院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

慈恵医大の臨床試験疑惑の不可解さ

2013-07-31 08:12:36 | 医療
 このほど慈恵医大の調査委が、同大学の降圧剤ディオパンの臨床データに不正があると発表した。

 報道によれば「血圧データにカルテ記載と違うものがある」とのことだが、それがなぜ分かったのか、京都府医大のケースと同じように疑問が生じる。

 試験方法が二重盲検法だったとしたら(そうでなければ、一流雑誌には掲載されないが)、どのカルテの患者に本物の薬が投与されたのか、またはプラセボー(偽薬)が投与されたのかは、カルテ上からは絶対に分からない。というのは、そのカルテを記載した医者にさえ分からないのだから。

 ディオパンのメーカー、ノバルティスファーマ社の元社員が、試験の「元締め」をやっていたのなら、彼だけには実薬投与群とプラセボー投与群の区別がつく。だが、元社員は不正を否定している。

 彼が白状しない以上、調査委がいくらカルテを調べても、不正が分かるはずがない。それなのに、調査委はなぜ不正があったと自信をもって発表できるのだろうか?元社員と同じく、調査委も何かを隠しているように感じられる。

スポンジ女

2013-07-31 04:28:18 | 学術
 今はほとんどいないが、私が医者になりたてのころには、いろんな大学の医学部に「大物教授」といわれる人がいた。学識、人格、統率力に優れた人だった。

 「大物教授」の周りには大勢の「とりまき」がいた。「とりまき」の中に、いつも教授のそばになにかとくっついていて、勉強をしているのかそうでないのか、わけが分からない女性が何人かいた。

 彼女らは医師免許を持っている場合もあったし、ない人もいた。なにをテーマに研究しているのかさっぱり分からない女性たちで、大学病院内でうろうろしているのだ。彼女らは教授の謦咳に身近に接しているから、教授の学説を丸ごと飲み込んでいるかというと、そうでもない。

 だが、一見、教授の教えを学びつくしているように見える。そのわりに後輩にその知識を伝授することがない。つまり、自分だけ吸収して、吸収したものを出さないから、私は彼女たちを幾分軽蔑して密かに「スポンジ女」と呼んでいた。でも、今にして思えば、彼女たちはなにも吸収していなかったのだ。

 彼女たちは、大学病院から禄を食むことはなかった。どうやって生活しているのだろうかと不思議だった。学会発表や論文発表に共同研究者として名を連ねることはあったが、決して自分が筆頭者になることはなかった。名前が連なるだけで満足してしまうのである。

 今考えると彼女たちは、ジャニーズ事務所のイケメンタレントを追いかける「追っかけ女」と同質の存在だったのだ。あれから40年近く、彼女たちは、ちゃんとしたお婆さんになっているだろうか?

失業の種類

2013-07-30 04:25:21 | 経済
 失業者が多い。完全失業率は4%台だが、非正規雇用は38%を超える。非正規雇用には健康保険が付いていないものもある。退職金もない。だったら、昔の学生アルバイトと同じではないか。

 識者によれば失業には3様態があるという。まず、不景気による失業。次がミスマッチによる失業。ここまでは分かる。

 最近顕著になった第三の失業形態として、テクノロジー失業というのがあるそうだ。つまり、テクノロジーの進歩によって、その人の仕事をコンピュータがやってしまうようになったための失業だという。

 本の電子書籍化によって本屋がなくなるといったことである。大手書店はすでに次への策を考えている。図書館が電子化されて、蔵書の管理はすべてコンピュータがやることになるだろう。そこで司書が失業する。

 寿司を一人前に握れるようになるには10年かかる。ところが現在では、10年間修行した職人と同じくらいにシャリを握れる寿司ロボットがある。回転寿司では重宝しているそうだ。確実に寿司職人のニーズは減っている。

 心電図はすでに医者より間違いなく内蔵コンピュータが読むとは、昨日掲載した文章に書いた。コンピュータは数値を扱うのが得意だから、数値にたよる部分が多い科は、まっさきにコンピュータ化されるだろうともいつぞや書いた。

 コンピュータ化がもっとも遅れると思われるのは、精神科だと思うのだが、これは手前味噌だろうか?でも、それさえも時間の問題だと予想して、ため息をついている私である。

治療効果の95%はプラセボー効果である

2013-07-29 05:22:32 | 医療
 20年近く続いた精神科治療の良心的な雑誌がこのほど休刊となる。役目を終えたからではなく、売れないからだ。最終号に一文を寄せる。その原案を以下に示す。我ながら、このブログと同じ論調だなぁと思う。専門家向けなので、一般的でない用語が出てくるが、大意は掴んでいただけるだろう。

 題名案:終刊にあたって思う

(1)この13年間に進歩はあったか?

 前回、私が本誌に寄稿したのは西暦2000年8月のことだった。あれから13年、このたび本誌が休刊されることになり、寂しい思いがする。
 私が当時勤務していた総合病院では1999年の大晦日、すべての役職者が集められ、病院に待機した。これから起こるかもしれない事態に備えてのことだった。午前0時を過ぎて新年を迎えてからもしばらく待ったが、何事も起こらなかった。もっとも心配されたのは電気、水道などのインフラの異常だったが、どうということはなかった。これが、いわゆるコンピュータの2000年問題だった。
 2000年に寄稿した文章に書いたことだが、その当時、将来「デジタルデバイド」(コンピュータを使用できる者とできない者との格差)が生じると言われていた。だが、コンピュータの使い勝手の進歩が速く、現在、デジタルデバイドは生じていない。この13年間に生じたもっとも著しい変化は、コンピュータの進歩と普及だろう。2007年にはスマートホンが普及し始めた。スマートホンだけではなく、そもそも携帯電話がコンピュータそのものと言えるから、一人が一台のコンピュータをもつに至った。
 医療もコンピュータの発達に伴って、さまざま恩恵を受けた。心電図の読解はもはや内蔵のコンピュータのほうが人間より正確だし、臨床検査の結果が2時間足らずで出るのも、コンピュータが検査機操作の多くの部分を代行するようになったからである。CT検査や超音波検査による画像の3D化は、コンピュータの処理速度とメモリの飛躍的な増大によって可能になった。
 インターネットの普及も急速だった。索引誌で文献を調べるのはとっくに時代遅れで、今では文献検索はすべてインターネットである。
 ところが、精神医療はコンピュータの発達やネットワークの拡大からどれほどの恩恵を受けているだろうか?実は診断においても治療においても、あまり受けていない。

(2)精神科治療はどれほど進歩したか?

 まず薬物療法だが、非定形抗精神病薬もSSRIも、2000年にはすでに出回っていた。2000年以降、それ以上に革新的な薬剤は出ていない。ただ、薬剤の研究方法には変化があった。それは、神経伝達物質の受容体と薬剤の作用機序を対比して研究できるようになったことである。
 受容体の分類は年を追うごとに細分化されていった。薬剤の効能も、どの受容体に影響を与えるから、このような効果があるという説明の仕方が、医師向けの宣伝に使用されるようになった。
 だが、受容体の種類と精神現象を一対一の関係で結び付けるには無理がある。精神現象はきわめて複雑な過程であることが推測され、ある薬剤の受容体への影響だけで説明できるはずがない。
 受容体の研究は現在ただ今の流行に過ぎないだろう。研究者は論文が雑誌に掲載されることを欲する。研究者は掲載されてナンボの世界にいるから、トピックを追わざるをえない立場にある。だが、受容体の研究は必ずすたれる。いずれ受容体で説明できるのはここまでという限界が明らかになって、それ以上研究するのが無意味になるはずだ。
 SSRIなぞは、その効果さえ疑われ始めている。SSRIの効果とされてきたものは、すべてプラセボー効果ではなかったか、という指摘がそれである。
 次に心理的身体的アプローチ、すなわち精神療法、SST,作業療法、認知行動療法などであるが、それらが有効だったという客観的な報告はないと言ってよい。あると報告している文献はいくらでも存在するが、評価尺度に難がある。もしくは、対照群がない。
 これらの心理的身体的アプローチは、いわば「愛情」と似たもので、「愛情」の「効果」が測定に馴染まないのと同じで、これらのアプローチを薬剤のようには測ることはできないという主張がある。そのような主張はうなずける面もある。だが、「愛情」に似たものなら、○○療法と名乗るべきではないし、まして対価を求めることに問題はないだろうか?

(3)現在盛んな「治療」は昔から盛んだった

 私はプラセボー効果を、思い込みだと切り捨てるつもりはない。むしろ逆に、プラセボー効果によって改善や治癒をする患者がいる以上、プラセボー効果は大いに利用すべきだと考えている。
 患者がいかに「良くなった」と実感できるかが最重要事項である。誤解を恐れずに言えば、「良くなった」と感じてくれさえすれば、寿命が短くなってもよいのである。(ここには、医療がいかに発達しても無限の寿命は得られないという諦念がある。ならば、とりあえずの苦痛を取り去ることが医療の最大目標ではあるまいか?)
 世間の「健康事情」を見ると、サプリメントが栄華をきわめている。私が生まれてから、これほどのサプリメントブームはなかった。クロレラなどが喧伝された時期もあったが、市場規模は今よりもずっと小さかった。サプリメントメーカーは名もない会社が多い中、有名な酒造会社、写真会社さらに本物の薬を売っている製薬会社までがサプリメントに進出してきた。
 むろんサプリメントにはなんの薬理作用もない。西洋の中世から盛んに行われた「瀉血」もなんの効果もない。現在では効果どころか「瀉血」は有害であることが分かっている。これらに共通するのはプラセボー効果である。
 思えばプラセボー効果は有史以来、重用されてきた。神社のお札やお祓いが好例である。つい最近、私の祖母の時代まで、これらは霊験あらたかなものとして信じられてきた。伝統的な祭りも同じだ。祭りは五穀豊穣を願って行われることが多いが、無病息災を願うこともあった。
 うなぎと梅干のような食べ合わせは「迷信」として排除されてきたけれども、お祓いや祭りを「迷信」とは呼ばない。それらには人心を安らがせる一定の効果があるからだろう。
 現在のサプリメントにも同じことが言える。サプリメントには人心を安定化させる効果がある。値段が高いほど「有効」であるところも面白い。もっと実質的な効能としては、サプリメントによって大衆が無用に医療機関を受診することがなくなることが考えられる。サプリメントは自腹だから、国民医療費の削減に役立つかもしれない。
 実は医療機関が行っている行為のかなりの部分がプラセボー作業だと私は考えている。精神医療も例外ではない。してみると医療とは古来、プラセボーだったことに思い至る。わずかこの13年間に何が進歩したかと問われても、千年単位で行われてきた医療の歴史を思えば、この13年間は千分の13でしかないと答えざるをえないのである。

深夜放送のテーマ曲

2013-07-28 04:06:53 | 音楽
 中学生の時からラジオの深夜放送を聴くようになった。勉強をする気にもならず、かと言って寝る気にもならず、家族が寝静まったあと深夜放送だけが世の中との接点だった。

 聴く人が少ないから、番組は詰まらなかった。広告費も安かったのだろう、渋谷や新宿のレストランの宣伝をやっていた。人気深夜番組「オールナイトニッポン」が開始される数年前のことだった。

 夜中の1時半ころの番組で、オープニングにかかる耳慣れない音楽があった。私は、すばらしいと思った。だが、番組ではその曲の題名を言わない。

 そのオープニングの音楽が聴きたいばかりに、深夜1時半まで起きていることがあった。その音楽は、中学生の私には、ものすごいインパクトだった。世の中にはこんなにすカッコいい音楽があるのだ、と大げさではなく思った。

 あとになって知ったが、この音楽はデイブブルーベックの「テイクファイヴ」というジャズだった。後にも先にも、こんなに音楽に惹かれたことはない。なんと言っても、人を夜中1時半まで起こしておく力があるのだから。

 以来、私はモダンジャズにはまっていくことになった。

「スギちゃん」は儲け過ぎか?

2013-07-27 04:34:56 | 芸能
 昨年、「スギちゃん」という芸人の「ワイルドだぜぇ」というセリフが大ヒットして、昨年の流行語大賞に輝いた。

 「スギちゃん」は一発芸人として、昨年だけで消えてしまうかと思われたが、今年もテレビに出ている。稼ぎは年間、億単位だそうだ。

 あれしきのことで億単位とは、儲け過ぎだと思われるだろうか?私は思わない。

 宝くじのBIGという商品は、6億円当たった人が200人を超えたとテレビで宣伝している。宝くじに当たった人は何の才能があるわけでもないし、努力をしたわけでもない。そのような人でも、運さえよければ6億円を手にできるのだ。

 「スギちゃん」は宝くじで6億円を当てた人よりは苦労している。テレビ局を飛び回るなど、時間も使っている。

 宝くじにせよ「スギちゃん」にせよ、ときどきものすごく運の良い人がいるから、世の中は丸く収まっているのだと私は考えている。つまり、完全な実力主義ではないから救いがあるのだ。

人間は周囲の望みに無意識に応える

2013-07-26 04:15:39 | 心理
 昔、モータリゼーションが始まったころ、「1ヒメ、2トラ、3ダンプ」と言われた。「ヒメ」とは女性のことで、一番怖いのは女性の運転、次が酔っ払い(トラ)運転、3番目に怖いのはダンプカーだという意味だ。

 事実、女性の運転は信じられないほど下手だった。でも、いまではタクシーやバスなど、女性の職業ドライバーは普通にいる。だから、女性が先天的に運転音痴だったわけではない。

 なぜ昔の女性は運転が下手だったかというと、下手であることを男性から求められていたからだ。別の言いかたをすると、運転が上手い女性は、男性から疎まれたからである。

 しかしながら、女性は男性に疎まれるから「わざと」下手に運転していたわけではない。「わざと」ではなくても、「自然に」下手になってしまったのだ。「無意識的に」と言ってもよい。

 人間は周囲から求められるように行動する。繰り返すが、「わざと」そうするのではなく、勝手に体がそのように動いてしまうのだ。

 女性が女性らしい所作をするのも同じである。ふだん女性がいかに女性らしい所作をしているかは、性同一性障害の男性の所作を見れば一発で分かるはずである。

角化層対策いまむかし

2013-07-25 04:18:08 | 医療
  幼少時に「イボコロリ」という張り薬を使用したことがある。その名のように、イボに付けておくと数日でイボがとれた。

 皮膚の一番外側を表皮の角質層といい、イボやウオノメは角質層が厚く角化したものである。(角化層は風呂でこするとアカになる。)角質層を軟化させる薬が、イボコロリである。

 現在では大きな病院では、イボは液体窒素で焼やくする。この方法は昔からあったのだが、液体窒素を保存するのが大変で普及しなかった。

 現在、大病院にはMRI装置があって、それを稼働させるのに液体窒素が必要なので、液体窒素はいつでも取り寄せることができる。

 「蛸の吸い出し」という昔からの薬がある。これも角化層を軟化させる薬で、おできに塗るとその部分が軟化して破れ、中の膿を出すことができる。(排膿しないかぎり、おできは治らない。)

 最近、足の角化層をとる薬?が女性に人気である。角化層は昔は軽石で削った。ところが、この薬は軽石のように肌を傷めずに、きれいに足の角化層を剥がすことができる。

 中味は酢酸なのだが、酢酸は匂いがきついので木酢液を使用するらしい。この製品は大ヒットした。作った会社は大儲けして、規模が10倍以上になった。

 角化層を軟化させるという、ただそれだけのことで、昔から大勢の人が衣食してきたのである。

生物の分類

2013-07-24 03:45:48 | 学術
 息子が中学生の時、息子の生物の教科書を見て驚いた。分類学が全然載っていないのである。代わりに人体の解剖学や生理学が載っている。確かにそのほうが実用的かもしれないと思った。

 私が中学生時代の生物の授業は大部分が分類学だった。細かい分類をこれでもかと覚えた。回虫が卵から成虫になるまでに5回変態する。その幼生の各々の名称を暗記した。ミラシジウム、スポロシスト、レジア・・・と今でも覚えている。

 丸暗記は不思議にイヤではなかった。こんなものにさえ名称が付けられているという感動のほうが大きかった。

 高校生になってから、新発見の生物をどのように登録するかを教わった。これまで誰も見つけたことがない生物に命名するなんて、ロマンがあるではないか。

 新発見の生物はラテン語で記載し、外国にある「本部」に届けなければならなかった。(現在では他の言語も許されているらしい。)ラテン語というと権威主義のかたまりのように思えた。だが、宮川さんが発見した生物には「ナントカカントカ・ミヤガワイ」と命名されるので、権威主義的な割にダジャレが使用されているようで可笑しかった。

 学名に姓と名がある形式はリンネの考案に寄るらしく、この方法によって系統的な分類が楽になった。そのとき、リンネが世界中の生物をくまなく拾い上げ、名前を付けようとした根性に感銘を受けた。

 分類の初めは「門」で、次が「綱」だったかな?最後は「種」「品種」で終わる。ペットショップや苗屋で売っているのは「品種」なのだと分かった。

 動物を分けるのに、一番最初は「脊椎動物門」と「無脊椎動物門」に分類する。このような分け方は、実は大いに恣意的なのであって、一番最初の分類を例えば「目がある動物」と「目がない動物」としても、なんら問題なく別の分類が可能であると気付いたのは、私が社会人になってからであった。

「イクメン」を考える

2013-07-23 04:26:17 | 生活
 オリンピック代表を選ぶとき、各国がその国でもっとも優れた選手を選ぶ。これは当然すぎるほど当然のことであって、不公平だから民主的にクジで選ぼうなぞと主張する者はいない。そんなことをしていては、オリンピックに勝てない。

 各家庭にも同じことが言える。もっとも稼ぎが多い者を外に出すのが合理的である。あとの家族は稼ぎ頭が外で活躍しやすいように、銃後を固めればよい。

 少なくとも昔は、稼ぎ頭は「お父さん」であって、「お父さん」が外で働きやすいように家族(主に妻)は気を配った。

 ところが最近、夫も育児や家事を分担すべきだという声が高まってきて、「イクメン」なぞという言葉ができた。「イクメン」は外で効率的に稼げるのだろうか?私だったら「イクメン」をやりながら、競争相手と対等に渡り合える自信はない。

 もっとも、これまで能力ある女性が不当に差別されてきたことは事実である。

 このブログによく登場する(私が最初に勤めた病院の)院長(故人)は大変できる人で、私は彼から多くを学んだ。彼はいち早く病院にコンピュータを導入し、給与計算やレセプト発行をコンピュータ化した。こういうところが、彼ができると言われたゆえんだ。

 そのできる院長が、コンピュータ会社から女性のSEが派遣されてきたとき、コンピュータ会社に文句を言って女性を男性に換えさせた。女を派遣してくるなんて馬鹿にしている・・と院長は思ったのだ。これは明らかに差別であるが、私は院長の気持ちが分からぬではなかった。

 さすがに現在、こうした差別は少なくなったけれども、振り子が逆に振れて、夫の方が稼ぎが多いのに「イクメン」をやらせる家庭がある。それが民主的で平等だという。しかしながらこれは悪平等で、夫という資源を浪費することに他ならない。

 もっとも、妻が外に出たほうが稼ぎが多い家庭は、言うまでもなく夫が「イクメン」をやるべきであるが。

「創作料理」という難問

2013-07-22 05:14:38 | 食べ物
 創作料理を謳うレストランがあるが、例外なくおいしくない。料理は歴史の風雪に耐えたレシピが生き残ってきたのであり、昨日今日、思いつかれたものではない。

 たとえばスパゲッティなら、それこそ何百通りも作ることが可能である。ところが、定番となっているのは、ミートソース、ナポリタン、ボンゴレ、カルボナーラ、ペペロンチーノなど10種類くらいしかない。

 それは、これらのレシピが群を抜いてよくできているからである。だから、歴史の風雪に耐えてきたのだ。

 創作料理なぞと銘打って気取るではない。本当においしいレシピを考えるのは、宝くじを当てるくらい難しいのだ。

映画と漫画の進化

2013-07-21 00:43:45 | 芸能
 いま観衆は映画に対してほとんど拍手をしない。

 昔の東映映画では、片岡知恵蔵扮する私立探偵がガス室に閉じ込められ絶体絶命の場面で、機動隊のトラックがサイレンを鳴らして救助に向かうと、客席から拍手が巻き起こったのだ。

 観衆はそれほどに無邪気だった。今から思えば、クサくてとても拍手できるようなシーンではなかった。

 それでも当時の観衆は興奮し物語に吸い込まれていた。映画館はどこでも満員で、立ち見の群れができるのが常だった。

 観衆はみな素直だった。浪曲が流行っていて、仕組まれたとおりに泣き笑った。そういった傾向は1970年台まで続いた。いい大人が漫画のような映画を見ていたのだ。(当時、漫画はお子様専用だった。)

 現在、映画も漫画ももう子供向けとは限らない。今の子供向けは「嵐」や「AKB48」のライブステージだろう。昔、小説や評論を読むのが好きだった人は映画や漫画を見なかったように、今、映画や漫画を本気で好きな人は「嵐」や「AKB48」を見に行かない。

世論調査での支持率の比は、個人の内心の支持率の比を反映するか?

2013-07-20 04:31:13 | マスコミ
 世論調査で、何々党の支持率が何%と出る。

 各個人の内心にも、100%何々党支持という人は少なく、80%は何々党を支持するが、一方20%くらいは別の何々党を支持すると考える人が多いのではあるまいか。

 そのとき、世論調査での支持率の比というのは、個人の内心の支持率の比をどれだけ反映するものだろうか?世論調査での支持率の比と、個人の内心の比率とはまったく関係がないのだろうか?

名板前の廃業

2013-07-19 05:05:53 | 食べ物
 戦前から腕利きの板前として有名だった職人が、戦後のある時期(1958年)に一斉に辞めてしまったという。

 この年は調理師法が施行された年で、板前にも調理師免許が推奨された。名人とよばれた板前の多くが、調理師免許を取得できなかった。

 なぜかというと、板前たちはペーパー試験に歯が立たなかったからだ。彼らは修行と経験で生きてきたから、机上の知識はなかった。ペーパー試験の科目は、文化概論、衛生法規、栄養学、食品学、公衆衛生学、食品衛生学、調理理論の7科目である。

 料理店主には調理師を置くことが「推奨」されたけれども、義務ではなかった。また、調理師の免許がなくても客に有料で料理を供することはできた。

 それなのに、なぜ名だたる板前たちが包丁を置いてしまったのか、そこまでは私も知らない。

天然と人為の区別がないPTSD概念

2013-07-18 05:26:38 | 心理
 結果が同じでも、それが天然のなせるわざであるか人為的なものかで、人間に及ぼす影響は決定的に違う。

 がけ崩れで道が塞がれていても人はさほど怒らないが、誰かがわざとそこに土を盛ったのなら、人は猛烈に怒る。

 そのような違いは昔から刑法や民法にも盛り込まれている。わざとではなく過失で損害を与えたのなら刑罰は軽いが、故意に他人の利益を侵害すると刑罰が重い。被害者にとって、損失の程度はまったく同じであるにもかかわらず。

 人間が天然と人為を区別するのは、ほとんど本能的でさえある。

 PTSD(心的外傷後ストレス障害)は最初、ベトナム帰還兵の精神変調に対して付けられた名称である。PTSDがベトナム側の激しい抵抗によって生じたにせよ、帰還後のアメリカ大衆が帰還兵を犯罪者呼ばわりしたことによって生じたにせよ、いずれも人為的な被害である。

 PTSDはレイプでも起こるとされるようになった。レイプはまだ人為である。ところがやがて、PTSDは自然災害という天然の出来事によっても起るとされるようになった。人為と天然との間には越えられない深い河がある。なのにPTSD概念は、何の思慮も疑問もなくその川を越えてしまった。あまりに安易で杜撰である。だから私は、PTSD概念をどうも信用できないと言ってきたのだ。

(実はPTSD概念は、精神変調をきたしたベトナム帰還兵を経済的に補償するために、政治的に作られてDSM-Ⅲに潜り込まされたという経緯がある。DSM-Ⅲは状態像だけに着目し、原因を問わない診断基準だった。それがPTSDに対してだけは原因を問うているのである。そこにも大いなる矛盾がある。)