(「金魚売り」。YouTube「金魚売り」より引用)。
私の少年時代の東京での暮らしぶりについて述べよう。
小学校で「日本の道路の舗装率は5パーセント」と習ってがっかりした。イギリスは80パーセントとも教わったからだ。数日前にも述べたように、目黒の自宅の前は土の道で、タイヤの荷車を馬がひいていた。とうぜん馬糞があちこちにあった。
店舗はまだ平屋のバラックみたいなもので、日用必需品しか置いていなかった。店にさえ冷蔵庫は少なかったから、食品は行商人から買うことも多かった。行商人は「振り売り」といって、かけ声をだしながら品物を売った。
早朝から来るのは自転車の荷台に貝を乗せて、「あさり~しじみ~」と呼びながら売る人たちだった。目黒から海は遠い。どこから仕入れてくるのだろうか。ともあれ私はあの売り声を目覚まし代わりに利用していた時期があった。
振り売りの豆腐屋は今でもある。むかしも今と同じラッパだった。朝と夕方に来て、主婦らの需要に応えた。そうとう前からいなくなったのは「納豆売り」の少年である。「なっとなっと~」と呼びながら歩く。ほとんどが小学校4,5年生の少年。主婦らは、さぞ貧乏なんだろうと憐れんで、わざわざ少年から納豆を買ったものだ。
上の動画は「金魚売り」の映画である。同じように聞こえるかもしれない。でも実はフシまわしが売り物によって微妙に違っていた。夏の風物詩に「風鈴売り」というのがあった。これはジャラジャラと音がするので呼び声はなかったと記憶する。
下の写真は「石焼き芋売り」である。これも経験した人が多いだろう。呼び声はむかしと同じ。ただ最近はリヤカーではなく軽トラで来る。それと、石焼き芋やワラビ餅は生活必需品ではないため、もとから悲壮感はなかった。チャルメラのラーメンの引き売りも同じで余裕の表れ。笛がうまいなと私は思った。
(リヤカーの石焼き芋屋。ウィキペディアより引用)。
こうして朝も夜も夕方も東京には「振り売り」の声があふれていた。しかしながら、全員が貧乏というわけではなかった。赤坂銀座神楽坂にはすでに高級料亭があった。父は行ったことがないようだったが・・。要するに貧富の差が激しかったのである。
しかし戦後10年ほどがたち、庶民は気持ちにもお金にも少し余裕ができたのだろう、なにかというと宴会が開かれるようになった。宴会では日本料理にせよ中華料理にせよ、けっこうおいしい料理が出た。(むかしの料理人は現在より上だったと私は思う)。宴会料理の余りは折り詰めにして各自が持ち帰った。家族がそれを心待ちにしているからである。私も父の折り詰めが楽しみだった。
貝類、豆腐、納豆のことを上に書いたけれども、むろん野菜も食べた。野菜は千葉から朝採れの野菜をかついでくるオバチャンたちから買った。(彼女らは京成電鉄の「行商列車」で東京に来た)。だから、野菜は今より新鮮だった。
一方で、食事の西洋化が進んできた。豚、牛はまだまだ高くて日常的とは言えなかった。でもハムの薄切りは口に入るようになった。ハムは豆腐や納豆と違い、ちょっと西洋っぽかった。そこで、ハムの薄切りをフライにした「ハムカツ」を肉屋が売るようになった。一個5円のポテトコロッケも。
ハムカツやポテトコロッケは現在でも安居酒屋にある。だが販売された当初は、とてもモダンな感じがしたものだ。だって、日本人のおかずは豆腐、納豆、漬け物、魚だけだったから。(なんと玉子は贅沢品の一種だった)。
やがて各家庭は、ハムの上に玉子を落としてハムエッグを作るようになった。電気トースターが売り出され、週に一回くらいはパン食という風潮が広まった。牛乳配達はすでに日常だった。(バターは手に入りにくく、かつ高価だった。クジラのマーガリンというのがあって、それがけっこううまくてバターの代用品となった)。
大人たちのこうした、西洋へのつたない憧れは、もしかすると現在でも続いているのかもしれない。
※私の俳句(夏)
白玉や納豆売りの声聞きつ