ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

呻き声

2024-01-12 09:29:09 | 日記

暖かい冬は一寸苦手だ。

いや、寒いのが好きな訳ではない。また夏の暑さも好きではない。でも寒いはずの時に寒くないのは気持ち悪い。

あれは私が長期の難病治療のため自宅にて安静生活を送っていた二十代半ばの頃だ。あの頃は治療が上手くいかず、再発と安定を繰り返していた。ステロイドという薬を飲み続ければ病状は安定した。しかし副作用の強さからなるべく服用量を減らしたい。

主治医のN先生も苦心して、漢方を併用したり、免疫抑制剤を使ったり、あるいはジェネリック医薬品を試したりしたが、どうしても一定量以下には出来ずにいた。体力は著しく低下しており、軽いバイトさえ無理であった。

とにかく自宅に引きこもって薬を飲んで寝るだけの毎日だった。体はそれで安定したが、心が持たなかった。自分に生きている価値があるとは思えなかった。単に社会に寄生するだけで、生きている楽しみとか充実感がまるでない生き方に嫌気が差していた。

せめて死ぬ時ぐらい役に立ちたかった。山林で死ねば、死体が小動物や昆虫の餌になり、草木の栄養になるだろうと考えて、山麓の奥深く、森に囲まれた場所で野垂死にしたいと夢想するようになっていた。

ただ一点、悩みがあった。死ぬのはイイ。人はいつかは死ぬものだ。ただ穏やかに死にたい。苦しいのは嫌だし、死んだ後も苦しむのは嫌だ。

ん?

死んだあとを何故に悩むのか。このあたり、私もよく分かっていないのだが、人は死に方によっては死後も苦しむであろうことは、なんとなく知っていた。多分、まだ小学生の頃の記憶だと思う。

その当時、私はボーイスカウトの年少組であるカブスカウトに入っていた。毎年夏は富士山麓のキャンプ場に集まってのイベントがあった。以前にも書いた野犬に襲われそうになったのも、このイベントの時のことだ。

キャンプ場自体は広い野原でやっていたが、肝試しとかハイキングとかは富士樹海でやることが多かった。あれは山中湖近くの山にハイキングに行った時のことだ。この時は参加者が予想よりも多くて、バスの台数が足らなかったため、山裾のロッジでバスを待つ最終組に私は入っていた。

バスが来る予定時刻まで二時間近く待つと聞き、同じ班のメンバーはトランプを始めたが、私は一人抜け出して森の中へ散歩に行った。悪名高き青木ヶ原樹海だが、当時の私はそのことを知らなかった。実際、夏の夕暮れ時の森のなかは風が涼しくて気持ちよかった。私は小一時間、森のなかで柔らかな苔の上でまどろんだ。怖さとか、危うさなんて全く感じなかった。

そのうちバスが来る時間が近づいたのでロッジに戻って、無事キャンプ場に辿り付けた。この時の経験から、静かな森の中で長閑にくつろぐ楽しみを知った。いつか一人でやりたいと思っていた。

そのチャンスはけっこう早く訪れた。忘れもしない小学校3年生の時だ。当時の私は非常に荒れた子供だった。米軍基地の隣町から、この長閑な住宅地に引っ越してきたが、そこの子供たちとは決定的に合わなかった。白人の子供たちと頻繁に揉めた幼少期を過ごした私にとって、話せば分かるとか、一緒に手を取り合って笑顔を交わせば大丈夫なんて科白は唾棄すべきものでしかなかった。

一番の難敵は、脳内お花畑で平和を夢見ている担任の先生だった。こいつが敵に回ったせいで、私はいじめの対象となった。ほぼクラス全員だけでなく、他のクラスからも狙われていた。でも一対多数では勝てなくても、放課後帰宅時に一人でいるところを狙ってやり返した。おかげで幾度となく交番に連れていかれた。

だから学校をさぼるようになった。親や妹たち、祖父母に心配をかけたくなかったので、近所ではなく電車で一本、小一時間でいける高尾山周辺でさぼるようになった。ここは遠足の子供が多く、その中に混じるようにして、駅員やマッポの目をかいくぐった。

ちなみに小遣いはけっこうあった。虐め返して泣かした奴らから詫び代と称して小銭をもらっていたので、交通費どころか食事代も大丈夫だった。ただ既に12月であり、森に入っても虫取りは期待できず、仕方なくエラリー・クイーンのミステリーを日向で読むことにした。

大人に見つからないように、山林の奥まで入り込み、日当たりの良い原っぱで寝転がり、本を読んで時間を潰した。この冬は12月にしては妙に暖かかった。それも生暖かい空気が悩ましかったのはしっかりと覚えている。

日差しも眩しいほどで、文庫本を閉じてうたた寝をしている時のことだ。夢うつつな感じで、意識が半分起きているが、横たわったままの空ろな気分の私の耳に妙な声が聞こえてきたように思う。最初は分からなかったが、遠くから呻き声が耳に届いた。

いや、耳に聞こえたというよりも脳裏に響いた感じだった。声の具体的な内容は分からなかったが、苦しんでいるように聞こえた。それに気が付いて、慌てて目を空けて上体を起こした。まだ日は高く、日差しは暖かいのに、妙な寒気がしたことはよく覚えている。

改めて周囲を見渡したが、人の姿なぞなく、気が付いたら呻き声も聞こえなかった。まだ暖かいが、さっきよりも生暖かく感じて、それがなんとなく嫌だった。別に実害はないが、鈍感な私でさえ不快に感じるのだから、ここは居てはいけないと考えて、予定より早いが駅に向かって戻ることにした。

高尾山と書いたが、実際は八王子寄りの丘陵地帯であり、傾斜もゆるく安全なはずの場所での不快感に戸惑った。こんな時は、おばあちゃんの教えに従い神社にお参りしておくのが良い。なので、駅の近くにあった神社に立ち寄って、少しだけお賽銭を投じ、お祈りして立ち去った。

その後のことだが、図書室で借りた歴史の本で秀吉の小田原攻めを読んで、いささか私はあわてた。小田原攻めの前に秀吉は懲罰的な意味で周辺の北条氏の城を攻めて大虐殺を行っている。その代表が八王子城の殲滅戦であったことを知ったからだ。

もっとも私の耳にした呻き声が、その怨念であるとは言わない。ただ小学生の頃の私は野山には人が入ってはいけない場所があることぐらいは知っていた。何度も書いているが、私は幽霊だのお化けなどを視たことはない。ただ怪しい声は聞いたかもしれない。

実際、二十代前半に長期入院した大学病院では、既に亡くなっていたはずの患者さんの話声を耳にしたこともある。当時、寝たきりであったので確認こそ出来なかったが、あの特徴的な声は前夜に亡くなったはずの人の声だった。

多少自覚があるので、私はけっこう物音に敏感だ。だからこそ野山で野垂れ死ぬのにいささか躊躇いがある。変な言い方になるが、野山には入り込むのに抵抗感を感じる妙な場所は確かにある。そして、そんな場所は寝転ぶのに丁度良かったりするからだ。

多分私は病院の病床で死を迎えるはずだ。だからこそ、野山で自然死というか野垂死にしたいとの逆説的な願望を持っている。朽ち果てて自然の糧となって死にたい。でも、これは親族などには迷惑な行為であることも承知している。

それと死んだあとの心配をするのも変だが、野山にそっと聞こえるような呻き声を上げる幽霊にはなりたくないとも思っている。まぁ、こんな他愛もないことを考えているうちは、実行することはまずないのも分かっているのですがね。

コメント
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