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畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

過去の歴史の旅~其の1~

2011-08-21 04:44:00 | 旅行・観光
 今日からは、過去の歴史旅行の写真を公開します。


まず最初に、2006年8月15日に行った兵庫県神戸市にある五色塚古墳です。

 五色塚古墳は、4世紀の終わりから5世紀のはじめにかけて造られたと言われる前方後円墳です。1921(大正10)年3月3日に国の史跡に指定され、1965(昭和40)年から整備事業が始まり、1975(昭和50)年に復元が完成しました。



 全長は194mもあり、高さも一番高いところで18mもあります。小さい古墳は復元されたり公開されたりしていますが、これほど大きな古墳が実際に復元され公開されているのは、日本でここだけです。というのも、ほとんどの大きな古墳は天皇家につながる古墳で、立ち入ることはおろか、研究調査すらできない状況なのです。そう考えると、この五色塚古墳は天皇陵とは無関係と想定されているんだなあって思います。あまりに大きな古墳のため、写真で全体像が捉えられません(笑)



 こんな大きな古墳に乗ることができたのは、古代なら作っている農民か、豪族とその重臣でしかありえません。現代に生まれてよかった!



 古墳上には埴輪も再現されています。意外とこの埴輪って大きいんだなって実感しました。古代を知るうえでとても貴重な復元史跡です。神戸の鳴門大橋のすぐ近く。


五色塚古墳
公開時間=9:00~17:00
定休=月曜日

愛知・新城市観光~其の4~

2011-08-20 04:44:00 | 旅行・観光
 愛知県新城市。長篠城のついでに同じ市内にある「川尻城」に行こうと思いました。長篠城は旧鳳来町。川尻城は旧作手町。違う町ですがそんなに距離はないかな?と思いカーナビで調べたら9kmほど。だったら近いかな?って思って出発したら、なぜか急に目的地まで22kmの表示。直線距離で9kmでも道のりでは22kmもある。その理由は山道だからでした。


 途中お腹も空いたので、目的地の近くにある「つくで手作り村」という道の駅で休憩&昼食。

かなり人がきてにぎわっています。

おからコロッケ定食。800円でした。なかなかのお味。


 さて、お目当ての川尻城へ…その前に「亀山城」発見!

 行こうかどうか迷いましたが、今日は家族連れ。あまり史跡で連れまわすと正室の目が冷たい…。


 川城城は応永年間(1394~1428)に奥平貞俊によって築城されたと伝えられています。当時は周囲に土塁を備える平山城だったと本丸跡の説明版にありました。しかし、貞俊が川城城が手狭だったことから、近くの山である清岳に亀山城を築いて移ったと言われています。

 
 川尻城は公園になっている…というんですが、それらしきものがない。しかも駐車場も大きいと言うのにそれらしきもものがない。やっとみつけたのがこの看板。

 この看板をよく見なかったのが、さらに迷ってしまった原因。実はこの看板の後ろが駐車場でした。案内板も出てないのでよくわからなかったですが、よくみると、現在位置の下に駐車場って書いてありますね…。



 この道が川尻城?狭いし、駐車場がその西の道路にあるからそっちに止めようと思ったら、そっちの道は途中で未舗装に…。しかも城跡にたどり着かないし…。途中で引き返す。歩いて登ると、そこには釣堀があった。戻ってもう一度最初の看板に戻り駐車場を発見。



 最初の看板のちょっと東にこの階段があります。この階段を登ると、上の細い舗装道路に出ます。ちょっと歩くといよいよ目的地へ。



 復元冠木門です。ここが王手門(表門)だったのでしょうか。中に木柵も再現されていますが、草が生い茂っていて近づけませんでした。もうちょっと手入れできないもんですかね…。


 さらに5分ほどで「城跡広場」にたどり着くというので、歩いていくことに。そこでこの狭い舗装道の末路を見た。

 狭いのに谷側は舗装が崩れている。しかも山側には石段がある。軽くらいしか通れないような道。ここまでに車が展開できるようなスペースもありません。ここまで来たらこの狭いスペースを覚悟して「城跡広場」まで登らざるを得ません。絶対に、私が最初に見つけた看板の後ろの駐車場に止めて登る方がおススメです。



 「城跡広場」には「川尻城址」の木碑、トイレ、休憩所があります。あまり見所はありません。本丸に冠木門とか作ればよかったのに…なぜあのような中途半端な位置に作るのか…。しかも、案内図不足は否めません。


 せっかくだから作手の資料館にも行きましょう。

「作手歴史民俗資料館」。見学料無料です。

 しかし、残念ながら「川城城」のことは展示では全く触れていませんでした。むしろ「亀山城」の方が載っていますね。亀山城は発掘調査なども行われているようで、出土品が展示されています。

亀山城の模型…というか、地形模型も展示されています。奥平氏は、川尻城→亀山城→長篠城と移っていたようで、今回回った史跡はすべて奥平氏の史跡を回ったことになります(笑)



 亀山城の発掘調査では、小石が敷き詰められている遺構が発見され、屋敷の玄関ではと推測されています。このような遺構もあるんですね。勉強になります。


 結局、亀山城は訪れることができませんでしたが、様々な城跡と資料館を回れて満足満足!

愛知・新城市観光~其の3~

2011-08-19 04:44:00 | 旅行・観光
 長篠城があり、長篠・設楽原の戦いがあった愛知県新城市(旧鳳来町)。だからなのか、「新城総合公園」では、こんな子どもの遊び場がありました。

 「城攻めルート」って公園を城攻めに見立てた遊具があります。早速我が嫡男と娘が攻略します。



 いざ!攻略。城の攻略には3ルートあります。急斜面を登って素早く攻めるなら「忍びルート」。真ん中を通って堂々と攻めるなら「将軍ルート」。1つ1つじっくり攻めるなら「武将ルート」。という説明版がありました。将軍ルートは堂々と攻めるって書いてありますが、どうみても真ん中の花道階段を通っているので、攻めると言うよりは登城している感じです(笑)
 私はやっぱり男児たるもの「武将ルート」!そっちから攻略するぞぉ~…と思いきや、我が嫡男は「わぁ~滑り台がいい~」と言いながら「忍びルート」にまっしぐら…(笑)



 「斜面城」って書いてあります(笑)。ここを登って攻略だ。



 やっと「斜面城」を攻略。高いところまで来たなあ。むぅ、我が一門以外攻略の士がいないぞ。仕方ない、こんな城我が一門だけで攻略してくれるわ。



 「忍びルート」から「武将ルート」に合流。城の防護柵が鉄壁じゃあ。しかし、我が能登畠山一門は精鋭ぞろい!行くぞ我が息子ぉ~!
息子「はぁ~い」



 城の防護柵を抜けたらいよいよ本陣へ突入じゃ。「かぶと広場」から、城門をくぐって本丸へ。



 城門を破って本陣へ突入。本丸は石垣でおおわれる堅い造りだ。



 城門の東には隅櫓がある。敵兵を追い落とし、我が軍が占拠したぞ。本丸攻略も近い。



 本丸郭はなかなか広いぞ。目標は左前方にある二の丸だ。



 本丸郭の板塀は窓も特徴的だ。攻略は近い!



「かちどき広場」を我が軍が占拠し、敵の本丸を落としたぞ!みな勝鬨を上げろ~!
うむ、それにしても、この庭石。なかなか雰囲気がよいな(笑)



 よし、我が城七尾城へ戻るぞ。帰りはこの城の二の丸に設置された脱出用滑り台で一っ跳び!


 ちなみに「将軍ルート」だとこんな感じです。

障害物は全くないので、本丸へすぐに登れます。



 これは「武将ルート」の合戦場遊具です。石垣が組まれています。

 石垣は粗雑なつくりですね。もうちょっとしっかり造ってほしかったなあ。



 これは「武将ルート」の出城遊具。出城っぽくないけど、石垣が何層もの郭になっているのはそれらしい点だなあ。



 これは「武将ルート」の城下町遊具。我が娘が、私が制圧した城下町で遊びたいと駆け出す(笑)

 城下町では、屋根に登って遊ぶこともできる。きっと地下倉庫の屋根なんだろうな。ちなみに、この遊んでいる人たちは私の一門ではありません。


 歴史的な雰囲気を残した遊具ってのは面白かったな。後はもうちょっとこだわって再現してくれればよかったかも。でも、それなりに面白かった。庭石の再現が歴史マニアにはニヤっ!


<おまけ>
新城総合公園には、とても高い展望台があります。

 基礎台で2階分ほどの高さ。展望台で6階分くらいの高さがあり、60mくらいの高さがあるでしょうか。この風景を見たら
「スガ少年のガンバッた後の姿があれやねんで!」
って言葉を思い出しました。この言葉だけで何の番組か当てられたらスゴイ(笑)


ちなみに、展望台からの景色がこちら。

高い分、遠くの景色が良く見えます。鳳来の街が一望できます。ただ、6階分の高さを階段だけで登らなきゃいけないので、ちょっとキツイ(笑)

 おもしろい公園でした。

愛知・新城市観光~其の2~

2011-08-18 04:44:00 | 旅行・観光
 愛知県・新城市にやってきました。続きです。「長篠城」と「長篠城址史跡保存館」「馬場美濃守信房の墓」に行ったついでに行きたい場所を紹介します。



「長篠城址保存館」から車で15分ほどの「設楽原歴史資料館」です。ちょうど企画展「山縣昌景と竹広火おんどり」をやっていました。


 この資料館では、「長篠・設楽原の戦い」関連や火縄銃関連の展示物が多かったです。

 野田城の模型がありました。三方原の合戦で、徳川軍を破った武田軍が1573(元亀4)年にさらに進軍してきて菅沼定盛が守る野田城を攻撃したと言われます。結局は武田軍が勝ち、その後の長篠・設楽原の戦いに繋がります。

 長篠の戦いの位置関係などを把握できて、学習になります。ぜひ長篠城址保存館とセットで来たいですね。



 そんな中で今川氏真の古文書がありました。1561(永禄4)年に、冨賀寺寺領の安堵状で、三河国の領国安定化に努力した氏真の痕跡が見えました。やはり氏真は凡庸な武将ではなく、努力したけれど時代にあらがえなかっただけのようですね。氏真の花押が見れたのがラッキー!



長篠の合戦で大量に鉄砲が使われたことから、この資料館でも火縄銃の展示が多いです。

これは「サーペンタイン」という火縄銃の原始的な構造の銃や、火縄銃作るまでの苦労、火矢筒、信玄砲、日野筒など様々な火縄銃の歴史が学べます。


 また、火縄銃のレプリカがあり、訪問者が持てるコーナーがあります。といっても私も火縄銃のレプリカ持っているんですけどね(笑)



 そしてこれまた武田氏ファンにはたまらない「家督遺言之事」(複製)が展示されていました。企画展で「山縣昌景」を取り上げるあたり、この資料館でも好意的に武田氏を取り上げています。このあたりの地は、今川・松平(徳川)・武田としょっちゅう領主が変わったからあまりひとつの家に思い入れはないんでしょうかもしれませんね。



 受付では図録が売っています。「長篠城址史跡保存館」と共通の資料も多いですが、独自の資料も売っています。私は2006(平成18)年の企画展の図録「戦国の夢を追いかけた武田信玄・勝頼展」を買いました。また福井市立郷土歴史博物館「越前山縣家と武田信玄」の図録も売っていたので、それも購入!


 さて、次はこの資料館から徒歩で5分ほど、車で2分ほどの「馬防柵」を見に行きましょう。

 説明版をみると、織田軍と徳川軍の馬防柵の組み方を区別して表現してあると書いてあります。差は「攻口」(出入り口)の設け方にあるといいますが…詳しい説明があればよかったなあ。

 写真を見返してもう一度見てみよう。この上の写真のタイプの「攻口」は木柵をずらして「攻口」を作っています。

 上の写真は、木柵をずらしただけでなく、冠木門のような「攻口」を設けています。「攻口」としても出入り口が大きいですね。これが答えなのかいささか不安はありますが。


 明日は、家族旅行で行った「新城総合公園」が一風変わっていたので、それを取り上げたいと思います。

愛知・新城市観光~其の1~

2011-08-17 04:44:00 | 旅行・観光
 家族旅行で来た愛知県新城市鳳来(旧鳳来町)。遊びに来たのは「新城総合公園」だけど、近くに「長篠城跡」の看板が見え結局家族を連れまわして行くことに(苦笑)


 長篠城は1508(永正5)年に、今川家の武将・菅沼元成が築城したと言われます。桶狭間の戦い以後、今川家が力を失ってからは徳川家に属し、さらに武田家が影響力を持つと、他家だと徳川の間でさいなまれることになります。



 長篠城跡にあるのが、「長篠城址史跡保存館」。こちらでは、現地の出土品のほか、武具や長篠合戦に関する資料を展示してあります。



 これは「床机」(しょうぎ)といい、合戦時の簡易用イスです。座ることができたのは指揮官のみと説明文にありました。今川義元や武田信玄が座ってそうなイメージのイスですね。他にも、「陣中水呑み」「軍配団扇」「携帯用食器」など戦国合戦にちなんだ展示があります。



 また長篠の合戦にちなんで火縄銃の展示も多かったです。「早合」(はやごう)などの展示もあります。他にも「長篠の合戦屏風」「長篠の合戦模型」などがあり、長篠の合戦について学習できます。結構意外だったのは、資料館が徳川ヒイキで武田は侵略者という観点でなく、合戦で負けた武田氏側の方がむしろ積極的に取り上げられています。武田氏ファンにとっては意外に穴場かもしれません。(まあ、負けた戦場に来るのは嫌かもしれませんが…)



 また、発掘調査の出土品なども紹介しています。瀬戸物の陶器や常滑の陶器など国産の陶器ほか、青磁・白磁などの輸入陶器も出土していて、その品が展示してあります。



 保存館では書籍も販売しています。私が買ったのは「ガイド長篠の戦い」「戦国の礎となった仙丸たちの物語」と、長篠の合戦のクリアファイルを購入。


 さて、今度は長篠城本丸に行きましょう。



 駐車場や保存館がある場所は「帯廓」といって、本丸に付帯する郭です。本丸との間には結構な空堀があります。



 かなりの深さですね。写真左が帯廓で、右が本丸。右の本丸はさらに土塁があり高くなっています。



 「長篠城縄張概図」です。これをみると「長篠城」は、宇連川・寒狭川に囲まれた天然の要害であることがわかります。本丸の奥に「野牛郭」というのがありますね。そちらが搦手門(裏門)でしょうか。



 本丸の土塁です。空堀で掘った分だけ土塁を積み上げたのでしょう。結果、かなりの高低差になっています。



 本丸郭はかなり広いです。

 本丸入口には、「史蹟長篠城址」の石碑が、本丸内には「長篠城本丸跡」の木碑があります。



 「野牛郭址」は本丸からはうかがい知ることができません。しかしわかることは、本丸跡と野牛郭跡は段差がありますね。きっと川が削ったのかもしれません。



 本丸跡にはJR飯田線が走っています。本丸跡だけでなくもっと長篠城を一体的に見れる公園になれるといいのですが。また、長篠城址保存館にも長篠城の模型もなく、どのような形の城であったのか、地図だけでは全体像がつかめませんね。


 長篠城の近く(歩いて10分ほど)に馬、さすが長篠の合戦の場になったところというか、場美濃守信房の墓がありました。

 説明版によると、馬場美濃守信房は長篠の合戦で、退却する武田勢の殿(しんがり=後方隊)を務めて戦死したので、その首を埋めた場所と言われているそうです。


 さらに、この近くの戦国見どころとして、「設楽原歴史資料館」と「長篠の合戦馬防柵」があります。それは後日。