院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

表現としての「確率」(1)(天気予報)

2014-07-26 00:30:07 | 科学

文部科学省・高等学校用解説書より引用。)

 最初、電子は原子核の周りを、地球が太陽の周りを回るように回っているイメージがありました。しかし、量子力学の研究が進むと、原子核の周りに電子がどのように存在しているかは、確率でしか言えないことが分かってきました。

 上の図の濃い部分に電子がある確率が高く、薄い部分は確率が低いというわけですね。高校の時に習って、ちょっと面喰らいました。

 量子力学が発展したのは大正末期から昭和初めにかけてですが、当時、確率でものごとを考えるのは学者くらいで、一般庶民には確率論的な考え方はなじみがなかったでしょう。

 天気予報が「降水確率」として、雨や雪の予報をするようなになったのはつい最近のことで、それまでは「雨でしょう」、「晴れた曇ったり」と文章で言っていたのでした。「降水確率」はまだ、60%とか90%とか切りの良い数字になっていますが、それでも「確率」という情報を庶民が理解できるようになったのは大変な進歩といえましょう。

 台風の進路予想円も確率表現です。むかしは進路予想は左右だけの扇型でした。それが円になり、台風の中心が前後に来る場合も加味されるようになりました。進路予想円とは、その時間に台風の中心が円内に入っている確率が70%という意味です。

 日本以外に天気を確率で知らせる国が、他にもあるのでしょうか?ないとしたら、日本の庶民の素養は大したものだと言わなくてはなりません。

数学は自然科学だろうか?

2014-06-07 04:58:55 | 科学

(運慶作、東大寺金剛力士像。ウィキペディア「運慶」より引用。)

 夏目漱石の「夢十夜」という作品に、確か運慶が仏像を彫っている場面が出てくる。その動作に対して、木の中にもともと仏像があって、運慶は余分な木をどかしているだけだという件りがある。名人の仕業とはそのよう見えるのかもしれない。

 数学の諸定理だが、それらはこの世にもともと存在していて、それを発見するのが数学者の役割だという見方がある。だが、当の数学者はそうは考えていない。数学者は自分たちのやっていることは芸術作品の創造だ思っているそうだ。

 この欄の読者なら、運慶がやっていることと数学者がやっていることの相同性に一発で思い及ばれることだろう。

温泉は病気には効かない!

2014-01-27 06:12:03 | 科学
 私の家は、私が小学校3年生くらいまで、風呂は薪で焚いていた。水は水道から供給されたが、薪は亡父が薪割りをやって造り、風呂を沸かすのはけっこう大変な作業だった。

 水道がない時代、水は桶で井戸から汲み上げて浴槽に入れたから、もっと労力が必要で、庶民が現在のような内風呂をもつことはあり得なかった。

 潤沢に湯を使うには温泉地に行くしかなかった。だから温泉は重用され、湯治という文化が生まれた。湯治は温泉地に逗留せねばならず、逗留という俗世間や仕事から離れてゆっくり休息することが心身に効果があったのだ。温泉に含まれる成分が効いていたわけではない。これは私が子供のころから言われていたことだ。

 つまり、いま温泉ブームが続いていて、神経痛や皮膚病に効くと言うが、あれはウソである。なんなら温泉水をタンクローリーで都会に運んで実験してみればよい。効能は証明できないはずだ。

 このほど環境省が温泉は禁忌とされていた妊娠中という項目を除外した。そういう政令があったとは知らなかった。環境省は妊婦の入湯禁忌には科学的根拠がないというのだが、片腹痛い。新たにうつ状態や自律神経不安定症という「病名」が追加されたけれども、別の「効能」を付け加えることにも実は科学的根拠がないからだ。

 一時、温度の低い温泉を熱して温泉といつわっていたとか、普通のお湯を追加していたとか、循環風呂を源泉かけ流しと称していたとか、温泉地が非難されたけれども、温泉はもともと病気には効かないのだから、非難する必要もなかったのだ。

 温泉地を非難するなら、昨今大流行のサプリメントも非難しなくてはならない。

「関数関係」と「因果関係」

2013-08-26 05:23:13 | 科学
(画像と記事は関係ありません。)

 詳しいことは分からないが、現代物理学には「因果関係」という発想はないらしい。あるのはすべて「関数関係」だという。「関数関係」とは「=」(等号、イコール)で結ばれる関係である。

  E = MC2

というアインシュタインの有名は式は、左辺や右辺がどちらの原因でも結果でもない。両辺はただ「こういう関係ですよ」ということを示しているに過ぎない。現代物理学が時間の概念を排除しているのかどうか、そこまでは知らない。

 一方、気象学では好んで因果的な説明が行われる。たとえば、「今年の夏が暑いのは、太平洋高気圧が居座っているから」というように・・。

 では、なぜ太平洋高気圧が居座っているのかというと、「南方に熱水塊が存在するから」と、ここでも因果論が出てくる。

 だが、よく考えてみると、今年の夏が暑いのも、太平洋高気圧が居座っているのも、南方に熱水塊が存在するのも、すべて同時的に起こっていることではないのか?そこに時間的な順序のようなことがあるのか?

 「関数関係」と「因果関係」がどういう関係にあるのか?自然現象を説明するにあたって、このように対極的な記述方法が同時に存在するのは何故なのか?そのへんのところを私はまだ明確に理解できていない。

原子力規制員会が調査データを公表しないのはなぜか?

2013-05-20 03:03:00 | 科学
 原子力規制委員会(以後、規制側と呼ぶ)、敦賀第2原発の地下に活断層があるとして、再稼働に反対の姿勢を示した。それに対して日本原電(以後、再稼働側と呼ぶ)は、「初めに結論ありき」だと猛反発している。

 私は職業柄、科学的に考えるように一応訓練されている。そのような者から見ると、規制側がいっさいの調査結果を公表しないまま、再稼働反対の態度を示すのは科学的でない上にアンフェアである。だから、再稼働側の言い分を理解できる。

 では、調査結果を公表したらどうなるだろうか?たぶん、同じデータに対して、活断層であるという解釈と、活断層ではないという解釈が共に可能になるはずである。科学的なデータの解釈が正反対になることは、じつはよくあるのだ。

 規制側は水掛け論になるからデータを公表しなかったのだろう。だとしたら、「初めに結論ありき」と反発する再稼働側の主張が、まったく正しいことになる。

 規制側はいったい誰の意見を代弁しているのだろうか?再稼働側が電力会社の代弁をしていることは明らかだが、規制側が誰の意向に沿っているのかが、いまひとつ分からない。

 科学的な考察が、世論や政治に左右されることは、いま始まったことではないけれども。

「脳科学」とは何か?

2013-03-23 02:34:20 | 科学
 神経心理学または大脳病理学と呼ばれる学問分野がある。これは、脳のどこがやられると、どういう症状が出るか、またはどういう機能が失われるか、ということを研究する学問分野である。

 この学問は戦争があると進歩するが、そうでないときにはほとんど進歩しない。なぜかというと、脳がピンポイントで破壊されるケースは銃創によるもので、そのような「症例」が多産されるのは戦争をおいてないからである。

 脳のどこそこがやられると認知がこうなるという知識が蓄積された。これらは脳機能の局在論を支持するものであるが、神経心理学はこうした知識の蓄積から脳機能や精神機能全体を推し量ることはしなかった。

 一方、いま流行の「脳科学」だが、そもそも「脳科学」という学問分野は存在しない。新しい脳の観測技術が出てきて、脳の血流などを測れるようになった。脳のどこが活発だとどんな精神機能が起こるということが、いくらか推測できるようになった。しかし、脳の血流が活発な部位が「活動している」と解釈するのは飛躍である。そうした飛躍の上で、「脳の活動」と精神機能を強引に結び付けようとしているのが、「脳科学」を標榜する学者もどきがやっていることである。

 「脳科学」はエセ科学である。私には「脳科学者」は、ロールシャッハテストをやっているように見える。ロールシャッハテストは無意味な左右対称のインクの染みを見せて、それが何に見えるか問うテストである。

 ロールシャッハの図版に動物の像を見た人がいるとしよう。その人は「ここが耳でしょ」、「ここが鼻でしょ」と説明する。そうすると説明された人にも、無意味な図形の中に動物の像が見えてくる。

 脳の観測データの山に対して、「脳のここの場所の活動が活発になるでしょ」、「刺激を与えると、こんどは別の場所が活発になるでしょ」、「そうすると、脳は感情が昂ぶるわけです」、「前頭前野は意志をつかさどっていますから、次はこうなります」というように、勝手な解釈を延々と繋げていく。こうした発想をロールシャッハと言わずになんと言ったらいいだろう。

 本来の研究データを知らない聴衆は、なんだかそのような気分にさせられてしまう。これは、まさしく騙しのテクニックである。自ら「脳科学者」と名乗って、テレビや雑誌に出ずっぱりのM氏は年に億単位の金を稼いでいるという。大衆やマスコミを騙して大金を稼いでいるのである。

水利尿

2013-03-02 00:22:17 | 科学
 利尿剤を飲むと尿がよく出る。どうしてよく出るようになるのか私はメカニズムを知らない。

 アルコールやカフェインにも利尿作用がある。その仕組みも私は知らない。

 医学部の生理学の実習で、水を飲むとどれだけ尿量が増えるかという実験をした。1リットルの水を飲むと、30分ほどで尿量が増え始め、1時間くらいで尿量はピークに達した。

 水を飲めば尿が出やすくなるのは当たり前で、なんでわざわざこんな実習をするのだろうかと学生の私は不思議に思った。

 実習後の教授の言葉に私は目を開かれる思いがした。教授は言った「これで水には利尿作用があることが分かったでしょう」。利尿作用??こういうのも利尿作用と言うの?

 私たちは水を飲めば尿が増えることを経験的に知っているが、メカニズムを知らない。飲んだ水がそのまま尿になるわけではない。飲んだ水の成分そのままが尿の成分と同じではない。つまり、水によって利尿のメカニズムが働いた結果、尿量が増えるのである。

 そうか!科学的には水には利尿作用があると考えなくてはならないのだ。それが証拠に、水を飲んでも汗の量は増えない。(スポーツをやる人で、汗をかくから水を飲まないという人がいるが、まったくの誤りである。水を飲まなくても汗はかく。飲まないで汗だけかいていると、脱水症になる。)

 水を飲むと尿量は増えるのに、汗は増えない。尿量と発汗量の調節は別々のメカニズムで行われていることが、これで分かる。水には利尿作用があるが、発汗作用はない・・という事実から、どうして尿量が増えるのだろうか?という疑問に繋がっていく。このようなところから人体の科学は始まるのだ。

 医学部が他の医療系学部や専門学校に優先するのは、こうした人体の不思議さ神秘さを体験させる教育が、医学部のみでしか行われていないことによるのではあるまいか?

活断層論争

2013-02-19 00:40:04 | 科学
 活断層とは10万年以内に動いた形跡がある断層のことらしい。つまり、活断層とは活火山、そうでない断層は死火山と解釈してよいようだ。

 原子力発電所の地下の断層が、活断層かそうでないかが争われている。双方とも科学的な根拠を出そうとしているが、話が噛み合わない。

 話は飛ぶようだが、大きな病院には必ず病理医という医者がいる。病理医は直接患者さんを診察することもなく、手術もやらない。彼らの役目は細胞や組織がどうなっているのか見極めることだ。

 例えば、ある腫瘍の細胞が良性か悪性かを判断するのが病理医である。病理医はひたすら顕微鏡を見て検体が良性か悪性かを判断する。熟練技でもある。

 しかし、病理医の経験や勘ばかりに頼っていてはいけないと、客観的な悪性度の分類が提唱されている。今でも使用されているかどうかは知らないが、私の学生時代にはキャットサット分類というのがあって、その分類に照らして悪性度を判断していた。

 病理学の教授の話によると、キャットサット分類を用いても、良性か悪性かで議論が分かれることがあるとのことだった。そのようなときにはどうするのかと言うと、声の大きいほうが勝つのだそうだ。

 このたびの活断層論争もそれに似ていはしまいか?科学的な根拠を出し合っても、それに対する解釈が異なってしまっている。そうなると、活断層論争でも声の大きいほうが勝つのではないか?どういう声を大きいというのは分からないけれど・・。

つまらなくなった東京国立科学博物館

2013-02-09 03:28:46 | 科学
 50年以上前、少年だった私は、ねだって上野の東京国立科学博物館によく連れて行ってもらった。子どもの入場料は5円だった。

 何か特定のものが面白かったわけではない。何というか謎めいた古色蒼然さに少年の私は惹かれたのだ。

 ミイラが置いてあった。どこかの未開民族の風習だった小さな「干し首」が展示されていた。これらが、かつては生きている人だったと思うと、恐怖感を感じた。それとともに、このようなものを堂々と展示している博物館という存在に畏怖の念を覚えた。

 科学博物館の外に、本物のクジラの骨格標本が置いてあった。クジラの肋骨の中に入ることができたから、クジラの大きさを肌で感じることができた。

 ホルマリン漬けの深海魚の標本があった。一部が解剖されていて、内臓まで見ることができた。地下室には未整理の動物の剥製が雑然と置かれていた。未整理だから照明もなく、薄暗がりの中にそれらの動物たちはいた。動物園でも見たことがない動物たちが身じろぎもせずに立ちつくしていた。

 吹き抜けには巨大な振り子がゆっくりと揺れていた。振り子は地球の動きから自由で、地球が自転しても振り子は一定の場所にあるので、少しづつ移動していくことが振り子の下に置かれた大きな時計版から分かった。

 水銀整流器という機械があって、交流を直流に変換する装置らしいが、それがタコ入道のような大きな真空管で、その中で水銀が沸騰してぴちぴとち音を立てて光っている。

 東京国立科学博物館は、ひとことで言うとおどろおどろしい場所だった。それゆえにこそ、少年の私は強烈に惹かれたのだった。

 30年ほど前、私の子どもたちが少年少女になったころ、科学博物館に連れて行った。外にあったクジラの骨格標本は撤去されていて、代わりにクジラの実物大の模型が置かれていた。何故ニセモノに換えたのよ!と私は思った。本物の骨格標本であればこその魅力だったのだ。

 水銀整流器の代わりに電卓が展示してあった。電卓なんてすでに家にありますよ。水銀が煮え立っていてこそ面白い展示だったのだ。

 未整理の動物の剥製は展示されていなかった。その地下室は封鎖されていた。その代わりに小ぎれいなショウウインドウの中が森にのようなセットになっていて、その中で生きているかのように動物の剥製が置かれていた。見たかったのは小ぎれいな展示ではなかったのよ。いかにも見てくださいという展示は面白くなかった。

 巨大振り子はまだ存在した。ミイラも展示してあった。それがせめてもの救いだった。「干し首」はもう展示されていなかったような気がする。

 あれから30年、今度は私の子どもたちが孫を連れて科学博物館に行く番になった。私は最近行っていない。ミイラはまだあるか?剥製の展示はさらに「洗練」されてしまったのではないか?昔ほど面白くないのではないか?そのうち子どもたち東京から来ることがあったら、訊いてみようと思っているところだ。

分類とは何か?

2013-01-19 05:18:46 | 科学
 昨日、性格の分類について書いたので、今日は分類という行為に対する私のスタンスについて述べよう。

 動物の分類はふつう脊椎動物と無脊椎動物に二分することから始まる。その下に「綱」だとか「目」だとかの細分類が行われる。

 だが、最初に脊椎動物と無脊椎動物を持ってくる必然性があるのだろうか?例えば、最初の分類を、目がある動物と目がない動物に分けても、同じように動物の詳細な分類が可能なのではないか?

 このような私の疑問に明快に答えてくれたのが、渡辺彗著『知るということ・認識学序説』(筑摩書房)である。渡辺の結論は「すべての分類は恣意的である」ということである。科学的な分類というものは存在しないと言い換えてもよい。

 渡辺は数理論理を用いて、白鳥と別の白鳥の類似度は、白鳥とアヒルの類似度に等しいことを証明した。だから、すべての分類は自分(分類者)に都合がよければそれでよいということになる。

 私の言葉でいえば、結核と赤痢を区別する「科学的な根拠はない」ということである。ただ、医学においては両者は効く抗生物質が違うので、両者を分けなくてはならない。要するに実用的な役に立つから、結核と赤痢は当面分けておいたほうがよいというわけだ。

 人類学の領域では、人種の分類は白人、黒人、黄色人種という分類がぎりぎりで、それ以上の分類は認められていないそうだ。

 疾病分類に話を戻すと、すべての疾病分類はプラグマティックな要請によるもので、それ以上の科学的根拠というものはない。アメリカ精神医学会が出したDSM(精神疾患の診断統計マニュアル)は、精神疾患が診断者によってあまりに診断が違ってくるのを防ごうとして編み出された。つまりDSMの目的は、診断者が違っても診断は同じになるようにしようということであって、結果として診断者たちにはきわめて評判が悪い分類法となった。(この分類を提唱した精神科医シュピツッアーは、DSMは誤りだったと最近、自己批判している。分類に誤りもくそもないのだが。)

 別の言い方をすれば、分類法は分類者の数だけあるということになる。渡辺の功績はそれを数理的に証明したことだ。渡辺の証明をなぜ私が理解できたかというと、高校時代にどんな参考書にも載っていない記号論理学(集合論、ブール代数、述語論理)を教えてもらったからだ。

 記号論理学を高校で教えたO先生は、「そんなもの入試に出ないではないか?」という生徒たちの雰囲気に抗して「必ず将来役に立つ」と一生懸命に教えた。

 おかげで、私は医者になってからJ・ピアジェの精神発達論が理解できた。ピアジェの論は、論理式で書けばすぐに理解できるのに、論理式を文章で説明するから何を言っているのか分からなくなる。

 「すべての分類は恣意的である」という主張が理解できたのも、O先生のおかげである。ただし、論理的には分類は恣意的なのだが、美人と不美人が画然と分類できるという動かしがたい事実があることも忘れてはならないだろう。

フラクタル図形

2012-11-15 07:08:27 | 科学
 当たり前のことだが地図には海岸線が書いてある。海岸線はデコボコしている。そこで不思議に思われないだろうか?

 海岸には潮の満ち干がある。砂浜なら波が寄せる。岩場ならもっと細かくデコボコしている。

 地図の海岸線のデコボコは、こうした細かい変化を「誤差」として無視して描かれたものだろうか?という疑問が生じるはずである。

 河岸線を拡大していくと、もっと細かいデコボコが見えてくるはずである。さらに拡大すると、岩のひとつひとつに行き着く。その岩をもっと見ると、岩の表面はデコボコしている。

 さらに拡大すると、岩を構成する砂の一粒に行き着く。その砂を顕微鏡で見ると表面はまだデコボコしている。

 このように、どこまで拡大してもデコボコしている図形にフラクタル図形がある。フラクタル図形は無限にデコボコしている。

 下の図形は YouTube にあったフラクタル図形である。最初はヒョウタンを横にしたような形をしている。拡大すると、表面に元のヒョウタンが無数に付いている。さらに拡大してもいつまでもヒョウタンが付いてくる。

 フラクタル図形の面白さを鑑賞していただきたい。

 フラクタル図形


どこからが宇宙か?

2012-08-20 05:28:08 | 科学
 毛利衛さんのことを宇宙飛行士と呼ぶ。それ以後、スペースシャトルなどに乗った人を、みな宇宙飛行士と呼んでいる。彼らは本当に宇宙に行ってきたのだろうか?

 彼らが行ったのは、地上から300Kmあたりのところである。東京から名古屋くらいまでの距離に過ぎない。つまり、スペースシャトルは地表をなでるように飛んでいたのだ。その程度の高さを宇宙と言えるだろうか?

 中には重力がないではないかと思う人もいるだろう。しかし、地上300Kmでは、まだ十分に重力は効いている。スペースシャトルが高速で地球を回っているから、その遠心力と地球の重力が釣り合って、無重力のように見えるだけだ。このブログの読者なら、そんなことは重々ご承知だろう。

 それならば、どこからを宇宙と言ったらよいのか?私は火星探査機のように、地球の重力が微量にしか及ばない場所を宇宙と言うべきだと思う。

 宇宙飛行士は自分は宇宙に行ってきたと、あまり言うべきではない。地上300Kmが宇宙なら地上だって宇宙だ。地球だって太陽だって、みな宇宙内を動いているのだから。

天文台・博物館・気象台

2012-05-19 20:04:53 | 科学
 今回の金環食で思い出した。数年前、「食」について知りたくて東京天文台に電話をかけたことがある。

 質問は、日食より月食のほうが頻度が高いような気がするがどうか?というものである。

 回答は、世界的に見れば、月食より日食のほうが頻度が高いという、意外なものだった。

 なぜ、そうなるのか問うたところ、調べて回答するから電話番号を教えろという。その、サービス精神に驚いた。科学的な質問ではなく、ちょっとしたクイズ的な質問だったので、恐縮して辞退した。

 博物館にも電話で質問したことがある。回答は精緻を極め、えんえんと説明してくれる。まるで質問がくるのを待っていたかのようである。

 みなさん、天文台、博物館、気象台はどんな質問も嫌がらず、いや逆に得たりとばかり教えてくれます。彼らは質問が来るのが嬉しいようです。