いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

ピエロ政治ー検証2。 pierrot politics

2011-12-30 19:57:16 | 日記
 (1)年が明けると米国では1年の長い大統領選がスタートする。高い失業率に国内経済の低迷で二大政党論に失望感も出て、第3極勢力への関心も高まっている。
 市民からは「政治家は、これをやる、あれもやると言っては、何ひとつやらないではないか」との批判が聞かれる。洋の東西を問わずに政治家の「有言不実行」には市民、国民の不信が根強い。

 (2)その最たるもの、自らのマニフェスト崩壊でその潮流を先行する日本の民主党政権が「4年間は上げない」と言った消費税を、昨日の税制調査会と一体改革調査会合同会議で首相も出席して、当初の計画案を遅らせて平成14年4月から2段階に分けて(14年8%、15年10%)増税する消費税増税案を了承した。

 かろうじて「4年間」の文言をクリアーしたかに見える小手先の賛成、反対妥協案となった。政権交代のマニフェスト「政策設計」の不備、不足の自己批判を前提とした、財政赤字国家の再建のための「政策転換」を正しく国民に「おわび」しての適切な政策の軌道修正が必要であった。

 自らのマニフェストのスパイラル(spiral)崩壊の中で、今更「文言」だけにこだわった実効性先送りの政策決定の格好付けをしてみたって「あさはかさ」が見えるだけのピエロ政治だ(pierrot politics)。

 (3)本来なら総選挙で信を問うレベルのものであるが、大震災復旧・復興、1票の格差是正(これは政治の不作為)問題もあって現実的なものとはならないのだから、せめて消費税増税政策に到ったこれまでの「政治責任」を検証して国民に「おわび」しての理解が必要だ。

 民主党政権の基本テーゼ(these)、マニフェストがことごとく崩壊しての今更の感はあるが、「国民生活第一」と言っておきながら国民投資(税)に負担を強いる政策を国民に説明責任(accountability)もないままの党内論議先行という、前政権に見てきた政治に逆戻りの「自己否定」政治であった。

 (4)首相は、あわせて消費税増税決定の前には前提条件としないと言っていた「議員定数・公務員給与の削減」を約束させられたが(当然の最低条件で議員の報酬削減も必要)、最早、政治家の「有言実行」など信頼されないのは国際的な潮流だ。

 米国、EU経済危機の根底にあるのは「政治」の貧困だと言われている。「アラブ中東の春」と呼ばれる市民革命による独裁政治の打倒が、政治貧困解消の解答の象徴的な出来事だ。

 (5)日本の首相は、同時に「来年は行政改革に『君子豹変す』という立場で臨む」(報道)決意を示した。
 自らのマニフェスト崩壊では、すでに「君子豹変」しているのに、今更何を言っているのか、沈着冷静を欠いたその場しのぎの首相の「情緒政治」の不安定さを思い知らされるばかりだ。

 今の民主党政治は、自己否定の情緒不安定執行中枢部も、その「うそ」についていけないだけで離党する幼い反執行グループも、すべてが使命感のないピエロ(道化師)政治に覆われている。

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仕事納めのドタバタ。 noisily year-end work

2011-12-29 20:09:14 | 日記
 (1)それぞれの「思い」を込めた仕事納め(year-end work)だった。①沖縄県庁では、住民団体にアセス(assessment)提出を実力行動で拒まれた防衛省が28日仕事納めに間に合わせようと未明にアセス評価書を県庁内警備室に搬入した。
 テレビでは取材メディアにこんな提出手続上のやり方を質(ただ)されて、多分従っただけの現地提出担当者が回答に窮していたシーンが映し出されていた。

 普天間基地移設先問題という日米外交防衛重要課題とのあまりにもかけ離れた姑息で滑稽な評価書搬入方法の「落差」に、いい大人が陣取り合戦に汲々としたあまりに幼稚なゲームを見る思いだった。伏し目がちにバツの悪そうな表情の現地提出担当者がちょっと気の毒にも見えた。

 防衛相が問責決議を受け、沖縄防衛局責任者が不適切発言で解任という統治崩壊の中で、防衛省が「届け先の事務所に到着したことで完了」(報道)と胸を張っても、現地提出担当者に「責任」を押し付けた無責任でまるで他人事のような防衛省の捉え方だった。とても国の安全を守る資質、責任感があるとは言えないものだ。

 ただ米国に追随しての今年中のアセス提出を公言しておきながらの、28日仕事納めに提出出来たのは条例の所定対数に8部足りないものだったと言うのも、組織業務として考えられないしかも懸案課題への認識、準備欠落を示すおそまつさだった。
 到底、沖縄の理解、協力を得られる政府対応、方法ではなくて、問題をただ混迷化する日本の防衛外交が米国の思いのまま、意のままという従属の政治力不足をただ思い知らされる。

 ②その民主党政権では、税と社会保障の一体改革にかかわる消費税増税論議、マニフェスト崩壊で10名近い民主党議員の離党の動きがあった。政権交代での基本テーゼ(these)である「4年間は消費税を上げない」、公共事業の見直し他にことごとく違反する政府の方針転換に、「うそ」をつく政権政党ではやっていけないというこちらはもっともらしい理由を付けての堂々たる離党届提出だった。

 ただし、財源不足、財政赤字国家の中でどうやってマニフェストを継続していくのか、そもそも当時の政策設計不備、不足があきらかとなっての中でのまさかこの期に及んでの国債(借金)増発、破たん国家でもあるまいし、自暴自棄の選挙を意識した格好付けの離党宣言だ。

 本来なら責任を持って政権、与党を建て直す気概が必要だった。年末の新党結成による政党交付金(前年末までの政党対象)目当ての自己保全のものだ。

 ③その消費税増税論議は民主党全議員対象の税調聞き取りで仕事納めの日に8時間以上論議してもまとまらずに、今日、首相も出席して首相の言う年内素案作りに再度論議を継続するという、賛成、反対の溝は深く、年内結論はむづかしいとの予測だ。(午後9時現在でも結論はまとまらない。)

 首相が、この問題は政府、与党、野党とか言っていられない国全体の将来にかかわる課題だと力説していながら、さっぱり国民的議論に展開しない、国民への説明責任(accountability)不在のパラドックス(paradox)政治だ。メディアの年内のとりまとめがむづかしいのではの問いかけに、「どうしてそんなことが言えるのか」と質問を遮(さえぎ)ってぶら下がり会見を打ち切った首相の姿勢が印象的だった。

 (2)東日本大震災、福島第1原発事故、円高不況に年末の北朝鮮独裁者死去と1年間の日本を取り巻く国内外の暗い世情の中、年末仕事納めの日に政局のドタバタ(noisily year-end work)、駆け込み清算には、この期に「何をやっているのか」の思いとともに、来年は国民の「主権者責任」の正念場ともなるであろう機会に、強い想いが起こってくる。

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男女雇用機会均等法25年。 employment law of equal opportunity

2011-12-28 19:55:36 | 日記
 (1)この世の中には人間としては「女性」と「男性」しかいないのだから、それぞれの「特性(peculiarity)」を活かして共働していくしかないのが普遍的な理念だ。
 86年に男女雇用機会均等法(employment law of equal opportunity)が施行されて25年になる。雇用条件、昇進に男女平等を制度化したものだ。

 儒教思想に根付いた(と思われる)封建社会と言われた戦前、戦後の間は、家事、育児は母性本能の高い女性が担っていたので外での労働は相対的に比較身体能力の強い男性が担って、それなりに「特性」を活かした分業制、分配論が確立していた。
 これを直ちに男性優位、女性軽視の社会制度、理念と呼んでいいものか、それぞれに高い潜在能力に裏打ちされた合理的な価値配分の仕組みでもあった。

 明治、大正、戦前には文学、芸術分野での女性の社会的活躍も目に付き、遠く遡(さかのぼ)れば平安時代にも紫式部、清少納言などすぐれた女性文学者がいたように、女性軽視の歴史はそもそも日本社会にはなかったと言える。

 (2)戦後に教育方針が大きく変わって、戦禍からの復興を目指す中で「生活向上」が社会テーゼ(these)となって経済成長、発展の促進とともに「生き方」にも関心が高まり多様性を求める社会機運が高まってきた。「特性」を活かした共働性、分業性から最大公約数としての男性中心社会であった。

 労働社会にも欧米同列化、経済成長の社会進化による労働機会の増幅にともなって、家庭の枠から飛び出して労働社会で生きる女性の「生き方」もあたらしい社会のステータス(status)としての勢力を持つようになってきた。

 (3)この世の中、女性と男性しかいないのだから、まして戦禍を経験して男性よりも人口比率の高い女性のスタンスが比較重要性を増してくるのは必然的なことだった。
 経済成長とともに労働環境は身体能力優位の第1,2次産業からサービス産業の第3次産業化にシフトして、女性の社会進出の条件は整備された中での取って付けたような雇用機会均等法だった。

 自由闊達な民間の社会経済行動、活動を規律制約するのは、「法律」などではなくて価値観、必然性、自己評価からくる社会が求める生活環境整備だからだ。雇用条件等に男女平等を謳(うた)ってもそれを判断基準に採用する方法、公平性、公正性にまで立ち入って拘束することなど出来ない、自由な社会経済行動、活動でもある。

 男女雇用機会均等法はだからちょっと浮世離れした形骸化の法律だ。雇用機会均等法は、男女にかかわらずに社会が必然的に求めれば(進化すればそうなる)ごく当たり前のパラダイム(paradigm)だ。女性と男性しかいない人間社会だからだ。

 (4)女性はその「特性」の一部から体内で子どもの成育期間を担う生理学的負担を担い、また分業性の比較多かった家事、育児と社会労働との両立問題もあって、雇用機会均等法が施行されても労働時間の「継続性」に問題はあった。企業からすれば経済効率性の低い労働形態と言える。

 しかし、男性よりも人口比率の高い女性の労働力は貴重な社会資本(social capital)だ。近年はようやくにして男性であれ女性であれ、家庭、家事、育児をそれぞれの事情、都合で分担する社会環境、制度化も生まれてきて、そのあたらしい社会構図、効果の検証が必要だ。

 日本古来、伝統の儒教思想からすれば、男性の女性化、女性の男性化とでも言うべきなのか、それも近代化社会が求めるパラダイムのひとつだ。
 ただし、現在の社会情勢から「生活」に見合った収入から、「収入」に見合った生活への価値判断のシフトも重要だ。

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アクシデントとアセスメント。 accident inquiry and assessment

2011-12-27 19:48:03 | 日記
 (1)前代未聞の東日本大震災による福島第1原発事故の「影響力」の大きさから、事故原因調査(accident inquiry)分析検証の「立ち上げ」の遅れが一部から指摘されていた。
 事故から3か月後の6月に政府事故調査検証委員会が「失敗学」を提唱する畑村さんを委員長に、検察経験者、学者を中心に構成員として調査を進め、昨日、中間報告を政府に提出した。

 国と東電の災害事故想定認識不足、事業管理者(東電)の技術不足、政府関係機関の連携不足と、災害に「何」も対応できない政府、事業者の「実情」を指摘したものとなった。
 狭い国土に54基もの原発を設置してきた政府、事業者の「利潤効率」優先で機能性、安全性、国民の信用が『無視』されてきた「歴史」を糾弾するものだ。

 中間報告ではあるが、『無視』の歴史の中にそれを助長してきた原発事業者の『うそ』と『改ざん』の歴史がまずあげられるべきである。
 事故隠し、データ改ざんの「その場しのぎ」で原発の環境適応性、電力供給能力、費用対効果(それもすでに単価単位でも高額との異論があり、まして事故影響となれば未曾有)に名を借りた原発安全無視、利潤追求体制が、見過ごされてきた事実蓄積結果として巨大な原発事故影響を招いたのだ。

 技術的な事故分析、解析にとどまらずに「原子力村」と呼ばれる政府、事業者、専門家の利益寡占トライアングル(monopolist triangle)の危ない「弊害」について、事故データ対照の検証が必要だ。

 (2)今年中に沖縄当局に提出するとしていた政府の辺野古沖環境影響評価書(assessment)が「郵送」で沖縄に提出された(今日午後7時現在、郵便物は住民団体の妨害で県庁内に届けられないでいる)。
 数々の不手際、問題発言で問責決議を受けた防衛相の手によるアセスの提出は、沖縄知事も信頼に値しないと拒絶してもいい事態ではあるが、法的手続きに従って受理すると公言していた。

 すでに知事側には環境影響の問題点の整理、指摘がなされ公表されており、これに基づいて法的手続きを逆手に取っての明文化による「移設不可能」を主張する趣旨だ。
 地元の反発は強く、アセス提出を「拒む」として住民団体が県庁内に座り込みの抗議を続けていた。
 今日のニュースでは、県庁内に運ばれる郵便物まで阻止しようというエキセントリック(eccentric)な住民団体の抗議があった。

 政府として重要課題のアセス提出の説明責任も十分に出来ない「郵送」という非礼な非常手段を使わざるを得なかった政府に、これも阻止しようという社会維持パラダイム(paradigm)を超えた住民圧力と、両者が「自棄」、自己否定(self-denial)の異常事態が、この問題への取り組みの無責任さが集約されている。

 政府には「説明責任(accountability)」、沖縄には「遵法責任(obeying laws)」が強く求められる。
 沖縄知事の法的手続きに従った判断結果を見守るべきだ。

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報復主義でない死刑制度検討会。 abolition of capital punishment

2011-12-26 19:37:17 | 日記
 (1)日弁連が「死刑廃止(abolition of capital punishment)」に向けて正式に委員会を設けて検討を始めることになった。人が人を裁く不条理(unreasonableness)の中で、欧米社会では死刑廃止論がすでに主流で世界でも死刑制度を有する国は少数派となっている。

 日本の司法、刑法は「報復主義(retaliationism)」を取らないから、死刑制度と言うのは罪の「大きさ・重さ」判断認定基準の結果責任論と「犯罪抑止力」効果論をはかったものだ。

 (2)犯罪の抑止力とは何か。人間の成り立ちに、性悪説、性善説の哲学、宗教問答のような領域があるが、生まれながらにして人間は悪性であり成長に従って善性に向かう、また人間は生まれながらにして善性であり成長するに従って悪性に向かう、その「中間交差点」が中庸(ちゅうよう)とした人間の姿だ。

 善性も悪性も内包した「弱さ」が人間の本質と理解する。だから犯罪には善性から起因することもあれば、悪性から起因することもある、善、悪に分別はつけられないところが人間社会の不条理でもある。
 まして、そういう「人」が人を裁く不条理社会が「正義」のパラダイム(paradigm)だから、尚更、複雑怪奇な訳だ。

 (3)犯罪抑止力として、①「すべて」の人が経済的に「安定」することがまず考えられる。経済パイは限られているから、それを奪い合う経済活動社会の中では労力(努力も含めて)の優劣で経済力に格差は避けられない。経済力は無限に生まれるものでもなく、限られたパイのベクトルの中で相対的に貧富を生む。

 労力の優劣への相当評価競争社会が資本主義社会で、一応努力すれば見合った成果は与えられるという相対的評価理論だ。労力の優劣を否定して平均化して、すべて均等とした共産・社会主義も結局は手法の違いはあっても資本主義社会化に向かっている。
 すべての人が経済的に「安定」する社会は、パラダイス理想論でしかない。

 ②「公平感」の持てる社会、努力する人にはそれに見合った評価、成果は与えるし、その「果実」で努力しても報われない人にもそれなりの目は向ける社会だ。すべての人が価値観を共有して役割としてつながっていることを実感できる社会だ。

 政治力が大きな要素、影響力を占めて、かなり「立派」な政治力(政治家)がないとむづかしい。まさに「税と社会保障の一体改革」論議だが、それを検討する政治力が見た通りの劣化では「公平感」は持てない。しかし、これは可能性としては空論ではない。

 ③「教育」の充実があげられる。もちろん過去遺産の高学歴社会偏向、助長などと言うものでもなく、公正、公平、正義観、すべての人が経済的に安定することを目指した社会観、社会制度開発の育成だ。

 それでも目標達成までの長い間には犯罪は起きうるだろうから、人が人を裁く不条理は否定できないが、「報復主義」でない限り、その人間力の可能性まですべて否定してしまう死刑制度はやはり廃止すべきだ。相応の結果責任を負う方法は他にもある。

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