院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

日本医師会がTPPに反対する本当の理由

2013-03-31 01:08:46 | 医療
 現在、保険診療と自由診療を同時に行うことは法令で禁止されている。これらを同時に行うと、なぜ国民皆保険制度が崩壊するのか、やや理解しにくいかもしれないが、すでにマスコミで説明されているので、ここでは述べない。

 日本医師会はTPPに加入すると国民皆保険制度が危ないと言っている。これは本当である。国民皆保険制度の崩壊は国民も困るし日本医師会も困る。この点では、国民のニーズと日本医師会のニーズは一致している。

 では、なぜ日本医師会が困るのだろうか?ここからが国民の知らない部分である。それについて以下に述べる。

 医者は診療すると、診療報酬を健康保険支払基金(以下、単に支払基金)に請求する。よほど奇妙な請求でなければ、支払基金はだまってお金を支払う。支払基金の支払いの仕方は出来高払い、すなわち診療を行った分だけ天井知らずに支払いをする。

 ところが、国民皆保険制度が崩壊して、国民が民間の医療保険に入ったらどうなるか?民間の医療保険会社は営利企業である。だから、絶対に来高払い方式をとらないと日本医師会は見ている。

 民間保険会社は、病気Aなら金額の上限はここまで、治療は何回まで、これこれの薬を用いなくてはならない、または用いてはいけない、などなどの条件をつけてくるはずだ。病気Bにも病気Cにも条件が付けられ、それ以上は自由診療でということに必ずなる。

 つまり、医者の裁量に制限が加えられるようになる。日本医師会はこれがイヤなのだ。日本医師会だけではなく、私も含めたすべての医者がイヤである。民間保険会社のような素人に医者の裁量を左右されてはたまらない。

 いつぞや、日本医師会と支払基金とは犬猿の仲だと述べた。しかしながら、支払基金は民間保険会社よりはずっと(医者にとって)ましなのだ。少なくとも金額の上限を設けたり、回数を制限することはない。

 医者は素人に指図されることをもっとも嫌う。日本医師会がTTPに反対することの本質は実はこの点にあることを、ほとんどの国民が知らないから、ここで述べてみた。

(日本の保険会社であろうと外資系であろうと、保険料を安くする競争が起きる。その結果、医療費を安くさせようとする圧力が生じるだろう。つまり、医者の技術や知識が買いたたかれるような仕組みになるということだ。)

節約か?習慣か?

2013-03-30 01:14:33 | ファッション
 幼いころ、冬にはジャンパーを着せられた。そのジャンパーは、裏地を外にひっくり返すことができた。裏には、表とはまったく違う色と柄の生地がはってあった。つまり、裏返すと別のジャンパーのように見える仕掛けになっていた。チャックは表裏の両方から開けたり閉めたりすることができた。

 こうして、一着なのにあたかも二着のジャンパーをもっているように見せることができた。貧しい時代におしゃれをする、めいっぱいの工夫だった。

 だから、初めてEP盤のレコードを見たとき、B面もカットされているので、これはレコード盤の材料エボナイトを節約するための工夫だろうと思った。

 ところが、高価なLP盤でも両面がカットされていた。エボナイトごときを節約してもLP盤の値段から考えれば焼け石に水だろうと、疑問だった。

 1枚半組のLPというのがあって、見たら2枚目は片面しかカットされていなかった。なーんだ、やればできるんじゃないか。これによって、LPの両面がカットされているのは、節約ではなくて習慣もしくは惰性だと分かった。

 じっさい、CDの時代になったら、両面をカットしたCDはさすがに出なかった。(CDもカットしようと思えば、両面ともカットできるはずである。)

 SPからEPへ、そしてLPの時代まで両面カットをしていたのに、CDから片面カットにしたのは、どういう心境の変化だろうか?

テレビ番組「ほこたて対決」

2013-03-29 05:35:55 | 学術
 A社は「わが社のドリルはどんなものにでも穴をあける」と主張し、B者は「わが社の超合金は絶対に穴をあけることができない」と主張する。それなら、両者を対決させてみたらどうか、という観点から「ほこたて対決」という番組ができた。

 「ドリル対超合金」の番組では、主にドリル会社の新ドリル開発の様子が追跡されていた。ドリル会社は全社をあげて、ドリルの開発に取り組んだ。責任者は懸命になって、実験と研究を重ねた。その技術屋魂は感動的でさえあり、ひとつのドキュメンタリー番組として成立するほどだった。

 結果として新ドリルは超合金に穴をあけることはできなっかったが、すがすがしい後味を残した。このような番組は、わざわざ映画に撮るほどではなく、結果が分かっているからDVDにすることも不向きで、テレビならではの領域だと思われた。

 この番組の看板に「マニア対プロ」というコーナーがある。たとえば京成電鉄マニアというのが出てくる。とにかく京成電鉄のことは、車両の種類からダイヤの組まれ方までなんでも知っている。そして、京成電鉄の職員と、どちらが京成電鉄についてよく知っているかをクイズで競うのである。

 マニアにはいろんな種類のマニアが出てくる。たとえば漫画「ワンピース」のマニア、漫画「ドラゴンボール」のマニアなど。彼らは漫画の細かいところまで、おそろしくよく知っている。主人公が敵を相手に作戦を立てた時のテーブルに乗っていたワインボトルには何と書いてあったか?など、ストーリーに無関係なことまで覚えている。

 そこまで細かく漫画のことを覚えるならば、歴史や地理のことでも覚えたほうがまだ役に立つっだろうと思えるのだが、役に立たないことに熱中するのがマニアのマニアたる所以だろう。

 実はあまりマニアとは呼ばれないが、それに近い人たちはいくらでもいる。たとえば、彗星ハンター。彼らは毎晩一日も欠かさず、望遠鏡で夜空を眺めている。たとえば、アマチュア考古学者。彼らは発掘に余念がない。

 さらに、マダガスカルのカメレオンの種類を勘定している人。アフリカの奥地のナントカ蛙の生態を調べている人。彼らはなぜ、そんな役にも立たないことを調べているのか、理由がよく分からない。ただ、彼らがマニアと呼ばれないのは、それを職業としている研究者だからである。

 なぜ、そんなことを研究しているのかと思わせる研究者は、たいてい白人である。白人の社会は他の社会よりも豊かで、そのような研究者を食べさせることができるからである。

 この事実を敷衍すれば、マニアがマニアとして存在しうるのは、彼らを取り巻く社会が十分に豊かで、食うに困らないからに他ならない。

一流に疲れる・その2(酒場放浪記)

2013-03-28 05:30:38 | 社会
 高度経済成長が進むにつれて、これまで特別な日にしかしなかった外食が日常的に行われるようになった。

 料理漫画「包丁人味平」が始まったのが1973年、5分間のテレビ番組「食いしん坊!万歳」が始まったのが1974年である。庶民の料理に対する興味は高まっていき、1983年から始まったグルメ漫画「美味しんぼ」は空前の大ヒットとなった。

 私がグルメという言葉を初めて知ったのもそのころだった。患者さんが「今日はグルメを食べてきた」と言った。グルメとは料理のことかと調べてみて、料理ではなく食通のことだと知った。

 老舗のレストランや料亭はもとより、続々と新規の店が開業し、それぞれに味を競うようになった。

 こうして庶民の料理への欲望はさらに膨らみ、テレビ番組「料理の鉄人」などが高視聴率を得た。現在でもグルメ番組は続いている。それらはレポーターを店に走らせて、一流の料理をさもうまそうに食べるシーンを流している。

 話は変わるが、BS月曜日午後9時からの「酒場放浪記」という番組がとても面白い。俳人の吉田類さんが、東京や地方のなにも特徴のない居酒屋を訪問して酒を味わうという、ゆるーい番組である。

 名もない居酒屋だから特別な酒が置いてあるわけではない。料理も素人が間に合わせに作ったような料理だ。ひどいときには電子レンジでチンしただけの料理が出てくることもある。こだわりなぞとは無縁である。

 レポーターの吉田類さんが、その料理をうまいうまいと言って食べる。女将の心づくしの料理だなぞと世辞を言うこともある。この番組は、ついつい引っ張られて見てしまう。

 思えば私たちがいつも行くのはこのような居酒屋ではなかったか。芋の煮っ転がしやレバーのカツが出てくるような一流でもなんでもない店である。そのような居酒屋をただ淡々とレポートしているから惹かれるのだろう。安心できるのだ。

 この番組は、現在みな再放送である。5,6年前のビデオを流している。当時は注目されなかった番組なのだろう。それが今、注目されるのは、私たちが一流料理人たちのこれでもかというパフォーマンスに疲れてしまったからではあるまいか。

 豪華な一流料理に食傷してしまうと、私たちが戻るべき店はこういうところなのだと思い出して、ほっとするのである。

一流に疲れる・その1(ゆるキャラブーム)

2013-03-27 04:36:32 | 社会
 私たちは一流の仕事を見せつけられすぎて、疲れてしまったのではないか?

 つまり、こういうことである。私たちは優れたデザインに囲まれている。自動車会社は毎年デザインの粋を尽くした車を発表する。家電製品はグッドデザインマークを望んでデザインされる。家具は北欧のデザイン性に優れた商品が珍重される。建築は安藤忠雄さんが持てはやされ、少しでも新しいデザインが追求される。

 わが国は戦前まではここまでデザインにうるさくなかった。だから、デザインにこれほど金をつぎ込むことはなかった。そのため、デザイナーという商売が成立しにくかった。

 昭和27年、専売公社はたばこのピースのデザイン(鳩が月桂樹をくわえている図柄だ)を、アメリカのデザイナー、レイモンド・ローウェイに当時の金で150万円を出して頼んだ。総理大臣の月給が11万円の時代にである。

 ピースのデザインは現在でも残っているし、いまだに斬新である。そのころから、デザインはおろそかにしてはいけない、金を積まなければ良いデザインはできないということが理解されるようになった。

 こうして私たちは、優れたデザインに囲まれるようになった。デザインにはデザイナーの執念が詰まっている。それらの執念は、さあどうだと毎日私たちに迫ってくる。そのような現状に、私たちは少し疲れてきたのではないかと言いたいのである。

 いま、ゆるキャラブームである。ほとんどのキャラクターは、ダサい。役場のおじさんが片手間に作ったような「作品」ばかりである。ご当地のゆるキャラに順位をつけて、熊本のクマモンが一位だという。昔ならほとんど信じられないことである。

 クマモンが一位になったのは、まぐれである。あんなに取るに足りないキャラクターたちに順位を付けること自体がお遊びのようなものである。だが、クマモンの経済波及効果は1000億円というから、あながち侮れない。

 そのような現象が生じるのは、私たちが一流のデザインに疲れてしまったからではないか?というのが、ここでの私の主張である。末流のデザインであるゆるキャラは私たちを安心させてくれるのではあるまいか。

 同じような現象が、料理の世界にも出てきているように思われるのだが、それについてはまた次回。

動物モデル

2013-03-26 00:22:41 | 学術
 実験動物として有名なのは、ヌードマウスである。このマウスは毛がないからそう呼ばれるのだが、毛がないことがこのマウスの特徴ではない。

 このマウスには免疫機構がない。だから、無菌室で育てなくてはならない。免疫機構がないから、他種の動物の組織を移植しても拒否反応を起こさない。そのため、がん細胞を移植して観察することができる。

 ほかに私が知っている動物モデルに、キンドリングマウスがある。このマウスは、空中に放り上げると、てんかん発作を起こす。このマウスに、抗てんかん薬を投与すると、一回放り上げても発作を起こさなくなる。この性質を利用して、何回放り上げるとてんかん発作を起こすかによって、発作を起こす閾値が計測できるようになった。

 私の恩師、故青木久生先生は、家系的に高血圧症を起こすラットを開発した。このラットによって高血圧症の治療が格段に進歩した。青木先生はこのラットによって世界的に知られ、このラットは青木ラットと呼ばれている。

 東大の精神医学グループは、猿で統合失調症のモデルを作った。覚せい剤中毒者がしばしば統合失調症のような症状を呈することから、猿に覚せい剤を注射し続け、猿が一見、慢性の統合失調症のようになるようにして観察した。しかし、この猿は本当に統合失調症になったのか証明できなかった。青木ラットのように遺伝しないから、その都度覚せい剤を投与しなければならず、現在ではこのような猿を作っているとは聞かない。

 私が20代のころ、マウスでうつ病モデルを作ろうと一生懸命になっている先生がM大にいた。彼はマウスを輪の中で強制的に走らせ続け、マウスにストレスを与えた。だが、私はこの努力はうまくいかないだろうと思った。なぜならば、うつ病はストレスだけが原因ではないから。もう一つは、マウスを走らせ続けることが必ずしもストレスになるとは限らないから。

 4,5年でその先生は、うつ病マウスを作るのを諦めた。あれから30年以上、うつ病マウスはまだできていない。そして、うつ病マウスを作ろうとしていた先生が昔いたことを、もう誰も知らない。

滅びゆく立食い寿司屋

2013-03-25 02:46:55 | 食べ物
 寿司をベルトコンベアで運ぶ寿司屋は、すでに昭和40年代には存在したらしいが、回転寿司として全国的に普及したのは、ずっとあとのことである。

 回転寿司よりも先に、廉価な寿司をテークアウトさせる寿司チェーンが全国的に広まった。時代はまだ平成になる前である。

 私が名古屋に住んでいたころ、近くにその寿司チェーンが進出してきたので買ってみた。それが、あまりにまずいので驚いた。寿司と呼べるようなシロモノではなかった。ネタを云々する前に、シャリ(ご飯)がべちょべちょなのだ。あたかも水でも一回かけたようなシャリだった。その店では二度と買わなかった。

 回転寿司が百円寿司として、どんなネタを食べても百円という触れ込みで開店したのは20年ほど前だっただろうか?

 その回転寿司に新卒の医者たちが喜んで行くので、一回付き合った。テークアウトの寿司屋よりシャリがましだったが、どうしても百円でまかなえるネタには限界があった。それっきり私は回転寿司には行かなくなった。

 現在馴染になっている普通の寿司屋は、そのころ見つけた。だから、その寿司屋の娘が幼児だったころから嫁に行くまで全部知っている。20年間通って気が付いたことがある。それは、若者が寄り付かないことだ。つまり、新たな客層を獲得できていない。

 息子に聞いてみると、普通の寿司屋のカウンターより回転寿司のほうが落ち着いて食べられるという。板前と対面ではかえって気を使うし、なによりネタが「時価」というのが怖いのだそうだ。なるほど、もとっもである。

 そこで再び回転寿司に行ってみた、そうしたらすべて百円という形式はすでになく、ネタごとに値段が違っていた。それでも普通の寿司屋よりも安い。もっと驚いたことには、その寿司がけっこううまいのである。

 既存の寿司屋が若者を引き付けないわけが分かった。でも、既存の寿司屋は回転寿司より下のネタを使うことは、寿司職人の誇りにかけてできないだろう。こうして、銀座などの一部の高級店を残して、並みの寿司屋は回転寿司に淘汰されるだろう。

 そして、カウンターをはさんで板前と話をしながら食事を楽しむという、世界に類を見ないわが国の食事形態は、私たち常連客が滅びるのに合わせてあと10年あまりで滅びるだろう。

漫画家・つげ義春さん

2013-03-24 00:18:36 | 漫画
 漫画家、つげ義春さんの名前を知っている人は、よほどの漫画マニアかけっこう年配である。

 昭和40年代に「ガロ」という漫画雑誌があった。白戸三平さんが忍者ものを描いていた。ちょうど漫画より写実的な「劇画」が登場したころで、さいとうたかおさんの「ゴルゴ13」もこのころ始まった。

 つげ義春さんはこの「ガロ」に何篇か読み切りを寄せた。漫画ファンだった私は、こんなに面白い作品はこれまでになかったと思い、毎月「ガロ」が発売されるのを心待ちにした。

 つげ義春さんは水木しげるさんのアシスタントをしていた人で、背景の茂みは水木さんと同じく詳細に描きこまれていた。

 作品で印象に残っており、かつ世評もよかったものが「李さん一家」、「紅い花」、「ねじ式」である。「紅い花」はテレビ映画化もされた。

 だが、その後のつげ義春さんの消息は分からない。昭和60年ころ20年ぶりに漫画集を出したが、さして面白くなかった。伝え聞くところによると、つげ義春さんは神経症で、耐久力がないらしいとのことだった。

 世間では「ねじ式」が最高傑作だと、おおいに讃えられたが、高校生だった私にはそうは思えなかった。実験作としてなら、夢のような不条理や脈絡のなさを漫画にした功績はあるけれども、大衆作品としての面白さはなかった。あれ以上の実験はさらにわけが分からなくなるだけで、事実、つげ義春さんはそこで行き詰まった。

 「ねじ式」の冒頭に出てくる正座をした男性の細密画は、アイヌ団体会長の写真の模写である。この写真は当時の「文芸春秋」誌の見開きに掲載されたものである。これまで誰も指摘しないから、私がここで指摘しておく。(当時、他人の写真作品を絵画に模写するのは盗作と言えるのではないかという議論が、油絵の世界であった。)

 話を戻すと、「ねじ式」は新し物好きの連中が高く評価しただけで、作品としては面白くない。やはり「紅い花」が最高傑作であると私は思う。赤い花によって少女の初潮を示し、少女のエロチシズムをあそこまで描き切った作品を、小説の世界にも映画の世界にも私は知らない。漫画という表現形態をもってして初めて可能だったのではないかと私は思っている。

 「ねじ式」という前衛が称揚されたのは、当時さかんだった学生運動と無関係ではないだろう。学生運動家は前衛を好んだ。これは世界的な風潮で、ビエンナーレ(という国際的な美術展)にも今思えばわけの分からない「作品」がたくさん出品された。

 そうした中、私は希望に燃えて大学に進学していったのだった。

「脳科学」とは何か?

2013-03-23 02:34:20 | 科学
 神経心理学または大脳病理学と呼ばれる学問分野がある。これは、脳のどこがやられると、どういう症状が出るか、またはどういう機能が失われるか、ということを研究する学問分野である。

 この学問は戦争があると進歩するが、そうでないときにはほとんど進歩しない。なぜかというと、脳がピンポイントで破壊されるケースは銃創によるもので、そのような「症例」が多産されるのは戦争をおいてないからである。

 脳のどこそこがやられると認知がこうなるという知識が蓄積された。これらは脳機能の局在論を支持するものであるが、神経心理学はこうした知識の蓄積から脳機能や精神機能全体を推し量ることはしなかった。

 一方、いま流行の「脳科学」だが、そもそも「脳科学」という学問分野は存在しない。新しい脳の観測技術が出てきて、脳の血流などを測れるようになった。脳のどこが活発だとどんな精神機能が起こるということが、いくらか推測できるようになった。しかし、脳の血流が活発な部位が「活動している」と解釈するのは飛躍である。そうした飛躍の上で、「脳の活動」と精神機能を強引に結び付けようとしているのが、「脳科学」を標榜する学者もどきがやっていることである。

 「脳科学」はエセ科学である。私には「脳科学者」は、ロールシャッハテストをやっているように見える。ロールシャッハテストは無意味な左右対称のインクの染みを見せて、それが何に見えるか問うテストである。

 ロールシャッハの図版に動物の像を見た人がいるとしよう。その人は「ここが耳でしょ」、「ここが鼻でしょ」と説明する。そうすると説明された人にも、無意味な図形の中に動物の像が見えてくる。

 脳の観測データの山に対して、「脳のここの場所の活動が活発になるでしょ」、「刺激を与えると、こんどは別の場所が活発になるでしょ」、「そうすると、脳は感情が昂ぶるわけです」、「前頭前野は意志をつかさどっていますから、次はこうなります」というように、勝手な解釈を延々と繋げていく。こうした発想をロールシャッハと言わずになんと言ったらいいだろう。

 本来の研究データを知らない聴衆は、なんだかそのような気分にさせられてしまう。これは、まさしく騙しのテクニックである。自ら「脳科学者」と名乗って、テレビや雑誌に出ずっぱりのM氏は年に億単位の金を稼いでいるという。大衆やマスコミを騙して大金を稼いでいるのである。

日本の季感

2013-03-22 00:08:13 | 俳句
 日本の技芸には季節感を重用するものが多い。

 例えば茶道。季節ごとに出すお茶が違うらしいが詳しくは知らない。掛け軸や活花など、季節ごとに取り換えて遺漏がない。

 能もまた季節ごとに出す演目が違っている。夏にしか演じない演目や、その逆があるらしい。

 日本料理もそうだ。素材には季感があるものが使用される。促成栽培の野菜や果物はまず出てこない。

 俳句も季節がきわめて重要である。伝統俳句の派は季感がない(季語がない)句を俳句と認めない。

 俳句では四季だけでなく、季節の移ろいに敏感に反応することがある。例えば「探梅」という季語がある。文字通り、梅を探して歩くことだが、内容はそれだけではない。

 「探梅」を行う時には梅はまだ咲いていないのである。咲いていないのに梅を探して歩くのを、あえて「探梅」という。(すでに咲いている梅を探すことは「探梅」とは言わない。)

 季節を先取りするような姿勢が、俳句にはある。また過去の季節の余韻を楽しむ姿勢もある。

 例えば「葉桜」という季語は、たんには葉っぱだらけになった桜という意味だけではなく、そこには満開だった桜を惜しむ感情が含まれている。

 ちょっと季節にこだわりすぎではないかと思われるほどである。

公害と共にあった昭和レトロ

2013-03-21 05:15:40 | 環境
 江戸時代の江戸はほとんど完璧なリサイクル都市だったという。反故を買い集める人間がいて、その反故をとりまとめて整理する問屋があったりする。糞尿さえ肥料として売買されていたというから、無駄なものはないようにできていた。

 私の祖母の時代までは、非常にものを大切にする精神がつらぬかれていた。「ご飯粒を残すと目がつぶれるよ」と言われた記憶のある読者も多いだろう。明治女の祖母は浴衣が古くなると手拭いにして、さらに古くなると雑巾にした。雑巾も7回洗えば顔が拭けるようになるといって、祖母はじっさいに私の前で雑巾で顔を拭いた。

 少々匂いがするようになったご飯でも捨てずに食べた。これは祖母だけではないだろう。世の中全体に質素な風潮があって、捨てるということをしなかった。空き瓶がたくさん貯まるということもなかった。醤油や油は量り売りだったから、瓶をもって買に行った。今のように、各種の瓶や食品のトレーがゴミになることもなかった。

 紙ごみはバタ屋という紙ひろいの人がいて、集めて生活していた。バタ屋は元締めのところで紙ごみを買ってもらった。瓶や空き缶はくず屋が買ってくれた。くず屋はリヤカーを引いて「くずやー、おはらい」と掛け声をかけて町内を流していた。くず屋は重りの付いた天秤をもっていて、それで重さを量って空き缶を買って歩いた。そのため、ごみを分別するという発想は市民にはなかった。

 小学校1年生の同級生に、くず屋の元締めの子がいた。その子の家に遊びに行ったら、広いタタキにいろんな廃物が分別して置いてあった。金属、ガラス、まだ使えそうな廃品が別々に区別されていた。子供心に「物資はこのように流れていくのだな」と分かった。大変な社会勉強になった。

 だが、そのころすでに東京のごみ問題は発生していた。大八車で東京都がごみを集めに来たが、それではとても間に合わなかった。近くの目黒川は、ごみの山が流れていた。流れていたというよりも詰まっていた。東京のごみの集積場である夢の島をどうするかが大問題となっていた。いわゆる、東京ごみ戦争である。

 隅田川では夏の花火大会が開かれていた。そのころ、まだ隅田川はひどく汚染はされていなかった。工場排水などで隅田川がどぶ川となり、花火大会が中止されたのはそれから2,3年後のことだった。私は隅田川の花火大会に父親に連れて行ってもらった。昼間は色付きの煙の「花火」をやっていた。色のついた発煙筒が落下傘でたくさん降ってくるのだが、このような「花火」をあれ以来見たことがない。近くの店で生まれて初めてハヤシライスを食べた。こんなにうまいものが世の中にあるのかと思ったが、それはまた別の話。

 このころから「三丁目の夕日」の昭和レトロが始まる。同時に環境汚染もひどくなっていった。私は中学2年生のころ、写真に凝り始めてアサヒカメラというアマチュアの写真雑誌を買ってもらった(この雑誌は今でもある)。その時の応募作品の1位が四日市の石油コンビナートを撮った作品だった。プラントがもくもくと煙を排出し、近くには黄土色のボタ山のようなものが映った写真だった。信じられないかも知れないが、講評には「コンビナートの堂々たる姿は未来へのエネルギーを感じさせる」とあって激賞されていた。それとほぼ同時に四日市ぜんせくが問題となり、コンビナートの評価は180度転換してしまった。世の評価の手の裏を返したような変わり身の早さを肌で感じた。

 隅田川の花火大会が再開されたのはいつことだったろうか?私の大学生時代のことではないかと記憶する。それまで、どぶ川だった隅田川はすっかりきれいになった。大学の医学部では、公衆衛生の授業はすべて公害問題だった。大気汚染、水質汚濁、騒音公害などがしきりに言われるようになり、私たち医学生は大気汚染のSOx の測り方、騒音の測定の仕方(騒音を70ホンとか80ホンと表示する電光掲示板が渋谷駅に立てられていた)、塵肺のX線フィルムの読み方などを教わった。

 そのころには目黒川もきれいになっていた。目黒川の私の初体験はごみの川だった。だから、目黒川に魚が住んで少年が鯉を釣っては川に放しているのを見たときには、汚染をこれほどまでにきれいにしてしまう人間の力に感動した。

 こんどは名古屋の新幹線騒音訴訟が始まろうとするところだった。

子どもの育ち方は環境と無関係?

2013-03-20 00:16:03 | 心理
 私たち精神科医は、崩壊家庭は情緒障害や非行の子どもを生みやすいと思っていた。子どもの発達には家庭環境が大きくものを言うと考えていた。これは昔からのことで、孟母三遷すとか、朱に交われば赤くなるとか、子は親の背中を見て育つとか、氏より育ちとかいって、親を初めとする環境が子どもに及ぼす影響は計り知れないというのが常識だった。

 ところがドイツの科学ジャーナリスト、R.デーゲンは、そうではないという。彼が言うに、たまたま情緒障害の子どもの家庭を調べたら崩壊家庭だったかもしれないが、崩壊家庭であったことが情緒障害の原因とは言えないのだそうだ。崩壊家庭と情緒障害や非行を結びつけるにはエビデンス(証拠)がないとデーゲンは主張する。

 つまり、こういうことだ。公平に調査をして情緒障害児や非行少年が出てくる家庭を見てみると、普通の家庭からそのような少年が出てくる確率と、崩壊家庭から出てくる確率に違いはないというのだ。すなわち、崩壊家庭とそのような少年には関係があるとする仮説にはエビデンスがないということになる。

 同じことが児童虐待にも言える。虐待された子どもは大人になると、ふたたび自分の子どもを虐待するようになると言われている。虐待の連鎖という考え方だ。しかしながら、デーゲンがいろんな調査を調べてみると、虐待している親がそのまた親に虐待されていた確率は、一般人口に発生する虐待の確率より大きいわけではないから、虐待の連鎖という主張にはエビデンスがないという。だから虐待の連鎖は神話に過ぎないとデーゲンは結論付けている。

 私たちは子どもとは白紙のようなもので、外部からどのような色でも付けることができると教わってきた。じじつ日本人の子どもは日本語を、イギリス人の子どもは英語をしゃべるようになるではないか。

 デーゲンは言語のことについては言及していないが、子どもイコール白紙説を排除する。子どものほうが環境を選び、親をしてなんらかの行動を起こさせるのだという。確かにきちんと調査しなければ、本当のことは言えない。要は厳密に統計をとることだ。その結果もし、情緒障害や非行が環境と関係があるという主張にエビデンスがなければ、そういった子どもをもつ親たちは周囲の白い目から解放され、相当に救われるにちがいない。そして冒頭に掲げた諺や言い習わしは、思い込みに過ぎないと捨て去られることになるだろう。

註:ロルフ・ゲーデン著『フロイト先生のウソ』、文芸春秋、2006年。

スープは音を立てて飲んではいけないのか?

2013-03-19 04:23:56 | 食べ物
 むかし、スープを飲むときには音を立ててはいけないと教わった。少年の私は、そんなこと可能だろうかと思った。音を立ててすすらなければ、熱くて飲めないではないか?

 しばらくして、スパゲティーも音を立ててすすってはいけないと教わった。蕎麦のたぐいは、すすって食べるからおいしいのではないか?

 自前でフランス料理を食べられるようになってから、スープとは熱いものではないと知った。これなら、すすらなくても飲める。

 スパゲティーもすぐに冷めてしまうので、音を立てずに食べることが可能だと分かった。でも、うどんや蕎麦で育った私は、スパゲティーも音を立てて食べなくてはおいしくない。日本人はそれがマナーだからという理由で、熱くても音を立てずにスパゲティーを食べている。

 いつぞやこの欄に書いたが、そもそも西洋人は、すするという動作ができない。そのためラーメンをすすって食べることができず、ラーメンが十分冷めてから(すなわち麺が伸びきってから)音を立てずに(立てることができずに)食べている。あれでは、おいしくもなんともない。

 西洋人ができないことをすると(音を立ててすすると)マナー違反というのは、おかしい。料理の温度が違うのだ。

 味噌汁は世界でもっとも熱いスープだという。当然、音を立てなければ飲めない。和食がいま世界でブームである。それなら、食べ方も世界的になるべきで、すなわちすする食べ方を西洋人は認めなくてはならない。日本人も西洋料理を堂々とすすって食べるべきである。

 イタリアで音を立ててスパゲティーを食べると、いっせいに振り向かれるという。彼らの文化にない食べ方だからだ。でもここは日本だから、私は一人なら、すすってスパゲティーを食べる。娘と一緒に食べるときは、娘が恥ずかしがるから仕方なく音を立てずに食べている。

国旗の掲揚

2013-03-18 05:00:41 | 生活
 官公庁が国民の祝日には日の丸を掲揚していることに気付いている人は多いだろう。

 私の祖父(明治生まれ)の時代には、官公庁のみならず各家庭が家々に日の丸を掲揚していた。それは、ごく当たり前の風景だった。

 父(大正生まれ)の時代になると、日の丸を掲揚しなくなった。隣近所が掲揚していないのに、自分の家だけ掲揚するのは憚られた。

 日の丸君が代問題がやかましく言われたころで、そんな中、あえて日の丸を掲揚すると、主義主張があるように思われるのが嫌だったのだろう。

 こうして、家々は日の丸を掲揚しなくなった。それに拍車をかけたのが、集合住宅の繁栄である。マンションには日の丸を掲揚するべき門がない。

 日の丸を掲揚しなくなっても、一戸建ての家にはまだ鯉のぼりなら揚げる家があった。今でも地方では鯉のぼりが揚げられている。

 だが、名古屋ではやがて鯉のぼりも揚げられなくなった。それは、鯉のぼりが流行遅れということではなく、若い夫婦が一戸建てに住めなくなり、一戸建ての家には老夫婦だけが住むようになって、子どもがいなくなったからである。次は当時の私の俳句である。

   この町につひに幟を見なくなる  昭和63年ころの拙句

 幟(のぼり)とは俳句では鯉のぼりのことを指す。

 今、日の丸を見ることができるのは、外国の要人が来日したときに日本の児童が振る小旗くらいになってしまった。(あるいは右翼の街宣車の車体に描いてある。変に日の丸を掲げると右翼と間違えられる可能性がある。)

 かなりのイタリアレストランがイタリア国旗を店頭に掲げている。海外の日本食レストランは日の丸を掲げているだろうか?

 各家庭で日の丸を持っている人がどれだけいるだろうか?私は日の丸を持っていない。デパートなら日の丸は風呂敷売り場にあると聞いたが、そもそも現在、風呂敷売り場という売り場があるのだろうか?

ありえない都市・東京

2013-03-17 00:16:53 | 文化
 名古屋に住んでいたころ、遠方から友人が来ると案内する場所がなくて困った。名所といえば名古屋城くらいで、ほかにめぼしいところがない。名古屋城も天守閣と公園があるだけで、それでお終い。季節には菊花展などをやっているが、私もおそらく友人も興味がない。

 さいきん名古屋めしとして全国的に有名になった味噌カツや味噌煮込みうどんは、一度食べてみる価値があるだろう。これらは非常においしい。いずれも八丁味噌により作られている。(八丁味噌は米も麹も用いないらしい。味噌樽や味噌置き場に染みついた麹菌が働くのだろうか?不思議である。)

 高校を卒業してから単身名古屋に来て、驚いたのは味噌汁のうまさだった。八丁味噌の味噌汁で、現地では赤だしと呼ぶ。合わせ味噌の味噌汁しか食べたことがない私は、味噌汁とはこんなにおいしいものだったのかと軽いカルチャーショックを受けた。

 いま名古屋めしとして手羽先や、ひつまぶしや、あんかけスパゲッティーが言われるけれども、それらは後からできたもので、昔はなかった。小倉トーストは昔からどこの喫茶店でもやっていた。トーストにあんこをかけたものだが、甘いものが好きな私に抵抗はなかった。きしめんも昔からあるが、うどんや蕎麦に比べてさほどおいしいものではない。

 現在、豊橋にいて考えてみると、名古屋よりももっと名所や名物料理がない。夜の街も存在するが名古屋より劣る。友人が来たら連れて行くところがない。加えて、公営交通が発達していないから、自家用車やタクシーでの移動となる。

 やはり東京はすごいと思う。案内するところが沢山ある。上野、新宿、銀座、どこをとっても一日では回れない。それなのに、どこへでも公営交通で行ける。

 新宿なぞは、いま私が行くと迷ってしまう。渋谷も高校時代は庭のようにして歩いた道玄坂が迷路のようになっている。放課後立ち寄ったジャズ喫茶がどこにあるのか分からない。モダンジャズの流行が終わったと同時に潰れてしまったのだろう。

 渋谷駅前はかろうじて方向が分かる。しかし、今後再開発が行われるというから、新宿同様、渋谷も分からなくなってしまうだろう。

 東京には中華料理やフランス料理はもちろん、インド料理とかギリシャ料理とか、果てはネパール料理の店まであるから、探せば世界中どこの料理でも食べられるだろう。地方都市ではそのようなことはありえない。

 なにより東京に象徴的だと私が思うのは、岩石の専門店というのがあって、各種岩石や化石を売っていることだ。このような店は地方では成り立たない。世界各国の料理が食べられて、化石を店頭で売っている店があるような便利な東京である。東京特有のお土産や駅弁がないのは、東京には日本のすべてがあるからである。