(ウィキペディア「ファミリーコンピュータ」より。)
PC-8801が出たころ、息子はまだ幼稚園だった。そのころから、ゲームセンターにはブロック崩しや卓球ゲームがあった。1個のボールが壁に反射して動作するゲームである。そのようなゲーム機で家庭用テレビで遊べるマシンがおもちゃ屋で売られていた。
それを買いにおもちゃ屋に行ったら驚いた。それらのゲーム機を生産していた任天堂という会社が、すべてのゲーム機を回収してしまったいうではないか!あとになって分かったことだが、それはファミコンを売るための任天堂の策略だった。
で、ファミコンを買って、また驚いた。PC-88が20万円か25万円のときに、ファミコンは2万5千円くらいだった。ところがその性能ときたら、マリオがぴょんぴょん動いて背景がどんどん左に流れていくではないか!PC-88では、絶対に実現できない機能だった。それが10分の1の値段だ。ゲームセンターや喫茶店でインベーダーゲームが大ヒットしたあと、商業用テレビゲームの映像は格段に向上した。今度はファミコンによって、商業用テレビゲームと同程度の映像が家庭で楽しめるようになったのだ。
ここから任天堂の快進撃が始まった。一介の花札製造会社が、家庭用テレビゲームのパイオニアにのし上がった。ファミコンの肝は、グラフィック専用チップを搭載したことだ。これにより、アニメの動きが格段によくなったのだそうだ。
かつて、IBM社は収入源としてソフトがハードを凌ぐと予言して、一時そのようになった。だが、このグラフィック専用チップの開発によって、ハードの進歩がなければソフトだけではどうにもならない、ということが明らかになった。グラフィック専用チップは、ワイヤードロジックそのものである。
任天堂のその後の栄枯盛衰、はみなさまご存じのとおりである。最初のファミコンのソフトは、カセットといわれるROM(読み出し専用メモリ)で提供された。カセットの中にはROMが2つ入っており、左側がプログラムが入ったROM、右側がグラフィックだけが入ったROMだった。
グラフィックの最小単位は16バイト16バイトで、そのアドレスをプログラム側から操作することによって、早くてスムーズな動きを実現していた。以上のことが分かったのは、私がROMの読み出し回路を自作して、カセットを調べたからである。そこまでして中味が知りたくなるほど、ファミコンは革命的だったのである。
グラフィック専用チップは確か本体内部にあったと記憶する。そのチップと、CPUやグラフィックROMがどのように関係しているかまでは分からなかった。