | 芸能
 AKB48が今年も紅白に出ることになった。私は一昨年から「もう出られない」と予想してきたが、今年も出るとのことで、私の予想は3年連続で外れてしまった

 今年はNMB48も出るそうだ。昨年出たSKE48もまた出る。なんという勢いだろう。ほとんど信じられないことだ。

 秋元さんは、ジャカルタに続いてモスクワにも同様のアイドルグループを作るらしい。これはもう歴史的な仕業と言ってよい。

JKT48 & Fans - "Fortune Cookie in Love" (English Version)


(上はJKT48の映像である。見る限り、日本人の女の子と現地の女の子の混成のようだ。日本人の女の子は治安の悪い現地に住み続けているのだろうか?長年ジャカルタに赴任していた友人によれば、日本人には現地は危険で、車で移動せざるをえなかったという。)

市川團十郎と成田屋

2013-11-25 06:58:05 | 歴史
 歌舞伎が趣味ではないが、市川團十郎の一門をなぜ成田屋と呼ぶのか気にかかっていた。成田屋のホームページもそのいわれは書かれていない。

 江戸時代、江戸の寺が秘仏を大衆に見せて金儲けをすることがあった。これを開帳という。ばくちの「ご開帳」の語源である。これによって善男善女が押し掛け、江戸の寺はずいぶん儲けた。

 地方の寺は開帳をやっても見に来る人が少なく、商売にならなかった。そこで、地方の寺は秘仏をわざわざ江戸に持ち込んで開帳をすることがあった。これを「出開帳」という。

 千葉の成田山新勝寺も出開帳をやりたかった。このとき、成田山を手引きして江戸で出開帳をやらせたのが、初代市川團十郎である。この縁で成田山が成田屋の語源になったようにも思うが、ちゃんとしたことは知らない。先日の十二代目市川團十郎の葬儀は仏教ではなく神道で行われた。成田山の「な」の字もなかったので不思議に思った。


(Wikipedia より。)

 上の図は市川家の役者文様である。「かまわぬ」を図柄にした洒落である。これを江戸の粋だという者がいるが、なに下手な駄洒落に過ぎない。私はなんの感興も呼び起こされない。

 成田山新勝寺は出開帳の昔から商売上手で、明治時代の電気鉄道ブームに乗って、鉄道を東京から成田山まで引くことに成功し(今の京成電鉄)、参拝客を何十倍にも増やすことができた。


(Wikipedia より京成電鉄。)

特定秘密保護法案に寄せて

2013-11-24 06:02:16 | マスコミ

asahi.com より引用。)

 マスコミは、特定秘密保護法案は国民の知る権利を侵すと言って反対である。つまり情報を出せと言う。

 一方、小学校の学力テストの結果を発表するなと言う。小学校が序列化されるからだそうだ。

 情報を出せと言ったり、隠せと言ったり、マスコミはいったいどうしてほしいのか?態度をはっきりさせてくれ!

(情報を出したり隠したりするのを、マスコミは自分が仕切りたいのかもしれないね。)

「日米同盟と原発」ー隠された核の戦後史ー、出版を歓迎する

2013-11-23 06:04:00 | 歴史
 1964年10月、わが国が東京オリンピックで浮かれていたころ、中国は核実験に成功した。それに対抗して、当時の佐藤栄作首相直轄の内閣調査室は(わが国が直接核武装するのでなく)原子炉とロケットを開発して「潜在的核保有国」としてにらみを利かせよと進言した。

 これ以前からの経緯を見ないと、軽々に原発反対、ロケット大賛成とは言えないのだ。「トイレがないから原発廃止」(小泉元首相)とか「イプシロンが早く商業ベースに乗るように頑張れ」といった意見は、思慮の浅いものと言わなくてはならない。

 マスコミ嫌いの私が今年2月に珍しく中日新聞を褒めた。私より若い世代の記者たちが過去を掘り起し、原子力やロケット開発の内幕を綿密に取材していたからである。とうとうその記事が単行本になった。これを読まずして念仏のように原発反対を唱えていても始まらない。

 この本は必ず何らかの賞を受賞するだろう。どこの組織がどういう賞を授与するか楽しみだ。この本に賞を与える組織はたぶん本物である。


(アマゾンより。)

中日新聞が道徳教育のタテマエを批判した

2013-11-22 04:05:32 | 教育

Well design ホームページより。)

 小学校でみんなで飼っているウサギが死んでしまった場合、ウサギ係の子をほかの子たちはどう論評したらよいかという道徳の授業の試験問題。

 「ウサギ係の子も悪いけど、僕たちもウサギ係の子に任せてしまって、注意が足りなかった」と答えるのが「正解」だそうだ。

 中日新聞は、このような優等生的な回答を道徳の授業が求めるなら、子どもたちはそれを暗記するだけであって真の道徳教育にはならない、と批判した。

 投書欄には、優等生的でいかにも道徳的な投書しか採用しない大新聞に、タテマエにいくらか異を唱える論調が出てきた。中日新聞だけかもしれないが中日新聞の一般記事にも、タテマエを回避するような姿勢が見られる。

 このような態度は、これまでサンケイ新聞にしか見られなったが、だんだん広がっていくのだろうか?

 道徳の授業をどうしてもやりたいと政府が言うなら、人間にはタテマエとホンネというものがあるのだ、ということを授業で教えるのが真の道徳教育だと、前に書いておいた

ある俳句の解釈

2013-11-21 00:09:55 | 俳句

(オリンパス・フォトパス・ダウンロードフリーより。)

 中学の俳句の授業で下記の句がテーマとなった。

    むめ(梅)一輪一りんほどのあたたかさ  服部嵐雪

 服部嵐雪は芭蕉の弟子である。この俳句の意味は2通りに解釈できるという。結論は、いろいろに解釈できるが、どのように解釈してもよいというようなことだったと記憶する。

 解釈(1)梅が一輪一輪開いていくごとに、だんだん暖かくなってくる。

 解釈(2)梅が一輪咲いた。暖かさも一輪程度のわずかなものである。

 その時の教師は小説を書いていて、それが芥川候補になったほどの腕前である。でも、俳句にはど素人だったと思われる。なぜなら、この俳句の解釈は(2)しかありえないからである。

 俳句では「ほどの」は「程度の」の意味である。俳句としても(2)の解釈の方が心を打つ。自分で俳句を始めてみて40歳”ほどに”なってやっと分かった次第。

旅館の「おもてなし」

2013-11-20 06:01:39 | レジャー

(阪急旅行社のホームページより。)

 私の母の世代の人はホテルより旅館を好む。ホテルは洋室で落ち着かないという。旅館は上げ膳据え膳だからよいという。

 私たちの世代は、どちらかというとホテルを好む。従業員に出入りしてほしくないし、据え膳ではなくレストランで自分で選んで食べたい。

 あまり有名でない温泉地には旅館しかないから旅館に泊まる。上げ膳据え膳である。だが、その後がいけない。食事が片づけられたあとに、ふとんが敷かれるが、その間ベランダのような場所によけていなくてはならない。私はこの瞬間がいやなのだ。

 なんだか気づまりである。でも考えてみれば、部屋を2つにして寝室と居間を別にしておけば、この問題は解決する。すなわち、2部屋使うだけの料金を、われわれは支払っていないのだ。「おもてなし」を十分受けるだけの客ではないということだ。

読書週間に寄せて・・オールひらがなの絵本はやめてくれ

2013-11-19 06:08:28 | 読書

(EhonNavi より。)

 文章を全部ひらがなで書かれると読みにくい。これは子どもも同じで、絵本がオール平仮名で書いてあるのは疑問だ。絵本も漢字かな交じり文にして、ルビを振ればよい。

 新聞は戦後からルビを振らなくなった。「目が悪くなる」という理屈づけだったようだが屁理屈である。活字組みを省略したかっただけで、要するに原価を安くしたのだ。(今、コンピュータ活字でルビに特段の費用はかからないのだから、ルビを復活せよ。)

 漫画はむかしからルビを使っていた。私は漫画から漢字を覚えていた時期があった。小学校2年生くらいだっただろうか?漫画は驚くほど漢字の誤字がないのだ。

 幼児用の絵本に漢字を入れてほしい。漢字にルビを振れば子どもの日本語力は確実に上がるはずだ。(絵本会社や絵本作家は無理にオールひらがなにしているように思えてならない。)

読書週間に寄せて・・読み聞かせと紙芝居は等価である

2013-11-18 05:46:46 | 読書
 読書週間だからか「子どもに絵本の読み聞かせをしましょう」との声がまた聞こえる。読み聞かせをしても子どもが読書好きになるとは限らないとは、もう6年前に書いた

 読み聞かせを奨励して、紙芝居を奨励しないのはなぜだろうか?私が幼いころ、拍子木で子どもを集めて、水あめやソースセンベイを売って紙芝居を見せる紙芝居屋が来るのが楽しみだった。読み聞かせと紙芝居は本質的に同じものである。


(Wikipedia より。)

 紙芝居屋はやがてテレビに駆逐された。ということは、紙芝居とテレビは等価である。したっがって、読み聞かせもテレビと等価であると私は思う。

 テレビでは子どもが読書好きにならないと言うのなら、読み聞かせでも読書好きにはならない。

 読み聞かせが文字を覚える訓練にはならないことが日大や公文研究所の研究で分かった。読み聞かせを受けている最中の子どもの大脳は、コミュニケーションと関係する前頭前野は活発には働かず、むしろ情動と関係する大脳辺縁系が活発に働いていたという。これはすなわち、テレビアニメを見ているときの脳の働きと同じである。

 テレビになくて読み聞かせにあるものは親子のスキンシップだけである。どちらも読書とは何の関係もない。

読書週間に寄せて・・高価な古本

2013-11-17 06:06:31 | 読書
 学問的な価値が高く、かつ珍しい本を「稀覯本」という。こういう書物が何百万円もするのは分かる。

 世には初版本マニアという人がいて、芥川賞直木賞の初版本を集めていたりする。戦前の本で、発行部数が少ない初版本が何百句万円もすると「開運!なんでも鑑定団」で知ったが、それらを何百万円で買う人がいるのだろうか?作家の記念館などが買うのだろうか?

 私も一冊だけ初版本を持っている。下の安倍公房の「水中都市」である。高校生のころ定価で買った。書店にはなく取り寄せてもらった。それがたまたま初版本だった。出版社は「桃源社」という会社だったが、書店の女店員が「ちょうげんしゃ」と読んでいたことを今でも覚えている。この人は陶淵明の「桃源郷」を知らないのだなと印象に残ったから。


(NatsumeBook ホームページより。)

読書週間に寄せて・・書籍の市場、変わる

2013-11-16 06:35:49 | 読書

(文教堂書店ホームページより。)

 あまり大きくない書店は、ある意味、気楽な商売だった。「取次ぎ」が持ってくる本をそのまま並べておくのが仕事だった。売れなければ「取次ぎ」に返品すればよい。

 その代わりに、店に並べられる本は「取次ぎ」に言われるままになった。書店が自らの好みによって本を選ぶことはできなかった。

 書店にとって客から本を注文されるのは、じつはさほど嬉しいものではなかった。それらは「取次ぎ」がもってきた本ではないから買い取らなくてはならない。もし客が本を引き取りに来なかったら、まるまる書店の持ち出しとなる。

 書店は嬉しくない注文を引き受けたものだから、熱心になれない。書店が熱心でないから、出版社も熱心でなく、本という商品は注文すると2か月待たないと届かないというのが相場だった。2か月待って、「すでに絶版になっていました」というアホな回答しか得られないことがしばしばあった。

 アマゾンなどのネット書店が急進した理由に、古本も同時に売っているということがあった。ここなら待たずに、必ず希望の本が手に入る。2か月待って「絶版でした」というストレスはありえない。アマゾンは翌日来る。宅配便の機能をフルに使って、送料はただである。

 良心的な書店から、「取次ぎ」は嫌われていた。「取次ぎ」は「日販」と「東販」の2社しかなく、書籍市場を支配していたからである。

 アマゾンの進出によって、「取次ぎ」は市場のかなりの部分を失った。

 だが、なんだかんだ言ってもすぐに電子書籍が発展してきて、アマゾンなどもこれまでのような宅配便を駆使した商売はできなくなるだろう。むろん「取次ぎ」は廃業するだろう。

 まったく栄枯盛衰が早すぎる。私はアナログな世界にいてよかったと心から思う。