院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

ポルトガル管見記(ポートワイン篇)

2011-09-30 06:55:06 | Weblog
 「食べ物篇」でポルトガルのポートワインは絶品だと述べた。それもそのはず、「ポート」とはポルト地方のことで、ポルト地方とナントカ地方が合体してポルトガルと称されるようになったそうだ。

 したがって、ポートワインはポルトガル独特のワインということになる。造りかたは普通に葡萄を醗酵させ、ある時点でブランデーを混ぜて醗酵を止めることによって、ポートワインとなる。

 日本では「赤玉ポートワイン」というのがあった。しかし、ポルトガルの業者から、ポルト地方産でないのにポートワインを名乗るのはけしからんと言われ、製造元のサントリーは、この名称を廃止した。

 普通のワインが14度なのにポートワインは19度である。なぜ強いのかは知らない。

 レストランでワインを注文すると、普通のワインが出てくる。むろんポルトガルワインで、安くて結構おいしい。ポートワインが呑みたければ、別に断りを入れて注文するのだろうが、わざわざそうするツアーメンバーはいなかった。

 ポートワインの醸造元に見学に行った。展示してある瓶のもっとも古いものは1913年だった。もっと古いのはあるけれども展示していないそうだ。だいたいビンテージ物で1本50万円くらいだという。普通のワイン並みである。

 ポートワインにも赤と白がある。両方呑んだ。私には赤のほうが複雑な味がして好みだった。酒をあまり呑まない人には白のほうがさっぱりしていて良いかもしれない。

 一定の文化は必ず一定の酒をもっている。スコッチしかり、老酒しかり、日本酒しかりである。みな、その国の料理に合う。逆に言うと、その国の料理にしか合わない。だが、ポートワインはどんな料理に合うのか分からなかった。食前酒や食後酒によいと思った。

 イスラム圏では酒を呑まないけれども、イスラム文化というのは、れっきとしてある。なぜ、イスラム文化が独自の酒をもたなかったのか理解できない。イスラム教の歴史なんて、たかだか2千年である。それ以前には、ちゃんとした酒があったのかもしれない。

 同じくイスラム圏のチュニジアには「ブハ」という焼酎があった。

ポルトガル管見記(JAL篇)

2011-09-29 07:00:54 | Weblog
 昔、女の子の将来の夢と言ったら、スチュワーデスになることだった。今はキャバクラ嬢だそうである。

 日本航空(JAL)が潰れそうになった。これまでJALには乗ったことがない。避けていたのではなく、偶然である。このたびのポルトガル行きでJALに初めて乗った。

 そうしたら、素人目には潰れそうに見えるところは少しもない。とくにスチュワーデスが最高だった。まず、美人である。どこからこんなに美人ばかり集めてきたのかと思った。

 その美人たちに膝つき接待をしてもらうなんて、キャバクラ以上ではないか。彼女たちは笑顔を絶やさない。かなり無理な願いも聞いてくれる。

 それに較べて、外国の航空会社はだいぶ劣る。まずすスチュワーデスが劣る。次に食事が劣る。

 私はANAに乗ったこと以外は、すべて外国の航空会社だった。ANAは国内線だったから食事は出なかった。だから外国航路は、外国の航空会社ばかりだった。機内食というものはさしておいしくないと思っていた。

 それが今回JALに乗ってみて驚いた。機内食がうまいのである。地上のレストランとそう変わらない。

 メニューが選べるし、ワインは上等なのを呑み放題だ。これはビジネスクラスだったからだろうか?

 せいぜいJALを贔屓にしてやろうと思った。

ポルトガル管見記(名所旧跡篇)

2011-09-27 06:23:36 | Weblog
 ポルトガルでは名所旧跡に案内された。さすがキリスト教王国、案内されたほとんどが大聖堂や教会だった。

 それらは古くても13世紀の建築。キンキラキンの教会が多く、新しいものは19世紀の作だった。中にフランシスコ・ザビエルの肖像画が展示されている教会があった。

 ポルトガルは、大航海時代に栄華を誇った。往時の航海者を記念したモニュメントがあった。あのころはポルトガルがスペインと共に、ローマ法王から世界を2分してもよいというお墨付きをもらった時期でもあった。

 ザビエルを初め、ポルトガルが宣教師たちを世界に放ったのには領土的な野心があった。このころがポルトガルの絶頂期だったかもしれない。

 今やポルトガルは、国土は日本の4分の1、人口は半分で、経済的にも破産寸前である。航海者たちのモニュメントは、昔はよかったと懐かしんでいるような雰囲気を醸している。

 大航海時代、鉄砲が日本に伝来して、戦国時代の日本の勢力地図を一変させてしまったことを現在のポルトガル人は知らないらしい。カルタ、コンペイトウ、昨日も触れたカステラはポルトガルのものである。コンペイトウはすでに現地にはない。

 もっとも、カルタはドイツ語ではカルテだ。カルテは札のようなものを表す用語で、ドイツ語で切符のことをラントカルテという。英語のカードも同語源だろう。

 キリスト教建築遺産を多数見たけれども、さしたる感動を覚えなかった。建築については日本のほうが格段に勝っている。法隆寺、唐招提寺などはポルトガルの教会よりもずっと古く、かつ日本独特である。

 ポルトガルには自然遺産にも見るべきものがないようだ。ユーラシア大陸の西の端という「名所」があって、私も行ってみたが、ただの海岸である。そこの土産物屋で、ここに来たという証明書を有料で書いてくれた。妻がそれを求めた。氏名が幅広のペンで独特な字体で書かれた。昔、製図の授業で習った字体だ。私のほうが上手かったと思った。

 後で分かったことだが、娘もこの海岸には行ったことがあり、妻と同じく証明書をもらってきたそうだ。

 私にとって印象に残ったのは名所旧跡ではなく、ポルトガルの家並みである。ポルトガルでは焼くと赤くなる粘土しか採れないそうで、家々の屋根瓦がみなエンジ色だったのが思い出深い。壁は一様に白かった。別に法律で統制されているのではないという。

 旅行で心動かされるものは名所旧跡にはなく、何気ない日常の風景にある。

ポルトガル管見記(ツアー旅行変わるの篇)

2011-09-26 06:14:26 | Weblog
 これまで海外旅行は何度かしたことがあるけれども、自分たちで計画したのは一度きりで、あとは全部ツアー旅行である。自分たちで計画したときには外国語に堪能な人が付いていた。だから鉄道などを予定外に使うこともできた。

 今回のポルトガル旅行もツアー旅行である。ツアー旅行とは、外国に不慣れな人が集まって、出発から帰国まで旅行会社に面倒をみてもらうシステムだと、これまでは思っていた。だが、このたびポルトガル・ツアーに参加してみて、そうばかりでもないらしいと分かった。

 というのは、ツアーのメンバーに旅慣れた人が多すぎるからだ。なるほどポルトガルなぞと言えば、少々マニアックだから、他のもっと有名な地域はすでに経験済みという人が多いということもあるだろう。

 しかし、前回述べたオランダ駐在の青年のように、本来一人で行けるはずなのにツアーに参加している人も多かったのである。

 彼らは出発地が必ずしも日本ではない。途中でツアーに参加したり、途中からツアーを離れていく人もいた。

 要するに彼らは、一人でも海外旅行はできるのだが、宿やレストラン、交通機関(今回は専用バス)を自分で取るのが面倒だからツアーに同行したようなのである。

 このようなツアーの利用の仕方もあるのだなと、妙に納得した。各ホテルに別々に予約する必要もない。しかもツアーだと安い。

 私の利用の仕方は古典的で、一人で海外旅行をする自信がないからツアーに乗ったのである。昔はみなそうだった。

 今回はJALパックで行ったのだが、ツアーのメンバーでJALパックで来た人はむしろ少数派だった。みな別の会社から申し込んでいた。現在、ツアーというものが、どういう仕組みになっているのか分からない。

 JALパックと言えば、私が中学生のときからあった。だから、安心して申し込んだのだが、そのシステムは往時とは随分と変わってしまったようである。2人申し込みがあればツアー成立という条件だったが、2人でツアーが成り立つというのも、考えてみれば不思議な話だ。

 友人はこの夏スイスへ旅行した。私と違って小まめな人で、交通機関からホテルまで、すべての予約を一人でインターネットでやったという。計画の段階が楽しいのだという。私にはとてもマネのできない業だ。やってやれないことはないだろうけれども、面倒だからやりたくない私である。

ポルトガル管見記(食べ物篇)

2011-09-25 06:30:34 | Weblog
 今回のポルトガル旅行で、かなり印象に残ったのは食事のまずさだった。日本人の口には合わないというようなレベルではない。たぶん何人の口にも合わないだろう。ポルトガル人は、よくもまあ、こんなにまずいものを毎日食べているなぁと、むしろ感心した。

 まだ日本が貧しかった昔、ご飯にソースだけをかけて食べても結構おいしかった。一定以上の年代の人なら身に覚えがあるだろう。ポルトガルの食事事情は未だにそれに近い。

 まずスープがまずい。クノールの即席スープのほうが、おいしい。香りや味がなかったりする。だから塩や胡椒をかけて飲んだ。

 ポルトガル名物は干ダラだ。スーパーマーケットには巨大な干ダラが塩で真っ白になって売っていた。タラは上手に料理すれば、おいしい魚である。それが、まずい。塩抜きが足りずに塩から過ぎたりした。

 塩加減は料理の基本である。ちゃんとした?レストランにして塩加減がなっていない。これでもプロだろうか?このくらいの料理なら私でも作れる。とても客に出せるようなシロモノではない。そんなレストランなら日本ではすぐに潰れるが、彼の地では潰れない。

 ツアー代をけちったわけではない。逆に上等なほうのツアーだった。要するに、いくらお金を出しても、ポルトガルにないものは食べられないということだ。

 肉もうまくなかった。ローストビーフが缶詰の牛肉のようだった。豚肉はスジがあり過ぎである。

 ツアーの仲間にオランダに5年間駐在している日本人青年がいた。彼がこのツアーに参加したのは、オランダやドイツの料理はまずいので、たまには南のほうでおいしいものを食べようと考えたからだという。そして驚いたことに、実際おいしいと彼は言う。お兄ちゃん、お兄ちゃん。こんな料理をおいしいと思っちゃいけません。外国ボケして、おいしいという感覚を失ったのではないですか?

 2年前、チュニジアに旅行したときの料理は、こんかい以上に日本離れしていた。イスラム国だから、豚肉は出ない。羊の肉ばかりだ。それでもポルトガルよりはまだましだったような気がする。

 日本はほんとうに料理がおいしい国だと、つくづく思った。帰ってきてすぐに馴染みの定食屋で豚の生姜焼き定食800円也を食べた。おいしかった。これがプロの味で、私では作れない料理だ。

 ポルトガルでは味もよくなかったが、ウエイトレスの対応もよくなかった。にこりともせずに、大皿からばさっ、ばさっと小皿に投げ込むように料理を配る。まるで動物にエサをやるようだった。

 デザートはそこそこおいしかった。くだものが多かったから料理のしようもなかったためだろう。カステラは発祥地としては、パサパサしていておいしくなかった。文明堂や長崎屋を見習ってほしい。

 最後にポルトガルの名誉のために言っておくと、ポートワインは絶品だった。ワインだと思って呑むと甘すぎるのだが、ポートワインという別のお酒だと思って呑むと非常においしかった。

ポルトガル管見記(人種篇)

2011-09-24 06:25:19 | Weblog
 昨晩遅くポルトガルから戻った。ロンドン、成田間(11時間)で寝たからだろうか、意外に時差ボケは少ない。

 今回、行き先をポルトガルとしたのは、この時期に彼の地へ行く日本人は少ないだろうと思ったことが、ひとつあった。海外で日本人の集団に出会うと、少し白けるのは海外旅行を経験した人には思い当たるだろう。

 案の定、日本人は我らの一行20名ほどだけで、他に日本人はおろか東洋人に出会うこともなかった。思いのほかアラブ人もいなかった。地理的に近いのになぜだろう?

 99%以上が白人だった。現地人も観光客も白人だった。観光客は多かった。英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語までは何とかそれと分かったが、何語か分からない白人も多く、とにかく我々よりも近辺から来ていることは確かだった。

 私には白人は全部同じに見える。白人たち同士では区別がつくのだろうか?東洋人だって、日本人、韓国人、中国人は互いが(しゃべらなければ)区別できない。タイ、ベトナムあたりだと、顔つきの違いが分かる。

 白人同士でもその程度の違いは分かるのだろうか?今度、親しい白人に会ったら聞いてみよう。

 ポルトガル人であろうと、観光客であろうと、白人にはデブが多いので驚いた。アメリカはデブ天国だと聞いたが、ポルトガルも同じようなものだった。おおげさに言えばKONISHIKIみたいな人が沢山いる。

 若い女の子にもデブが多かった。ちょっと日本では見かけないような太さだ。現地のテレビではダイエットの宣伝をさかんにやっていた。

 しかし、アベックで歩いている女の子にはデブはいなかった。デブでないとモテるということか?

 スチュワーデスにもデブはいなかった。人前にでる職業の女性はデブではいけないのだろうか?

 デブでも可愛く見える女の子はいた。でもそれは少数で、デブであってもなくても可愛い娘は少なく、普通かそれ以下が多かった。日本のテレビCMなどに出る白人がいかに美人であるかが分かった。テレビの白人女性が美しいからといって、白人女性みんなが美人ではないことがよく分かった。

 同時に日本人女性がいかに美しいか、また白人男性にとても好まれることが理解できた。

 別に美女を探しに旅をしたわけではないけれども、私も男性である以上、どうしてもそちら方面に興味が行ってしまう。でもその方面ではほとんど収穫がなく、日本人女性を見直しただけの旅行だった。

ポルトガルに旅行に行きます

2011-09-15 08:43:12 | Weblog
 明日(平成23年9月16日(金))より9月23日(金)まで、ポルトガルに旅行に行きます。

 そのため、このブログはしばらくお休みします。旅行から帰ったら、ポルトガルの現況をお伝えしますので、お楽しみに。

「音楽療法」の陥穽

2011-09-14 10:23:40 | Weblog
 インド音楽は西洋クラシックと比肩するほど洗練されているというが、私にはインド音楽のよさが分からない。

 昔、ラビ・シャンカールというシタール(インドの弦楽器)の名手が来日した。生ではなくテレビで見た。すごいテクニックだったが、理解できなかった。インド音楽にはラーガという「調」が沢山あるらしい。そのラーガは「夜明けのラーガ」など、時間や季節によって使い分けられるらしいが、ぜんぜん分からなかった。

 西洋人は日本の伝統音楽が理解できないらしい。琴や三味線、尺八が分からないと言う。

 思うに音楽も言語と同じく学ぶものではないか?学んでいるうちに、よいと感じるようになるのではないか?初めて聴く音楽より、何回も聴いた音楽のほうをよいと感じるのはなぜか?というのはアリストテレスが出した問いである。

 精神医療分野で効くのか効かないのか分からないけれども、「音楽療法」に熱心な人がいる。自分の心がこんなに安らぐのだから、病者も安らぐだろうという単純な発想である。

 「音楽療法家」は西洋クラシックを用いることが多い。彼らはクラシックに馴染んでいるから、クラシックをよいと感じるのだろう。でも、すべての人がよいと感じるかというと、そうは問屋が卸さない。

 上に述べたように、音楽は言語のように学習して初めて鑑賞できるのだとすれば、別の文化圏の人や、その音楽に馴れていない人には「音楽療法」は無効だと思う。つまり、知らない外国語による精神療法と同じである。

 私には「音楽療法家」が独りよがりに見えてならない。

 ラビ・シャンカールの演奏は以下。
http://www.youtube.com/watch?v=4gWCiLexilY

トラウマ論者に告ぐ

2011-09-13 05:00:03 | Weblog
 「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」という言葉が好きだ。人間は苦労を重ねるほど磨かれるというほどの意味だろう。

 「可愛い子には旅をさせよ」という諺も類似の含意がある。虎は自分の子どもを谷に突き落とすという伝説も同類だろう。

 振り返れば私もイヤなことをたくさん経験してきた。嫌いな奴に頭を下げなければならないこともあった。パワハラにも見舞われた。

 これらは今風に言えば、すべてトラウマになっているはずである。やれセクハラだ、やれいじめだと、トラウマの種は尽きない。

 セクハラやパワハラは訴えろ。相手に過失があれば搾り取れるだけ搾り取れ。なんでもいいからトラウマになったと慰謝料を請求せよ。こういう風潮の上に今のトラウマ理論があるのではないか?

 人生はトラウマだらけなのが当たり前である。それを、ことごとしくあげつらうのはアメリカの悪しき影響か?あまりにもトラウマ、トラウマと言いすぎる。

 アメリカでは階段から落ちたら誰のせいかまず考えろ、そして疑わしい者を訴えよと言う。アメリカは訴訟社会だとも聞いた。弁護士は有り余るほどいて、訴訟を待っているのだそうだ。

 そんな土壌で作られたトラウマ理論を日本に持ち込むこと自体に無理があるのではないか?「艱難・・」という概念がある日本にトラウマ理論はなじまないと思うが、どうか?

続・むち打ち症とPTSD

2011-09-12 06:36:40 | Weblog
 むち打ち症については 2011-04-22 の記事に書いた。その時の書き方が分かりにくかったかもしれない。だから、もう一度書く。

 むち打ち症とPTSDは、それらが一疾患として「でっちあげられる」過程が極めて似ている。

 むち打ち症は昭和40年代のモータリゼーションの時代に「流行」した。車で追突された時に、頭が前後に強く振られた結果、むち打ち症は生じるとされていた。

 症状は肩こり、めまい、頭痛、食欲不振といった不定愁訴である。

 当時はむち打ち症患者が激増し、整形外科はどこの病院も医院も、首を牽引する人であふれていた。首の牽引がむち打ち症の治療になると考えられていた。

 自動車が急増し、それに対する道路の整備が間に合わず、「交通戦争」という言葉まで生まれたほどである。それゆえの、むち打ち症の増加だろうと当時は思われていた。

 整形外科医もむち打ち症は確かに存在すると思っていた。だから、列をなすむち打ち症患者の治療に忙殺されていた。

 前にも書いたけれども、むち打ち症の名称の由来は、むちを振るように首が前後に振れるところから来ている。そのときに、硬膜という脊髄を覆っている膜に皺ができて、その皺が脊髄を圧迫してむち打ち症の症状が出ると説明されていた。

 硬膜に皺ができるほどの衝撃だもの、すごい力がかからなくてはならない。ところが、コツンと追突されただけで、さしたる衝撃もなかったのに、むち打ち症の症状を出す人が多数出てきた。

 さすがに整形外科医たちも疑問に思った。要するに宣伝のしすぎだったのである。宣伝と言うよりもマスコミが取り上げすぎたのだ。それで、追突された人が我も我もとむち打ち症の症状を出すようになった。

 ほとんどのむち打ち症は、マスコミに影響された被暗示性の神経症だとみなされるようになった。それで、むち打ち症は精神科の担当となった。

 PTSDも似ている。精神科医たちはPTSDが戦争や災害で生じると思い込んでいる。だから、そのうち自らPTSDだと主張する患者が出てくるだろう。

 今でも「軽いむち打ち症になった」と語る人がいる。むち打ち症に「軽い」のなんてありえない。一度刷り込まれた俗説は40年たっても消えないのだなと嘆息する。

 実はPTSDにも、すでにその兆しが見えるのである。

えひめ丸事件とPTSD

2011-09-11 12:50:03 | Weblog
 えひめ丸事件をご記憶だろうか?2001年、宇和島水産高校の漁業練習船が、急浮上した米海軍の潜水艦に衝突され沈没し、乗員35名中9名が死亡した事件である。その多くは練習生だった。

 このとき救かった練習生の一部がPTSDに罹ったとする精神科医たちがいた。その治療に2年を要したという。

 これって、おかしいとは思わないだろうか?私はおかしいと思った。

 水難事故で溺れそうになったことがある少年はたくさんいる。水難事故でなくても、交通事故などで死にそうな目に遭った少年も入れるとゴマンといるはずである。

 もし、えひめ丸事件で練習生がPTSDになったというなら、上記の災難に遭った少年たちもみなPTSDにならなければおかしい。

 当時からしきりにPTSDのことは言われていた。えひめ丸事件は米潜水艦との衝突という、極めてセンセーショナルな事件だった。そこで、一部の精神科医たちは事件とPTSDを短絡させ、あちこちで発言したのだろう。

 生き残った練習生は十分な労(ねぎら)いと同情を受けていたはずである。そこがベトナム帰還兵と決定的に違うところである。練習生が罹ったのはPTSDではなく、たんなる「驚愕反応」または「急性ストレス反応」に過ぎない。

 えひめ丸事件が世間の耳目を引いたことと、阪神大震災以来PTSDが何かと取り沙汰されているところへ一部の精神科医が悪乗りしたというのが真相だと私は考える。

 このたびの東日本大震災に当たって、えひめ丸事件の「担当医」が、またPTSDについて発言していた。彼は今でも、えひめ丸事件で練習生がPTSDに罹ったと信じ込んでいる。(週刊朝日5月20日号。)

 専門家がこれでは素人さんは何を信じてよいのか分からなくなるだろう。

http://www.youtube.com/watch?v=G5jAwLfw158

PTSDを語るなら精神科医はもっと勉強せよ

2011-09-10 11:58:38 | Weblog
 PTSD(心的外傷後ストレス障害)にかんする誤った情報が流布されている。先日のNHKの「今日の健康」でも精神科医が間違ったことを言っていた。

 どこが誤りかというと、戦争や災害が「原因」となってPTSDが起きるという部分である。トラウマのない人なんていない。肉親の死、失恋、不慮の事故、事業の失敗などすべてトラウマとなる。

 テレビに出た精神科医の論理で行けば、これらの人々すべてがPTSDにならなくてはおかしい。だが、実際はそんなことはない。

 実はPTSDは、トラウマを労(ねぎら)われないときに起こる。だから、ベトナム帰還兵に起こった。ベトナム帰還兵は、過酷な戦いをしてきたのに、アメリカ本国の人々は彼らを賞賛しなかった。むしろ、蔑視する人さえいた。それがPTSDの本来の「原因」である。

 PTSDがなぜ遅れて生じるかと言うと、自分が賞賛されていないことを理解するまでに時間がかかるからである。

 精神科医たちは、これしきのことを言わない。あまりに不勉強なのに驚く。

 自衛隊、警察、消防、原発作業員にPTSDが起こりうるというのは本当である。だから、彼らを思いっきり賞賛し、労ってあげなければならない。そうすればPTSDは防げる。勲章や総理大臣の感謝の言葉だけでも防げる。

 被災者は全国から注目され、たくさんの義捐金がよせられている。それだけで随分PTSDは防げている。何度も言うが大事なのは「労い」である。

 本当は、PTSD概念がアメリカで不当に拡張されたスキャンダルがあるのだが、それを言うと読者が混乱するので、言わないでおく。

 精神科医はテレビや新聞で発言するなら、もっと勉強してからにせよと市井の一精神科医は思う。

生放送でなぜ暴漢が現れないのだろうか?

2011-09-09 06:20:52 | Weblog
 NHKのど自慢になぜ暴漢が現れないのか不思議である。のど自慢は生放送である。暴漢が舞台に駆け上がって横断幕で主張を展開するなんていうことは、ありそうなことである。でも、そういう試しはない。

 観客をあらかじめ選別しているのだろうか?民放のスタジオ生放送では選別している。観客の主婦風の人たちは、言ってみればその道のプロであり、適当な場面で笑ったり手を叩いたりしてくれる。だから、同じ観客がいつも居たりする。むろん暴漢も出ない。

 紅白歌合戦でも暴漢が出たということはない。会場のガードがよほどしっかりしているのか?あと考えられるのは、日本人のモラルが高いということくらいしか思いつかない。

「私」のことを「自分」という人

2011-09-08 06:46:27 | Weblog
 「私」のことを「自分」というのは昔の軍隊用語である。現在でも自衛隊や警察では使われているのだろうか?

 体育会系の学生は「自分」という。「私」とか「僕」なんて軟弱で言えないということか?

 なぜ、こんなことを言うかというと、一般人にも「私」のことを「自分」という人がいるからである。

 私は言葉を使うことを成業としているから余計に敏感なのだろうが、「私」のことを「自分」と言われると、意味がよく通じないことがある。「自分は自分のことは自分でせよと思います」と言われて、パッと分かるだろうか?

 とくに「自我心理学」では、自我や自分や自己ということが問題となるから、「自分の自我と他人の自我がなぜ通じ合えるのか自分は分からない」といったややこしい陳述となる。だから「私」のことは、あくまでも「私」というべきである。

 「私」のことを「自分」という人は男性に多いが、じつは女性にも少なからずいる。肉親に軍隊経験者でもいるのだろうか?

私の音楽遍歴(4)

2011-09-07 11:15:50 | Weblog
 中3のとき同級生のY君が音楽室のピアノでブギウギを弾いていた。初めて聴く音楽だった。別のY君はピアノでバロックを弾いていた。

 私もブギウギのピアノを練習した。そこそこ弾けるようになった。Y君や別のY君と話が合って、軽音楽で何かとツルむようになった。ギターを弾いていたO君も加わった。Y君宅や別のY君宅で、私のクラリネットも参加して軽音楽の合奏をするようになった。

 こうして私たちはエスカレーターで高校1年生になった。そのころMJQ(モダンジャズカルテット)という知る人そ知る黒人ジャズグループが来日した。私たちはその演奏を聴きたくて聴きたくてチケットを買いに行った。しかし、よい席はプレイガイドには回ってこない。そこで私たちはプロモーター(外人タレントの呼び屋)のところへ学生服で直接訪問した。

 詰襟の少年たちを好ましく思ったのか、プロモーターは親切に応対してくれて、私たちの希望である「最前列の中央」の席のチケットを譲ってくれた。

 初めて聴くモダンジャズの生演奏である。しかも、最前列の中央。ものすごい迫力だった。しかし、メロディアスな演奏で私たちは陶酔した。この時の演奏は今でも忘れない。

 MJQの演奏とは以下のようなものである。
http://www.youtube.com/watch?v=UmpLtYmSlvM

 これをきっかけに4人はモダンジャズへとはまりこんでいった。新宿や渋谷道玄坂のジャス喫茶に入り浸った。ジャズ喫茶とは風紀の悪いところではなく、みな静かにジャズのレコードを聴いていた。名曲喫茶というクラシックを聞かせる店もあった。要するに、レコードは高く買えないので、みんなで聴いたという時代のことである。

 ギターのO君はエレキベースに乗り換えた。別のY君はドラムに。彼はいつもスティックを持って、机でも段ボールでも器用に叩いていた。主にY君宅に集まって、しばしばモダンジャズ演奏の練習をした。至福の時間だった。モダンジャズのサウンドは、実に新鮮だった。当時、絶頂だったビートルズよりも、私たちはモダンジャズに魅了された。(O君はビートルズを聴いていて、LPを何枚か持っていた。)

 こうして、このグループは高3の9月まで続き、高校最後の文化祭に出演し、講堂部門賞を獲得した。他のバンドは、ベンチャーズ風のロックばかりで、私たちの相手ではなかった。

 ビートルズに触発されたか、当時、グループサウンズが全盛となった。女の子たちがキャーキャー言って、大いに人気があった。けれども、一度、高度なモダンジャズのサウンドに触れてしまった私たちは、グループサウンズを覚めた目で見るしかなかった。

 高3の9月まで勉強がおろそかになっていた。文化祭が終わってから大学の受験勉強を始めたけれども、ちと遅かった。4人全員、現役では大学に入れなかった。でも、後悔はしていない。以下にマイルス・デビスとジョン・コルトレーンの珍しい映像を提示する。多感な高校時代を受験勉強だけで棒に振らず、豊かな音楽ライフを過ごせたことは、一生の宝である。
http://www.youtube.com/watch?v=qlIU-2N7WY4

(5)へ続く