院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

握り寿司の味

2012-10-31 14:24:32 | 食べ物
 通ぶるわけではないが、私の妻子や兄弟が寿司の味をあまりに知らないので、すこし解説してみる。

 寿司の値段はネタで決まることは誰でもご存じだろう。前回も書いたように、寿司が一番安くて美味いのは東京である。東京の寿司屋が築地でいいところを取ってしまったカスが地方へ流れる。(地方で取れたネタでも、一度築地を通してから地元に戻ってくる。不経済なことである。)

 魚は冷凍でよいのである。最近の解凍技術は発達していて、ナマ(冷凍していないもの)と区別がつかない。

 魚は香りである。香りで魚の区別が分かるのであって、味ではない。美味い寿司屋の魚は香りが違う。むろん生臭いのは論外である。

 次に食感。獲れたてが美味いわけではない。獲れてから数日たったほうが、細胞が自家融解してアミノ酸が多く、食感もよい。したがって、生簀の魚は新鮮なようでいて美味しくない。なぜかというと、細胞が自家融解していない上に、餌も与えられずに泳いで、やせ細っているからである。

 スジが多いのも駄目だ。スジが口の中に残ってしまう。これは食べなくても、見ただけで分かる。最近の大トロは皆スジがある。食べ心地を考えるなら、中トロのほうがよい。赤身でもよい。(昔はスジが目立たない大トロがあったらしい。)

 シャリ(ご飯)は、人肌に暖かく、中に小さな空洞があって、口の中で自然に崩れるのが最上である。ここが寿司職人の最高の腕の見せ所である。ネタのほうは、技というより目利きが重要である。ときどき、シャリを握り締めてしまって、おにぎりのような寿司屋があるが、これは腕が未熟な証拠。逆に握りがゆるすぎて、すぐにネタが取れてしまうのも駄目。

 ネタとシャリがうまくくっついているかは職人の腕である。せっかっくくっついているネタをわざわざはがして醤油をつける人があるが、それだったらちらし寿司でも食べていて欲しい。

 最後に、美味い寿司屋の見分け方。かんぴょうが美味い寿司屋は他のネタも美味い。かんぴょう巻きは寿司の基本だと私は思う。

寿司屋の二極分化

2012-10-31 13:34:21 | 食べ物
 昔は町のうどん屋でも家庭では出せない味の品物を出していた。いま町にうどん屋はどれだけあるだろうか?先代が亡くなれば2代目の味は確実に落ちた。丁稚から叩き上げたのではないからだろう。料理もピアノやバイオリンと同じで、幼いころから仕込まれないと上手にならないようだ。

 町の寿司屋はいま絶滅の危機にある。だいたい美味い寿司屋がない。東京は物価は高いが、こと寿司に関しては日本中で一番安い。築地が近いからだ。その東京で町の寿司屋が美味しくなくなった。その上、値段が最後まで分からないような商売形式で商売していれば、若者に嫌われるのは必定だろう。

 一方、回転寿司や宅配寿司の台頭が目立つ。そしてまた、回転寿司も宅配寿司も、かつてより美味しくなったのだ。だから、若者はカウンターの寿司屋よりも回転寿司や宅配寿司を好むようになって、いまカウンター形式の寿司屋で若者の姿を見ない。新しい客を補充しなければ、早晩カウンター形式の寿司屋は滅びる。

 ただ、銀座などではカウンター形式の寿司屋が健在である。とても高い値段である。寿司屋は二極分化した。一方は高級に流れ、他方は回転寿司、宅配寿司となり、中間がなくなった。中間のカウンター形式はもうじき滅びるはずだ。

 この30年ほど、中間のカウンター形式の寿司屋も不味くなった。回転寿司と同等かそれ以下である。2代目は駄目なのだ。

 私の馴染みは中間の寿司屋で、すばらしく美味い。だが、その店も跡継ぎがおらず、親父と共に姿を消すだろう。その親父が先に死ぬか、私が先に死ぬか較べっこである。

いいところになるとCM

2012-10-31 07:35:32 | マスコミ
 テレビでまったく同じCMを2回繰り返す場合がある。あれは視聴者に不快感を与えるけれども、印象に残るという点では有効で、間をあけて流すよりも効率がよいことが調査で証明されている。

 クイズやドラマなどの「成り行き」を見せるような番組で、答えを出す直前にCMを入れることが多い。視聴者は答えが知りたいために、いやでもそのCMを見なくてはならない。このような技法はしょっちゅう行なわれているけれども、効果はどうなのだろうか?

 そのような「常識」とは反対に、答えをスッキリ見せてしまってからCMに入る番組があった。これは新鮮だった。次のシーンも見たくなって、かえって後を引かれた。

 テレビ番組はDVDに取っておいて。あとからCMを飛ばしながら視聴する時代になっている。「答え」の前にCMを入れる番組も、そうしない番組も、CMは飛ばされる運命にある。

 それに較べて、ネットCMは記事と同時に出てくるのでイヤでも見てしまう。もうテレビCMの時代は終わったのではないだろうか?つまり、電通、博報堂の時代は終わる。

 広告代理店は選挙やイベントでしか稼げない時代になるだろう。テレビ番組の質は、今よりもっと下がるだろう。

車のバックミラー

2012-10-30 04:39:13 | ファッション
 車のバックミラーというのは、安全性のためにきわめて重要な部品である。

 昔の車はバックミラーは全てボンネットの左右に付いていた。これをフェンダーミラーという。
運転者はフェンダーミラーを見るときには、目だけ動かせばよく、首を動かす必要はなかった。

 ところが、最近の車はすべてバックミラーがドアの付け根に付いている。これをドアミラーというのだが、これの使い勝手が悪い。運転者はいちいち首を動かさなくてはならない。その分、前方への注意がおろそかになる。

 なぜ、こんなに使い勝手の悪い車ばかりになってしまったのだろうか?要はデザイン性である。デザインを優先して、安全性を犠牲にしたのである。

 なぜ、安全性を犠牲にしたと言い切れるかというと、タクシーは未だに例外なくフェンダーミラーだからである。安全性を担保しようとすると、タクシーのように特注にしなければフェンダーミラーの車を売ってもらえない。これでは、話が逆ではないだろうか?

入力と出力

2012-10-29 05:48:03 | コンピュータ
 キーボードからの情報はCPUから見れば「入力」である。パソコンが出る前のコンピュータは、パンチカードで入力した。つまり、直接キーボードで入力できるようになったのは少しあとのことだ。

 紙への印刷は「出力」である。昔のコンピュータは、入力と出力を同時にはしなかったから、キーボードから入力しても、紙に出力されなかった。だから、操作者の印象としては、キーボードを打っているだけで、正しく打てているかどうかは分からなかった。

 すぐにキーボード入力がテレビに出力されるようになって、入力が飛躍的に楽になった。それまでの間は、ただキーボードを反応も無く押すだけで、はなはだ心もとなかった。このような仕組みを「アンサーバックがない」キーボードと呼んでいた。

 出力装置にテレビが採用されてすぐに、キーボード入力はテレビに出力されるようになって、格段に便利になった。しかし、そのようなことができるようになったのは、CPUが速くなったからで、CPUが入力と出力をほぼ同時にできるようになったためである。

 現在、ひとことでファイルの書き換えと言うけれども、昔は入力ファイルが記録された磁気テープを回して、CPUで処理して再び別の磁気テープに出力しなければならなかった。だからファイルの書き換えという動作は、CPUが入力と出力をほぼ同時に行なうから、そのように見えるのであって、実は2段階の動作なのだ。(磁気ディスクが普及して、ファイルのランダムアクセスができるようになったのは、それより少しあとである。)

 このような時代を経てきた私にとって、現在パソコン画面がカラーであるとか、まして動画がみられるなんていうのは、まったくもって夢のような世界である。

「ジジババ」

2012-10-28 05:09:41 | 日本語
 「じいさんばあさん」あるいは「ジジババ」という少し侮った呼び方がある。この語源については、国語学者ならとっくに記載しているだろうし、そうでなくても気付いている人が多いだろう。私は最近気付いたので、ここに書いておく。

 「ジジ」とは「父」(ちち)が濁ったもので、「ババ」とは「母」(はは)が濁ったものだろう。

 だから「ジジ」は「ヂヂ」と記載するの正しいのではないか?「はは」は平安時代には fafa と発音したらしい。これを濁らせたらやはり「ババ」でよいのだろうか?

 「ととさま」が「とーちゃん」に変化したように、「ぢぢさま」が「ぢーちゃん」に変化したのだろう。

 「ははさま」とは言わず「かかさま」という。それが「かーちゃん」になった。「かか」とは何が訛ったものだろうか?また「ちちさま」が「ととさま」になったのはどうしてだろうか?

なんでも有料

2012-10-27 06:21:41 | 経済
 東京に住む5歳の甥が遊びに来た。彼はまだほんものの海を見たことがないというので、連れて行った。そうしたら「海って(海岸に入るのに)タダなんだね」と言った。そういえば、東京ではどこに入るのも有料である。

 私が小学2年のころ、江ノ島に連れて行かれた。陸から江ノ島まで橋がかかっていて、なんとその橋が有料なので驚いた。しばらくして、その橋は無料になった。建築費が償却されたからか、橋の下に砂洲ができて、歩いて江ノ島に渡れるようになったからかは分からない。

 高校2年のモータリゼーションの時代、名神高速道路が完成した。カーキチだった従兄と、わざわざ名神を走るために東京から車で一号線を走った。名神は有料道路だったので珍しかった。その代わりに猛スピードを出すことができる。私の初めての有料道路体験である。東名高速道路ができる前のことだった。

 当時、建設費が償却したら高速道路は無料になるとされていた。ところが、高速道路はいっこうに無料にならず、昨年問題視されたが立ち消えになった。

 今は何でも有料である。むろん駐車場も有料。公衆トイレにも有料のものがある。5歳の甥が海岸が無料であることに感動したのは、大いに了解できることだった。

原発ゼロ論は正しいか?

2012-10-26 04:49:20 | 技術
 原発ゼロの大合唱の中で、原発推進派は押されぎみである。原発ゼロ論への反論にも迫力がない。

 だが、ただ一件だけ説得的な反論があった。それは、次のようなものである。

 「原発をゼロにしてしまうと、技術の継承ができない。原発技術には伝統芸能の伝承のようなところがあって、いったん失われた技能は永久に失われる」

 原発ゼロ派はこの主張にどのように返答するのだろうか?

 かつて原子力船「むつ」の騒動があった。タレント議員だった扇千景さんはタレントとしては珍しく、激しく「むつ」の廃船に反対した。あのとき、「むつ」が廃船にならなければ、いまごろ日本は原子力潜水艦を持っていたことだろう。

 インドも含め、海には他国の原子力潜水艦がうようよしている。むろん、日本近海にも。ということは、日本が原子力船を持たなくても、他国の原子力潜水艦が日本近海を汚染することがありうるのだ。

 扇千景さんは、美人女優出身らしからぬ現実論を言っていたのだ。だから、最後は参議院議長まで行ったのだと思う。

ご愛読の皆様へ

2012-10-25 08:38:47 | その他
 あと1ヶ月ほどで、中里医院のホームページからこのブログへ直接来られなくなります。

 中里医院のホームページからここへ来られている方は、こブログをブックマークしておいてください。

生命とは何か?

2012-10-25 06:37:42 | 生物
 アメリカの火星探査機が火星に着陸して、生命の痕跡を捜している。

 このほど、火星に水が流れていたことを見出して、生命が存在したのではないかとNASAは色めきたった。だが、それは思い込みに過ぎないのではないか?

 生命の定義を、自分自身を複製し続ける存在とすれば、そのために必ずしも水も酸素も必要としない。

 手塚治虫の「鉄腕アトム」には、自分自身を複製し続けるロボットが出てくる。鉄腕アトムほどには複雑でないロボットである。これは、材料と電気さえあれば次々と自分と同じロボットを造っていく。

 そのロボットは生命ではない、なぜなら人間が造ったものだからだという反論がありうるだろう。しかし、人間は元を質せば自然が造ったものである。その自然が造った人間が造ったものは、やはり自然が造ったものなのである。論理的にはそうなる。

 やれ水だ酸素だと言いつのるのは、NASAの想像力のなさを証明するようなものである。

キャノンのミラーレス一眼レフ

2012-10-24 03:56:43 | 技術
 キャノン株式会社はご存じのようにカメラ会社である。でも、一時潰れそうになった。

 昭和40年代にキャノンは、ぺリックスというカメラをヒットを狙って売り出した。初めてのミラーレス一眼レフである。

 当時は光をどれだけ多くカメラ内に取り込むかが至上命題だった。そのため、各社が競ってより多く光を取り込む明るいレンズを開発していた。

 フィルム会社も、より少ない光で感光するフィルムの開発にしのぎを削っていた。フジフィルムはいち早く感度400のカラーフィルム(普通は100)を開発して、コダックやサクラに勝って、その勢いは最近まで続いていた。

 だから当時、ミラーレス一眼レフという光を3割も浪費するカメラは常識はずれだった。キャノン・ぺリックスの仕組みは、反射ミラーを半透明の膜にして、3割はファインダーへ7割はフィルムへと光を分配するものだった。半透明の膜は跳ね上げる必要がなく、撮影時の一瞬の闇をなくした。

 だがユーザーは、まだ少しでも多くの光を必要としていた。一瞬の闇より光の方をとったのである。その結果ぺリックスは失敗に終わった。それだけが原因かどうか、業界内のことは知らないけれども、キャノンは傾いた。キャノンを救ったのはコピー機だった。これにより命脈を保ったキャノンは、デジカメ時代に乗り遅れずに現在まで来た。

 そこで売り出されたのが、今回のキャノンのデジタル・ミラーレス一眼レフである。仕組みはどうなっているのか分からないが、もしぺリックスのように光を分配する方式だったら、キャノンは再び同じ誤りを繰り返すことになる。

 ユーザーは一眼レフの一瞬の闇なぞ気にしてはいない。光を犠牲にしてまで、瞬きのないカメラを欲しくはないのである。

自殺予防教育は可能か?

2012-10-23 05:22:12 | 教育
 「いじめ自殺」や自殺者の3万人越えが続いているために、教育界では小中学生に自殺予防教育を行えという圧力が生じている。

 それに対して、現場の教師の多くが困っている。理由は教育材料がない、方法が分からないといったことだ。それなのに、自殺予防の声だけが高まっている。

 中学生ともなると「人間はどうせ死ぬのに、なぜ自殺はいけないんですか?」くらいのことを言う生徒が必ず出てくる。教師は返答に窮するだろう。

 そもそも自殺はアリストテレスやソクラテスが否定するまで、古代ギリシャでは是認されていた。

 キリスト教も初めのうちは殉教という形の自殺を容認していた。教会が公式に自殺を禁止したのは6世紀になってからである。

 13世紀にトマス・アクィナスは自殺を改めて否定した。だがそれも、ルネッサンスのころには緩み始め、自殺を罪悪とは考えないようになってきた。

 ヒュームは自殺是認論どころか、肯定論を宗教的な色彩無く開陳してトマス・アクィナスを批判した。それに対してカントがこれまた宗教色無く自殺を否定した。

 このように自殺に対する態度は時代ごとに変転してきた。日本ではついこの前の大戦まで「生きて虜囚の辱めを受けず」と教育した。

 こうした歴史を踏まえずに、ただ自殺はやめましょう、では通らないだろう。ちょっとマセた中学生なら、上記のようなことを言うはずである。それを論破できる教師はいない。

 教師が自殺予防教育にとまどうのも、まったく無理のないことなのである。

「バッチリ」と「行ってみよう」

2012-10-22 05:13:41 | 日本語
 流行語が日本語として定着することは極めて珍しい。その珍しい流行語は「バッチリ」と「行ってみよう」である。いずれもクレージーキャッツが使い始めた流行語だった。

 現在では「バッチリ」は落ち度がないという意味に使われる。落ち度がないことを一言で表す日本語はなかった。それを「バッチリ」は一言で言えるようにした。「バッチリ」が生き残った理由はそこにあるのだろう。

 「行ってみよう」は「(試しに)行ってみよう」というニュアンスがある。時にこれは婉曲を表す。「行こう」と言わずに「行ってみよう」と言うと、少し遠慮した感じがあって、そこが日本人に受け容れられたのだろう。

 谷啓さんの「ガチョーン」は今頃やると、相当古い人に見なされてしまうだろう。植木等さんの「お呼びでない」も同じである。

 クレージーキャッツの流行語で残ったのは、「バッチリ」と「行ってみよう」だけしか私には思い浮かばないが、まだあったら教えてほしい。

ルービックキューブは20手以内で解ける

2012-10-21 05:10:46 | コンピュータ
 ルービックキューブが、初期状態がどのようであっても27手以内で解決できることは、いつぞやこの欄で述べた。それが証明されたのは2006年のことであるが、それから毎年のようにこの手数が減少していった。

 もっとも新しい証明では、20手以内で解決できることが示された。この証明は、キューブの動作を巧妙に場合分けして、それらをコンピュータでしらみつぶしに調べたものである。計算にはグーグルの援助を受けたそうである。

 以下のHPに解説が載っている。そこから今回のソースプログラムやキューブ解決の歴史記事(過去の計算)などにジャンプできる。

 でも、まだ追試した人はいないそうである。

http://www.cube20.org/

IMFラガルド専務理事の主張に対する疑義

2012-10-20 05:13:32 | 経済
 IMFのラガルド専務理事が「女性は日本を救えるか?」というレポートを出した。それによると、女性の社会参加が増えると日本の一人当たりのGDPは4%増えるという。

 少なくとも移民の導入はまだ日本には必要ないという議論も含まれていた。女性をもっと社会に動員することによって、移民なしで経済成長が可能だという。

 移民が必要ないというのは、私のような移民反対論者にはありがたい提言である。しかし、一人当たりのGDPが4%増加するという話は本当だろうか?

 一人当たり4%増加するということは、国民全体のGDPが4%増加することを意味するのだろうか?なぜ、わざわざ「一人当たり」と言うのだろうか?

 たとえ4%成長するにしても高度成長時代よりも少ない。そして、高度成長時代は毎年、高成長が続いたけれども、ここで言われる4%は毎年続くものなのだろうか?

 もうひとつ、最大の疑問は、単純計算するなら労働力が女性の参加によって2倍になるのなら、GDPも2倍にならなくてはならないということだ。それに満たないGDPの増加なら、一人当たりのGDPは4%増加するどころか、パイを取り合うことになって、大きく減少するのではないか?

 これは、過剰供給による労働力の価値の低下が起きるのではないか?労働力が使用者側に買い叩かれるのではないか?ということである。

 経済にまったく疎い私の考えだから間違っているのだろう。どこが間違っているのか、分かる人に教えて欲しい。