院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

海面上昇

2008-01-31 08:43:48 | Weblog
 ツバルという国は海抜が2メートルくらいしかないらしい。そのため、海面上昇によって次第に国土がなくなっていくといって悲鳴をあげている。

 海面上昇は自然現象である。どういうわけか海面が上昇しているらしいのである。

 地球温暖化によって、海面が上昇するのだろうか?答えは否である。

 地球温暖化がおこると、海面はむしろ下降する。それは、水蒸気が多量になって、それらが極点で雪や氷になるからである。

 これは意外に知られていない事実である。

 もし、雪や氷にならないとすると、地球温暖化によって海面は少し上昇する。それは、陸地の熱膨張より、海水の熱膨張のほうが大きいからであり、決して極点の氷が溶けるからではない。マイナス50度がマイナス48度に上昇しても氷は溶けない。

 特に北極の氷は溶けると体積が縮小するので、海面には何の影響も及ぼさない。

 ツバルは海面上昇を、先進国のCO2 排出による地球温暖化のせいだと因縁をつけてくる。まさに根拠のない因縁としか言えない論法である。

 根拠のない地球温暖化に、ぼつぼつ科学的にモノを言う人々が出てきてもよいと思うが、出てこない。あるいはマスコミに取り上げられない。

 衆寡敵せずということか?

ロンドン市の温暖化対策

2008-01-30 08:33:59 | Weblog
 ロンドン市長は温暖化対策に積極的である。

 まず、ロンドン市街地に車で入るときに、1800円の「渋滞税」をかけた。これにより、ロンドン市のCO2 の60%を削減したという。

 イギリス全体では2050年までに、一定のCO2 削減を目指しているけれども、ロンドン市はそれを2025年までに達成すると豪語している。そうでなければ遅いのだとも言っている。

 この取り組みはCO2 削減よりもSOx 削減に意味があるだろう。SOx は有毒である。

 ただ、問題なのは、ロンドン市長が温暖化の原因がCO2 であると思い込んでいる点にある。そんな証拠は何もないことは昨日述べた。

 為政者がここまで思い込んでしまうことは恐ろしい。「環境税」を反論もせずに支払っている市民も信じ込んでいるのだろう。

 あと10年くらいすれば、この思い込みも訂正されると思うから、今のうちに指摘しておく。

地球温暖化という幻想

2008-01-29 13:25:54 | Weblog
 ダボス会議で福田首相は、環境問題に重点を置いて演説した。来る洞爺湖サミットでも環境問題が大きなテーマになるという。

 環境問題を扱うのはよしとしよう。しかし、地球温暖化問題はもういい加減にしてほしい。

 地球温暖化が本当に起こっているのかどうか、専門家の間では懐疑的な声が強い。しかし、マスコミで地球温暖化という言葉を見ない日はない。世界中の人々が地球温暖化は実際に起こっていると思い込まされている。

 その犯人として槍玉に上げられているのがCO2 である。それならCO2 の温室効果への寄与度を示してほしい。同じく温室効果ガスである水蒸気に比べて、どれだけ寄与しているのかというデータがほしい。

 また、人間が排出するCO2 が自然界が火山活動などで出すCO2 よりどれだけ多いのか?これもデータを提出してほしい。

 何のデータも示されずに温暖化、温暖化というのは、もう幻想でしかない。しかも、それが世界レベルでの幻想なのだ。これはかなり危険なことではあるまいか?

夫婦茶碗、夫婦箸

2008-01-28 13:01:37 | Weblog
 夫婦(めおと)茶碗とか夫婦箸というのがある。

 これが例外なく大きいのと小さいのと組み合わせで売られている。たぶん大きい方が夫用で、小さいほうが妻用のつもりなのだろう。

 でも妻の方が小さいとは限らない。皇太子夫妻は雅子さんのほうが大きい。

 茶碗なら大小があっても良いのだが、箸は困る。箸は何膳かひとまとめにして置いてある家庭が多いだろう。その中からデザインを見て自分の箸を選り出すのだが、夫婦箸はデザインが同じで長さだけが違う。

 気が付いたら長いのと短いのを一本ずつ使って食事をしていることが往々にしてある。

 デザインを同じにするなら長さも同じにしてほしい。

ランドセル

2008-01-27 18:00:30 | Weblog
 新1年生はみんなランドセルを背負う。これはわが国独特の風習である。

 この風習がいつから始まったのか?少なくとも私が1年生のときには、すでに定着していた。

 ランドセルは空でも重い。小学1年生の私には、きつくて重くて心地よいものではなかった。

 そんな荷物でも、文化的に定着してしまい、1年生の象徴のようになってしまった。私はこの文化を憂うる者である。

 入れ物なぞ、どうでもいいではないか。もっと軽いズックのかばんでもよいではないか。

 事実、私のランドセル生活は小学年2年生までで、3年生からズックのかばんにした。(親がそうさせたのである)。これでかなり通学が快適になった。

 きつくて重いランドセルをいつまで1年生に背負わせるつもりなのだろうか?

 ランドセルは悪しき風習だと私は思う。

指揮者コンクールの不思議

2008-01-26 15:01:09 | Weblog
 私には指揮者によってオーケストラの演奏が違うというのが分からない。

 オーケストラは新しい指揮者が来ると、そのもとで繰り返し練習をする。だから、指揮者によって演奏が違ってくるのだろうが、私にはそれを聴き分ける耳がない。

 もっと解せないのが、指揮者コンクールである。

 若手の指揮者が同じオーケストラを指揮して、その技量を競うのであるが、あらかじめ指揮者とオーケストラがコミュニケーションしているとは聞かない。

 ということは、指揮者コンクールはジェスチャーだけでオーケストラの演奏が変わるということを前提としているのだろうか?

 コミュニケーションなくして、良い指揮、そうでない指揮というのが分かるのだろうか?

 ジェスチャーで伝えられるのはテンポくらいのものだと思う。だから、指揮者コンクールが可能だというのは、私の七不思議のひとつである。

後進国の飢餓

2008-01-25 08:28:39 | Weblog
 私は戦後生まれである。いわゆる団塊の世代の最後であって、この世代は食糧難を経験していない。

 明日の食べ物に困ったという話は、物語の中でしか知らない。一方で、これも報道で知ったことであるが、後進国には飢餓があるという。

 私たちが日々、食べ物を捨てたり腐らせたりしているのに、別に地域に飢餓がある。青臭い正義をふりかざす歳ではないが、これはやっぱりおかしい。何とかしたい。

 手っ取り早いのは食糧支援である。だが、この方法は現地人の労働意欲を削いでしまい、現地人はいつまでも食糧支援から抜け出せなくなるという。

 だから、食料の生産の支援、つまり井戸掘り、灌漑、農耕方法などを教えるのが先決だと主張して、実践している人々がいる。これは立派なことだと思う。

 ただ、それをもっとも邪魔するのは民族紛争だそうだ。こればかりはどんなNPOでも介入できない。

 紛争は収まるのを待つよりない。わが国だって400年前には内乱(戦国時代)をやっていたのだ。戊辰戦争も100前にあった内乱である。

 民族紛争が収まるには、あと100年が必要だと考えたほうがよさそうだ。

生身による教育効果

2008-01-24 08:23:36 | Weblog
 NHK教育テレビの番組で、子供の語学教育に関するアメリカでの実験を放送していた。

 実験の内容は・・・
(1)子供に一定期間、中国語のビデオを見せる。
(2)ビデオと同じ内容を、生身の人間が子供に見せる。
(3)何もしない。

 その結果、ビデオによる教育は何もしないのと同じだった。ただ、生身の人間が教えると(1)、(3)と比べて格段に効果があった。

 語学はなぜか、生身の人間が相手でないと上達しないようだ。

 ということはテレビの英会話講座はみんな無意味ということになる。それに対して英会話学校がはやっているのには意味があるようだ。

 留学したした人が語学が上手になるのは、生身だからだろう。会話する量の問題ではなさそうである。

 放送大学とかインターネット授業というのがあるけれども、これらは生身ではないから、その効果には大いに疑問がある。

子供はなぜアニメを好むのだろうか?

2008-01-23 10:27:04 | Weblog
 昨日、幼い私が捜せなかったものを、母親はたちどころに見つけ出すと述べた。これは子供と大人の認知能力の差であろうと推測した。

 雑然とした背景から目的のものを認知する能力は、大人のほうがたけているということだ。

 子供は普通の映画よりもアニメを好む。これはなぜだろうか?

 私はここにも子供の認知能力の拙さを感じる。つまり、普通の映画は背景がノイズとなって、登場人物の認知がアニメより困難である。それにひきかえ、アニメは背景から人物が浮き上がっている。

 子供にとっては、アニメのほうが登場人物を認知しやすく、そのため子供はアニメを好むとの仮説を私はとっているが、どうだろうか?

子供の忘れ物

2008-01-22 13:25:54 | Weblog
 幼いころ私は物をよくなくした。それも部屋の中でである。

 いくら捜しても見つからない。小学校で使用する大事なノートだったりすると、出てこないので青ざめた。

 ところが、母親が捜すとすぐに見つかるのだ。これは大人と子供の認知能力の違いだと思う。雑然とした諸物の中から、ある特定のものを認知する能力が大人は子供よりも優れているのだろう。

 小学校に登校してから忘れ物に気づくこともよくあった。忘れ物をすると罰せられるので、走って家まで取りに帰ったことが何度もある。

 忘れ物をするのも、子供の認知能力の限界を示しているのではないか?忘れ物を罰するのは躾に似るがそうでない。無意味に子供をいじめているだけだ。

 子供が漢字を間違えたといって罰する教師がどこにいようか?漢字を間違えるのと同じで、忘れ物をするのは子供の特性である。躾で治るようなものではない。

 今、小学校では忘れ物をした子供をどう取り扱っているのだろうか?

ハヤシライス

2008-01-21 13:58:22 | Weblog
 初めてハヤシライスを食べたのは小学校2年生のときだった。

 世の中にこんなにうまい物があるだろうか?と思った。カレーライスはそれまでにも食べていたが、ハヤシライスは初めてだった。

 昔は、料理を出す店は、うどん屋でも洋食屋でも、これは素人には作れないという品物を出していた。

 現在はそうでもない。これは家では作れないという料理を食べようと思ったら、値段の高い店に行かなければならない。普通の店が出す料理は、家でも出せそうな味である。

 これは、私の舌が肥えたからではなく、昔の店の主人は小なりと言えども丁稚から叩き上げたからだと思われる。

古紙に群がる利権

2008-01-20 15:16:17 | Weblog
 昨日述べた古紙の利用率改ざんには元には、良質な古紙の不足があるらしい。

 良質な古紙はみな中国へ輸出されてしまい、残りは不良な古紙だという。そこで大きな疑問がひとつ発生する。

 良質な古紙とは、老人会や子供会が毎月集める古紙ではないか?それが中国へ行ってしまうとは、どういう仕組みになっているのだろうか?

 常識的に考えると、中国のほうが古紙を高く買ってくれるからだろう。そこには経済原理がある。でも、ボランティアで集めた古紙が経済原理の上で取り引きされるようになることが、そもそもおかしい。誰かが儲けているのだ。

 いつぞや述べたとおり(2007.5.30)ちり紙交換業者を撲滅させてまでして設けた古紙回収ボランティア制度である。それが経済原理で取り引きされるようになったとすると、ボランティアの苦労はどうなる?

 ボランティア制度を利用して儲けるというのは、もっともはしたない仕業である。

製紙会社の古紙利用率虚偽問題

2008-01-19 14:12:22 | Weblog
 製紙会社の古紙利用率の改ざん問題には驚いた。

 混ぜ物(古紙)が多いというのなら分かるが、少ないからと糾弾されるとは、時代の移り変わりを感じた。

 昨年連続した、食べ物の賞味期限の改ざん事件も、その騒がれ方にも異様なものを感じたが、今回の古紙利用率の低さに対する大騒ぎにも異様なものを感じる。

 商売には元来、ごまかしが付き物なのである。水清ければ魚棲まずという。

 清廉潔白をあまりに求めると、かえって世の中がおかしくなることを誰も気付いていないようだから、今のうちに警告しておく。

子供はなぜ父親にも似るか?

2008-01-18 08:32:54 | Weblog
 まだ性に無知だったころ、子供の顔が母親に似るのは分かるが、なぜ父親にも似るのかが分からなかった。

 幼い私は、妻が夫の顔を見ているうちに、それが妻に焼き付けられ、子供は夫にも似るのではないかと考えた。

 そこで、父親に次のような質問をした。

 「夫がお面を付けていたとして、妻はそれを夫の顔と思い込んでいて、子供が生まれたとき、子供は夫のお面に似るの?それとも、下の本物の顔に似るの?」

 父親は「下の本物の顔に似るよ」と答えた。

 「奥さんは夫の本当の顔を知らないのに、なぜなの?」と食い下がった。父親は「なぜだろうね。いまに分かるよ」と答えて、それきりになった。

デルモンテのトマトジュース

2008-01-17 08:36:04 | Weblog
 昭和30年代に、どこからどうやって来たのか分からないが、わが家にデルモンテのトマトジュースの缶詰があった。

 赤ちゃんの粉ミルクくらいの大きさで、大きい缶詰だった。

 家中の誰もトマトジュースは何であるかを知らなかった。当時のトマトは青臭かった。そんなものがジュースになるのか、みな怪訝に思っていた。

 ジュースというからには、甘いのだろう。オレンジジュースもパイナップルジュースも甘い。でも、甘いトマトというのは想像ができなかった。

 ある時、父が「開けてみようか?」と言い出した。それで家族そろって、興味津々で缶詰をかこんだ。

 飲んでみた。甘くない。なんだこれは。まずい。これは、どういう趣旨の飲み物なのだろう。みながっかりしてしまった。

 全員、気味が悪くなって、トマトジュースは大方が捨てられた。わが国でトマトジュースが受け入れられるまで、あと15年の歳月が必要だった。