(1)伊藤環境相と水俣病患者、被害者らとの懇談会場で被害者団体の発言時間終了が迫り突然環境省側から被害者の発言マイク音を切られた問題は、伊藤環境相が謝罪のために再度水俣市を訪れ被害者代表に謝罪する一方、「ルールはルール」との被害者団体を批判する声もあるとの報道だ。
(2)「ルール」(rule)とは規則、法則、標準だから、誰もが守れるもので、守るものでなければならないが、報道によると同懇談会は8団体代表に対してそれぞれ「3分間」の持ち時間が環境省側から割り当てられていたといわれる。
水俣病発症に対する国、政府の責任が裁判でも認められた中での被害者側の伊藤環境相に対する意見発言時間としては伊藤環境相ものちに「10分でも足りない」(報道)と言っているので不適切、不適当な時間割り当てといえる。
(3)環境省側は伊藤環境相の「日程」の都合があったと説明しているが、それなら水俣病発症の国の責任上もっと「都合」のいい「余裕」のある日程を組む必要があった。それでも「ルールはルール」というなら、社会正義というものはただ一つというものではなくいくつもあって、どれがその場に適切なものなのか判断すべきもので、「ルールはルール」で社会正義はただ一つというのは戦前の唯一絶対の権力至上主義の社会思想(social ideology)であって、戦後の民主主義、自由主義社会では否定された理念だ。
(4)上述したように「ルール」、規則、法則ということになれば誰もが納得して守れる標準でなければ意味がなく、わずか「3分間」で発言を打ち切る手段として発言を遮(さえぎ)りマイク音を切るという行為は国、政府のやり方としてはあってはならない強制手段だ。
別に発言者の最低でも理解を得られる打ち切り方、方法論はあったはずで、当初から水俣病発症に対する国、政府の責任の重さを顧みない「前提」としない議論形式主義の国家権力の「逃げ切り」であり、多くの理解を得られるものではない。
(5)戦後の高度経済成長時代に経済優先主義の国策による企業(水銀垂れ流し)海洋汚染の水俣病発症社会問題は、被害者認定でも国と被害者らが長らく対立してようやく最近になって裁判で被害者の主張が認められる判断が示された取り返しのつかない長い、長い水俣病被害者の苦しい歴史だ。