院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

俳句的文法?

2017-12-03 04:32:23 | 俳句

(高浜虚子。ウィキペディアより引用。)

     枯蘆に投網の舟の現れし 虚子

 上は近代俳句の祖といわれる高浜虚子の俳句である。

 この句が文法的におかしいという説がある。最後の「・・し」は「・・ぬ」が正しいというのだ。他方「・・ぬ」ではぶち壊しになるという論がある。

 「・・し」は「俳句的文法」であって、文法が先にあるのではなく実例が先にあるのだ、だからこれでよいという論である。私はこちらの意見に賛成である。例えば、川柳だが・・

     炬燵から猫もたまらず顔を出し

 という句は(既成の文法通り)「・・顔を出す」では滑稽味が半減してしまう。だから「・・出し」を川柳的文法といってよいのではないか?

 虚子の俳句で文法的に問題な表現は結構ある。気にならないから不思議だ。

 ※今日の短歌
   死をみつめ生き方選ぶ言の葉を推し測りつつ心の痛む
   酒井京子(明日香)

空前の俳句ブーム

2017-11-25 00:16:21 | 俳句


 25年ぶりに名古屋の俳句結社の30周年記念パーティーに出席しました。知っている人は2,3人。女性が圧倒的に多い。平均寿命が違うと、これだけ違ってくるのですね。写真中央のお婆さんは95歳。佳い句を作られるかたです。

 写真右端の白髪の女性(司会者)は私とほぼ同期。もと美人でしたが、いまでは誰がどう見てもお婆さん。私も爺さんになりましたけどね。

 この結社は高浜虚子の薦めで、加藤霞村という人によって昭和12年に名古屋で初めてできた俳句結社です。霞村の死によって昭和22年に途絶えましたが、昭和62年、私の師、浅野右橘氏によって結社が再興されました。

 こんかいの30周年記念というのは再興から30周年です。私はそのときからのメンバーでした。当時、私はまだ30代で最若年者。それが現在でも最若年者なのです。

 私のあとはずっと空いてしまって、俳句なぞ年寄りの趣味だとの風潮があり、だれも寄り付きませんでした。ところが20年前より俳句甲子園なるものが高校生によって行われるようになり、いまや空前の俳句ブームだそうです。世の中わからないものですね。

 ※稲畑汀子ホトトギス名誉主宰からの贈答句

    甦へる牡丹にある月日

現代俳句がわからない

2017-10-16 00:00:07 | 俳句

(アマゾンより引用。)

 現代俳句が理解できない。季語はないし575でなかったりする。たとえば・・

    千手観音雨はやんだようで蔵書の幾多

 これの意味がわかるだろうか?自分だけわかって悦に入っているのではないか?

 大学の恩師のB教授は現代俳句でこの辺では有名である。地方紙に俳句時評なども書いている。むろん、この人の俳句もわからない。

 そのB教授が私の属している伝統俳句の結社誌に招かれて俳句を寄せるようになった。今度は伝統俳句(ホトトギス俳句)である。伝統俳句なら私にもわかる。

 ところがB教授の伝統俳句はつまらないのだ。端的に下手である。現代俳句は伝統俳句の才能がない人が苦し紛れに逃れたジャンルなのではないかと思えてくる。

 ※私の俳句(秋)
    熱の身に梨の水気の甘美なる

俳文・幼き日の月

2017-09-05 02:14:51 | 俳句
 太陽はまぶしくて凝視できないが、月は見ることができる。幼少時どこに行くにも帰るにも目黒川沿いを通った。東京の道路はまだ未舗装で高いビルもなかった。家々はほとんどが木造だった。

    満月の着いてくるなり川沿ひに

 歩を止めると月も止まった。「どうして?」と私。「月はすごく遠くにあるからだよ」と父。私には意味がわからなかった。

 月の出は殊に不思議だった。登りたての月は異様に大きく、まただいだい色を帯びていた。月にせよ太陽にせよ、地平線に近いとなぜ巨大に見えるのか、ほんとうのところはちゃんと分かっていないらしい。

    汚れたる巨漢のごとし月のぼる

 父は「月でウサギが餅をついているように見えるだろう?」。私はよく見たが、そのようには見えなかった。

    満月に蟹を見るとぞ異国では

 節分には家々から「鬼は外・・」の声が聞こえた。今はビル街となって往時の声はまったくない。父は「あそこに鬼がいる」と言ったが、私にはどうしても見えなかった。豆を撒いた。もったいないから後で食べるために室内に撒いた。

    節分や大小の声家々に    

 東京の私の住むところでは月見の風習はなかった。戦後10年、まだそれだけのゆとりがなかったのかもしれない。絵本で見るススキと饅頭の月見にあこがれた。とくに饅頭に・・。

    月めでるための芒を切りにゆく

 カレーライスがごちそうだっだとは、いつぞや書いた。不安が多い幼少期でもカレーで一息ついた。(生まれてから初めての記憶は不安に彩られている、とは恩師、中井久夫氏の言葉)。

    貧しくもカレーを囲む良夜かな

 近所の子らとよく遊んだ。当時は魚屋のケンちゃんがガキ大将で、その公正な采配はのちのちまで勉強になった。彼は子どもたちの尊敬を集めた。

    遊びほうけしその夜の無月かな

    雨降るや名月のぞむべくもなく

 それから10余年後、アポロ計画の成功によって月の神秘性は激減した。

    
    (「足成」より引用。NGe氏撮影)。

俳句は名詞だけで成るのが理想

2017-09-02 04:00:55 | 俳句
 むかし私は俳句についてコウモリみたいなところがあって、伝統俳句派(ホトトギス派)のアンチである現代俳句派の句会にも出ていた。いろいろ学ぼうと思っていたからである。もう20年以上前の話だ。

 そこの主宰 H氏に褒められたのは次の2句だけである。現代俳句派であっても H氏は虚子が好きだ。流派を問わず虚子を否定する俳人はいない。

 彼に褒められた私の俳句は2句である。

    炎昼や古き市場の暗き奥 

    命踏むごとく空蝉踏みにけり 

 H氏が主張する「俳句は副詞から腐っていく」という教えは、なるほどと思う。歳時記に収録されている俳句で副詞を使用した句はほとんどない。(「俳句と副詞」2007-01-16参照。)

 実は H氏は形容詞も使用してはいけないという。「白き」、「白い」もダメ。できれば名詞だけで句作せよという。つまり動詞もなるべく使用不可というわけだ。(「俳句は事物を提示するだけの文芸である!」2015-07-28参照。)

 言われてみればそのとおりである。万太郎の「湯豆腐や命のはてのうすあかり」なんて、副詞形容詞はおろか動詞も使用していない。


(湯豆腐。「足成」より引用。工藤隆藏氏撮影)。

 そのような目で歳時記を見ると、ほんとうに副詞がないことに驚く。確かに形容詞も少ない。よい句は名詞とわずかな動詞だけでできている。

 その点、私の「炎昼や」の句は「古き」、「暗き」と2つも形容詞が出てくる。無理に形容詞をはずすと・・

    炎昼や闇へと続く古市場
 
とでもなろうか?うん、これも悪くない。副詞もないし・・。「炎昼や闇へ導く古市場」でもよいかもしれない。

  もう一点、 H氏は「ごとく俳句はいけません」と常々言っていた。しかし、私の「命踏むごとく空蝉踏みにけり」は例外的だ。こういう「ごとく俳句」はよいですと。

 以上のような次第で、私は副詞だけは使用しないようにしている。教えられたからではなく、ほんとうに「俳句は副詞から腐っていく」と納得したからである。

参考:「俳句の師の教え」2015-05-25

 ※私の俳句(秋)
    病身の浴ぶる喜び虫しぐれ 




続・芭蕉の俳句がわからない!

2017-09-01 09:35:04 | 俳句
 日本でもっとも有名な俳句は「古池や蛙とびこむ水の音」(芭蕉)でしょう。しかしながらお恥ずかしいことに、私にはこの俳句の良さがわかりません。いや、芭蕉の俳句はすべて私には、そんなによいとは思われないのです。(この記事は「芭蕉の俳句がわからない!」2015-07-20 の続きです)。

 現代気鋭の俳人、長谷川櫂氏によれば、和歌の時代から「蛙(かわず)」と言えば声のことを指しており、「水の音」に着目したのは革命的だったのだそうです。和歌の素養がない私は「そうなのか」と聞くしかありません。

 ついでに私は蕪村の俳句もあまり理解できません。「さみだれや大河を前に家二軒」はある程度「いいな」とは思いますが・・。

 千代女の「朝顔や釣瓶取られてもらひ水」も、さほどとは思えません(あとで「朝顔や」に替えたようです。「朝顔に」ではありません)。小学校時代、千代女の朝顔を切らないやさしい心情が出ていると教わりましたが、そんなに浮世離れした句でもないようです。そんなことをしていたら、朝顔が枯れるまで井戸が使えないことになります。

 私が打たれるのは、やはり虚子の俳句ですね。「遠山に日の当たりたる枯野かな」なんて、すごい着眼点ではありませんか!

 じつは虚子の師である子規もつまらないと思っています。「子規は駄句の山を築いた」と考えている俳人は多いようです。「鶏頭の十四五本もありぬべし」というそのまんまの句を短歌界の人が称揚したこともあって、「鶏頭論争」2012-12-13を招きましたが、私はこの句をよいとは思いません。
  
 久保田万太郎や能村登四郎はいいですねぇ。

 湯豆腐や命のはてのうすあかり  万太郎
 春ひとり槍投げて槍に歩み寄る  登四郎

 でもやっぱり芭蕉は理解できないなぁ。


(枯野の景色。「足成」より引用。サカタノタネ氏撮影)。

 ※私の俳句(秋) 
    聴き流すことも処世よ露の秋
    

散文詩が「いいなぁ」と思えない

2017-08-29 15:24:41 | 俳句

(リルケの訳詞、新潮文庫)

 俳句短歌のような定型短詩を私が好きなことは、このブログの読者なら重々ご承知だろう。しかしながら、私には散文詩がわからない。

 高村幸太郎や荻原朔太郎や中原中也は国語の教科書に載っていた。しかし私には理解できなかった。定型詩でも長いと理解できない。ブッセの上田敏訳、「山のあなた」は親世代の国語の教科書に載っていたらしい。(母は暗記している)。三遊亭圓歌の新作落語「山のあな」が受けたのは、国民がみな知っていたからだろう。でも私には「良さ」がわからない。

 ランボー、リルケ、ハイネ・・など明治から昭和初期にかけての外国詩人の名前は日本でもビッグネームだ。しかし訳詞を読んでも私には「いいなぁ」とは思えなかった。知っているのは名前だけということだ。

 ギリシャ詩の翻訳で読売文学賞を受けた精神科の恩師、中井久夫氏は「声に出してごらん」とおっしゃったが、それでもダメだった。彼と西欧旅行をしたとき、彼の希望でスイスの片田舎にあるリルケの墓に詣でた。現地人さえ知らない小さな墓にお参りするほど、中井はリルケに大きな影響を受けたようだ。

 以上の海外詩は明治以来の青年の座右の文学だったらしい。当時の青年はなぜそれほどに心酔したのだろうか?わからない。私の友人や、まして後輩も「わからない」、「興味がない」という。むかしの文学青年の気持ちは、私の七不思議のひとつである。

 ※私の俳句(秋)
    コスモスの群れを離れしところにも

夏の季語「金魚」

2017-08-24 00:06:20 | 俳句

(金魚すくい。ウィキペディアより引用)。

 俳句の季語には何故その季節なのかすぐに分からないものがあります。たとえば「噴水」は夏の季語です。「滝」も夏。両方とも「涼」を誘うからだと思われます。じつは「涼し」が夏の季語なのです。暑いからこそ「涼しさ」が感じられるというわけですね。

 「金魚」も一年中いるにもかかわらず夏の季語です。「金魚」が季語になったのは新しく、明治時代だといわれています。金魚は室町時代あたりに中国から日本に入ってきたらしいのですが、金魚の飼育が流行したのは江戸時代中期からです。

 もっとも、当時は池がある家しか金魚を飼えませんでしたから、金魚を飼っているのは武家か豪商に限られたようです。庶民が金魚を飼うようになったのは、ガラスの金魚鉢が普及してからです。ガラスの丸い金魚鉢を「金魚玉」といい、これも夏の季語です。

 庶民がガラスを持てるようになったのは、いつごろかは知りませんが、江戸時代ではまだ無理だったのではないでしょうか?(せいぜいビードロまで)。

 なぜ夏の季語なのかは、「金魚売」が夏しか来なかったからではないでしょうか?私が子どものころ東京には金魚売が来ました。先日、ここにご紹介したような天秤棒をかついで来たのではなく、リヤカーで水槽を曳いていましたけどね。

 夜店の金魚すくいが、いつごろから始まったのかは知りません。でも夜店が出る「祭」がすでに夏の季語ですし、とうぜん「夜店」も夏の季語です。私自身、寒い中で金魚すくいをやった記憶はありません。

 歳時記という季語集には、伝統的な季語と新しい季語が混在しています。「火鉢」、「炭」は現在ほとんど見られませんが、冬の季語として歳時記には載っています。軽々に歳時記から外してしまうと、むかしの俳句が理解できなくなる恐れがあるからです。

 「どてら」、「綿入れ」は私が子どものころには当たり前の冬着でしたが、もう見かけませんね。「ちゃんちゃんこ」は還暦祝いなどで見かけますが、綿が入った着衣という点では3つとも同じです。

 歳時記を読んでいると季節の移ろいだけではなく、時代の移ろいを感じますよ。どこの書店にも歳時記は置いてありますから、あまり大部でないものを一冊お薦めします。

 ※私の俳句(秋)
    神島の井戸はここのみ水澄める

病床俳句・・・・しばらくご無沙汰していました

2017-07-01 17:18:20 | 俳句
  正岡子規(ウィキペデイアより引用。)

 2015年暮れまで、ほぼ毎日のように書いていたこのブログが急にかけなくなった。この一年半入退院を繰り返していたからだ。

 この一年半のブランクのあいだ何回か退院した。けれどもブログを書く気が起きなかった。(俳句も作れなくなった)。

 正岡子規に「病床俳句」というのがある。病床にあっても俳句の創作意欲が旺盛で、萬(よろず)朝報という新聞に、その時代の短歌をこきおろした文章を書いている。(石田波郷もサナトリウムでしきりに句作している。)

 結核は私の病気と違うのだろうか?私はこんかいの退院で、ようやく意欲が出てきた。この意欲が続くとよいのだが・・。


※私の俳句(夏)

    梅雨空へ車椅子ごと退院す

    

私の短歌へのめざめ

2015-08-03 01:30:23 | 俳句

(新古今和歌集。筑波大学附属図書館より引用。)

 高校生のとき親友が短歌を投稿していた。私には興味がなかった。しかし、のちに彼がガリ版刷りの短歌集を贈ってくれたとき、私には俳句への興味が目覚めた。

 前にも言ったが、私は警句のような短歌が好きだ。たとえば次の短歌。

  「友達でいよう」だなんて本当の友達ならば言わない絶対 読み人失念

 なんと本質を突いた短歌だろう。私には「・・三笠の山に出でし月かも」の類の短歌がだめである。「あっ、そう」で終わってしまう。その点、この歌は「もっともだ~」と思う。

 私が毎日引用している短歌群は、「もっともだ~」と思ったものばかりである。プロの短歌は「・・月かも」に近いので、私は素人歌人の歌が好きだ。

 短歌は嘆きの文芸だといわれる。対して俳句は詫び寂びの文芸だと。私が名古屋の俳句結社に入った初期のころ、次の俳句に出会った。

     去年夫が焚きし送り火夫に焚く 詠み人失念

 夫が亡くなったことを、こんなにあっさりと言ってしまっていいの?と私は思った。その後、俳句では嘆いたり叫んだりしないものだと分かって納得した。嘆きや叫びは短歌に任せておけばよいのだ。

俳句は事物を提示するだけの文芸である!

2015-07-28 05:56:50 | 俳句

(蕪村の俳画「岩くらの狂女恋せよほととぎす」。ウィキペディア「蕪村」より引用。)

 私のもうひとりの俳句の師、H氏は現代俳句協会の人で、ホトトギス派とは全然違います。表題の言葉はその先生に教わったものです。

 H氏は、俳句には副詞も形容詞も要らない。場合によって動詞も要らないという立場をとっておられます。なるほど、もっともな点があって、芭蕉の次の名句は名詞だけで作られています。

    夏草や兵どもが夢のあと 芭蕉

 蕪村の有名な俳句・・。

    五月雨や大河を前に家二軒 蕪村

にも副詞形容詞のみならず動詞も使われていません。

 確かに名句と言われている俳句には名詞だけでできているものがあります。今後、俳句を見かけたら、ちょっと注意してみてくさだい。(反対に副詞が使われている俳句は安っぽく見えます。)


※今日、気にとまった短歌

  なつやすみさいたかずだけいろをぬるワクワクしたよあさがおにっき (学研庄小学校)間野竜五

川柳は俳句より下ではない!

2015-07-25 04:26:43 | 俳句

緒方まゆみブログより引用。)

 俳句を趣味にしている人に川柳を下に見る人がいる。あからさまには言わないが、そう思っているフシがある。言うまでもないことだが、俳句と川柳は出自が違う別の文芸で、比較はできない。

    手足もぎただの丸太にしてかへし

 と戦時中に詠んだ川柳作家は拷問死させられた。俳人で命がけになった人がいるだろうか?

 俳句でも「かへし」のような止め方をすることがある。ただ、私は俳句なら「かへす」と止めたい。

 以前に拙句「酔ひさうな浮桟橋に鯊(はぜ)を釣る」は、やはり「釣り」ではなく「釣る」だろうと俳句仲間と討論したことがあった。(続・未だに迷う俳句の語尾。2013-12-11。)「釣り」によってかもしだされる滑稽味は、この句には必要がないのではないか?


※今日、気にとまった短歌

  北風が強いし朝から体育だしジャージの上から制服を着る (桑名市)いとうなつと


芭蕉の俳句が解らない!

2015-07-20 17:06:20 | 俳句

(芭蕉の肖像画。早稲田大学の古典籍総合データベースより引用。)

 私は「俳聖」松尾芭蕉の俳句のどこがよいのか分からない。あくまでも古典として知識で知っているだけである。

 そもそも芭蕉が「俳聖」と呼ばれるようになったのは明治時代で、当時の俳諧師たちが自らのアイデンティティーの拠りどころとして芭蕉を「俳聖」に祭り上げたらしい。(明治維新の学制改革で教師が足りなくなり、僧侶などの「教養人」が教師として取り立てられた。「教養人」の中には俳諧師も入っていた。俳諧師たちは、自分たちはただの教養人ではなく、俳諧師だと言いたかったのかもしれない。)

 正岡子規は、むしろ「蕉風」のアンチとして俳諧を俳句と言い換え、写生を強調した。ところが私には子規の俳句がつまらない。これは私だけの意見ではなく、「子規は駄句の山を築いた」と言った有力俳人と食事をしたことがある。子規の句にかんする「鶏頭論争」なんて裕福なヒマ人のお遊びである。(そのころ私のおじいさんは馬車馬のように働いていた。)

 「これはいい句だ!」と私が思うと、たいがい高濱虚子の俳句なのだ。私はホトトギス系の結社にも属しているが、ホトトギス本体には投句したことがない。それはホトトギスの「家元制」が嫌いだからだ。私と同じころからホトトギス本体に投句している人は皆、ホトトギス同人になった。(20~30年間投句を続けないとホトトギス同人にはなれない。ホトトギス同人に推挙されることはたいへんな名誉で、叙勲と同じように祝賀パーティーを開く人が多い。俳句をやるにも、なかなか金がかかるのである。)

 ホトトギスと袂を別った水原秋桜子の俳句も私には「すごい!」とは思えない。彼は有季を守ったが、彼に倣った新興俳句運動は季語を捨ててもっと過激になっていった。無季不定形なんて、私にとってはただのザレ言である。

 (茶道華道の家元制は集金システムだ、あんなの芸術じゃないと白洲正子は言った。)


※今日、気にとまった短歌

  さびしさを吾子には抱かせまいとして痛めた手首耐えて抱く日々 (埼玉県吉川市)猫丘ひこ乃

俳句の本質「存問」

2015-07-19 06:35:44 | 俳句
(角川書店刊。)

 俳句の本質を指す言葉として「存問」がある。「病人を存問する」というように安否を問うことである。

 この言葉は、高濱虚子が昭和32年12月29日の朝日新聞の「小俳話」というコーナーに書いてから有名になった。そこには「お寒うございます。お暑うございます。日常の存問がすなわち俳句である」とある。

 私の解釈では、日常の軽い挨拶だが、そこにも型がある。挨拶だからこそ型破りなのは危険である。たんに「お暑うございます」と言っておけば無難なのだが、芸がない。

 型破りになるかならないかギリギリのところで勝負をするから、俳句は面白いのである。

 これまでの私の代表作を3つ挙げろと言われれば、次の2句である。3つ目はまだできていない。

    夜振りの火二つに割れてゆきにけり

    手話の子の声なけれども息白し

俳句の師の教え

2015-05-25 06:58:29 | 俳句
 私の俳句の師は次のように言っていた。「俳句は提示の文芸である」、「俳句は物言わぬ文芸である」。

 だから、「美しい」とか「嬉しい」とか言ってはいけない。できれば名詞だけを提示して、あとは読者の想像に任せる。

 (例) 夏草や兵どもが夢のあと  芭蕉

 動詞は使っても一句に一回。形容詞も避ける。(赤い、青いなども使用しない方がよい)。

 (例外) 寒紅の店の内儀の美しき  虚子

 副詞は使ってはいけない。

 (例外) 梅が香にのつと日の出る山路かな 芭蕉

 以上のルールを守るだけで、玄人っぽい俳句が作れます。


※今日、気にとまった短歌

  ひまわりが異様にでかい夏の日に三十代の母と過ごした (奈良市)山上秋恵