院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

私のクリニックのホームページ

2012-09-30 05:40:23 | ファッション
 私のクリニックのロゴマークは7年前デザイナーに依頼したものだ。何種類も提案してくれて、その中から気に入ったものを選んだ。デザイナーは価格を提示しなったが、とてもよいものを作ってくれたので、10万円支払った。これが適正な価格かどうかは分からない。

 ロゴマークは私のクリニックのホームページに載せてある。そのホームページは息子の応援を得て、ホームページビルダーというソフトで自作したものである。自作だからデザインが凝っていない。

 このほどホームページをリニューアルすることになった。息子もいっぱしの仕事人間になっているから、もう応援は頼めない。頼んでも玄人的なデザインはできない。そこでデザイン事務所に依頼することにした。

 困ったのが入札ができないことだ。どんな会社がやっても同じような結果になる土木工事なら、安い会社に依頼すればよい。でも、デザインは、安ければそれでよいというものではない。

 今のところデザイン料に40万円を見積もっている。ロゴマークだけで10万円だから、そのくらいは出してもいいだろう。聞くとどこのクリニックのホームページも、だいたいその程度の値段で作られている。

 あと1,2ヶ月で私のクリニックのホームページが全面的にリニューアルされます。みなさまのご批評を仰ぎたい。

内閣改造の意義

2012-09-29 04:14:54 | 社会
 このブログに私が政治のことをあまり書かないのは、床屋政談に堕す恐れがあることもあるが、まず第一に私が政治音痴ということもある。

 だから次に呈する疑問は,児戯に属することかもしれない。

 大臣は各省庁の親玉である。つまり社長みたいなものである。一方、社員である官僚は専門家集団である。にわか社長が専門家集団を治めることとができるのか?これは、よく出される疑問である。

 大臣は官僚に対して相当な権力があるらしい。官僚だった友人が言うには「大臣は恐い。だって、何の理由もなく官僚の首をきれるのだから」と言っていた。それなりに大臣という職は重いものなのだろう。

 だが、ここで私が呈する疑問は、「内閣改造は何のためにやるのか?」ということである。表向きは人心を一新とか、適材適所とかいうけれども、ほんとうのところは、何のためにやるのだろうか?

 そもそも、他の国でも内閣改造に該当する制度はあるのだろうか?アメリカにおける大臣すなわち長官はシンクタンクなどから抜擢される。その人事は大統領にあるが、「改造」というようなことはなさそうである。

 首相が国会内のパワーバランスをコントロールするためというのは理由にならない。実際にはそのようにこの制度が使用されているのかもしれないが、制度としてのタテマエは違うだろう。

 本当に内閣改造という制度は何のためにあるのだろうか?

俳句における「発見」の2様態

2012-09-28 05:22:47 | 俳句
 俳句では「発見」が重視される。「発見」には2様態があるようである。

 まず、高浜虚子の俳句を見てみよう。

     流れゆく大根の葉の速さかな  虚子

 この句の「発見」は「速さ」である。言われてみれば、川で洗われた大根の葉はさっと流れていく。現実の事象の中に「はっと思わせるもの」を「発見」する。この句は虚子がいう「客観写生」によって「発見」をしている好例だろう。

     その中に金鈴をふる虫一つ  虚子

 この句では「金鈴」が「発見」である。一つだけ別の音色で鳴いている虫が混ざっていたということである。そのような「発見」を「金鈴をふる」と表現した。だが、「金鈴」は虚子の主観であり、「客観写生」とは言いがたい。これを「主観写生」と呼びたいとは9月20日にここに述べた。

     かなたまで人ばらまかれ潮干狩り  拙句

 人が点在しているところを「ばらまかれ」と言った部分が「発見」である。これも「主観」である。虚子が言う「客観写生」はきわめて難しく、せいぜい「主観写生」に留まってしまう。

 だが、多くの素人俳句は「主観写生」さえ行なわれていない。毎日、駄句が山のように生産されている。

医師国家試験の「地雷問題」

2012-09-27 05:14:56 | 教育
 医師国家試験は問題の多い試験である。医師になれるかなれないかを決定する重要な試験でありながら、不透明な部分が多い。

 例えば、合格率が低かった年次に厚生労働省は必ず次のようにコメントする。「今年は受験生の質が低かったのでしょう」。

 年次によって受験生の質は、そう上下することはない。なによりも、厚労省は医師国家試験の最低点を発表しない。つまり、恣意的に合格率をコントロールすることができるのだ。医師が多すぎると思われた年は、合格最低点を上げることができる。

 かねてより批判が多い事柄として、「地雷問題」がある。総合点がいくらよくても、「地雷問題」を間違えると試験に落とされる。

 確かに「地雷問題」は、医師として絶対に間違えてはならないような問題だから、論理的にはそのような問題を設けるのも理解できなくはない。しかし、ケアレスミスでも一問だけで一年浪人しなくてはならない「地雷問題」は、医学生に過酷なストレスを与える。

 理屈として正しくても、「地雷問題」は廃止されるべきである。廃止しないならば、事後にどれが「地雷問題」だったか発表されるべきである。

 だが、本当のところは「地雷問題」が存在するのかどうかさえ発表されていないのだ。医師国家試験はすべてベールに包まれているのである。

人は見かけによらない?

2012-09-26 06:30:06 | マスコミ
 平成24年9月24日の中日新聞・愛知県版の投書欄に16歳の少女の投書が載っていた。

 電車内に金髪で入れ墨の人がいて恐いなあと思っていたら、その人がお婆さんに席を譲っていた。人は見かけで決めてはいけないと思った、という趣旨である。

 このような投書は私が少年時代から、繰り返し新聞に載る。もうこの趣旨を何十回読んだことだろう。

 お嬢さん、勘違いしてはいけません。金髪入れ墨の男でもまともなのは7%くらいいます。でも、残りの93%はロクでもない者なのです。お嬢さんもいずれ分かるでしょう。

 人は外見を気にします。金髪入れ墨の男は、不良に見られたいのです。あえてそういう恰好をしているのです。だから、「人は見かけによる」のです。

 この少女のような意見に対する上記のような反論を見かけない。マスコミがボツにするのだろうか?そうだとしたら、どういう了見でボツにするのだろうか?私にはマスコミのセンスが分からない。

4当5落

2012-09-25 05:29:58 | 社会
 私の大学受験時代に4当5落という言葉があった。4時間睡眠で頑張れば受かるが、5時間寝てしまうと落ちるという意味だ。受験戦争とか受験地獄という言葉があった。

 私は「団塊の世代」の最後で、同学年人口が今の2倍くらいあった。一方、大学の定員は今の半分。当然、熾烈な競争となる。「団塊の世代」は、他の世代に較べてひどくキツかったと今にして思う。

 小学校は教室が足りず、午前の部と午後の部に分けられた。小学校2年生のとき、午後の部にさせられてつらかった。その生徒たちがそのまま持ち上がって大学受験に突入したのだ。そこで生まれた言葉が4当5落である。

 しかし、すぐにこの言葉は「例え」だと分った。4時間睡眠では結局昼間に居眠りしてしまって、まともに勉強ができない。十分に睡眠時間を取らないと、受験戦争には勝てないと分った。だから、私は7当6落を主張した。7時間は眠らないと落ちるという意味だ。

 当時でも推薦入学というのは少数だがあった。母校にも慶応大学から推薦枠が来た。推薦された生徒は、一発受験組を尻目にゆったりのんびりとしていた。だが、推薦された生徒は、一発受験でも悠々と合格できるレベルだった。

 別の有名私立大学からも推薦枠が母校に来たが、これに応募した生徒はいなかった。推薦枠を出した大学は、ずいぶん傷ついたことだろう。

金額に対する感覚

2012-09-24 07:09:49 | 心理
 私たち庶民は千円、一万円の感覚は分かる。定価が千円の品物なら、定価で買うより980円で売っている店で買う。ビックカメラや価格.comが盛況なのも、そのような心理を掴んでいるからだろう。

 百万円の単位になると、あまり日常的ではなくなるが、軽自動車2台がそのくらいの価格なので、まだ分かる。

 一千万円となると、そのような金を動かすことはほとんどないから、ちょっと感覚が分かりにくくなるが、軽自動車20台分、乗用車3台分と考えると、何とか理解できる。

 ところが一億円となると、もう分からなくなる。私が昔勤めていた公立の施設が新築されたときに、建物の価格がちょうど一億円だった。建坪が100坪くらいの鉄筋2階建てだった。あの工事を思い出すと、一億円の感覚が分かる。

 十億円を考えるときには、あの施設が10軒分。百億円なら100軒分と想像すると、なんとなく金額の規模が分かる。

 さらに単位が上がって一千億円になると、もう分からなくなる。私が名古屋市に初めて奉職したときの名古屋市の年間予算が7千700億円だった。でも、これでは感覚的に理解できない。

 そこで私はイージス艦を思い起こすことにしている。イージス艦は一隻2千億円だ。一千億円といえば、その半分である。それで何とか千億円単位のイメージが作れる。

 一兆円となると、イージス艦500隻分だ。これは、さすがに想像の範囲を超えている。とにかく、とてつもない金額だということしか分からない。

 昔の未開民族の数の数え方に、1個2個3個、あとはたくさん、というアバウトな数の捉え方があったそうだ。われわれ現代人も、百円千円一万円程度しか感覚的にはわからず、あとはたくさんということになって、昔の未開民族と変わらないようである。

拙著を読んでください

2012-09-23 09:45:12 | 読書
 

今年5月に出ました拙著『統合失調症治療の再検討』(日本評論社刊)ですが、一時EC価格ナビの医学書部門で一位でしたが、最近、伸び悩んでいます。

 小説より面白いとのご評価もいただきました。専門家でなくても理解できますので、ご購読ください。

すでに古本が出ているのでガックリ。でも、古本でいいですから読んでください。

<アマゾンのページ> 


俳句第二芸術論

2012-09-23 00:07:35 | 俳句
 終戦直後の1946年、桑原武夫の「第二芸術--現代俳句について--」という論文が岩波書店の雑誌「世界」に掲載された。

 桑原は大家と素人の俳句を混ぜて15句を並べ、読者がどれが大家の作でどれが素人の作か分からない事実を指摘した。だから、俳句は人生を語りえない、老人たちが党派を組んで、内輪ぼめをしているだけだと論じ、公教育から俳句を排除せよと主張した。

 俳句界が自分のありかたを模索していた時期だけに、桑原の論は俳句界に激震を引き起こした。多くの俳人が強烈に桑原論に反対した。

 虚子はどうしたかというと、「俳句もとうとう芸術になりましたか」と意に介さなかった。

 桑原の主張にも一理あるのだが、桑原は決定的な誤りを犯している。それは、15句の俳句の識別ができなかったという母集団が、実は東北大学の教員と学生だったという点である。

 母集団がこれでは、俳句の識別ができなくて当然である。ズブの素人には俳句の出来不出来が分からないのは当たり前で、素人が前衛書家の書と幼児の書を区別できないのと同じことである。

 少なくとも俳句を始めて25年の私には、例示された15句が大家の作か素人の句か区別ができる。桑原の立論は、スタートの部分ですでにつまづいているのである。(だからと言って、桑原の主張をまったく無価値だと言っているわけではない。)

伊能忠敬の偉業

2012-09-22 00:02:40 | 歴史
 伊能忠敬が初めて正確な日本地図を作った人であることは、みなさんご存じだろう。50歳代から測量を始めて、20年間日本中を回って地図を完成させた人である。

 これは確かに偉業なのだが、当時の文化に疎い私には分からないところがある。

 街や集落のある場所ならよい。幕府測量方として一定の権威があったから、住民の協力が得られ、宿や食糧にも困らなかっただろう。問題は僻地である。

 伊能忠敬の一行は北海道を回っている。江戸時代の北海道と言えば、道さえはっきりしなかっただろう。むろん、街はアイヌの集落を含めても、非常に少なかったと思われる。

 まず、宿はどうしたのだろうか?野営の準備をして行ったのだろうか?そもそも、ヒグマが出るようなところで、安全に野営ができたのだろうか?

 次に食糧はどうしたのだろうか?上にも述べたとおり、街なら手に入れることができただろう。しかし、北海道の奥地ではどうやって食糧を得たのだろうか?大勢で担いで持っていったのだろうか?

 私の知識では、幕府測量方は10名程度だった。それ以外に、沢山の人夫を現地で雇ったのだろうか?

 伊能忠敬の偉業を讃えるのはよいが、むしろ実際はどのように生活したのか?そちらのほうを私は知りたい。

ジェット水流洗浄機の宣伝

2012-09-21 00:04:04 | 技術
 ジェット水流による洗浄機をテレビで盛んに宣伝している。車やコンクリートの壁がちどころに綺麗になる。

 ジェット水流の力はすごいもので、圧力をもっと上げると鉄板まで切ることができる。だから、洗浄機の圧力はジェット水流の世界では小さいほうだ。

 でも、あの宣伝には木造住宅は出てこない。たぶん、あの圧力で木造住宅を洗浄すると、住宅が壊れてしまうからだろう。

 だから、あの洗浄機は極めて限られた対象物にしか使用できない。しかも、壁の洗浄なら一回やれば数年やらなくて済むだろう。

 ということは、あの洗浄機は一家で一台もつような品物ではない。レンタル会社などが買い上げて、レンタルでシェアして使用するものだろう。

 だったら、一般家庭に宣伝するのは何故だろうか?庶民がレンタル会社に注文するのを促すためだろうか?

 あの製品をテレビで何度も宣伝するのは、商売人でない私にとっては無駄なような気がするのだが。

虚子の言う「客観写生」

2012-09-20 07:19:21 | 俳句
 近代俳句の祖、高浜虚子は自らの俳句哲学を「花鳥諷詠」と称して、それを実践した 

 世の中は苦しいこと辛いこと悔しいことに満ちている。そんなことは十分承知している。だから、俳句の世界では花鳥風月などの美しいものしか詠まないようにしよう、という態度である。

 戦中の雑誌の俳句欄には、戦争を賛美したものや兵隊の尽力を詠んだものが、数多く掲載された。しかし、虚子は一貫して「花鳥諷詠」のスタイルを崩さなかった。

 戦後、虚子は「戦争によって俳句はどう変わったか」とインタビューを受けて、「何の影響も受けなかった」と答えた。

 虚子はまた「客観写生」ということを説いた。主観を排し、ありのままを詠むことに力点を置いた。また、何気ない風景の中になんらかの「発見」をせよと薦めた。

 ここからは私論だが、虚子は必ずしも「客観写生」をしていない。

     神慮いま鳩をたたしむ初詣  虚子

 この句は、神が鳩を立たせたという主観である。

     白酒の紐のごとくにつがれけり  虚子

 この句には「紐のごとく」という発見がある。しかし、その発見は決して客観的ではない。言ってみれば「主観写生」である。発見はしばしば主観的である。

 虚子の句は確かに、ほとんど主観をまじえずに感動を誘うものが多い。しかしながら、主観的な句も詠んでいる。「客観写生」という言葉ばかりが独り歩きしているが、虚子の跡を継いだと思われる諸句には、実は「主観写生」とも言うべき句のほうが多いのではあるまいか。

自律神経失調症

2012-09-19 00:04:03 | 医療
 自立神経失調症という用語が日本で言われ始めたのは戦前だった。そのころは、まだ神経伝達の機序は知られていなかった。ただ、自律神経は心臓や腸など、人間が意志で動かすことができない部分の知覚や運動に携わっていることは知られていた。ために植物神経とも呼ばれた。

 自律神経失調症という言葉はまだ残っているけれども、それは世間に残っているだけであって、学問世界ではとっくに忘れられた用語である。だから、自律神経失調症という「病気」は医学部では教えられないし、まともな教科書には載っていない。

 自律神経失調症の概念を支持する医師は現在ほとんどいない。もし、医師がこの用語を用いたとしたら、それは素人さんの知識に合わせているだけである。

 要するに自律神経失調症はスラングである。または「はきだめ診断」である。「はきだめ診断」とは、なんだか実態がよく分からないものをそう呼んで、分かった気分にさせるような診断のことである。

 神経症圏の不定愁訴によくこの名称がつけられるが、この用語には学問的な裏づけや信憑性がまったくないことを、少なくともこのブログの読者なら知っておいてもよいだろう。

比較優位

2012-09-18 06:44:56 | 経済
 2人のサラリーマンがいるとする。2人とも営業も事務もできる。しかし、Aのほうはどちらかというと営業に向いている。Bは事務が好きである。

 このような場合、A,B両方に均等に営業も事務もやらせるより、Aは営業専門、Bは事務専門にやらせたほうが生産性が上がるそうだ。これを経済学の言葉で「比較優位」というらしい。(間違っているかも知れない。)

 このような割り振りが効率的だとすると、夫婦を考えた場合、仕事も家事も育児も平等に分担するのは、効率が悪いことになってしまう。イクメンという言葉が流行り、夫も妻と平等に育児をやるようになると、夫の生産性が低くなってしまうのではないか?

 夫の生産性が低くなると、出世もしなくなる。こうして夫の生涯賃金が減る。これはよいことなのだろうか?

 夫の賃金も減って、むろん妻の賃金も減る。公平な分担というのは、全員が損をするシステムのようにも見える。

 経済学に疎い私が言うことだから、以上はとんでもない間違いかもしれないということを、まずもってお断りしておく。

「精神科」と「神経科」

2012-09-17 05:58:16 | 医療
 「精神科」に対して「神経科」は、元来、神経を取り扱う科である。つまり、手足のシビレや痛みなどである。でも、精神病も神経の病だから、初めのころは神経と精神の区別が曖昧だった。

 「精神科」は昔は名称の響きがキツかったから、精神科病院は「精神科」だけでなく「神経科」も名乗った。

 私が若いころ勤めていた精神科病院は畑の真ん中にあり、やはり「神経科」を標榜していた。

 そのため、ある日近所のお婆さんが腰痛を訴えて、私がいた精神科病院に来た。むげに断るわけにもいかず診察してみると、うつ病の徴候があった。基礎に軽いうつ病があるための腰痛と思われた。

 そこで、うつ病の薬を処方したら、お婆さんの腰痛はたちどころに良くなってしまった。それはそれで、めでたしめでたしなのだが、そのお婆さんは「あそこの病院の薬は腰痛によく効く」と触れ回ったので、精神科病院に腰痛の患者さんが押しかけることになった。

 ほとんどの患者さんは普通の腰痛だったので、説得して整形外科に回すのに苦労した。

 現在「精神科」の響きはかつてほどにはキツくないようだ。ちょっと眠れない、少し不安でドキドキするといった、極めて軽症の患者さんが平気で精神科病院を訪れるようになった。

 私が若いころ「そうなるといいなぁ」と思っていたことが、今になってようやく実現した。

 (「精神科」は強制入院の権限がある。「神経科」にはない。かつて両者の決定的な違いは、これだった。昨年「神経科」の名称が廃止された。だから、今見かけるのは、まだ書き換えていない看板である。)