院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

昭和30年ころの渋谷界隈

2017-08-31 12:00:32 | 生活
 私もよい歳になりましたので、たまに幼少時を思い出して余韻にひたらせてください。読者のみなさまが飽きないように配慮いたしますから。

 私は渋谷から道玄坂を世田谷方面に行った大橋池尻近辺で生まれ育ちました。とうじ玉川電車(玉電)という路面電車がありまして、それに乗って渋谷まで出て、渋谷から日赤産院行の都バスで通学していたのでした。玉電は現在、地下鉄の田園都市線になっています。


(玉電。ひどく混雑しました。ウィキペディアより引用)。


(上に向かう道が道玄坂。下が現在、世界的に知られている渋谷のスクランブル交差点。道玄坂の両脇に洋食屋が出来てきた。ウィキペディアより引用)。

 道玄坂の反対側に行くと青山学院や表参道に着きます。大した距離ではありません。青山学院の近くに「紀伊国屋」という米国人向けのスーパーマーケットがあり、日本人から見ればとても贅沢なものを売っていました。(「紀伊国屋」は現在でもあります。)

 それら以外は木造住宅で、周囲には原っぱが残っていたのですよ(2007-05-18)。私はそこの原っぱで遊びました。

 渋谷には東横百貨店があって、その大食堂でホットケーキ(2014-07-07)やパフェーを食べるのが楽しみでした。大食堂は和洋中なんでも提供していました。デパートが一大レジャー産業だった時代のはなしです。


(東横百貨店。ウィキペディアより引用)。

 現在の渋谷にはバスのプールがありますが、むかしからあそこはバスのプールでした。ただし、バスはみなボンネットバスで、最終が8時か9時だったと思います。まえに書いたように渋谷は不夜城ではありませんでした(2017-08-17)。祖母は山手線のことを省線(しょうせん)と呼んでいました。


(とうじのバス。ウィキペディアより引用)。

 まだ東京には進駐軍がいて、なんと戦車をのせたトレーラーが町なかを走っていました。空には双胴の飛行機。名称は知りません。米軍の兵士は簡易宿舎に寝泊まりしていました。私たちはその宿舎の形から「かまぼこ兵舎」と呼び、それらは東京の各地にありました。


(戦車を乗せたトレーラー。煙を吐いていました。ウィキペディアより引用)。


(かまぼこ兵舎。ウィキペディアより引用)。

 信じられないかも知れませんが当時は年に一回、観光バスを仕立てて日帰りの「町内旅行」があったんです。海水浴をするためですね。年に一度の遠出ですから、町内の子どもたちは嬉しくて嬉しくて、朝早くおもてに出て観光バスを待ったものです。

 行先は毎年、江の島。とうじから江の島のタワーはありました。ですが、今のような立派なものではなく、送電線の鉄塔のような、囲いは柵だけ、床は板張りで木の節穴から下界が見えるスリル満点の鉄塔でした。


(現在の江の島。ウィキペディアより引用)。

 日にちは毎年、7月22日と決まっていました。たまに梅雨が明けていないことがあり、そういうときには江の島界隈の散策や水族館見学をしました。みな弁当をもっていきました。それが豪華なのです。私の父親は「江の島ごときで豪華な弁当をもってくるとは・・」とお高くとまっているところがありました。だから私はおにぎりだけ。もっとも近所の人がおかずをくれましたけどね。

 江の島までの途中に観光バスのプールがあって、そこで運転手やバスガイドは休憩しました。居並ぶ観光バスのあいだを、アイスクリーム売りのおばさんが「アイスクリン、アイスクリン」との呼び声で回っていました。

 町内の青年たちはバスが出発したと同時に酒盛りを始めました。そのときの青年で現在ご存命のかたも結構おられます。彼らが手拍子で大声で歌うのは決まって「ノーエ節」でした。ふつうの宴会でも最後は「ノーエ節」で締めていました。



 長くなりましたので今回はこのへんで。渋谷は父が友人と飲みに行く場所でもありました。でも、とうじは汚い店しかありませんでした。中には低級なホステスがいる酒場もあったみたいです。友人に無理に連れていかれたなぞと父は言っていましたが、じつはそうでもなかったのでは?私も同じことを言いそうだから・・。(^^; 

 ※私の俳句(秋)
    新涼やサラダを混ぜる妻の素手

プロとマニアを隔てるもの

2017-08-30 15:09:15 | 技術

日本車両(株)フォトギャラリーより引用)。

 さいきんオーディオブームが再来しているようだ。私がオーディオマニアに対して違和感を感じていることは「ライブと高級オーディオの違い」(2017-07-29)の項目で述べた。

 そこには書かなかったが、オーディオマニアはアンプやスピーカーを組み合わせては、ああでもないこうでもないと言っている。子どもがレゴブロックを組み立てている感じだ。アンプもスピーカーもオーディオメーカーが造ったものでしょう?

 レゴのブロック一個一個を子どもが造れないように、多くのオーディオマニアはアンプ、スピーカー、ましてピックアップ(針)を自分で造れない。(アンプを自作する人は稀にいるが・・)。本当のマニアならスピーカーから何から全部自分で造らなければマニアとは呼べないのではないか?

 日本車両という車両のトップメーカーに知人Bさんがいる。Bさんは新幹線の空気抵抗やコストを考えて車両を造る。プロだから当然だ。そうした努力で新しい車両が登場すると「撮り鉄マニア」が黒山となって新車両の写真を撮りにくる。

 「撮り鉄」とか「乗り鉄」とか、みんなBさんの仕事の上になりたつ「マニア」である。彼らの中には、電車の音だけで京成電鉄か東武鉄道かわかる人がいる。ほとほと感心するけれども、そのマニアックさもBさんの会社なくしては成り立たない。

 さすがのBさんも、京成電鉄の音と東武鉄道の音の区別はつかないという。それでは、プロとマニアの本質的な違いは何だろうか?

 プロはそれで食べている人、マニアはそれでお金を使う人と定義することも可能ではないか?

 このようなプロとマニアの分類以外に、よい分類に気が付かれたらアイデアを出していただきたい。(コメント欄にでも)。

 ※私の俳句(秋)
    羽田港霧の海へと機体消ゆ

北朝鮮のミサイル発射に対する名古屋鉄道の行動

2017-08-30 05:10:42 | 社会

(名古屋鉄道路線図。ウィキペディアより引用)。

 このブログは基本的に時事ネタは取り扱わない。だから、このたびの北朝鮮のミサイル発射について論評するつもりはない。

 2004年から、わが国では Jアラートという災害瞬時通報システムが造られた。地震、津波、火山などの国民への通報を行う。そこに北朝鮮のミサイル発射も含まれた。(内閣官房国民保護ポータルサイト)。

 昨日の Jアラートの発信で新幹線が全部止まった。私鉄では名鉄がちょうど出勤時間帯に20分間止まった。止まったのは初めてである。北朝鮮のミサイル発射は初めてではないのに・・。(ミサイルがまだ Jアラートの対象になっていなかったのか?)。

 なぜだろうか?なぜ名鉄は電車を止めたのだろうか?

 弾頭を積んでいないミサイルが落下しても、航空機が落下するより地上の被害が大きくなるとは思えない。被害はせいぜい半径数百メートルだろう。それでも他の私鉄に先駆けて名鉄は運休した。

 地方ニュースのインタビューを受けた市民は通勤できなくなり「(ミサイルが)こんなに影響するとは思わなかった」と述べた。じつは、これが名鉄のねらいだったのではないか?

 ただ Jアラートを鳴らすだけでなく、20分間、市民に不便さを体感してもらって、身をもって目を覚まさせるのが目的ではなかったのか?そして目的は達せられた。

 名鉄も知らん顔してニクいことをする。平和ボケした市民に警鐘を鳴らした名鉄の処置に賛成である。(人間は言葉だけではわからないから、体で実感させないと)。

(時事ネタを扱わないと言いながら、これはやはり時事ネタか?そう私が思ったら早急に削除の予定)。

 ※私の俳句(秋)
    秋草を分けて清流掬ひけり

散文詩が「いいなぁ」と思えない

2017-08-29 15:24:41 | 俳句

(リルケの訳詞、新潮文庫)

 俳句短歌のような定型短詩を私が好きなことは、このブログの読者なら重々ご承知だろう。しかしながら、私には散文詩がわからない。

 高村幸太郎や荻原朔太郎や中原中也は国語の教科書に載っていた。しかし私には理解できなかった。定型詩でも長いと理解できない。ブッセの上田敏訳、「山のあなた」は親世代の国語の教科書に載っていたらしい。(母は暗記している)。三遊亭圓歌の新作落語「山のあな」が受けたのは、国民がみな知っていたからだろう。でも私には「良さ」がわからない。

 ランボー、リルケ、ハイネ・・など明治から昭和初期にかけての外国詩人の名前は日本でもビッグネームだ。しかし訳詞を読んでも私には「いいなぁ」とは思えなかった。知っているのは名前だけということだ。

 ギリシャ詩の翻訳で読売文学賞を受けた精神科の恩師、中井久夫氏は「声に出してごらん」とおっしゃったが、それでもダメだった。彼と西欧旅行をしたとき、彼の希望でスイスの片田舎にあるリルケの墓に詣でた。現地人さえ知らない小さな墓にお参りするほど、中井はリルケに大きな影響を受けたようだ。

 以上の海外詩は明治以来の青年の座右の文学だったらしい。当時の青年はなぜそれほどに心酔したのだろうか?わからない。私の友人や、まして後輩も「わからない」、「興味がない」という。むかしの文学青年の気持ちは、私の七不思議のひとつである。

 ※私の俳句(秋)
    コスモスの群れを離れしところにも

豊橋唯一のロシア料理店

2017-08-29 00:22:57 | 食べ物
 きのう豊橋で唯一のロシア料理店に行きました。もう20年来の行きつけです。下の「きのこのつぼ焼き」が売り。カップの上にパン生地をかぶせて焼いてあり、冷めません。上が出てきたところ。下のようにパン生地に穴をあけて食べます。


(取手まで熱いのでペーパーナプキンが巻いてある)。


(つぼ焼き単品だと900円)。

 むろん、これ以外にもボルシチ(トマトスープ)、ピロシキ(揚げ肉まん)もおいしいです。しかも安い。これらにロシアンティーがついてセット価格2,000円。(私の場合、さらにサラダかヨーグルトを付けてくれます)。ロールキャベツもボリュームがあってお薦め。(2人分1,100円)。


(ルーマニア赤ワイン。やや重めでおいしい)。

 小さな目立たないお店です。豊橋駅から徒歩15分。寂しい住宅街にあるのですが人気です。


(うっかりすると見落とします)。

「バイカル」(水曜定休)
 愛知県豊橋市花園町74番地
 電話 0532-55-5570

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 ところで以上のような報告記事は、たいへん多くのブログで見られます。対象は上のように食べ物だったり、また動植物、風景だったりします。こうした報告はあまり役に立ちません。(ブログは公開日記のようなものだから役に立つ必要もないのですが・・)。

 私自身が書いていて面白くありませんでした。私はやはり毒舌が好きです。私にはやや常識からは外れているかもしれないが、必死に本質を見ようとする態度のほう向いているようです。

 ※私の俳句(秋)
    峠まで行くは吾のみ秋の蝉

「ソープランド」への代わり身の速さ

2017-08-28 01:13:04 | 社会

(社)日本映画製作者連盟のHPより引用。)


麻布・田能久(牛肉店)のHPより引用。)

 いまある「ソープランド」は、昭和40年台には「トルコ風呂」といった。大きな駅前には必ず「トルコ風呂」があって、名古屋駅前なぞには「大名トルコ」という有名なビルがあって、人目かまわず巨大な電気看板がつけられていた。

 「トルコ風呂エンペラー」とか適当な名前がついていて、中には「トルコ・大統領」なんていう名称のトルコ風呂があった。上の写真の「トルコ風呂」は例外的に小さいほうで、ふつうの「トルコ風呂」はもっと大きく堂々としていた。(大きな「トルコ風呂」の写真がネット上では見つからなかった。)

 「ソープランド」がなぜ「トルコ風呂」と名のったのか「トルコ」の由来は知らないが、ある日、本物のトルコ大使館からから「トルコ」という名称について抗議があった。ソープランドがトルコと関係があるような誤解を与えるという主張だった。

 そこでトルコ風呂業界はどうしたかというと、なんの抵抗もせずにいっせいに看板を下ろした。「ソープランド」と名前を変え、改称後は大きな看板を廃止した。

 四の五の言わない業界の代わり身の速さに驚いた。実をとってウラに潜んだのだろう。話題つくりもできたし・・。意地で抵抗するより実をとる賢さを私は学んだ。

 ※私の俳句(秋)
    ウイグルに続くこの空鰯雲

(付記)この記事にコメントをくださったかたによると、抗議をよこしたのはトルコ大使館ではなく、トルコからの留学生で、それが新聞紙上で論議が巻き起こるきっかけになったそうである。

世界コスプレサミット2017 in 名古屋

2017-08-27 07:40:53 | ファッション

(2017世界コスプレサミット in 名古屋)。

 先日、孫と東京お台場の未来館に行ったら、近くの芝生にコスプレイヤーがうろうろしていました。別にコンテストがあったわけではないようです。

 きのう名古屋で「世界コスプレサミット」というのが行われ、テレビでその様子を放映していました。人握りですが欧米からもコスプレイヤーが来ていました。公共の場所でコスプレができるのは日本だけなのか、彼らは思う存分コスプレがやりたくて、大枚の旅行費を支払ってコスプレ自由な日本に来たようです。

 例えばセーラームーンなら、元来のアニメ上のセーラームーンは白人的ですが、コスプレに関する限り白人のセーラームーンより日本人のセーラームーンのほうが完成度が高く、可愛いと感じました。やはり日本は「本場」なんですね。(麻生太郎氏が総理大臣の時、マンガ博物館を建てようとして失敗しましたが・・)。
 
 日本のテレビ局は日本人より白人コスプレイヤーを多く写しました。それにしてもコスプレイヤーは、どこの国でもマニアックですね。

 ※私の俳句(秋)
    島の上覆ふは鳥と鰯雲
    
    

大曲の花火大会・音楽が付くと安っぽくなる!?

2017-08-27 03:57:35 | 音楽
 二流の観光地でラウドスピーカーで音楽を流しているところがある。自ら「二流です」と言っているようなものだ。このブログの読者ならご賛同いただけるだろう。

 たとえば、鉄棒、段違い平行棒、床などの体操競技に音楽が付いたら安っぽくなってしまうのではないか。(新体操に音楽が付くのは、新体操はダンスの要素が強いから仕方がない)。

 大曲の花火大会では、スターマインと創作花火に音楽が付く。かえって気が散る。花火だけで盛り上げてもらいたい。花火が音楽に縛られるのではないか?私は花火に音楽は要らないと思うのだが、みなさまはいかがだろうか?
 

(2016.大曲の花火大会)

 ※私の俳句(秋)
    爽やかや伊勢へフェリーの客となる    

ふつうの大腸菌は無害です

2017-08-26 17:13:40 | 学術

(大腸菌。ウィキペディアより引用)。

 ふつうの大腸菌は無害です。むかし海水浴場が汚染されていないかどうか調べるために大腸菌の数が測定されました。大腸菌が繁殖しやすいということは他の有害な菌も繁殖しやすい。だから、大腸菌を測れば他の菌の繁殖が類推できるというわけですね。

 海水浴場の大腸菌が測定されていた時代には、多くの人が大腸菌は無害だと知っていました。(当時から有害だと誤解する人はいましたが、現在ほどではありませんでした)。

 その後、病原性がある O-157などの大腸菌が見いだされるようになり、それをあえて病原性大腸菌と呼ぶようになりました。そこで、ふつうの大腸菌まで有害だと誤解されるようになったようです。

 (赤痢菌は大腸菌の一種なのですが、病原性が強いので最初から大腸菌という表現は使用されませんでした)。

 大腸菌は歴史的によく研究されており、遺伝子研究などでも初期には大腸菌が用いられたのでした。大腸菌は無害ですから研究にも使いやすかったのでしょうね。

 ※私の俳句(秋)
    秋風の中からつぽの段ボール

予備校で習う受験テクニック

2017-08-26 00:06:23 | 教育

(駿台予備校の広告)。

 予備校で教師が生徒の質問に「そういう愚問を発するから落ちるんだ」と突っ込むので驚いた。この予備校が特別だったのかもしれない。生徒はお客さんである予備校で「来年も落ちるぞ」とか何かにつけて痛いところをついてくるとは。

 予備校の授業を受けていて「こりゃぁ、すごい」と思ったことが何度かある。英語や古文は分量をこなすしかないと思っていたのだが、英語の場合、発音の間違えやすい単語は30個ほどしかなく、それだけ覚えれば発音はクリア。古文も助詞は8個で、それぞれの機能を覚えればクリア。

 そこまで整理されていれば、無駄な労力が(受験に対するかぎり)必要がなくなる。さすがに予備校は学問を教えるところではなく、受験テクニックを教えるところだと感心した。

 ひるがえって考えると、現役でやすやすと大学に合格した連中は、こうしたテクニックなしに入っていったのだから、すごいものだと改めて思った。むかし「親不孝通り」と呼ばれていた道を通って思い出した。

 ※私の俳句(秋)
    天高し跳び箱の段上げらるる

「団塊の世代」なりに苦労してきたのだ

2017-08-25 20:57:19 | 社会


 私は「団塊の世代」の最後尾につける者である。「団塊の世代」は人数が多く声も大きいから、ものごとが思い通りに行きやすいとか、彼らが老境に至ると年金や医療財政が破綻するとか、「団塊の世代」に対する悪口が絶えない。

 だが「団塊の世代」は他の世代にはない苦労をしてきたのだ。まず小学一年生に入学したとき、教室が足りない。そのため、小学校低学年なのに、午前の部と午後の部に分けられた。小学校一年生が午後の部に行くのはけっこうつらかった。

 受験が大変だった。18歳人口は現在の2倍いた。国公立大学の定員は、そう増えていない。どこの大学の教員も「団塊の世代が一番成績が良く、それ以降、学生の成績が落ちていく」と感じている。そんなの当たり前だ!!定員が決まっているのだから、大きい母集団から採ったほうが成績がよくなるのは必然だ!

 私が医学部の学生のころ、日本全体の医学部定員は一学年当たり4,000人だった。その後、田中角栄の「一県一医大」構想により医大が増えて定員が倍増の8,000人となった。「団塊の世代」は、この定員増の恩恵に浴せなかった。

 18歳人口が多いのだから受験戦争は熾烈を極めた。私もあんなに勉強したことがない。よい経験だったのかもしれない。少々の負担にはへこたれなくなった。予備校のスター講師の林修さんが言っている。「受験で猛烈に苦労しておくことが必要」と。

 ※私の俳句(秋)
    友が持ち来たる新酒と文学論

紅白歌合戦のバックバンド

2017-08-25 01:08:01 | 音楽


 私が高校生のころ、大みそかの紅白歌合戦はお化け番組だった。視聴率をほぼ独り占めにして、裏番組は対抗するすべもなかった。大みそかにベートーベンの第九を演奏する習慣もまだなっかった。

 ときあたかも3C (クーラー、カー、カラーテレビ)の時代で、日本全体が活気に酔っていた。(上の映像で白黒のものも放送はカラーだった)。紅白歌合戦は現在よりよほど面白かったと記憶する。

 高校生の私は大みそかに友人と、新宿の厚生年金会館でおこなわれた原信夫とシャープス&フラッツのコンサートを見に行った。(夜中の0時からだったから、正確には元旦ということになる)。

 当時、紅白歌合戦はバックバンドも紅白に分かれており、原信夫とシャープス&フラッツは紅組。白組のバックバンドは小野満とスイングビーバーズだった。原信夫のバンドは東京宝塚劇場での紅白を終えてから厚生年金会館に駆け付けた。

 厚生年金会館で原信夫は、こう言って聴衆を「よいしょ」した。

 「僕たち(紅白ではなく)ここからが本番ですから」

 NHKのテレビ番組で、原信夫が90歳で健在だと紹介されていたので思い出した次第。

 ※私の俳句(秋)
    かの家もいまだ灯消えず星月夜 

夏の季語「金魚」

2017-08-24 00:06:20 | 俳句

(金魚すくい。ウィキペディアより引用)。

 俳句の季語には何故その季節なのかすぐに分からないものがあります。たとえば「噴水」は夏の季語です。「滝」も夏。両方とも「涼」を誘うからだと思われます。じつは「涼し」が夏の季語なのです。暑いからこそ「涼しさ」が感じられるというわけですね。

 「金魚」も一年中いるにもかかわらず夏の季語です。「金魚」が季語になったのは新しく、明治時代だといわれています。金魚は室町時代あたりに中国から日本に入ってきたらしいのですが、金魚の飼育が流行したのは江戸時代中期からです。

 もっとも、当時は池がある家しか金魚を飼えませんでしたから、金魚を飼っているのは武家か豪商に限られたようです。庶民が金魚を飼うようになったのは、ガラスの金魚鉢が普及してからです。ガラスの丸い金魚鉢を「金魚玉」といい、これも夏の季語です。

 庶民がガラスを持てるようになったのは、いつごろかは知りませんが、江戸時代ではまだ無理だったのではないでしょうか?(せいぜいビードロまで)。

 なぜ夏の季語なのかは、「金魚売」が夏しか来なかったからではないでしょうか?私が子どものころ東京には金魚売が来ました。先日、ここにご紹介したような天秤棒をかついで来たのではなく、リヤカーで水槽を曳いていましたけどね。

 夜店の金魚すくいが、いつごろから始まったのかは知りません。でも夜店が出る「祭」がすでに夏の季語ですし、とうぜん「夜店」も夏の季語です。私自身、寒い中で金魚すくいをやった記憶はありません。

 歳時記という季語集には、伝統的な季語と新しい季語が混在しています。「火鉢」、「炭」は現在ほとんど見られませんが、冬の季語として歳時記には載っています。軽々に歳時記から外してしまうと、むかしの俳句が理解できなくなる恐れがあるからです。

 「どてら」、「綿入れ」は私が子どものころには当たり前の冬着でしたが、もう見かけませんね。「ちゃんちゃんこ」は還暦祝いなどで見かけますが、綿が入った着衣という点では3つとも同じです。

 歳時記を読んでいると季節の移ろいだけではなく、時代の移ろいを感じますよ。どこの書店にも歳時記は置いてありますから、あまり大部でないものを一冊お薦めします。

 ※私の俳句(秋)
    神島の井戸はここのみ水澄める

やかましい高校野球がようやく終わる

2017-08-23 00:26:55 | スポーツ

(高校野球、今期の準決勝。サンケイスポーツより孫引き)。

 例えばアナウンサーが「国会質問の一番バッターは○○議員です」というように、なんでも野球の表現でいう奴はバカだと言ったのは私ではない。私ではないが同感である。「打線」だとか「中継ぎ」なぞといわれても何のことやら。

 私は野球のルールをあまり知らない。だから、プロ野球を見ない。高校野球も見ない。高校野球はプロではないから、いくら強豪校でもプロにはかなわないだろう。だったら、さして面白くないのではないか!?やかましいだけである。

 自分の息子や近所の高校生が出ているのなら、まあ見てもよい。だが、地元の高校だって強い高校ならば野球留学生がたくさんいて、地元とは縁もゆかりもない。見知らぬ小学校の運動会を見てもつまらないのと同じだ。

 誰かが高校球児は純粋だといった。だったら、球児でない高校生も純粋だ。両者に違いはない。不純なら両方とも不純だ。むかし高校球児が宿の屋根伝いに女風呂を覗いている写真を、週刊新潮誌がスクープしたのを忘れたか!?不純なのは男のサガであって、球児かそうでないかは関係がない。

 そのやかましい高校野球がようやく終わる。ああ、せいせいした。これで、いつもの平穏な生活に戻れる。(NHKは高校野球ばかりやるな!!高校生のスポーツはバレーボールやバスケットボール、ハンドボール、サッカー、ラグビー・・。球技だけでも、いくらでもあるのだ!!俳句甲子園も決勝だけではなく予選からやってくれ!)。

 ※私の俳句(秋)
    鰯雲帯なす知らぬ街に来て

1950年台のピアノブーム

2017-08-22 00:27:48 | 歴史


 戦後、数年たった東京では「住宅難」が起こりました。住民の多くはひどい住宅に住んでいました。長屋や安アパートなぞは一部屋しかありませんでしたから、「寝食分離」なんて不可能でした。

 一部屋というのは6畳です。入口の半畳の土間に流しがあり、もう半畳は押入れ。合計7畳。トイレは共同のぼっとん便所でした。

 当時から2DK という用語があり、それは庶民のあこがれの的でした。ところがこれが狭いのです。「2」は2部屋のことですが、6畳と4畳半。DK (ダイニングキッチン)なんていっても6畳。あと、バストイレ付きだけは自慢できました。(東京では風呂は銭湯を使うのが一般的でした)。

 4階建ての2DK 集合住宅が雨後のタケノコのように建ちました。3階以上でぼっとん便所はあり得ませんから、やっと水洗トイレが普及しました。まだ納豆売りの少年がいたころの話です。所得格差が大きく、2DK に住めた住人のさらに上には、先日述べた華僑の康くんちのような西洋館があって、そこからはピアノの音が聞こえてきました。(戦前からです)。

 戦後、2DK の連中は戦前の西洋館の深窓からのピアノの音が悔しくて、自分たちもこぞって2DK にアップライトピアノを入れました。そして、子供にピアノを習わせました。これが東京のピアノブームです。狭い2DK がさらに狭くなりました。そのころ、日本人の8割は農村で農業をしており、農村ではピアノはあっても学校だけでした。

 ピアノを買うのは、日本全体から見れば都市住民の一部だけですから、ヤマハ、カワイは良いピアノを出荷できました。その後、都市への人口流入によって、ピアノの需要はうなぎ登りとなって、メーカーはピアノの木材を乾燥させる暇もなく、ピアノの質が10年間で急速に低下しました。(その質の低下は今聴いてもわかります。都市のピアノの音には戦前の上流階級への怨念がこもっています)。

 現在、同じことが中国や東南アジアで起こっています。中古ピアノの需要は大きく、上のCMの会社は成功しました。粗製乱造のピアノがたくさん残っていますから・・。もっとも、上の会社は最初、輸出対象がオーストラリアだったので、中国その他に輸出しているかどうかは知りません。

 中国では新品の需要も大きいですから、少なくともヤマハはウハウハなことでしょう。

 (おことわりしておきますが、私はピアノが弾けないし、家にピアノもありませんでした)。

 ※私の俳句(秋)
    菊なますばかり出てくるはしご酒