(報知プロスポーツ大賞授賞式。Nittaku のHPより引用。)
小学校の運動会で、かっけこのゴールにはみんなが手を繋いで入り、順位は付けないことがあったそうだが、今でもやっているだろうか?
人間に順位が付けられるようになったのは、農耕社会になってからだということは、この欄の読者ならすぐにご理解いただけるだろう。(穀物の備蓄すなわち余剰がない時代には、王や豪族といった存在に富が偏在することはありえなかった。)
プロスポーツは順位が命の世界である。一位は他の者より格段に多い報酬が得られる。四位五位に終わった者が努力の人だったとする。一位の人より四位五位の人のほうが数層倍努力したのに、たったこれだけの報酬では可哀そうだという論者が出てくるかもしれない。しかし、それはそれで「努力の量」で順位を付けていることになる。
社長は人間としてヒラより偉いわけではない。ただし、会社で不祥事があった時、責任をとって辞職するのは社長でなくてはならない。副社長以下が辞職しても何の意味もない。
人間の順位付けは、もう何万年も前に農耕が始まってから続いているのだから、「平等」を起点や前提とした考察は、どんな論述でも必ず矛盾を生じてくると考えたほうがよいだろう。
※今日、気にとまった短歌
もし君がどんなに偉くなったってオレが尊敬することはない 詠み人知らず