司馬遼太郎は、
「日本人の歴史を取りもどしてくれた」
これだけで十分な業績だ、とやかく言うことはないかもしれない、ひとつぐらいは言ってもいいかな・・・
それは『街道を行く』の「オホーツク文化」のエピソード、この時、司馬は、この文化を長年に渡って調べている床屋さんの意見を紹介、民間の郷土史研究家、そして、ある日の食事の際、コマイ(氷下魚)というサカナが出た、
「そういえば コマイという学者がいたな」
コマイとは「駒井和愛」博士、東大の教授でオホーツク文化研究の第一人者、ここで、私には、いぶかしい思いを抱いた、なぜ、この文化の第一人者の意見を紹介しないで町のシロウトのコメントばかり載せたのか、
1、知らなかった
2、百も承知でそうした
1ならモンダイはない、2なら、ちょっとフクザツ、そこに司馬遼太郎の処世術、あれだけの成功をおさめた秘密があったのかもしれない。
サンケイ新聞の記者の時代、国立大学と私立大学の学者の対立や確執(かくしつ)をいやというほど味わってきたはずだ、この二者と上手につきあわないことには、小さな記事のひとつも書けない、だから、オホーツク文化のケースはどうだったか。
以下はわたしの推測、駒井博士は早稲田を出て東大の大学院、そして幸か不幸か、東大の教授になった、まあー タイヘンな成功であろうか、しかし、東大の生(は)え抜きではない、ということは、駒井さんの弟子になっても将来性がない、学問は継いでくれるものがないと発展しない、つまり葬(ほうむ)り去られてしまう、中国人の学者が、
「学問とは もうひとつの政治である」
私は、駒井博士の論文を熟読した、詩人なのだ、学問と詩が融合している、そのテーマは日本列島に残る北方文化の影響、この北方文化はユーラシア大陸を渡りイングランドまで続いている、
「リンゴの花の咲くところに 北方文化がある」
スケールがちがう、格がちがう、ちょこちょことやって器用にまとめる、本人もそれほど分かっているわけではない、そんなのが大半だ、堂々たる男児の鑑賞に耐える、そのレベルではない、そもそも「堂々たる日本人」という言葉は死語か。
あの三内丸山遺跡が発見された時、駒井博士の透徹した研究を紹介したのは、たった一人、町立の考古資料館の学芸員だった。
つまり、海千山千の小説家は、オホーツク文化に対する駒井博士の研究を紹介すると東大の連中がいい顔をしない、今後、協力してくれないかもしれない、「街道を行く」ことができなくなる・・・
だから、これほどの世渡り上手が、李登輝さんとのあの声明、
「なぜ あんなシッパイをしたのか」
まあー ちいちゃなこと、ちいちゃなことネ。