天然資源も乏しく、国土も狭い日本。教育国家(educative nation)を目指して、人的能力
の開発で先端技術を活用して効率的、画期的生産能力によるGDP(国内総生産)を高める。
教育(国民共有、共通の初期、初等教育)というのは、国民共有の人的資産として普遍性
の高い連続線が求められる底辺拡大型の能力資産。
普遍性、連続線が求められるので、教育方針の一貫性が必要なのは言うまでもないが、日
本の教育の現状は、近年、時代、社会の変遷に迎合して一貫性を欠いてきた。
高度成長期の「詰め込み式」から、多様な価値観の応用性に対応する「ゆとり教育」へと
転換して、しかし、その後基礎教育(知識)の劣化に危機を感じて、再び10年度からは教
育指導内容の拡大による「脱ゆとり教育」へと再転換する。
教科書は40%強もページが増えて、厚くなる。特に、理科、数学内容はともに70%弱
も増えて、自然科学系の教育内容の充実を目指す。
高度で先進的な科学技術の開発でノーベル賞受賞者も目立つ日本の、科学離れの傾向に
興味を促すものとなっており、また、世界各国と比較しての初等教育の遅れ(国際学力比較)
に配慮したものだ。
たしかに、国際学力の単純比較による初等教育の劣化には問題はあるのだろうが、こうい
う破片的、部分的、現象的なことに左右される国の教育視点、方針にこそ深い問題の溝があ
る。
「ゆとり教育」そのものは、教育の基礎アイテムの取り上げ方によっては効果のあるもの
なのだ。「ゆとり」とは、課外の時間拡大とか教育内容の簡素化ではなく、むしろ「時間」
を長く広く活用してトコトン教育内容を深く広く進化(考え、推論し、読み解く連続線プロ
セス)させるための、「豊かなゆとり」であるはずだ。教育の本質は、「トコトン」やることだ。
授業時間を一日十分取って、場合によっては画一的な授業時間ではなくて、教科、テーマ
によってはフレキシブルな授業形態、時間帯で一日、ゆったりと教育と向き合う余裕、ゆとり
が大切だ。
今日、よく目にする昼の日中から下校の生徒が街にあふれている現状は、教育の質の劣化
を招く事例だろう。
初期、初等教育を受ける期間はせいぜい長い平均人生の10%程度、9年間だ。この期間
こそは、教育に豊富な時間を費やす季節だ。
「教育」とは、「未開のモノへの知識欲」、「旺盛な好奇心の喚起」なのだ。教育とは、よく言
われる社会に出て何の役に立つの、の「知識の詰め込み式」ではない、時間に拘束されない
自由な「知ること、物知り」のエンターテイメント(knowledgeable entertainment)。
モノの見方は多様であってもいいが、たとえば「ゆとり」概念のように取り違えては効果もな
い。
今のこの国に欠如している先見性、普遍性、連続線が教育に求められる。
の開発で先端技術を活用して効率的、画期的生産能力によるGDP(国内総生産)を高める。
教育(国民共有、共通の初期、初等教育)というのは、国民共有の人的資産として普遍性
の高い連続線が求められる底辺拡大型の能力資産。
普遍性、連続線が求められるので、教育方針の一貫性が必要なのは言うまでもないが、日
本の教育の現状は、近年、時代、社会の変遷に迎合して一貫性を欠いてきた。
高度成長期の「詰め込み式」から、多様な価値観の応用性に対応する「ゆとり教育」へと
転換して、しかし、その後基礎教育(知識)の劣化に危機を感じて、再び10年度からは教
育指導内容の拡大による「脱ゆとり教育」へと再転換する。
教科書は40%強もページが増えて、厚くなる。特に、理科、数学内容はともに70%弱
も増えて、自然科学系の教育内容の充実を目指す。
高度で先進的な科学技術の開発でノーベル賞受賞者も目立つ日本の、科学離れの傾向に
興味を促すものとなっており、また、世界各国と比較しての初等教育の遅れ(国際学力比較)
に配慮したものだ。
たしかに、国際学力の単純比較による初等教育の劣化には問題はあるのだろうが、こうい
う破片的、部分的、現象的なことに左右される国の教育視点、方針にこそ深い問題の溝があ
る。
「ゆとり教育」そのものは、教育の基礎アイテムの取り上げ方によっては効果のあるもの
なのだ。「ゆとり」とは、課外の時間拡大とか教育内容の簡素化ではなく、むしろ「時間」
を長く広く活用してトコトン教育内容を深く広く進化(考え、推論し、読み解く連続線プロ
セス)させるための、「豊かなゆとり」であるはずだ。教育の本質は、「トコトン」やることだ。
授業時間を一日十分取って、場合によっては画一的な授業時間ではなくて、教科、テーマ
によってはフレキシブルな授業形態、時間帯で一日、ゆったりと教育と向き合う余裕、ゆとり
が大切だ。
今日、よく目にする昼の日中から下校の生徒が街にあふれている現状は、教育の質の劣化
を招く事例だろう。
初期、初等教育を受ける期間はせいぜい長い平均人生の10%程度、9年間だ。この期間
こそは、教育に豊富な時間を費やす季節だ。
「教育」とは、「未開のモノへの知識欲」、「旺盛な好奇心の喚起」なのだ。教育とは、よく言
われる社会に出て何の役に立つの、の「知識の詰め込み式」ではない、時間に拘束されない
自由な「知ること、物知り」のエンターテイメント(knowledgeable entertainment)。
モノの見方は多様であってもいいが、たとえば「ゆとり」概念のように取り違えては効果もな
い。
今のこの国に欠如している先見性、普遍性、連続線が教育に求められる。