院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

氷雨

2007-08-31 13:15:06 | Weblog
 「氷雨」(ひさめ)という歌謡曲がはやってから、なぜか氷雨は冬の冷たい雨や、みぞれのようなものと理解されるようになった。

 これは誤解である。

 氷雨とはもともと雹(ひょう)のことであって、夏の季語でもある。

 古くからある言葉に影響を与えるなんて、歌謡曲はあなどれない。

精神科医から見た朝青龍問題

2007-08-30 08:25:24 | Weblog
 朝青龍の精神状態に関して、どこの馬の骨とも分からないような美容整形医が「うつ病の一歩手前」なぞと素人的な意見を口走った。それが、今回の朝青龍問題の発端である。

 朝青龍が記者会見する前から、病名が一人歩きしている。これは朝青龍にはたいへん不幸なことだった。朝青龍は何を置いても記者会見するべきだった。

 あとになって、朝青龍は乖離性障害との診断が出た。(「乖離」がほんらいで、「解離」は当て字である)。

 乖離性障害とは、昔で言うヒステリーのことで、記憶喪失症などがこれに当たる。性格的な問題の上に強度のストレスがかかったときに発症すると言われている。

 例えば女性が強姦にあい、それ以前のことを全部忘れてしまうのが乖離性障害の典型である。ただ、強姦にあった女性がすべて乖離性障害とはならないので、もともとの性格が大きく寄与していると考えられている。

 乖離性障害は難治である。朝青龍が乖離性障害ならモンゴルへ帰ってもすぐには良くならないだろう。もし、すぐ良くなったとしたら、朝青龍は乖離性障害ではなく、一過性のストレス反応(恋人にフラれた時のような状態)か詐病、または単なるふてくされということになる。

 朝青龍は日本の文化に敬意がないと言われてきた。横綱審議会委員の内舘牧子さんは、朝青龍が優勝パレードの時にモンゴル国旗を掲げていたいたことを批判し、イチローが勝ったときに日の丸を掲げてグラウンドを走ったら、アメリカ国民はどう思うだろうと指摘していた。

 朝青龍問題での今回の相撲協会の対応は、素人以下の対応としか思えない。高砂親方が朝青龍のもとに説得に出向くというのが分からない。まずは、どんなに苦しくても朝青龍が上司である高砂親方の方に出向くのがスジだろう。

 朝青龍はこれで終わったと思う。すぐに治れば乖離性障害でなかったことになるし、治らなければ、それでも終わりである。

日食と月食

2007-08-29 09:42:36 | Weblog
 昨夜は6年ぶりの皆既月食だった。曇りで見られなかったので、TVで見た。

 私は漠然と、日食の頻度より月食の頻度が多いと思っていた。それはなぜかと疑問に思った。

 そこで、東京国立天文台に電話してみた。

 そうしたら、世界的に見れば、なんと月食より日食の頻度が高いのだという。

 日食も月食も、太陽、月、地球が一列になる現象である。それなのになぜ日食の頻度が高いのか、新たな疑問が出てきた。そのことも天文台に聞いてみた。

 担当のスタッフも分からず、調べて後日伝えるとのことだった。それはあまりに申し訳ないので、断った。

 日食を私が初めて見たのは、小学校3年生の時。クラス中でススの付いたガラスで日食を観測した。感動した。

 自然現象の偉大さを知った。今でも当時の感動を忘れない。

 だから良い年をして、天文台に問い合わせたりしているのだ。

泣く流行・泣かない流行

2007-08-28 12:01:36 | Weblog
 昔は結婚式で花嫁の父親が泣くことはなかった。今は泣く。

 方々の結婚式で父親が泣くようになった。みんなが泣くので、父親達も安心して泣くようになったのだろう。右へならえということか?

 高校野球では、決勝で勝ったチームも負けたチームも選手が泣いた。今は泣かない。

 泣くことや泣かないことにも流行があるようだ。

羊羹

2007-08-27 11:51:24 | Weblog
 私は羊羹が好きだ。羊羹と言えば東京なら「とらや」、名古屋なら「美濃忠」が有名である。

 しかし、「とらや」の羊羹は硬くて腹に重い。「美濃忠」の羊羹はやや水っぽい。

 私は東京・中野の鍋屋横丁の「鳳月堂」という名もない小さな和菓子屋の羊羹をひいきにしている。私の父もひいきにしていたから、親子二代にわたるひいきである。

 「鳳月堂」の羊羹は、硬からず柔らかからず、絶妙の食感である。

 いま「鳳月堂」に羊羹を買いに行っても、ない。「鳳月堂」は羊羹を年に一回しか作らない。

 それは9月に新大豆が出てからである。「鳳月堂」は新大豆でしか羊羹を作らない。だから、それが売り切れれば、次の9月まで待たなくてはならない。

 羊羹にも「旬」があるのだ。

原子力発電所の熱排水

2007-08-26 08:50:55 | Weblog
 地球温暖化が本当に起こっているのかどうか、再三疑問を述べてきた。

 もし起こっているとして、それがCO2 のせいなのかどうかにも、疑義を呈してきた。

 だが、石油などの化石燃料は、もともとが太陽エネルギー由来である。太陽エネルギーを使用している限りは、まあ大丈夫だと思う。

 問題は、従来自然界に存在しないエネルギー、すなわち核エネルギーである。

 核エネルギーは自然のものではないから、確実に環境を破壊する。それなのに、核エネルギーについての危機感があまり感じられない。

 原子力発電所は熱排水を大量に出す。この熱は太陽エネルギーによらないものだから怖い。放射能漏れなんかよりも、よっぽど怖い。

 熱排水は沿岸の海水温を上げる。海水温が1度上がると、プランクトンを底辺とする沿岸の生態系に多大な変化が起きるという。われわれがよくお目にかかる魚や海草はすべて大陸棚にある。これらが多大な影響をこうむるだろう。

 やれ地球温暖化、やれCO2 削減と騒いでいるけれども、根拠の薄弱なものに大騒ぎして、もっと怖い核エネルギーのことを忘れている。

 頭隠して尻隠さずの感がある。

お汁粉

2007-08-21 14:07:20 | Weblog
 私は20代の後半まで大の甘党だった。お汁粉や餡蜜が大好きなのだが、男一人で甘味処に入るのが気恥ずかしかった。

 20代後半まで私はアルコールを一滴も呑めなかった。体質に合わなかった。でも、酒の機会が多くなり、いつしか酒をたしなむようになってからは、甘党ではなくなってしまった。

 だが、酒を呑まないでいると、とたんに甘いものが食べたくなる。昔の名残りが残っているのだろう。

 昔は甘味処でお汁粉を食べると値段が高いので、自分で作ったものだ。

 小豆を一晩水につけて、翌日ことことと煮て、徐々に砂糖を入れていくのだ。いっぺんに砂糖を入れると、砂糖と小豆が分離して、小豆のシロップ煮みたいになってしまう。

 火加減が難しい。加熱しすぎると小豆が敗れて味が落ちる。お汁粉の小豆は原則として破れていてはいけない。

 煮た当日より、もう一晩置くと、砂糖が小豆になじんで最高のお汁粉ができる。

 このようなお汁粉を田舎汁粉という。一方、宇治汁粉といって、小豆粒がないこしあんだけのお汁粉があるけれども、私はこれをあまり好まない。

 名古屋に来て初めて知ったことだが、名古屋ではお汁粉のことを「ぜんざい」と呼ぶ。最初はちょっと違和感があった。「ぜんざい」は私の出身地である関東では、しる気の少ないつぶあんのような食品である。

 そうそう、私はお汁粉を練炭で作った。火の持ちがよく、ガスのように気を使わなくてよいからだ。でも、わたしの実家にはもう七輪はない。思春期の少年が七輪でお汁粉を作っている。懐かしい映像として、私の脳裏に残っている。

種の絶滅は防げない

2007-08-20 13:16:06 | Weblog
 人間は他の生物種の絶滅をなぜ嫌うのだろうか?

 レッドブックなんていうものも作られて、絶滅危惧種を保護しようとしている。

 トキを絶滅から守ろうと、何億円も使ったが、ついに絶滅を防げなかった。

 絶滅は必然なのである。生物相は絶滅と進化を繰り返して、現在の様相になっている。

 現在の様相だけ残そうと思っても、それは人間の傲慢であって、生物相は変転していくのが自然なのである。

 人間が他の生物種を絶滅に追い込んでいると考える人もあるだろう。でも、それは一部のことである。

 現に三葉虫もアンモナイトも絶滅したけれども、それは人間の手によってではない。自然の摂理によってである。

 自然の摂理に逆らって、生物相を保存することはできない。

サーフィンすたれず

2007-08-19 15:35:51 | Weblog
 サーフィンが突如はやりだしたのは1960年代だった。

 ビーチボーイズというコーラスグループがヒットした。

 波乗りなんていずれすたれるだろうと思っていたけれども、未だにすたれない。私の誤算のひとつだ。

 そもそも日本はサーフィンに適した波が来るところがない。それでも、すたれない。

 サーフィン専門店もあって、それらが繁盛している。これは意外である。

 今のサーフィン人口は、ほとんど1960年代生まれ以降の人たちだろう。彼らによってサーフィンは支えられている。

 サーフィンがすたれないのは、私の七不思議のひとつである。

 波が来なければウインドサーフィンである。いざとなれば、ヨットである。

 ヨットは石原慎太郎の時代以前からあった。金持ちのレジャーだった。それもすたれない。世の中には昔から金持ちがいたのだ。

大阪のたこやき

2007-08-18 13:31:50 | Weblog
大阪のたこやきはおいしい。屋台のたこやきでもうまい。

 皮がカリカリとしていて、中身はトロリとしている。

 名古屋のたこやきはおいしくない。中まで火が通っていて、お好み焼きの丸いやつのような感じである。

 名古屋に行列ができるたこやき屋があるけれども、その店のたこやきも中まで火が通っている。

 豊橋のたこやきも同じ。

 東京にはそもそも、たこやきがない。

 おいしいたこやきが食べたければ大阪まで行くしかないが、大阪へ行く用事がない。

 名古屋や豊橋のたこやき屋が、なぜ大阪の技を盗もうとしないのか、不思議である。

酒気帯び運転の定義

2007-08-17 13:05:12 | Weblog
 酒酔い運転は危険である。白状すると、私も路上の車を車庫に入れるだけだからよいだろうと、酔ったまま車庫入れをしたことがある。そうしたら、つまらない所で柱にぶつけてしまい、車をへこませた。しらふならありえないミスである。

 酒酔い運転の取締りが厳しくなった。酒酔い運転に寛容な風土があるから、それはまあ、いいだろう。

 問題は、アルコール濃度の決め方にある。日本の酒気帯びの基準は、アメリカより4倍も厳しい。

 何も事故をおこしていなくても、血液(ないし呼気)から、わずかなアルコールが検出されただけで、善良な市民を罪人として引っ張るのはどうかしている。

 しかも、そのアルコール濃度で、どの程度事故が起きやすくなるのか、検証されていない。勝手に濃度の上限を決めておいて、さらに上限を下げようとの動きもある。

 アルコール濃度の危険範囲の決定は、罪人として引っ張る以上、厳密な証拠の元で行われなくてはならない。

 恣意的に濃度を決めているとしたら、それは恣意的に血糖値やコレステロールの正常値を決めるのと同じで、極めて危険なことである。

 まずアルコール濃度と事故との相関を、多数例で科学的に調べる必要がある。その上で、上限を決めるべきである。

 そうでないと、昨夜、酒を呑んだ人が翌朝、車で出勤したら罪人として引っ張られるという事態が起きるだろう。週末の夜だけでなく、平日の朝にアルコールの検問をやってごらん。かなりの人が捕まるだろう。

 最近の検察の横暴は目に余る。ホリエモンを有罪にしてしまった。世論に媚びる裁判官も裁判官であるが・・・。

 ここいらで、アルコール濃度の上限をどうやって決めたのか、科学的な立証を迫らなければ、ますます検察をつけあがらせることになる。

イラクの自爆テロ

2007-08-16 11:48:00 | Weblog
 イラクで自爆テロが続いている。

 命を捨ててまで自爆するのだもの、よっぽどの憤激があるにちがいない。

 マスコミは、テロがあった、テロを根絶しようと報道するだけで、どういう憤激が彼らにあるのかを報道しない。

 報道しない理由が何かあるのだろうか?それとも取材能力がないのだろうか?

 憤激の内容を知れば、国民もテロに対する見方が変わるかもしれない。

 つまり、報道すれば、日本のPKOに反対する世論が高まるかもしれない。それを恐れて報道しないのであれば、マスコミは中立の建前を崩したことになる。

 マスコミがPKOに反対なら、もっとテロリストの憤激を報道するだろう。報道しないと結果として、PKOに賛成ということになる。

 ことイラク問題にかんして、わが国のマスコミは中立というより中途半端なのである。

カウンセリング幻想

2007-08-15 09:35:29 | Weblog
 何か心の負担が生じた事態に対して、マスコミはすぐに「カウンセリングを」と薦める。それに煽られて大衆もカウンセリングを特別な特効薬のように思うようになった。だから私のクリニックにもしばしばカウンセリングを求める人が見えて困っている。

 結論を一言で言うと、「カウンセリングは効かない」。

 少なくとも心の病には効かない。病気には薬物で対応するのが最も合理的である。カウンセリングで病気が治るなら、肺炎だってがんだってカウンセリングで治ることになってしまう。心の病だからといっても、肺炎やがんと少しも変わりがない、れっきとした病気である。

 意外に思われるかもしれないけれども、カウンセリングで心の病が治ったという証拠は、いまだかつて一つもないのである。

 ただ、日常の不愉快なこと不満なことは、ある程度カウンセリングが貢献できるかもしれない。ただし、それは職業カウンセラーによってではない。

 私が名カウンセラーだと常々思っているのは居酒屋のオヤジである。酔客の話をふんふんと聞いて、合いの手を入れて、酔客はそれでいくぶん心が晴らされる。

 その際、酔客は一見ではダメである。居酒屋のオヤジと何年も親交を積んだ常連でなければならない。名カウンセラーであるオヤジも、さすがに一見さん相手にその人の溜飲を下げさせることはできない。

 常連客に対するオヤジの「カウンセリング」には終わりがない。常連客が来る限り永遠に続く。カウンセリングとは元来がそういうものである。

 職業カウンセラーのカウンセリングには終わりがある。というより、クライアント(依頼者)がお金が続かなくなったり、自分の苦しみが意外に改善されないことが分かったときに、カウンセリングは終了する。

 カウンセリングは、学習したり研鑽すれば誰もができるようになるものではない。一定の才能が必要だ。カウンセラーにはまずよい意味での「権威」も必要である。(学校を出たてのカウンセラーに、年配のクライアントが信頼を置きうるだろうか?)。

 極論すれば、カウンセリングは故河合隼夫氏のような人にしかできない。彼は権威も才能もある人だった。誰でも羽生名人のような棋士になれないのと同じように、誰でも河合氏のようなカウンセラーになれるわけではない。

 だから、若いカウンセラーは体当たりで全人格を賭けて、ほとんど自己犠牲的なほどにクライアントに接しなければ、クライアントの信頼を得られない。信頼が得られなければ、カウンセリングは成り立たない。

 でも、それほどまでに心血を注いでも、効果はわずかである。(居酒屋のオヤジにさえかなわない)。しかも、上に述べたように、クライアントが病気だったら治らない。

 だが、カウンセリングはすばらしいものだという幻想をマスコミが振りまくので、カウンセラー希望の純真な若者が後を絶たない。これは若いエネルギーの浪費である。若者の将来を決めてしまうから、現在のマスコミの報道姿勢は罪作りな所業と言わなくてはならない。

ミュージカル大嫌い

2007-08-14 11:56:07 | Weblog
 私が高校生のころミュージカル映画がはやった。「ウエストサイド物語」や「サウンドオブミュージック」などである。

 私も見た。でも、ちっとも面白くなかった。

 男女が出会って、歌って踊った後に、もう恋に落ちている。飛躍があるのだ。その飛躍に着いていけないと、全然面白くない。

 ミュージカルにはルールがあるらしい。歌って踊ったらすぐに状況が変わってしまうのである。このルールを飲み込まない限り、ミュージカルはつまらない。

 私はこのルールを飲み込むのを拒否したから、以来、ナマのミュージカルはもちろんミュージカル映画も見ていない。

 昔、「ウエストサイド物語」に出てくる「トゥナイト」という歌がたいそうはやった。何週も連続してラジオのヒットチャート一番だった。私はこの曲のどこがよいのか分からなかった。

 「トゥナイト」は、あれほどヒットしたのに、ついにスタンダードにはならなかった。やっぱり音楽としてはつまらないのだろう。

 「サウンドオブミュージック」では「ドレミの歌」だけがスタンダードになった。これは日本語の作詞がよかったからで、本家のアメリカでもスタンダードになっているのかどうかは知らない。

 「キャッツ」がわが国でロングランを記録したというが、もちろん私は見ていない。見ていないのに言うのもナンだけれども、たぶん学芸会のようなステージだと想像する。だから見ない。