院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

新参をバカにするべからず

2009-01-31 08:23:47 | Weblog
 昔、能は歌舞伎をバカにした。歌舞伎は出雲のお国が始めた新規な踊りである。一方、能には完全な型ができていた。能が歌舞伎をバカにしたのには無理ならぬものがある。

 でも、能じたい猿楽から始まった得体の知れないものである。能は室町時代には支配階級も農民も同じ座席で見ていたのである。むろん、地べたというか、桟敷席である。

 歌舞伎はその後、能はもちろん、長唄や音曲を取り入れ、派手な衣装とフリで一世を風靡した。だから、歌舞伎は浮世絵にも描かれた。今で言えばブロマイドである。

 その後、映画が出てきた。映画が全盛を極めるにつれて、歌舞伎は衰退していった。私も歌舞伎は幼少のころに一回しか見たことがない。

 歌舞伎は映画をバカにした。映画の初期には歌舞伎役者で映画に出る者はいなかった。

 映画が全盛となると、今度は映画はTVをバカにするようになった。これについては、また次回。

歌舞伎

2009-01-30 08:27:22 | Weblog
 私の祖父の世代は、みな歌舞伎のセリフを知っていた。

 TVのない時代、歌舞伎は庶民の一大娯楽だった。今ならば野球のようなものだろうか?ドラゴンズがどうのタイガーズがどうのというのと同じように、歌舞伎は雑談のネタになっていた。

 昔は、ナリコマ屋がどうのこうのと言っていた。

 声色(こわいろ)という芸が寄席でやられていた。これは歌舞伎役者のモノマネである。それが人気があったのである。今では通用しないだろう。

 かつては能が歌舞伎をバカにしたように、歌舞伎は映画をバカにしていた。だが、映画全盛の時代になってから、歌舞伎は映画を無視できなくなった。歌舞伎は川原乞食の血を引いている。心ある歌舞伎役者は何にでも出るようになった。

 先代の松本幸四郎も今の松本幸四郎もそうだった。それによって梨園は生き永らえた。

 今、松たか子は歌舞伎には出ない。もっぱらTVである。このようにして、芸能はいつまでも古典ではないのである。

 


小唄

2009-01-29 09:01:23 | Weblog
 和の酒席に小唄はとても合うものだった。

 私の老母は小唄ができる。三味線のポツンポツンとした合いの手に、小唄は情緒をかもしだした。

 だが今、小唄ができる芸者がどれほど居るだろうか?小唄は過去のものになってしまった。

 これまで過去のものとなったわが国の芸能について述べてきたけれども、残りそうなものは少ない。

 今や酒席でもカラオケである。

 能は残るかもしれない。芸能としての完成度が高く、けっこう若い人も入ってきているからである。

 俳句や短歌は残る。次々と新機軸を若者が投入してくるからである。

 古典芸能の中で、もっとも絶滅に瀕しているのは小唄だろう。「引かれ者の小唄」という諺も、じきに通じなくなるだろう。

人形浄瑠璃

2009-01-28 09:57:28 | Weblog
 私は幼いころ人形浄瑠璃を見たことがある。

 祖母に連れられて行ったのだが、あまりに退屈で、客席の間を走り回ったので、祖母は「二度と連れてこない」と怒っていた。

 人形遣いの宗匠で人間国宝となった人が多くいた。今でも人形遣いで人間国宝はいるのだろうか?私が幼いころの人間国宝はみな逝去している。

 また、愛好者はまだいるのだろうか?

 私が見た人形浄瑠璃は、渋谷の東横ホールでやった。昔はそんなに卑近なホールで人形浄瑠璃をやっていたのである。

 今はどこでやっているのかを知らない。国立劇場ではやっているのだろうか?

 いずれにせよ、人形浄瑠璃は過去の芸能となってしまった。能や歌舞伎はまだやっている。しかし、若者は見ない。

 能や歌舞伎も過去の轍を踏むのだろうか?

オペラファンの高齢化

2009-01-27 10:12:17 | Weblog
 アメリカでオペラファンが高齢化しているという。若者がオペラを見なくなっているということだ。

 オペラの現代版であるミュージカルが高齢化しているとは聞かない。しかし、ミュージカルファンの高齢化にともない、ミュージカルも同じ運命をたどるだろう。

 わが国では、能、歌舞伎、人形浄瑠璃のファンが高齢化している。人形浄瑠璃の公演なんて、いまどきどこでやっているのだろう。これについては一言あるが、今日は忙しいので、後の回にまわす。

 演歌ファンも高齢化している。演歌のCDの売り上げは、他の流行歌のそれの10分の1だそうだ。

 昔、新劇は若者に支持された。でも、未だに新劇を見ているのは、当時の若者が老いただけのことで、新しいファンを獲得していない。

 それに比べると、俳句、短歌はまだ若者が新しい模索をしている。囲碁や将棋も若い世代から捨てられていない。

 それはなぜか、今日は詳しく考察する時間がないので、ご容赦を。

反捕鯨団体

2009-01-26 08:28:24 | Weblog
 わが国の右翼団体にはスポンサーがいない。団体員は別に仕事を持っている。

 だから、右翼団体の活動は日曜日が多いのである。

 街宣車も自腹である。日曜日に軍歌を鳴らせて手弁当で街を巡るのは、ご苦労様というほかはない。

 ところが、海外の反捕鯨団体は、それ以外に仕事を持っていない。みな寄付で食っているのだ。船舶も攻撃的なボートもみな寄付で買っている。

 つまり、わが国の右翼とは違って、海外の反捕鯨団体はそれ自身が「仕事」になってしまっている。

 寄付が集まらなければ、活動は行き詰まる。それどころか、自分たちが食っていけない。だから、反捕鯨団体は、ますます過激な行動に走って、寄付を集めなければならない運命にある。つまり、反捕鯨はすでに「商売」になっているのである。

 わが国やノルウェーなどが、すべて調査捕鯨をやめてごらん。真っ先に食い詰めるのは反捕鯨団体員である。

 わが国が調査捕鯨をやめないから、彼らは生活していけるのである。ありがたいと思え!

鯨肉

2009-01-25 08:41:24 | Weblog
 小学校の給食で鯨の立田揚げがよく出た。まずかった。でも、腹が減っているので食べた。

 わが国の食糧事情が悪かったということもあるが、鯨肉を子供に食べさせるのは、肉食の習慣がなかったわが国に、アメリカが子供のうちから肉食の習慣を付けさせようという策略があったという説もある。

 鯨のベーコンというのがあった。硬いが、これはうまかった。安いので日雇い労務者などが酒屋でこれを肴にして呑んでいた。

 長じて鯨は高級品となった。鯨の「尾の身」がうまいというので食べてみた。さして、うまくなかった。

 今、捕鯨反対運動が盛んである。わが国は断固反対している。

 鯨肉はさしてうまいものではない。安かったから食べていたのだ。それが今や高級品である。そんなに金を払って鯨肉を食べたいとは思わない。

 アメリカはかつて鯨肉(肉食)を奨励し、今は禁止しようとしている。勝手である。今ひとつアメリカを好きになれない理由は、こんな些細なところにある。

「しゃもじ」と「おたまじゃくし」

2009-01-24 08:25:25 | Weblog
 「しゃくし」とは食物をすくう道具である。

 平安時代に、いろいろな言葉に「もじ」という「接尾語」を付けることがはやった。「しゃくし」にも「もじ」が付けられ、「しゃもじ」と呼ばれるようになった。

 汁をすくう道具を「おたま」と言った。「おたま」は「しゃくし」の一種だから、それを「おたまじゃくし」というようになった。

 形が似ているところから、カエルの子を「おたまじゃくし」と呼ぶようになった。もとはなんと呼ばれていたのかはわからない。

 さらに年代が下ってから、音符のことを、これも形が似ているところから、「おたまじゃくし」と呼ぶようになった。

 以上は私の推理である。あまり信用できないかもしれない。

デジカメとフィルムカメラ

2009-01-23 08:36:03 | Weblog
 写真のフィルム会社が激しい競争を演じてきたことは、すでに書いた。(2008.11.15)。

 誰しも思うように、そのような競争は過去のものとなって、フィルム産業は衰え、これからはデジカメの世界になるだろう。

 でも、ここで言いたいのは、いくらデジタルが隆盛してもフィルムは残るということだ。

 まず、使い捨てカメラはすたれない。使い捨てカメラにデジタルを使用するには、あと10年はかかるだろう。

 さらに、昔から写真館で使用されているカメラ(闇箱という)は今後も残る。あの黒い幕をかぶって、撮影する方式である。

 闇箱には100年以上の歴史がある。坂本竜馬の写真も闇箱で摂られたのである。

 闇箱はフィルム原版が大きい。これをデジタルで置き換えることは、あと50年はできないだろう。

 プロでもデジカメを使用する時代、フィルムは一部に必ず残るということを、ここで主張しておきたい。

たくあんの匂い

2009-01-22 08:31:37 | Weblog
 たくあんって、おならのような匂いがするとは思わないだろうか?

 誰かが電車内でたくあんの包みを開けたとき、電車中に匂いが蔓延した。

 だから、たぶん外国人はたくあんが食べられないと思う。あつあつのご飯にたくあんは最高のご馳走なのに、外国人は可哀そうだと思う。

 よく知られていることだが、外国人は納豆が食べられない。これまた、格別においしい食品で、栄養価も高いのに外国人は気の毒である。

 意外にも、外国人はウナギの蒲焼きがダメである。う○この匂いがするという。これは発酵食品ではないのに、なぜダメなのだろう。不思議である。

院内感染

2009-01-20 08:26:55 | Weblog
 病院というところは清潔だと誤解されやすい。

 それどころか。病院ほど汚いところはないのである。ばい菌やウイルスで満ち満ちた場所が病院である。

 院内感染が問題視されている。でも、本当は問題視するに値しない。院内感染は起こって当たり前の現象である。弱った人が密集している場所が病院である。院内感染は防ぎようがない。

 サハラ砂漠で何かの感染が蔓延したというのならニュースになる。だが、院内感染は当然のことである。だから、ニュースにならないかというと、それがなるのである。

 論調は、院内感染を引き起こした病院は努力を怠っていたというものが多い。いくら努力しても院内感染は起こるのにである。

 これらの論調は、「病院は清潔である」という誤解から出ていると私は思う。

2兆円ばらまき

2009-01-19 08:41:34 | Weblog
 この欄で床屋政談はしたくない。でも、このたびの2兆円ばらまきは、あまりに面白いので意見を述べる。

 2兆円あればどれだけのことができるか、とマスコミはシミュレーションしている。よっぽどのとができる。一人1万2千円ずつもらうのがよいか、もっと別のことに使えばこれだけのことができると言っている。

 だが大衆にとっては「別のこと」なんてどうでもょいことなのだ。当面1万2千円もらえることのほうが、ずっと重要なのだ。

 麻生首相はしたたかである。いまは支持率がひどく低くても、ゲンナマをもらったら、民意は手のひらをかえしたようになるだろう。麻生首相はそこを読んでいるところが偉い。

 ま、これは床屋政談だから、ほどほどに読んでほしい。

腹話術

2009-01-18 08:05:54 | Weblog
 私は幼いころ腹話術が好きだった。今よりも腹話術師は多かったと思う。

 だが、腹話術に対して一抹の怪訝さを持っていた。それは、2点ある。人形の唇の下に線がはいっていること。もう一つは、腹話術師の口が微妙に動いていることである。

 このたび、ナントカ堂という腹話術師の芸を見て驚いた。術師の口がまったく動かないのである。

 ナントカ堂は血を吐くような努力をしたという。これでナントカ堂は世界的になった。

 あれこそ芸と言えるものである。私が幼いころ見てきた腹話術は、芸でもなんでもなかったのである。

100円ライター壊れる

2009-01-17 08:21:09 | Weblog
 私は愛煙家である。昔はマッチを使っていた。

 20年以上前からライターを使っている。それも、ダンヒルとかジッポといった高級品でなく、100円ライターである。

 100円ライターはガスの漏れが多く、長くは持たないが、故障しないので愛用していた。それが、このたび壊れたのである。

 しかも、海外旅行中だから困った。駅の売店で20円程度で100円ライターを見つけたので事なきを得たが、そうでなければ途方にくれるところだった。

 この20年以上、100円ライターは壊れなかったのである。これは、驚異的なことである。それが、このたびライターの押す部分外れてしまった。

 これは、たまたまのことなのだろうか?それとも100円ライターの質が落ちているのだろうか?

ターミナル

2009-01-16 08:38:22 | Weblog
 電気回路の入出力部分をターミナルと呼ぶ。

 ターミナルとは元来「終末」という意味である。ターミナル駅は終末駅、ターミナルケアは終末医療である。

 ではなぜ電気回路の入出力部分をターミナルというのだろうか?

 たぶん、その電気回路を一つのまとまりとして見れば、回路で実現した操作を最後に出力する部分、すなわち終末的な出力部分だからだと、私は考えている。

 でも、電気回路のターミナルは外に開かれている。その次があるのであって、そこで終わりではない。

 電気回路の入出力部分をターミナルと呼ぶのに、私は昔から違和感を感じているが、皆さんはどうだろうか?