院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

歌手、女優・いしだあゆみさん

2011-11-30 00:03:22 | Weblog
 由紀さおりさんのアルバムが突然、世界中でヒットしているらしい。当時のバック演奏はいろいろなジャンルの音楽を取り込んだ大変凝った演奏で、そこに由紀さんの美声が乗っているのだから、世界的にヒットしてもなんの不思議もない。

 アルバムの中に「ブルーライト横浜」が入っているそうだ。知っている人には当たり前の知識だが、この曲はいしだあゆみさんの歌で大ヒットした。

 ここからは、みなさまがあまり知らない話である。いしださんは確か13歳でデビューした。極めてフツーの女の子という感じだった。その娘が、あるとき目を二重に整形した。それから、いしださんのスター街道が始まった。

 「ブルーライト横浜」は、いしださんが歌い方を変えて、あえてビブラートをつけないで歌った歌である。だからヒットした。最近、いしださんは女優業が忙しいらしく、歌を歌わないけれども、一度歌わせてごらん。ビブラートはつけないはずだから。

 いしださんは最近、お婆さんの役をするようになった。時の流れは恐ろしい。13歳だった娘が、お婆さんの役である。いしださんと歩調を合わせて、私もお爺さんになった。

 加齢は万人に平等に訪れる。

ビタミン剤には健康保険が効かない

2011-11-29 00:10:55 | Weblog
 20年ほど前、先輩医師たちが、しきりにアリナミンを処方していた。風邪薬にちょっとアリナミンを加えるという感じである。

 当時、風邪にはビタミン剤が効くと考えるような風潮があった。なんの証拠もないのに、ムードだけでアリナミンを追加処方していたのだろう。不思議に健康保険が有効だった。

 精神安定剤にもアリナミンを付け加えた。これは、さすがに意味が分からなかったので、私はマネしなかった。

 それから、しばらくして、ビタミン剤は健康保険が効かなくなった。根拠は「口から普通に食べ物を食べている人に、ビタミン剤は要らない」というものだった。健康保険組合の見解としては、珍しくまっとうだと私は思った。

 以来、今日までビタミン剤は、普通に食事をしている人には、健康保険が効かない。

 その代わりに、アリナミンのテレビ宣伝が今でも多い。ビタミン剤を飲めば元気が出たような気になるのだろう。厚労省もそれを規制しようとはしない。

 厚労省は科学的根拠よりも、国民が元気になったような錯覚に陥ることを重んじているのだろう。行政がしばしばこのようなスタンスをとることは、私が名古屋市の役人をしていた時代に、本物の役人から教わった。そのことは 2011-10-13 の放射能「除染」の記事にも書いた。

あきれた市長

2011-11-28 00:02:07 | Weblog
 市立病院と言えば市長が形式的にはオーナーである。ある時、A市立病院で市長が訓示にくるという。そのため各科の診療部長が集まった。私も他の部長もみんな忙しい中を時間をやりくりした。

 市長なら市立病院で診療部長を集めて訓辞をする権利はあるだろう。市長はなごやかに訓話を始めた。そこまでは、よかった。

 そのうちに市長はこう言ったのである。「みなさん、K療法をやりましょう。K療法はいいですよ」と。みな唖然とした。私はこの市長は莫迦かと思った。莫迦と言って悪ければ、とんでもない勘違い野郎だと思った。

 K療法が悪いというのではない。素人の市長が、錚々たる部長連を前にして、彼らの臨床行為に口を出したから莫迦かと思ったのだ。

 オーナーだからといって、何を言ってもかまわないということはない。この一言で、市長は医者たちの信頼を失った。私のA市立病院在任中に市長は何人か代わったが、訓示に来たのは、この市長だけだった。他の市長と較べても格落ちだったと、未だに思う。

民主主義の輸出

2011-11-27 00:00:35 | Weblog
 先進民主主義国家はなぜ民主主義を輸出しようとするのだろうか?まさか民主主義を最善の政治手段だと思っているわけではあるまい。

 民主主義は大衆の恨みを買うことは少ないけれども、もっとも非効率な政治形態である。普通の会社を考えてみて欲しい。社長を民主的に決めたり、人事を民主的に行ったりしたら、その会社はすぐに潰れるだろう。

 トップダウンのほうが本当は効率がよいのである。だから、民主主義でない他国が、あまりに効率がよいと困るのではないか?そのような民主主義でない国家を弱体化させるために、民主主義国家は非効率な民主主義を輸出しようとしているのではあるまいか?

 最近、学問の世界でも民主化が図られている。日本精神神経学会は、もう随分前から評議員は選挙で決める。そんな必要がなぜあるかというと、同学会は1970年代の学園紛争のころ、大もめにもめたからである。これでは民主化するのも仕方がない。

 だが、もめてもいない学会が次々と民主化されているのは、なぜだろうか?私は流行に過ぎないと思う。戦後の民主主義教育で育った世代が、世の「重鎮」になったからである。本人たちも深く考えもせずに、民主化はよいことだと刷り込まれている。

 思うに、あまりに極端に民主化をすると、今度は弊害のほうがたくさん出てくるだろう。私の地区の医師会は民主化なんて全然考えていない。人望がある人が会長や役員に(投票なしで)なればよいのだし、仕事で都合が悪い人は役職を辞退すればよいだけの話である。民主化する必要はまったくない。

玉木雄一郎議員の発想を批判

2011-11-26 04:15:05 | Weblog
 先日、国会内で「政策事業仕分け」というのが行われた。今回はこのこと自体を批判しようというのではない。そんなことは、すでにマスコミがやっている。そうではなくて本欄では、この会議で玉木雄一郎議員が「仕分け」の対象と位置づけた医師の収入について、若干の批判を加えたい。

 玉木議員は「勤務医は激務なのに、開業医より平均収入が少ない」という意味のことを言った。つまり、「勤務医」と「開業医」を一対の対立軸として立てたのだ。このような対立軸の立て方は、根本的なところを見ていない極めて皮相な立論である。要するに次の観点がまったく欠落している。

 「開業医はすべて、もとは勤務医だった」

 この観点を抜きにして、あたかも勤務医という階層と開業医という階層が独立かつ固定的に存在しているかのような立論で「仕分け」しようとするのは論理的でない。

 玉木議員は財務官僚出身と聞く。優秀といわれる元財務官僚がこのようなお粗末な論理しか展開できないのだろうか?極めて不思議である。

 開業医の呑み会に出ると、ゴルフや外車の話ばかりのときがあり、辟易することがあるのは事実だが、このことと「勤務医対開業医」という図式は何の関係もない。

昔の青年海外協力隊

2011-11-25 00:10:09 | Weblog
 昔、青年海外協力隊(以下、協力隊と略)を経験したことがある女性の話である。昔の話である上、私の伝聞なので、現在も通用するかどうかは疑問であることを、あらかじめお断りしておく。

(1)協力隊には天皇陛下の激励があった。間近で陛下を見て感動した。

(2)協力隊は志願なので、日本での職業生活を犠牲にして海外へ行く。日本へ帰ってからの再就職などの保証はない。

(3)上の理由で、そもそも日本で適応できなかった者が志願することも、ままある。

(4)特に男性であるが、現地で酒と女におぼれる者が散見された。

(5)協力隊は、思っていたほど清廉ではなかった。

 以上のようなことを彼女は四半世紀前に言っていた。

漢方にかんする誤解

2011-11-24 02:50:01 | Weblog
 漢方医学には西洋医学(蘭方)とはまったく別の体系がある。「証」という概念が特徴である。この「証」に虚と実があり、その区別を誤ると正反対の処方をしかねない。つまり、漢方を行うには一定の修練が必要である。

 漢方には中国四千年の歴史があり、漢方薬には副作用がないという思い込みが日本では見られるが、まったくの誤解である。

 漢方は確かに中国大陸から伝わった方法ではあるが、実は日本で独自の発展をとげたものであり、江戸時代に大成された。副作用がないというのも迷信であり、化学薬物と同様、'よく効く薬ほど副作用が強い。そして、現代の中国の漢方は、日本の漢方を中国が逆輸入したものであることを知る人は少ない。

 1976年、漢方薬が保険適用になった。以来、粉末状の漢方薬がよく売れている。しかし、後輩の精神科医で、漢方専門医の資格をもつ者によると、漢方薬は湯で溶かして飲むのが本道だという。粉末で飲むのは、抹茶を粉末のまま飲むのに等しく、従来の漢方医学とは著しくかけ離れた方法だと私は思う。

 その後輩によれば、体に合った漢方薬なら、飲むうちにおいしく感じるようになるという。粉末のまま飲んでは味わえないではないか?

 漢方の「証」を診るには脈診、舌診、腹診といった診察が不可欠であるが、そうした診察をしないで(できないから)漢方薬を処方する医者が多いのは怪訝である。患者が漢方薬をねだるからだろうか?

 最近、医学部で漢方を教える講座が増えてきた。漢方を学ぶのはよいことである。しかし、何のトレーニングも受けずに漢方薬を処方するのは医者の驕りだと思うが、どうか?

各国各地の騒乱(エジプトを中心に)

2011-11-23 05:22:12 | Weblog
 エジプトの騒乱が続いている。デモ隊はもとは味方だった軍と衝突している。理由は軍による憲法草案が軍に有利に作られたということだが、屁理屈である。どんな草案だってケチを付けられ暴動は起きたはずである。革命とはそういうものであり、民衆とはそういうもだ。

 公正な選挙をとエジプトでは叫ばれているけれども、この選挙結果も不正があったなぞとケチを付ける勢力が必ず出てきて、混乱は続くだろう。

 リビアが内戦になるとは、すでに予想した。現在、不思議に(報道からは)なりをひそめているチュニジアでも、いずれ騒乱が起きるだろうから、今から予言しておく。根拠は国民の怠惰である。それは2年前、私がこの目で見てきた。怠惰は貧困を招き、貧困が騒乱を呼ぶのは「定理」みたいなものである。

 ギリシャも騒乱になる。民主主義発祥の地でそのようになるのは皮肉だが、直接民主主義は衆愚政治の母親である。

 翻って、我が国でも名古屋市の減税党は衆愚によって作られた。河村市長は衆愚首長の典型である。減税なんてできっこない。河村市長がどうオトシマエを付けるか、もと名古屋市民として注目している。

 でも名古屋で騒乱が起こることは考えにくい。まず貧困でない。次にマナーがよい。でも、衆愚である点では中東と同じである。

初めて隣町に行ったとき

2011-11-22 03:27:03 | Weblog
 みなさまは、幼少時に初めて一人で隣町に行ったことを覚えておられるだろうか?私は覚えている。

 そりゃぁデパートなぞは、もっと離れた町にあった。でも必ず親が一緒だった。一人で行くという初めての体験をしたのは、私が小学校2年生のころだった。

 私は都会育ちだから、隣町も都会である。交通量の多い広い道を渡ればもう隣町だ。だが、隣町は自分の町とはぜんぜん違って見えた。

 まず町工場がある。自分の町にはなかった。働いている人は自分の町とまったく違う服装をしていた(作業服?)。話している言葉は日本語なのだが、外国語のように聞こえた。顔つきまで違って見えた。

 そこにいるのは知らない人たちばかりだった。当然のことながら、近所の魚屋のおじさんも時計屋のおばさんもいなかった。なんだか怖くなったて私は走って帰った。

 自宅に戻り、私は親に「今日、”先祖”の町に行ってきた」と興奮して伝えた。「先祖」というのは正確な意味を知らないから、そう言ったのであって、要するに私にとっては「異人」程度の意味だった。

 新しくも、不安を帯びた体験だった。一年後には隣町はもう「異世界」ではなくなっていた。今は外国が私にとっての「先祖の町」である。

エジプトで暴動起こる

2011-11-21 05:54:41 | Weblog
 エジプトで反政府デモが行われた。デモは暴徒化して軍と衝突し、死者まで出た。今日の報道で知った。死者が出た以上、恨みは長く続くだろう。エジプトの前途は険しい。

 不遜な言い方かもしれないが、こうなることは前から分かっていた。高校でフランス革命について習って、革命後の血みどろの混乱について知っていれば、エジプトもそうなると極東の一日本人でさえ分かる。

 デモ隊が叫ぶのは「ムバラクが倒れても何も変わらないじゃないか」、「この機に軍が政権を掌握しようとしている」といった陳腐な台詞ばかりである。エジプトがこのような事態になる可能性は、本欄ですでに「リビアにかんする偏向報道」(2011-08-27)の項目で予想しておいた。

 民衆とは自分も含めて、愚かで性急だと自覚しておいたほうがよい。

里山は人工産物

2011-11-20 00:46:09 | Weblog
 「ウサギ追いしかの山、小鮒釣りしかの川・・」という歌や「どじょっこだのふなっこだの・・」という唱歌がある。そのためか、里山とは自然の最たるものと思われがちだが、実は里山は人工産物である。

 人間が山に適度に手を入れて、田畑を営んだ結果、懐かしい里山の風景が生まれたのだ。起源は縄文時代まで遡れるらしい。以後、何度か山の木が伐採されすぎて、ハゲ山となったが、その都度、里山は復元されてきた。もっとも最近、復元されたのは1950年の国土緑化運動で、そう古いことではない。

 したがって、里山の生態系は人工的なものであり、けっして原始の姿ではない。だから。「どじょっこ」や「ふなっこ」も人工産物である。里山を中心とした生態系は、言ってみれば水族館のようなものである。

 ほんとうに原始の風景を取り戻したければ、田畑や山の手入れを怠ればよい。その代わり、田畑は荒れ、「どじょっこ」も「ふなっこ」も激減するだろう。結果として人間は食べていけなくなる。

 多くの自然環境重視主義者が、里山と原始の風景を混同しているようなので、一言言ってみた。

茶髪ピアスの子で親切なのは7%

2011-11-19 00:18:37 | Weblog
 よく新聞の投書で、「茶髪ピアスで怖いと思ったが、とても親切にしてくれて、人間は外見で判断しては駄目だと思った」という意見がある。

 これは何でも白か黒かと決めてしまう、あやまった判断だと思う。たぶん7%くらいの茶髪ピアスの青少年は意外に親切なんだろう。だが、残りの93%は、人の迷惑を考えなくて、コンビニでたむろしているような人種が多いと私は思っている。

 だから投書者は、たまたま親切な青少年にぶつかっただけで、茶髪ピアスの子がぜんぶ親切(白)だと思ってはならない。

 世の中には、白か黒か決められないことがほとんどである。それを私は自分で「7%の法則」と呼んだ。この法則は、いろんな分野で言えるので、ちょっと自信をもっている。

 バイリンガルになれる人も、ちゃんとした日本語が書ける若者も、小学校の英語必須化で伸びる子も、正しい敬語が使える人も、みな7%くらいで、あとの93%はいくら頑張ってもできるようにはならない。

タイプライターの速さ

2011-11-18 05:15:54 | Weblog
 先日、久々に患者として総合病院に行った。担当は30歳くらいの女医さんだった。

 大病院で、電子カルテを採用している。だから、画面や検査データがオンラインで送られてくる。レントゲン写真やカルテを「運ぶ」という動作が不要になった。

 ただし、入力はすべてキーボードである。タイプライターが打てないと、電子カルテシステムは使えない。その女医さんのタイプライターは極めて速かった。

 私は25歳からタイプライターを始めた。女医さんは、その私より2倍くらい速い。女医さんは生まれたときからパソコンや少なくともワープロ単能機はあったはずである。だから彼女は小さいときからキーボードを触っていたに違いない。

 私と女医さんのタイプ速度の違いは、たぶんそこから来ている。まえにも言ったが、体で覚える技能は若いうちから始めなくてはならない。

リンゴの変遷

2011-11-17 05:57:41 | Weblog
 私の少年から青年時代にかけて、リンゴと言えば「国光(こっこう)」か「紅玉(こうぎょく)」だった。

 「国光」は甘みが少なく、硬く、ときにゴミ臭いことがあって、私はあまり好まなかった。「紅玉」は好きだった。あの甘酸っぱさといったらリンゴの王道だろう。

 「紅玉」は酸っぱさゆえに、焼きリンゴやパイの中身によく合った。最近、酸っぱくないイチゴがあるけれども、これらがジャムに向かないのと同様に、酸っぱくないリンゴも調理に適さない。

 甘いリンゴの走りは「デリシャス」だったように思う。生で食べるのにおいしいリンゴだったが、最近見かけない。リンゴと言えば「ふじ」の系統ばかりになった。だから、「紅玉」が食べたくなっても、どこにも売っていない。そもそも生産しているのだろうか?

 「ふじ」は確かにおいしい。しかし、生食以外の食べ方を想定していないのではないか?ああ、「紅玉」が食べたい。「紅玉」を丸ごと一個食べると通じもよくなる。

 ネットで調べれば、どこかで売っているのかもしれないが、それほどまでにして取り寄せるほど「紅玉」は高級品ではない。

 街の八百屋で一山いくらで買ってきて、毎日一個くらいずつ食べるのが、「紅玉」の正しい味わい方だと私は思う。

ドラマ「南極大陸」視聴率低下

2011-11-16 00:44:54 | Weblog
 ドラマ「南極大陸」の視聴率が急降下しているそうだ。2回目から私も面白くないと思って、先日ここに書いた。

 5回目を少し見たが、やはり詰まらなかった。詰まらない原因は、キムタクを撮って、キムタク演じる「一隊員」を撮っていないからだとか、30年前の高倉健主演の劇場映画「南極物語」と較べられてしまうとか言う人があるけれども、私は違うと思う。

 やはり、基本的な脚本と構成と演出が悪いのだ。物語に引き込んでいくだけのリアリティーがこの作品にはないのである。

 私は劇場映画「南極物語」は、名前は知っているが見ていない。だから、較べようがない。キムタクにリアリティーがないと言うが、ドラマ全体にリアリティーがないのである。キムタク一人のせいではない。

 わざわざ「フィクションです」と断っているのもリアリティーのなさを弁解しているように見えてしまう。第一次越冬隊では遭難者は出ていないように記憶するが、ドラマでは遭難者が出る。南極観測隊の遭難者と言えば、翌年氷の中から発見された福島隊員だけのように記憶しているけれども、私の記憶違いだろうか?私の記憶が正しければ、フィクション化のしすぎである。

 10年ほど前、私の同僚医師(救急科)が医師隊員として越冬隊に加わった。星の美術的な写真撮影が好きな人である。身近に観測隊経験者がいる人は他にも多いだろう。つまり、南極観測はまだリアルなのである。それをフィクションにしてしまうには、まだ早すぎると言わざるを得ない。

 繰り返すが、ドラマ「南極大陸」が詰まらないのは、キムタクのせいでもなければ、劇場映画「南極物語」のせいでもない。ただひたすら、作り手の未熟さによるものである。