院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

正多面体が5種類しかないことの証明

2006-12-30 15:35:58 | Weblog
 各面が正p角形であり、頂点に集まる面の数がqであるとき、次の式が成り立つ。

    1/p+1/q+1/2>1・・・(1)

 p、qが共に3以上であることから、整数p、qの組は・・・

 (3,3)(3,4)(4,3)(3,5)(5,3)の5組しかない。

 なぜ式(1)が成り立つかというと・・・

 正p角形の外角の和が2πなので、内角の和は・・・

    (1-2/p)π

 である。

 頂点にq個の面が集まっている場合、この内角のq倍は2πより小さくなくてはならない。すなわち・・・

    (1-2/p)πq<2π

 この式を整理すると次のようになる。

    (p-2)(q-2)>4・・・(2)

 式(1)と式(2)は同じものである。

 証明終わり。

正多面体の種類

2006-12-29 14:51:08 | Weblog
 正多面体が5種類しかないことは、古代ギリシャ時代から知られ、興味がもたれていた。

 ユークリッドの著名な書物『原論』でも取り扱われている。ケプラーは惑星の配置を正多面体の調和として捉えようとした。

 正多面体は、正4面体、正6面体、正8面体、正12面体、正20面体の5種類である。

 正20面体は、各面に一桁の数を2回ずつ配置し、乱数を発生させるサイコロに用いられる。

 なぜ正多面体は5種類しかないか、その証明はさほど難しくないから、挑戦してみてください。解答例は後日。

コンビニのスパゲティー

2006-12-28 13:32:55 | Weblog
 コンビニのスパゲティーの宣伝が盛んである。売れるのだろうか?

 スパゲティーと言えば、出来立てが信条で、冷めたものをチンしてもおいしくないような気がする。だから私は買ったことがない。

 でも、それは私の偏見かもしれない。最近の冷凍の刺身のうまさはどうだ。ナマ(冷凍していないもの)との区別がつかないほどに、解凍の技術が発達している。

 レトルト食品や、インスタントもまずいという頭があったが、最近は自宅で作るよりうまいレトルトシチューやインスタントスープがある。

 だから、コンビニのスパゲティーは結構おいしのかもしれない。いずれ機会があったら買ってみる予定である。

長さの最少単位

2006-12-27 08:59:12 | Weblog
 距離的な長さには最少単位があると聞いたことがある。

 長さは連続なものではなく、映画のコマのように飛び飛びだというのである。

 長さの最少単位は、むろん素粒子の大きさより小さい。でも、それより短い長さはないのだという。面白い考え方である。

 物質が空間内を移動するとき、平坦に移動するのではなく、最少の長さを飛び飛びに移動する。その長さがあまりに短いため、長さの最少単位を観測するのが難しいのだという。

 最少の長さが何億と集まって、普通の長さができている。とんでもないことを思いつく人がいるものである。

 長さの最少単位というものがあるとすると、すべての物質の動きは映画のようなものだということになる。

 長さの最少単位のことは、最近あまり聞かない。物理学的に重要な思想ではなくなったのだろうか?それとも、最近の知見により、その仮説は否定されたのだろうか。

宇宙の果て

2006-12-26 13:29:33 | Weblog
 昔、宇宙には果てはないが、大きさは有限であると聞いた。

 ビー玉の上のアメーバの例が出された。アメーバを2次元の生物とする。アメーバにとっての宇宙はビー玉の表面である。アメーバはどこまで行っても果てに着くことはないが、ビー玉の表面積は有限である・・・というような説明だった。

 だから、アメーバがどんどん果てまで行くと、元の場所に戻ってしまうという。

 人間は3次元の生物で、宇宙は4次元の世界の「表面」なのだという。だから、ロケットでどこまでも宇宙を行くと、元の場所に戻ってしまうのだそうだ。そして、3次元の生物である人間は、宇宙の外には出られないそうだ。

 だとすると、4次元の宇宙の外には5次元の空間があるのだろうか?その外、その外とたどって行けば、一般にn次元の空間というものが考えられるのだろうか?

 n次元が実在するとしたら、やっぱり宇宙は無限ということになる。

遺伝子の個人差

2006-12-25 13:12:41 | Weblog
 学生時代にDNAのことは習ったけれども、遺伝子のことは習わなかった。まだよく分かっていなかったからである。

 それが人ゲノムが全部解読される時代になった。

 私にはそれでも、まだ分からないことがある。遺伝子による個人の識別だ。まさか個人のゲノムをすべて解読するわけではないだろう。ゲノムは大部分が人類共通で、個人差はごく一部にすぎない。

 それなのに、犯罪捜査でも遺伝子解析が行われている。何か個人差を強調する検査が発明されたのだろう。

 その方法を私は知りたい。

宇宙の始まり

2006-12-24 15:47:53 | Weblog
 宇宙はいつから始まったのだろうか。ビッグバンからだという説がある。その前はどうだったのだろうか?

 物理学者に聞くと、ビッグバンでそれ以前のすべての痕跡がなくなったので、それ以前のことは立証できないという。

 ふつうの常識に照らせば、ビッグバン以前にも宇宙はあったと考えられる。そう、もともと宇宙はあったのだ。

 今後、無限に宇宙が存続すると考えるなら、無限の昔から宇宙はあったと考えても、なんら矛盾を生じない。

 もっとも、昨日述べたように、宇宙を認識する主体(人間)がいなければ、宇宙があるとかないとか、論じることさえできないけれども・・・。

「私」があることの奇跡

2006-12-23 11:28:26 | Weblog
 生まれる前は何もなかった。「無」であった。他人も宇宙もない、まったくの「無」であった。

 生まれてから他人や宇宙が認識できた。だから生まれる前から他人や宇宙があったように感じるのだが、それは錯覚である。生まれる前はあくまでも「無」であり、他人も宇宙もない。

 これを独我論というのだろうか?「私」がなければ宇宙もない。そもそも、宇宙があるとかないとか論じる「私」が無いのだから、これはもう、どうしようもなく「無」である。

 同様のことが死後にも言える。死によって生まれる前に戻る。だから死ねば「無」になる。宇宙もなくなる。

 いま生きていて、他人や宇宙を認識している。これは、とてつもない奇跡ではないか?

 宝くじで一億円当てる人が、何百万人に一人いる。奇跡的である。

 でも、この世に生を受けて、宇宙を認識している方が、よほど奇跡的である。いま生きていることが奇跡でなくて、他に奇跡なぞあろうか?

 奇跡的で有限な命、倫理的に生きたいと思う。

神経科と精神科の違い

2006-12-22 13:37:32 | Weblog
 神経科と精神科に違いはあまりない。トレーニングのされかたも、治療法も同じである。

 大昔、心の病は神経の病と考えられていた時代があった。だから、末梢神経の病を診る医師が心の病も取り扱っていた。神経科という名称は、その時代の名残である。

 ただ一つ神経科と精神科の大きな違いは、自分を傷つけたり他人に害を与える恐れのある患者さんについて、精神科には強制入院の権限があるが、神経科にはないということである。

 両者の違いはこの一点のみである。もちろん、精神科を標榜していても、病床がなければ強制入院もなにもないけれども・・・。

 心の病ではなく、マヒなどの純粋に神経の病を診る科は、現在では神経内科という。とても紛らわしく、医者でさえ間違える人がいる。

ふぐの季節

2006-12-21 13:12:28 | Weblog
 誰でもそうだろうが、私はうまいものが好きだ。

 今はふぐの季節である。でも、私は自前ではふぐを食べない。なぜかというと、高いわりに感動が少ないからである。

 高いならそれに見合った感動がなくてはならない。私にはふぐに感動するセンスがないのかもしれない。

 作家の林真理子さんが言っていた。流行作家になって、ふぐで接待される機会が多くなって、いろいろ食べているうちに、あることが分かったという。それは、ふぐは値段が高いほどおいしいということだ。

 ふぐの値段はいい加減に付けられているのではないようである。食べる人が食べれば、松竹梅のランクが分かるようだ。私には分からない。

マニュアル主義はよいことか?

2006-12-20 08:57:58 | Weblog
 スペース・シャトルはマニュアル主義の金字塔である。マニュアルどおりにやれば、いつでも誰でも同じ結果が出る。だから、大勢がいっせいにマニュアルに従って作業して、シャトルは大成功を収めた。

 医療分野にもマニュアル主義が浸透してきた。主に診断学の分野で、「○○病の診断基準」といったマニュアルが作られている。ただし役に立つのは、症状が白血球数や血糖値のように数量化できる範囲においてである。皮膚症状のように一見すれば分かるのに、数量化しようとするとかえって難しい分野は、マニュアル化をする必要がないし、できない。

 精神症状もそうである。多くは患者の主観的な訴えや診断者の主観的な症状把握によって診断がくだされる。だからマニュアル化が困難だった。

 ところが、アメリカ精神医学会では30年ほど前から、「精神疾患の診断・統計マニュアル」(DSMと略される)というものが作られ、その影響力はいまや抗いがたい。各国、各臨床家が、なるべく共通認識をもって、同じ疾患名には同じ実態が伴うようにしようというのがDSMの根本思想である。

 それはよいのだが、DSMには症状の数値基準がない(作れない)。そのため、けっきょく診断者の主観的認識に負う部分が大きく、他分野のマニュアルから見れば異質である。また、診断者がある患者を診て、DSMの何病に当てはまるかという作業に血道を上げると、新しい未知の疾患が発見できなくなる。こうした欠陥がDSMにはある。

 マニュアルどおりにやれば「いつでも誰でも」という考えは楽観的に過ぎる。マニュアルどおりに技芸ができれば人間国宝はいらない。マニュアルで裁判ができれば裁判官はいらないということになる。

 多くの病院で競うように「医療事故防止マニュアル」が作られている。これには自己防衛の匂いも感じられる。医療事故があったときに「マニュアルさえなかった」と批判されるのが恐いのではないか。

 でも、マニュアル化には向き不向きがあるのだ。何でもかんでもマニュアルさえあればよいというのは、昨今の奇妙な風潮である。

生野菜のサラダ

2006-12-19 13:34:13 | Weblog
 今ではどこのレストランにも居酒屋にも、生野菜のサラダがメニューにある。

 日本人が生野菜をこんなにたくさん食べるようになったのは、いつごろからだろうか?

 少なくとも私が子供のころは、生野菜は主菜の付け合せとしてキャベツがあったくらいである。サラダとして独立してはいなかった。

 明治や江戸時代は、輸送手段が今より格段に少なかったから、野菜を生で食べることはほとんどなかったのではあるまいか。

 私は生野菜のサラダが苦手である。野菜は煮たものや炒めたもの、漬物のほうがおいしいと感じる。

 マンガ『美味しんぼ』の中で海原雄山が、ドレッシングの種類が世界中で何千とある現実を見て、「こんなにドレッシングがあるということは、本当は人間は生野菜が嫌いなのではないか」というセリフを言うところがある。

 同感である。

相対性理論

2006-12-18 13:38:18 | Weblog
 『相対性理論は間違っている』という本を読んだ。

 なるほど、なかなか説得力があることが書かれている。

 友人の物理学者に聞いてみた。そうしたら、相対性理論は理論というよりも、公理なんだそうである。

 公理とは、それをそうと決めて、そこから論理を演繹していく大もとである。幾何学で言うなら、「平行線はどこまで行っても交わらない」というのが公理で、そういう「前提」で話を進めていこうという約束事である。

 当然、「平行線は交わる」という公理を立てて、話を進めていくことも可能である。

 公理なら、間違っているもくそもない。さすがに物理学者、うまい例えで私は納得させられた。

年賀状

2006-12-17 19:43:37 | Weblog
 年賀状を書き終えた。と言うより、パソコンで印刷した。

 昔は印刷より手書きが嬉しかったが、今はどうでもよい。手書きはものすごく手間がかかる。

 ある程度の年齢になると、年賀状は挨拶というよりも生存証明みたいになる。年賀状をもらうと、「ああ、まだ生きておられるのだな」という感情が湧く。

 また年賀状は、現在住んでいる場所の「お知らせ」でもある。電話番号のお知らせでもある。

 中に電話番号が書いてない年賀状がある。なんのための年賀状かと疑いたくなる。年賀状は生存証明なのだから、電話番号、Eメールアドレスは必須である。

子供の本

2006-12-16 14:41:37 | Weblog
 小学校に上がる前、絵本をよく読んだ。

 正月に関する絵本(月刊の絵本誌だったか?)に妙に気を惹かれた。

 オート三輪が野菜を積んだ絵が描いてあって、文章は次のようだったと記憶する。

   おはたをたてて
   くるまにのって
   はつにのにもつは
   いいことね

 この最後の「いいことね」の意味が今もって分からない。

 子供の本で意味の分からないものは多い。ちびくろサンボでトラが木の周りを回っているうちにバターになったというのも、意味は分からないが気持ちをそそられる。

 子供の本を書くには特別な才能が必要なようだ。