院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

オランダの風車

2018-01-20 02:36:42 | 歴史


(アゾンナッシュより引用。)

 オランダには1,000くらいの風車があるらしい。人か住んでいるのと空き家の風車がある。

 人が住んでいるのは代々風車のメンテをやっている。それは住人の誇りでもある。

 カナダには水路があって、そこの水門を閉じたり開いたりする家系がある。それもその家計の誇りだ。
 
 こうして100年くらい同じ仕事をしている。気が長い話だが、それが誇りなのだ。イギリスのビッグベンにも似たような家計があるらしいが、それはまた別の機会に。

 ※今日の俳句(冬)
   チーズ状なりし今夜の凍豆腐
   ひとし(豊橋市)

親日的な台湾

2017-12-09 00:34:44 | 歴史

(琴がある台湾観光地。pic.pimg.tv より引用。)

 日本はほぼ同時期に韓国と台湾を統治していた。なのに韓国は反日的となり台湾は親日的となった。その理由については私よりよほど詳しい人がおられるから、ここでは論じない。

 数年前、台湾に遊んだ。台湾には畳屋があった。日本統治時代の日本人の宿舎が畳敷きだったから、それが残ったのだろう。

 台湾のお年寄りは日本語がぺらぺらである。訛りもない。そういう人たちが親日的なので、また台湾に行きたいと思う。

 ただし、言われているほどには台湾の料理はうまくない。

 ※今日の短歌
   10トン車に積まれて出ていく成型機に頭を下げて最敬礼をする
   山本公策(松坂市)

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は同一

2017-12-07 00:04:13 | 歴史

(エルサレムの風景。ウィキペディアより引用。)

 イスラム教のアッラーとは「神」の固有名詞ではなく、神そのもののことらしい。そのため、ユダヤ教の神もキリスト教の神も同一物である。

 その同一物である神の教えをアラビア語で著したのがコーランである。したがって、コーランはあくまでもアラビア語でなくてはならず、コーランは翻訳不能なのである。(翻訳してしまうと、それはもはやコーランではなくなる。)

 この3宗教の神は同一だから、3宗教の聖地がエルサレムであることは歴史の必然であり、別々の3宗教が互いに聖地を争っているいるわけではないらしい。

 以上はNHKの高校講座で知った。NHKの高校講座はけっこう面白い。

 別の情報源だが、有名なハラルすなわち調理の仕方にイスラム教は敏感である。これは根拠がないことではないらしい。衛生状態が未熟だった過去において、羊のさばき方などを衛生的に行う仕方がコーランに書いてあるだけのようだ。

 (豚はどうさばいても衛生的ではなかったらしい。酒がダメなのは現在でも通用する。)

 すなわちコーランには当時の生活の知恵が書いてある。それをきちんと守れば衛生的な生活が送れるのだ。意外にもコーランには、日常生活の(当時としては)合理的な教えがたくさん書いてあるようである。

 ※今日の短歌
   短歌の先輩えがたき君を友として長き電話の明日よりは無し
   西井京子(明日香)

歴史は IF の連続だ

2017-12-04 09:20:51 | 歴史

(歴史の教科書。amazon より引用。)

 歴史にIFはタブーだというが本当だろうか?

 ある歴史学者は「歴史は偶然の羅列にすぎない」という。わたしはこの論に賛成だ。

 たとえば、本能寺の変で館の柱に武将がつまずいたら歴史は変わったものになっていただろう。本能寺の変は失敗していたかもしれない。

 偶然の羅列に必然性を仮定したり、法則性を見出すのは無意味だと思う。では、なぜ歴史が研究されるのだろうか?

 これは純粋に人間の好奇心ではあるまいか。宇宙とか深海とか、未知のものを人間は知りたくなる。なんの役に立たなくても研究したくなるのが人間である。

 歴史を知りたくなるのも、同じことではなかろうか?

 ※今日の短歌
   女孫へのわれの礼状うれしとぞ夜更けの電話の声のかぼそく
   西井京子(明日香)

中国が反日的となったわけ

2017-11-01 10:26:54 | 歴史

(天安門事件の1シーン。ウィキペディアより引用。)

 田中角栄と周恩来の日中国交正常化いらい、両国は友好関係をたもった。中曽根総理の時の中国主席、胡錦涛はとくに親日的だった。二人の蜜月は胡錦涛が死ぬまで続いた。胡錦涛は鄧小平の眼鏡にもかなっていた。

 しかし天安門事件が起きると、鄧小平は胡耀邦を批判した。そして、これまでの教育が自由過ぎたと路線を変更し、反日教育を行うようになった。これが現在まで続いている。天安門事件以後の子どもはみな反日教育を受けている。

 国をまとめるために外部に敵を作るのは常套手段である。天安門事件いらい中国は反日的となった。以上が私の中にある(きわめて単純化された)図式なのだが、どうか?

 ※今日の短歌
   田に張れる氷を割りて泥鰌掘るわれ小作農の次男坊なり
   黒澤正行(福島県)

なかった昔には戻せない!

2017-10-20 00:03:17 | 歴史

(日本の農業。hatena-blog より引用。)

 「なかった昔には戻せない!」という言葉は山本夏彦翁が言った名言である。

 金属の発明で武器が作れるようになったが、金属は鍋釜にも必要だからなくせない。蒸気機関も内燃機関もなくせない。とうぜん原子爆弾もなくせない。核禁止条約を結んでもダメだというわけだ。

 これら必要なようで害をなす発明を遡ると、農業の発明にまでたどり着く。「帰農」といい「里山主義」といい、あたかも農業に立ち戻るのが理想のように言われるけれども、農業が発明されてから人類は堕落した。

 農業は定住を生んだ。大勢の人が定住して富の偏在が起こった。それらを奪い合った。チームで戦争をするようになった。農業が発明されるまで何10万年間もなかったことだ。

 こうして農業の発明は、現在の核技術や人工衛星にまで連なっている。「なかった昔には戻せない!」とは、こういうことである。

 ※今日の俳句(秋)
    夜の雨の続く晩秋真ただ中



フランス革命という嫉妬の極み

2017-10-13 00:05:57 | 歴史

(ルイ16世の処刑。ウィキペディアより引用。)

 フランスの三色旗は自由、平等、博愛を表しているというが、きれいごとである。フランス革命は嫉妬の見本市である。

 革命時、多くの人間がギロチンの露と消えた。それを歓呼して見物していたのは民衆である。首が飛ぶたびに歓声が上がったという。まったく古代ローマ帝国、コロッセオの剣闘士と猛獣の戦いを見るのと同じ目だ。ギロチンはすでに見世物と化していた。

 だから革命時には反動に次ぐ反動があり、恐怖政治が行われたのもやむを得なかった。民衆はすでに処刑に慣れっこになっていたから、処刑には処刑で対抗するほかなかっただろう。

 民衆は公開処刑という最高の見世物を心行くまで楽しんだ。その民衆が自由、平等、博愛なぞと言っても、なんの説得力もない。まことに人間とは度し難い動物である。いやらしいくせに、恰好だけはつけたがるのだ。

 ※私の俳句(秋)
    天井の節目に和する秋の蝿 

1950年台のピアノブーム

2017-08-22 00:27:48 | 歴史


 戦後、数年たった東京では「住宅難」が起こりました。住民の多くはひどい住宅に住んでいました。長屋や安アパートなぞは一部屋しかありませんでしたから、「寝食分離」なんて不可能でした。

 一部屋というのは6畳です。入口の半畳の土間に流しがあり、もう半畳は押入れ。合計7畳。トイレは共同のぼっとん便所でした。

 当時から2DK という用語があり、それは庶民のあこがれの的でした。ところがこれが狭いのです。「2」は2部屋のことですが、6畳と4畳半。DK (ダイニングキッチン)なんていっても6畳。あと、バストイレ付きだけは自慢できました。(東京では風呂は銭湯を使うのが一般的でした)。

 4階建ての2DK 集合住宅が雨後のタケノコのように建ちました。3階以上でぼっとん便所はあり得ませんから、やっと水洗トイレが普及しました。まだ納豆売りの少年がいたころの話です。所得格差が大きく、2DK に住めた住人のさらに上には、先日述べた華僑の康くんちのような西洋館があって、そこからはピアノの音が聞こえてきました。(戦前からです)。

 戦後、2DK の連中は戦前の西洋館の深窓からのピアノの音が悔しくて、自分たちもこぞって2DK にアップライトピアノを入れました。そして、子供にピアノを習わせました。これが東京のピアノブームです。狭い2DK がさらに狭くなりました。そのころ、日本人の8割は農村で農業をしており、農村ではピアノはあっても学校だけでした。

 ピアノを買うのは、日本全体から見れば都市住民の一部だけですから、ヤマハ、カワイは良いピアノを出荷できました。その後、都市への人口流入によって、ピアノの需要はうなぎ登りとなって、メーカーはピアノの木材を乾燥させる暇もなく、ピアノの質が10年間で急速に低下しました。(その質の低下は今聴いてもわかります。都市のピアノの音には戦前の上流階級への怨念がこもっています)。

 現在、同じことが中国や東南アジアで起こっています。中古ピアノの需要は大きく、上のCMの会社は成功しました。粗製乱造のピアノがたくさん残っていますから・・。もっとも、上の会社は最初、輸出対象がオーストラリアだったので、中国その他に輸出しているかどうかは知りません。

 中国では新品の需要も大きいですから、少なくともヤマハはウハウハなことでしょう。

 (おことわりしておきますが、私はピアノが弾けないし、家にピアノもありませんでした)。

 ※私の俳句(秋)
    菊なますばかり出てくるはしご酒

「戦争はいけない」という無意味な感想

2017-08-19 00:27:26 | 歴史

(降伏文書に署名する重光外相。ウィキペディアより引用)。

 72年前のいまごろ、日本国民はどんな気持ちだったのだろうか?両親も含めて戦争体験者を私はたくさん見てきた。

 戦争体験者にも教養というか、程度の高い人と、そうでもない人がいる。テレビのインタビューなどで「戦争は、やってはいけない」と答える体験者は程度が低いほう。程度が高い体験者は、そんな当たり前の感想は言わない。

 どんなことを言うかというと「戦争に負けるとは、こういうことかと分かった」とか「負ける戦争は、やってはいけない」と、内容が微妙に違うのだ。(戦争するなら勝たなくてはならない、という意味が含まれている)。

 勝ち戦なら国民は「行け行けドンドン」と熱狂する。程度が低い層ほど興奮する。日露戦争に勝ったときなぞは日本がギリギリで勝ってもう余力がないのに、なぜもっと攻めないのか!と程度の低い層が暴徒化して日比谷で焼き打ち事件を起こした。

 だから「戦争はいけない」という発言には何の意味もない。「話し合いで」という人もあろうけれども、そもそも外交とは背後に武力がなくては成り立たないのである。(中国、北朝鮮を見よ)。

(程度が高い低いというのは私の価値判断であるが、その人と付き合っていれば自然に分かるような緩い基準である)。

 ※私の俳句(秋)
    虫の鳴く闇へとバスを降りにけり

1950年台の勤労

2017-08-17 03:28:44 | 歴史

(松本のカフェバー「ふるさと」。Hot pepper より引用)。

 上の写真は長野県松本市のカフェバーです。カフェバーだから夜間営業しても当たり前ですが、地方都市では珍しいといえるでしょう。

 現在、都会でもカフェバーは繁華街にあり、夜間営業は当然です。都会の下町でもアルコールを出す店は夜に営業をしています。コンビニや牛丼屋は24時間営業です。しかしながら、繁華街ではなく小さな商店街では、洋服屋とか八百屋や本屋は遅くとも午後8時には閉店してしまいます。夜間の要員を雇うメリットもありません。

 ところが、1950から60年台にかけては、コンビニもスーパーもありませんでしたから、名もない小さな商店街さえ午後10時まで営業していたのです。しかも、休業は年2日。(月にではないですよ年にです)。小正月と盆の2日だけでした。(これは江戸時代からで)後に小正月(1月16日)が元旦に変わったのですが、年に2日間というのは同じでした。

 元旦の翌日、1月2日にはもう「初荷」が始まりました。「初荷」のトラックは初荷にのめでたい旗を立てて走っていました。現在、魚市場は日曜休みですが、当時は冷蔵庫が未発達で氷だけを使用していたので、市場は休むわけにはいきませんでした。

 こうして津々浦々まで10時まで開店していました。むろん夜間要員なんていませんし・・。アルコールがメインではない蕎麦屋定食屋なぞも夜12時まで営業していました。現在、小さな商店街の食堂は午後9時くらいまでですよね。父親は当時、夜中の12時ころに出前をとっていましたよ。

 それだけニーズがあったのです。つまり、買いに来る人達も、夜遅くまで働いていたのですね。もう廃止になりましたが、大規模店舗法というのがあって、デパートのような大きな店は、あまり長い時間やってはいけませんでした。商店街を保護するためです。

 とにかく、むかしの人はよく働いた。トラックは高価で少なく、物の運搬はせいぜい自転車とリヤカーでしたからその分時間がかかったのかもしれませんが・・。渋谷や新宿は「不夜城」ではありませんでした。渋谷新宿の最終バスは午後8時台だったと記憶します。

 以上のような理由から、人々はどうしても夜は寝なければならないことになります。テレビは存在しなかったしラジオの深夜放送もありませんでした。ある意味、健康的でした。

 現在、時短をしても生産性がむかしより高いのは、自動車と冷蔵庫とコンピュータの普及があるからだとはいえないでしょうか。

 いずれにせよ、私には「むかしの人は本当によく働いた」という印象が強いのです。現在、日本が先進国の部類に入っているのは、あのころの大人たちの努力があってこそだったと私には思えてなりません。

 「盆と正月がいっぺんにきた」という表現がありますが、それは当時の人の言い分で、週休2日の人には、この言葉の本当の意味が実感できるはずがありません。

 労働基準法や時短がきびしく言われるようになりました。むかしのような働きすぎにはマイナスの面もあったからでしょう。そのころ子どもだった私には「大人ってすごいな」という印象しか残っていないのですけれども。

 さいきん特に「時給いくら」とか「時短」の論議がかまびすしいようです。やはり、むかしの働きすぎに「搾取」とか「病気」とかのマイナス面があったからなのでしょうね。もう少し勉強して機会があれば、むかしの過重労働のマイナス面についても考察を加えたいと考えています。

 ※私の俳句(秋)
    敗戦日迎へ退院まぢかなる

1950年台の食生活

2017-08-15 10:44:09 | 歴史

(「金魚売り」。YouTube「金魚売り」より引用)。

 私の少年時代の東京での暮らしぶりについて述べよう。

 小学校で「日本の道路の舗装率は5パーセント」と習ってがっかりした。イギリスは80パーセントとも教わったからだ。数日前にも述べたように、目黒の自宅の前は土の道で、タイヤの荷車を馬がひいていた。とうぜん馬糞があちこちにあった。

 店舗はまだ平屋のバラックみたいなもので、日用必需品しか置いていなかった。店にさえ冷蔵庫は少なかったから、食品は行商人から買うことも多かった。行商人は「振り売り」といって、かけ声をだしながら品物を売った。

 早朝から来るのは自転車の荷台に貝を乗せて、「あさり~しじみ~」と呼びながら売る人たちだった。目黒から海は遠い。どこから仕入れてくるのだろうか。ともあれ私はあの売り声を目覚まし代わりに利用していた時期があった。

 振り売りの豆腐屋は今でもある。むかしも今と同じラッパだった。朝と夕方に来て、主婦らの需要に応えた。そうとう前からいなくなったのは「納豆売り」の少年である。「なっとなっと~」と呼びながら歩く。ほとんどが小学校4,5年生の少年。主婦らは、さぞ貧乏なんだろうと憐れんで、わざわざ少年から納豆を買ったものだ。

 上の動画は「金魚売り」の映画である。同じように聞こえるかもしれない。でも実はフシまわしが売り物によって微妙に違っていた。夏の風物詩に「風鈴売り」というのがあった。これはジャラジャラと音がするので呼び声はなかったと記憶する。

 下の写真は「石焼き芋売り」である。これも経験した人が多いだろう。呼び声はむかしと同じ。ただ最近はリヤカーではなく軽トラで来る。それと、石焼き芋やワラビ餅は生活必需品ではないため、もとから悲壮感はなかった。チャルメラのラーメンの引き売りも同じで余裕の表れ。笛がうまいなと私は思った。


(リヤカーの石焼き芋屋。ウィキペディアより引用)。

 こうして朝も夜も夕方も東京には「振り売り」の声があふれていた。しかしながら、全員が貧乏というわけではなかった。赤坂銀座神楽坂にはすでに高級料亭があった。父は行ったことがないようだったが・・。要するに貧富の差が激しかったのである。

 しかし戦後10年ほどがたち、庶民は気持ちにもお金にも少し余裕ができたのだろう、なにかというと宴会が開かれるようになった。宴会では日本料理にせよ中華料理にせよ、けっこうおいしい料理が出た。(むかしの料理人は現在より上だったと私は思う)。宴会料理の余りは折り詰めにして各自が持ち帰った。家族がそれを心待ちにしているからである。私も父の折り詰めが楽しみだった。

 貝類、豆腐、納豆のことを上に書いたけれども、むろん野菜も食べた。野菜は千葉から朝採れの野菜をかついでくるオバチャンたちから買った。(彼女らは京成電鉄の「行商列車」で東京に来た)。だから、野菜は今より新鮮だった。

 一方で、食事の西洋化が進んできた。豚、牛はまだまだ高くて日常的とは言えなかった。でもハムの薄切りは口に入るようになった。ハムは豆腐や納豆と違い、ちょっと西洋っぽかった。そこで、ハムの薄切りをフライにした「ハムカツ」を肉屋が売るようになった。一個5円のポテトコロッケも。

 ハムカツやポテトコロッケは現在でも安居酒屋にある。だが販売された当初は、とてもモダンな感じがしたものだ。だって、日本人のおかずは豆腐、納豆、漬け物、魚だけだったから。(なんと玉子は贅沢品の一種だった)。

 やがて各家庭は、ハムの上に玉子を落としてハムエッグを作るようになった。電気トースターが売り出され、週に一回くらいはパン食という風潮が広まった。牛乳配達はすでに日常だった。(バターは手に入りにくく、かつ高価だった。クジラのマーガリンというのがあって、それがけっこううまくてバターの代用品となった)。

 大人たちのこうした、西洋へのつたない憧れは、もしかすると現在でも続いているのかもしれない。

 ※私の俳句(夏)
    白玉や納豆売りの声聞きつ

中国に住んだことがある人の考え

2017-07-22 17:55:04 | 歴史
北京大学卒業式で教師が講演「自由を広め、自由を守れ」20170712


友人に中国(杭州)で会社を経営している者がいる。彼は中国の悪口を言わない。わざと言わないのではなく考えてもいないようだ。

中国での駐在歴が長い別の友人は、中国はおびただしい多民族国家で、ひとつの省内でさえ民族が分かれるという。しかしながら、現在の中国は中国共産党を「皇帝」とする「帝国主義国家」で、「皇帝」が機能しなくなればヨーロッパや中央アジアのように沢山の国に分かれるだろう、と予測している。(したがって、中国を一国とみなして論じるのは難しいらしい)。

中国4,000年の歴史と言うけれども、中国は他民族に支配されていた期間が長い。唐、元、清しかりだ。このかん、中国民衆はどのように暮らしていたのだろうか?高校で中国史を教わったが、その方向への言及はまったくなかった。


 ※私の俳句(秋)

    月出でて家々の灯の落とさるる    

学生運動はいつでも「お遊び」

2015-10-09 06:00:19 | 歴史

(60年安保反対のデモ隊。朝日新聞DIGITAL より引用。)

 このたびの安保法案反対の学生デモが、まるで縁日のようで、70年安保のときの学生運動と較べてあまりに平和だという論調がある。

 70年前後の学生運動を経験した私から見れば、どちらも平和だ。70年前後の学生運動も「遊び」と思って同年代の私は見ていた。当時の学生運動はエリート意識の発露だった。ために、東大京大などの有名校ほど学生運動が激しかった。

 当時、学生運動の「闘士」だった連中のその後を見れば分かる。99%の学生が思想問題とは縁を切り、そのまた一部は外車を乗り回すようになった。学生時代のお前たちの活動はいったいなんだったのか?目立ちたいだけだったんだろ?と私は未だに彼らに詰め寄って苦笑いをされる。

 さかのぼって、60年安保の反対運動も、激しさはさらに凄かったが、マスコミがデモを煽るのをいっせいに辞めたら、たちまちしぼんだ。所詮その程度のものだったのだ。(そのころ私は小5だった。今でも鮮明に覚えている。)

 デモは民主主義違反だという考え方に「なるほど」とも思う。かりにも民主的選挙で選ばれた国会をデモで否定するのは、明らかに民主主義違反だ。


※私の俳句

  毀(こぼ)たるる家の守宮(やもり)のいきどころ

戦争をもっとも中立的に(本質を突いて)語った本

2015-08-27 22:09:56 | 歴史
   (人文書院刊。)

 これまで先の戦争をここまで中立に、かつ観念的にならずに書かれた本を読んだことがない。

 近年、「軍備を持つと(基地を作ると)かえって攻撃される」という意見と「軍備を持つと抑止力になってかえって攻撃されない」という意見が拮抗している。
 
 この書では、両方の意見が止揚されている。どちらの意見も正解ではないということが分かる。


※今日、気にとまった短歌

  精神科デイルームにて40代4人が語る男のフーゾク 詠み人知らず

戦争体験を伝えようと躍起になっているけれど

2015-08-24 04:32:48 | 歴史

(織田信長像。ウィキペディア「織田信長」より引用。)

 戦争を後世に伝えないと経験者がいなくなってしまう(だから、急いで伝えなくてはならない!)という声が多くなった。だが、伝え続けるのは無理な話だ。

 すでに第一次世界大戦のことを伝える人がいない。戊申戦争もゼロ。日清日露は文明開化後、初めての戦争だから、ある程度伝わっている。しかし、それは文書のみであり、言い伝えではない。(私の祖父は日清日露を傍観者として経験しているが、祖父からなにも聴いた覚えがない。)

 いずれすべて歴史の闇に呑みこまれる。織田信長はいまだに語られるが、東郷平八郎や野木希典をもう語る人はいない。

 思うに、織田信長はものすごくイヤな奴だっただろう。比叡山を焼いたり僧侶1,000人以上を磔刑にしたりした。明智光秀にやられても当然だ。なのに現代では英傑の一人となっている。

 歴史とはそのようなものだ。語り継いでもそのうちにタワケが英雄になってしまう。あるいは消える。このたびの戦争を語り継ぐのに、そう躍起になる必要はないのではないか?


※今日、気にとまった短歌

  またあいつ俺の授業で寝やがってくらえ必殺チョークミサイル (都立鷺宮高校)市川勝栄