院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

土木工事の犠牲者

2012-08-31 05:43:29 | 工業
 新幹線が開通するかしないかのころ、土木工事で人が死ぬ確率は工事費1億円につき一人と言われていた。だから、新幹線のトンネルの入り口には、犠牲者を悼むための名前が刻まれた石が貼ってある。

 当時から見ると今の物価は5倍くらいだから、犠牲者は5億円に一人ということになろうか。

 そのように計算すると、640億円かかった東京スカイツリーは、5で割ると、128人の作業員が亡くなったことになる。しかし、そんな数字は報告されていない。

 一体、何人の作業員が東京スカイツリーの建設で亡くなったのだろうか。128人よりはずっと少ないだろう。人の命の価値がずいぶん重くみつもられるようになったと慨嘆する。

 福島原発の復旧作業では、放射線被害も含めてどれだけの作業員が亡くなるだろうか?これは未知の体験なので、何億円に一人という数字さえ出ていない。

点滴というおまじない

2012-08-30 06:36:17 | 医療
 昔は病院で沢山薬をもらうと、「こんなにもらった」と喜ぶ患者さんが多かった。だから、医者はビタミン剤や胃薬など、緊急性のない薬を追加してカサを増やして、患者さんの期待に応えた。

 今は、さほど患者さんは喜ばなくなった。それにビタミン剤は、口から普通に食事をしている人には必要なく、健康保険も適用されなくなった。

 その替りと言うべきか、病院で点滴をしてもらうと喜ぶ患者さんが非常に多い。点滴は滋養強壮にそんなに効くのだろうか?

 おおざっぱに言えば、点滴の中身はポカリスエットと同じである。血管からいれるのは、口から飲むのと同じことである。口から飲んだほうが、血管から入れるよりも感染のリスクや心臓にかかる負担が圧倒的に少ない。だから、点滴は飲んだほうがよいのである。

 でも、口から点滴液を飲んで喜ぶ患者さんはいない。だから医者は点滴をする。点滴をすると病院は950円儲かる。点滴液の利ざやも儲かる。口から飲んだらゼロ円だ。

 患者さんが求める限り点滴は続くだろう。点滴には脱水症の治療以外には何の効果もない。それなのに、患者さんは元気が出たような気分になる。または、十分に栄養補給がなされたと錯覚する。

 点滴は大いなる現代のおまじないである。

小便器の難点

2012-08-29 06:00:11 | 生活
 日本のトイレが世界一であることは、数日前ここに書いた。でも、私にはまだ不満がある。それは男性用の小便器についてである。

 小便器がどんな形をしたものでも、すべて小便を跳ねる。アサガオ型はもちろん、縦に長い小便器や座椅子型の便器も小便をすると跳ねる。

 ズボンをはいていると分らないが、パンツひとつで小便をしてみると分る。足に冷たい跳ねがかかるのだ。

 どんな構造や曲線にしても駄目なのだろうか?あるいは材質はどうだろうか?陶器だから跳ねるのではないか?スポンジのような材質にしたら跳ねないだろう。しかし、スポンジのようにすると、手入れが大変になるだろう。

 テフロン加工はどうか?もっと跳ねるかも知れない。陶器の曲面にギザギザをつけたらどうだろうか?それだと掃除ができないか?

 小便の跳ねを解消する小便器ができたら、たぶん大ヒットすると思うのだが、これは素人の浅知恵だろうか?

念仏とサプリメント

2012-08-28 04:56:28 | 心理
 経典には難しいことが沢山書いてある。やれ「実体」には何通りがあるとか、やれ「空」とはどのような状態であるとか、かなりの教養人でも理解に難渋するような内容である。

 平安時代の庶民が、このような思想をあまねく理解できたとは到底思えない。それだからかどうか、法然は念仏を称揚した。「南無阿弥陀仏」と唱えていさえすれば極楽往生できると説いた。

 これはすばらしいアイデアである。禅などの修業はせず、教義を勉強する必要もなく、ただ念仏を唱えていさえすればよいのだと、法然は主張した。

 法然は屁理屈をこねて念仏を正当化した。正当化されて、お墨付きがある教えは、庶民には絶大な力がある。この教えは庶民をどれだけ救ったか分らない。庶民は熱心に念仏を唱えたことだろう。

 このことと、現代のサプリメントは似ていはしまいか?サプリメントを飲んだ人は元気になったような気持ちになる。そして、明日への希望が湧いてくる。これはサプリメントの功徳である。

 サプリメントは、かつての念仏が現代的に姿を変えて現れたものだろうと、私は考えている。

正しい教育とは?

2012-08-27 08:18:34 | 教育
 小学校3年生のとき、担任の女性教師が「屋のつくお店屋さんにはどんなものがあるでしょう?」と生徒に問うた。

 「八百屋」、「下駄屋」など、いろいろな回答があった。中でN君が「おわい屋」と答えた。「おわい屋」とは当時のぼっとん便所の汲み取りをする仕事である。

 そうしたら教師は「N君、なに?お椀屋でしょ。ね、お椀屋ですよね」と強い口調で迫った。N君はおずおずと「はい」と引き下がった。

 そのとき、私は表現の仕方が分からなかったけれども、大人の言葉で言えば「タテマエ主義だな」と思った。

 小学校5年生のときは男の教師だった。国語の教科書に「宇宙は不思議です。僕は絶対に科学者になろうと思いました」という少年の文章が載っていた。男性教師は「こういう考えは、すぐにひるがえってしまうでしょう」と論評した。

 私はほとんど感動した。教師が教科書の内容を否定したのだ。

 当時は男性教師のほうが断然正しいと思っていたけれども、今考えてみると、どちらの教育方法が優れていたのか分からない。人生を渡っていくにはタテマエも必要だろう。教育関係者はどのように思われるだろうか?

批評と評論

2012-08-26 04:56:01 | 読書
 高校時代に国語の教師Uに、批評と評論は違うと教わって、なるほどと思った。

 絵なり音楽なりの批評とは、それが良いとか悪いとかを論じるものである。それに対して、評論とは、対象物を借りながら自分の思想を述べることだという。

 当時の私は、その辺の区別が曖昧だったし、現在の論壇を見てもまだ曖昧である。

 教師Uに教わったように、批評や評論を見ると、一層クリアに論点が分かる。私の読書生活を一段階引き上げてくれたUの指摘だった。

 Uは左よりの小説を書いており、一度は芥川賞候補になったこともあった。高校の教師をしていたのは、小説では食えなかったからだろう。だが、Uは左翼的な思想を我々生徒に吹き込むことは一切なかった。

 あれから半世紀たつ。ついにUは芥川賞を取れなかった。そして、Uの消息を知る同級生はいない。

世界のトイレ事情

2012-08-25 05:17:39 | 文化
 もう20年位前、高校生だった娘が単身カナダに行って、向こうの公衆トイレがきれいだと驚いて帰ってきた。山奥の公衆トイレにも紙があったという。

 当時、日本の公衆トイレには、駅でも街中でも紙は置いていなかった。だから、紙を持って歩いたり、デパートのトイレを使用したりした。現在では日本でも、あらゆるトイレに紙が置かれるようになった。いまや山奥のぼっとん便所にも紙がある。

 これで、日本のトイレは世界最高となった。

 私が知っている範囲では、世界のトイレ事情はよろしくない。チュニジアのトイレは便座がなく、流れなかった。ドイツは男性用のアサガオが不必要に高い位置に付いていた。

 だから外国へ行くと、ホテルで済ませるよりない。それを考えると、どうしても海外に行くのに二の足を踏んでしまう私である。

一泊二食付き旅館の料理

2012-08-24 06:18:09 | 食べ物
 一泊二食付きの旅館に泊まって感動したことがない。食事がおいしくないのだ。

 私が安い旅館ばかりに泊まるからだろうか?でも、高級旅館ではないにせよ、一泊2万円以下では普通の観光地では泊まれない。2万円のうち食事代はどれだけを占めているのだろうか?そこが不明朗である。

 いつぞや書いたが、旅館の夕食は量が多すぎる。10枚以上の皿でテーブルがいっぱいになる。品数は多いのだが、どれもおいしいものはない。山菜だとか柚子や鶏卵の滑ったの転んだのは、一見手が込んでいるけれども、必ずしもおいしくない。

 旅館もホテルのように、宿泊代と食事代を別にして欲しい。旅館の食事代はさほど高くはないはずだ。そこを曖昧にして高い値段を取るような商売は、今日び需要はない。

 今はどこの旅館も同じ方式をとっているから、カルテルみたいになっているが、宿泊代と食事代を別にするベンチャー旅館がすでに出てきている。それらは繁盛しているという。

 従来の一泊二食付き旅館方式は早晩駆逐されるだろう。

作務衣の職人

2012-08-23 08:19:11 | ファッション
 蕎麦打ち職人や陶芸家、それに和食の料理人など、わが国の文化を伝える人々の中に、作務衣で人前に現れる人がいる。

 なぜ職人が雲水のような恰好をするのか?

 答えは簡単で、それがファッションだからである。それも、かなり通俗的なファッションだ。そのような衣装で身を包む人に本物の職人はいない。

 つまり、作務衣の蕎麦職人の蕎麦はおいしくない。

 作務衣の人がちょび髭を生やしていたり、頭をバンダナのような布でくるんでいたりすれば、それはいかにも「らしい」恰好であり、腕は信用できない。そのような人は、まずスタイルを重視する人で、技術を軽んじるだろうから。

 ちなみに、なぜか「作務」「作務衣」は広辞苑に載っていない。

生野菜が好きでない

2012-08-22 05:44:38 | 食べ物
 私は生野菜のサラダが好きではない。なんだか馬草のような感じがする。

 最近はサラダバーなんていうのも出来て、日本の歴史上これほど生野菜を食べることはかつてなかった。

 生野菜のサラダは14世紀のイギリスに記録が残っているらしい。日本にサラダを持ち込んだのは進駐軍である。進駐軍は農薬で寄生虫を殺したから、ようやく安全な生野菜が食べられるようになった。

 日本人でサラダ好きの人は、それこそ馬のように生野菜を食べる。低カロリーでミネラル豊富だから、好んで食べるのだろう。

 しかし、それは一種の信仰である。わざわざ硬かったり青臭かったりする生野菜を無理に食べる必要はない。漬物や煮野菜で同じ栄養素が十分に摂れる。

 わたしは漬物や煮野菜のほうを好む。生野菜をバリバリと食べるのは、現在の流行に過ぎないことを知るべきである。

「どういうところが?」という愚問

2012-08-21 05:45:50 | マスコミ
 子供がお祭りなり映画なりを楽しんで戻ってきたとする。待ち構えていた大人のインタビュアーが子供に「どうだった?」と訊ねる。子供はたいてい「面白かった」と答える。

 そこでインタビュアーからすかざず出されのが「どういうところが?」という愚問である。子供は一瞬たじろぐ。当たり前である。子供にとっては全体が面白かったのだから。

 子供は分析的に体験しているわけではない。からだ全体で体験しているのだ。そこに「どういうところが?」という分析をしいる質問である。多くの子供はなんとかやり過ごすけれども、答えはおざなりになる。そんな答えでもインタビュアーは満足する。

 夏休みの読書感想文も同じである。「面白かった」だけでは済まされない。もっと何かを書かなくてはならない。仕方なく子供はあらすじを書いてお茶をにごすことになる。

 「どういうところが?」という質問にに理路整然と答えるには才能が必要である。大人でも答えるのは難しい。しかし、この愚問はずっと続いている。

 こんどテレビを、そのつもりで見ていてもらいたい。インタビュアーは子供に対して「どういうところが?」という質問を、懲りもせずに続けているはずだから。

どこからが宇宙か?

2012-08-20 05:28:08 | 科学
 毛利衛さんのことを宇宙飛行士と呼ぶ。それ以後、スペースシャトルなどに乗った人を、みな宇宙飛行士と呼んでいる。彼らは本当に宇宙に行ってきたのだろうか?

 彼らが行ったのは、地上から300Kmあたりのところである。東京から名古屋くらいまでの距離に過ぎない。つまり、スペースシャトルは地表をなでるように飛んでいたのだ。その程度の高さを宇宙と言えるだろうか?

 中には重力がないではないかと思う人もいるだろう。しかし、地上300Kmでは、まだ十分に重力は効いている。スペースシャトルが高速で地球を回っているから、その遠心力と地球の重力が釣り合って、無重力のように見えるだけだ。このブログの読者なら、そんなことは重々ご承知だろう。

 それならば、どこからを宇宙と言ったらよいのか?私は火星探査機のように、地球の重力が微量にしか及ばない場所を宇宙と言うべきだと思う。

 宇宙飛行士は自分は宇宙に行ってきたと、あまり言うべきではない。地上300Kmが宇宙なら地上だって宇宙だ。地球だって太陽だって、みな宇宙内を動いているのだから。

名古屋めし事始め

2012-08-19 00:24:26 | 食べ物
 19歳で名古屋に越して来たころ、私は痩せていて食欲がなく、酒は一滴も呑めなかった。

 昼飯がトースト一枚で済んでしまうほど食が細かった。酒が呑めない代わりに甘い物には目がなかった。名古屋で初めて小倉トーストに出会った。今でも名古屋の小倉トーストは、他地域の人に「トーストにあんこ?」と気味悪がられるが、私には違和感はなかった。

 喫茶店で好んで小倉トーストを食べた。それで一食分が済んでしまった。

 味噌煮込みうどんは、慣れるまでに数年を要した。うどんが硬く、最初は茹で方が足りないのかと思った。しかし、それが本来の味噌煮込みうどんだと分かってからは、こんなにおいしい物はないと思うようになった。赤い八丁味噌がよいのだ。古里の東京では赤味噌は使用しない。

 赤味噌のほうが白味噌よりおいしいと思ったから、名古屋の味噌カツも抵抗なく食べられた。ただし、食が細かった私は、よほど調子が良いときでないと味噌カツ定食を一人前は食べ切れなかった。

 最近、名古屋めしとして有名になった鶏の手羽先やあんかけスパゲティーは、まだ影も形もなかった遠い昔の話である。

電話のかけ間違い

2012-08-18 04:20:45 | 技術
 NTTがまだ電電公社だったころ、電話機はほどんどがダイヤル式だった。間違い電話が非常に多かった。正確にダイヤルを回しても、別のところにかかってしまうことがよくあった。

 電電公社は「総通話量の何十%が間違い電話です」と、ダイヤルを正確に回すようにキャンペーンを行なったこともあった。私たちもダイヤルを丁寧に回した。それでも、間違えてかかった。それを自分たちの操作のせいだと思っていた。

 プッシュホンが普及してきて、相手の番号を記憶することができるようになった。その記憶された番号を使用して、直接電話をかけることができた。

 そのとき初めて分かった。電話機が記憶しているはずの番号にかけても間違い電話となることがあるのだと。

 つまり、間違い電話はすべて人間のミスによるものではなく、交換機が間違えることがあるのだ。おかげで、私たちは随分無駄な支払いをさせられていたわけである。

 確かに今は交換機がデジタル化されて、交換機自体が誤動作することはなくなった。しかし、リレーを使用したアナログ交換機は結構ミス接続をしていたのだ。

 そんなことがあったとは、NTTも口をぬぐってしまっている。あるいは往時を知らない職員だけになっている。でも、私はアナログ交換機の誤作動を、利用者の操作ミスのせいにしてしまった電電公社をまだ許せないでいる。

奇妙なメダル噛み

2012-08-17 05:06:47 | スポーツ
 金メダリストがメダルを噛む映像がよく流される。あれはいったい何だろうか?

 メダル噛みは昔からある。少なくとも女子マラソンのキューちゃんはメダル噛みをやっていた。

 このたびのオリンピックでも、そのような写真が報道された。男性もメダルを噛むようになった。

 メダル噛みは、おそらくカメラマンが要求するのだろう。選手はただ要求に応じてメダルを噛んでいるに過ぎないと思う。

 そこでカメラマン諸氏に言いたい。選手にメダルを噛ませるのは、もう古いですよ。

 メダルを噛んだ姿は、美しくも逞しくもない。ただ、カメラマンの小ざかしさを強調するだけである。