院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

飛騨和牛偽装事件

2008-06-30 08:34:18 | Weblog
 飛騨和牛の偽装事件があった。

 マスコミはすいぶん大きく取り上げているけれども、牛肉の良し悪しは食べれば分かる。

 上等な肉とそうでない肉とは香りが違う。ただ、上等な肉が市場に出回らなくなってしまったために、庶民が上等と下等の区別を学習する機会がなくなってしまっただけである。

 昔は、ちょっと高級な肉屋やすきやき屋に行けば、上等な牛肉が出てきた。私はそのときの味と香りを覚えているから、上等でない品物はすぐに分かる。偽装なぞ見破れる。

 ところが、若い人たちは上等な牛肉を食べたことがないから、ラベルに頼るほかはない。偽装事件が起こる背景には、こうした事情がある。

 今、上等な牛肉を食べようと思ったら、150gで2万円はかかる。おいそれと食べられる金額ではない。

 だから、みんな上等な牛肉の味と香りを知らないのである。

タバコと肺がん

2008-06-29 10:27:07 | Weblog
 タバコの箱から「肺がん」の文字が消えた。何があったのだろう?

 今では「心筋梗塞のリスクが1.7倍になります」と書いてある。「肺がん」の「は」の字もなくなってしまった。

 タバコと肺がんに「平行関係」があるという疫学的研究は多い。しかしながら、タバコは肺がんの「原因」になるという研究結果は、意外にも一つもないのである。疫学調査は「平行関係」や「相関関係」を主張することができても、「因果関係」は主張できないのである。

 でも、脳卒中のデータも疫学調査によるものだろう。「因果関係」は主張できないはずだ。なのに、「肺がん」が「脳卒中」に入れ替わったのはなぜだろうか?

 タバコと肺がんは、疫学調査でも「相関関係」が見出されなくなったのだろうか?そうとしか思えない変身ぶりである。本当に何が起こったのだろう?

宮崎勤ようやく死刑執行

2008-06-29 09:27:47 | Weblog
 宮崎勤がやっと死刑になった。

 事件があった20年前、私は精神障害者の社会復帰施設の所長をやっていた。

 弁護側は宮崎の精神鑑定を要求した。その時、社会復帰施設の利用者たちはみな浮き足立った。私に「宮崎は僕らと同じ病気なの?」、「僕らも宮崎みたいなことをするの?」と彼らは聞いてきた。彼らは一様に不安に満ちた目をしていた。

 私は「宮崎は病気ではなく、ただの変態だから、あなた方とは全然違う」と答えた。

 猟奇的な事件が起きると、すぐに精神鑑定を要請する弁護側は、無知と言うほかはない。そして、弁護士は自らの行為(精神鑑定要請)が、どんなに多くの善良な精神障害者たちを不安に陥れているかを知らないだろう。

海水浴

2008-06-28 08:28:19 | Weblog
 子供のころ、年に一度の海水浴が楽しみだった。エアコンがなかったから、水に漬かるのは最高の避暑だった。

 家族だけで海水浴に行く経済的なゆとりはなかった。だから、町内で貸し切りバスを一台したてて江ノ島まで行ったのである。むろん日帰りである。まさしく「三丁目の夕日」の世界である。

 海水浴の日には、町内の子供たちが興奮していた。2軒隣りのケンちゃんもトシちゃんも、バスが出発する3時間も前から起きだして、道路で騒いでいた。

 若者はビールを飲み、子供はジュースが飲み放題。バス内ではマイクが回され、カラオケがない時代、老いも若きもアカペラで歌った。

 海の家では、砂まじりのような冷たくないサイダーを飲んだ。ビーチパラソルが花盛りだった。でも、ビーチパラソルを持っているのは、我々「町内派」よりも上の階層だった。

 疲れ果てて日帰りの海水浴は終わった。急に紫外線に当たったので火傷をした。翌日には水泡ができて痛かった。要するに二度の火傷である。

 紫外線は体に悪いことは今では分かっている。しかし、当時は日焼けは健康的と見なされていた。

 紫外線の害が分かったのに、いまだに海水浴はすたれない。海水浴には害になっても我々を魅了する何かがあるのだろう。

テレビを買い換えた

2008-06-27 08:27:20 | Weblog
 30年間世話になったソニーのカラーテレビがついに壊れた。ブラウン管式のテレビだった。よく持ったものだ。ソニーの技術に敬服した。

 そこで新しいテレビを買うことになって困った。今や大型薄型画面の時代である。液晶にするかプラズマにするか?通信手段はこれまでどおりの電波にするか、地デジにするか、ケーブルテレビにするか、それとも光ファイバーにするか迷った。

 迷ったあげく、大型薄型テレビはまだ高いので止めた。大型テレビまでの繋ぎとして、14インチ9万円の地デジ薄型テレビを買った。14インチで十分である。年がら年中テレビを見ているわけではない。

 そうこうするうちに、液晶かプラズマかが答えが出るだろうし、そのころには大型テレビもずいぶん安くなっていることだろう。

 うちはまだDVDがない。ブルーレイが本当に主流になって、値段ももっと下がってから買おうと思っている。

夢だったエアコン

2008-06-26 15:17:55 | Weblog
 学生時代、下宿が暑くて往生した。結婚して6畳2間の安アパートに入った。

 むろんエアコンはなく、夏は夫婦で扇風機に当たっていた。エアコンが夢だった。

 31歳のとき、中古の一戸建て住宅の狭いのを買って、一部屋だけエアコンを入れた。部屋数は6部屋あったが、エアコンを入れたのは6畳のリビングだけだった。

 だから、まだ小さかった子供も含めて、夏は4人でリビングで寝た。子供たちが赤んぼだったからできた芸当である。

 12年前、新築の一戸建てを買った。各部屋にエアコンを付けるのが夢だった。一部屋ずつ増やして、最後に音楽スタジオが残った。この部屋だけは趣味の部屋で、主に音楽を聴いたり奏いたりする部屋だ。利用頻度が少ないので、エアコンは後回しになった。

 でも、とうとう昨年、この部屋にエアコンを入れた。広い部屋なので、エアコンも大きく、30万円も出費してしまった。

 これで、すべての部屋にエアコンを付けるという夢はかなったが、すでに子供たちは独立して、2人とも家を出ていた。

 もう音楽スタジオのエアコンをかける機会はめったにない。だから、ヒートアイランド現象をさほど悪化させていないはずだ。

別荘を持つ人々

2008-06-25 07:39:39 | Weblog
 別荘を持っている人がいる。なんのために別荘を持つのだろうか?

 避暑なんて夏の一時期だけである。別荘に行っても、炊事はしなくてはならず、掃除もしなくてはならない。バンガローと同じである。それなのに別荘に大枚を支払うのはなぜだろうか?

 私の親友に良家の子息がいて、先祖代々、旧軽井沢に山荘を持っている。こういうのは別である。別荘のメンテは、近所の農家の婦人が先祖代々、やってくれている。

 私が不思議なのは、新しく別荘を買う層である。メンテはどうするのだろうか?別荘を買うほど金持ちなのだから、本業の仕事もさぞ忙しいだろう。本人は別荘に行く暇があるのだろうか?

 せいぜい妻子が使用するだけだろう。それなのに、別荘を買うのはなぜか?財産保全だろうか?見栄だろうか?

 最近では、自宅より別荘のほうが豪華な家がある。私はこれを、別荘を事業に使っているのだとみている。取引先を別荘に招待するのだ。そこで泊りがけで商談を行う。そういう用途なら、別荘を持つのは不思議ではない。

 別荘の用途は昔とは違ってきている気がしてならない。

豪邸に住む人々

2008-06-24 08:45:27 | Weblog
 豪邸の定義はなんだろうか?私の感覚では、敷地面積1000坪以上、建坪300坪以上、広い庭はよく整備されている。ざっと、こんなイメージである。億ションなんて豪邸のうちに入らない。

 「鳩山御殿」や田中角栄さんの「目白御殿」が有名だが、名の知らぬ人が豪邸に住んでいることがある。どこのどなた様だろうと、いつも不思議に思う。固定資産税だけでも大変である。掃除はどうしているのだろうか?

 いまどき、お手伝いさんなんているのだろうか?執事なんて過去のものである。でも、豪邸にはそういう人がまだ残っているのだろうか?

 彼らなしに、どうやって豪邸のメンテをしているのだろうか?

 これらは庶民の素朴な疑問で、豪邸に住む人たちには、それなりの世界があるのかもしれない。

 昭和30年代、「三丁目の夕日」の時代、世の中がまだ貧しかったころ、今よりもかえって豪邸が多かった気がする。家一軒分くらいの大きなガレージに、高級外車とモーターボートが置いてある家があった。

 今、格差社会と言うけれども、昔の格差はこんなものではなかった。

ベンツに乗る人々

2008-06-23 08:44:23 | Weblog
 ベンツを初めとする高級外車に乗る人は、自営業者、開業医などに多い。車両代が所得から控除されるからである。

 高級外車は地位の象徴である。でも、高級外車に乗るほとんどの人が、自分で運転しているのではないか?自分で運転する高級外車って、どこか変だと思う。

 高級外車を持つなら、運転手も雇わなくてはならない。さすがに、それだけの財力がある人は少ないだろう。

 いまや本当の金持ちは、自家用ジェット機を持っている。ホリエモンがそうだった。

 自家用ジェット機なら、クルーも雇わなくてはならない。高級外車を自分で運転することに比べると、スケールが違う。

グリーン車に乗る人々

2008-06-22 19:50:50 | Weblog
 私は自腹で新幹線のグリーン車に乗ったことがない。

 このほど、ある会社の招待で東京に行くことになった。会社は私に一流ホテルと新幹線のグリーン車のチケットを用意した。

 新幹線のグリーン切符をもらったので、普通席に交換して差額(4000円)をせしめようと思ったが、せっかくの好意なのだから、そんなセコイことをするのは止めた。

 グリーン車はけっこう人が乗っている。自由席がガラガラでも、グリーン車には人がいる。どういう人が、わざわざグリーン車に乗るのか、ちょっと観察してみた。

 出張のビジネスマン的な人はいない。遊び人風が多い。いい年をして、野球帽をかぶって半ズボンだったりする。

 女性は、中年で化粧の濃いブスが多い。だいがい、派手なアクセサリーを着けている。大きな指輪とかネックレスとか・・・。

 これらは、たぶん私の偏見だろう。自由席にもそんなような人がいるに違いない。でも、一応グリーン車ですぞ。ラフなのもほどほどにしてほしい。

 私はネクタイ着用で乗った。

コーヒーがダメ。シイタケがダメ。

2008-06-21 06:34:59 | Weblog
 どういうわけか私はコーヒーが飲めない。紅茶が好きである。海外でホテルに泊まると、朝食の時、必ず「ティーオアコーヒー?」と聞いてくれるから助かる。

 わが国のビジネスホテルでは、朝食にコーヒーしかない所がまれにあって困る。

 私はコーヒーを飲むと、気持ちが悪くなるのである、だから飲めない。どうして気持ちが悪くなるのか自分でも分からない。高校生のころはコーヒーが飲めた。だから味は知っている。

 コーヒーはコーヒーでも、コーヒー牛乳は飲める。

 たぶん気分的な問題なのだろう。

 最近、甘辛く煮しめたシイタケが食べられなくなった。でも、寿司の太巻きに入っているシイタケは大丈夫だし、おいしいと感じる。まったく矛盾している。

 人間の嗜好とは、科学的に説明できないものだと、つくづく思う。

道具で記録更新はおかしいか?

2008-06-20 07:19:40 | Weblog
 新水着で好記録が出た。道具で記録を延ばすのは、どこかおかしいとの論もあるけれども、道具によって革新的に記録が更新されたのは今に始まったことではない。

 棒高跳びの棒が竹からグラスファイバーに変わって、次々と記録が更新された。鉄棒競技で昔は考えられなかった離れ業が実現したのは、手にはめるサポーターが改良されたからである。

 陸上競技の靴や、テニスのラケットにも改良が加えらているだろう。

 どこかおかしいと感じたら、歴史を振り返るとよい。たいてい前例があるはずである。

十円、百円にはなぜ一が付かないのだろうか?

2008-06-19 12:58:02 | Weblog
 十円、百円と言い、なぜ一十円とか一百円とか言わないのだろうか?と子供心に不思議に思ったことがある。

 一万円、一億円にはちゃんと一が付いているのに・・・。

 父親に聞いてみたら、言い習わしとの答えだった。

 英語圏以外の、たとえばスワヒリ語やタイ語などでは、どうなっているのだろうか?

朝シャン

2008-06-18 09:26:22 | Weblog
 私の子供たちが高校生のころ、朝に髪をシャンプーすることがはやった。朝シャンといった。うちの子供たちも熱心に朝シャンをやっていた。

 当時の流行である。その流行を、どうやって子供たちが取り入れたのか、道筋が分からないけれども、「なんとなく」広まっていくのが、流行というものなのだろう。

 朝にシャンプーをしたら、冷えるのではないか?登校時間にゆとりがなくなるのではないかと、親の私は恐れたが、子供たちは平気だった。

 朝シャンは広まって、ついに陶器会社が朝シャン用の洗面台を売り出すに至った。けっこう売れたのではないか。

 あれから15年。もうすっかり朝シャンは影をひそめた。

 今、流行っているのは朝風呂である。登校前の朝風呂である。ご苦労なことだと思うが、若者にはさして重荷ではないのだろう。

 朝風呂に日常的に入れると言うのは、風呂の装置が改良されて、風呂を沸かすのがさほど困難ではなくなかったかだろう。

 私が子供のころの薪で沸かす風呂では、こうはいかなかっただろう。

豆腐が好き

2008-06-17 08:33:56 | Weblog
 豆腐ほどうまくて安くて栄養価の高い食品は少ない。だから、私は学生のころから豆腐を好んで食べた。

 一滴も酒が呑めなかったころから、豆腐があれば満足だった。酒を呑むようになってからも、豆腐を肴にしている。

 妻は料理の手を抜きたいときは、私に豆腐さえ与えておけば文句を言わないということを学習した。

 いきおい私の家庭の食卓は豆腐の出番が多くなった。子供たちは愚痴も言わずに豆腐を食べていた。もちろん、カレーやハンバーグも妻は作ったが、他の家庭に比べると、豆腐が多かったのだろう。

 ほとんど愚痴を言わない息子が、「子供心に、ご飯に豆腐のおかずが多いのがイヤだった」と20年ぶりに告白した。

 私は自分の好みを皆に押し付けていたことを反省した。

 息子は所帯を持った。あとは好きなものを好きなだけ食べるがよい。でも、あの頃の豊かな食生活を息子がしているかどうかと言うと疑問である。

 とにかく夜昼なく働きまくって、コンビニ弁当で済ませているのではないか?豆腐を囲んでの一家団欒が、息子にとって懐かしいと思える日が、きっと来ると思っている。

 現代のサラリーマンは、とにかく忙しすぎる。