なんだろう、この気持ち。
嫉妬、羨望とも違う。いや、微妙に違うだけで、心の奥底には嫉妬も羨望もある。だが憧れも敬意もあるのは確かだ。しかし、上手く言葉に出来ないもどかしさが、心の中をグルグルと渦巻いている。
私が山野井君を初めて見かけたのは、多分日和田山のゲレンデだと思う。森先生から「彼が若手のホープの一人、山野井君だよ」と教わった。丁度、登攀している最中だったので、見学させてもらった。
丁寧なムーブと、足の運びの慎重さが印象的なクライミングであったと記憶している。その時は特に挨拶等はしなかったと思う。その後、伊豆の岩場で再会しているが、驚いたことに彼の方から挨拶してきた。
どうも、私が日和田のゲレンデで中級コースに悪戦苦闘しているのを見ていたらしい。凄く赤面したことを覚えている。私の表情をみて、「僕も昔は下手でしたよ」と慰めてくれたが、余計に恥ずかしかった。
その後、私は身体を壊して闘病生活に入り、クライミングどころではなくなっていた。しかし、当初は諦めずに、また復活するぞと意気込んでいた。だから「山と渓谷」「クライミング・ジャーナル」「岩と雪」などの雑誌には目を通していた。
そこ頃になると、山野井君はフリークライマーの登攀中の写真をよく撮っていたようで、カメラマンに転向したのかと思ったら、とんでもない勘違いであった。
彼はアルパインスタイルの登山に向けて資金稼ぎをしていただけ。それも未踏ルートを中心にした単独行の登攀ばかり。当時の山岳界の動向はよく知らないが、植村直己がアラスカのマッキンレーで遭難死して以降、アルパイン・スタイルを強く志向しる若手登山家は絶えていたはずだ。
死と背中合わせの登山を求める山野井君は、その後本当に世界各地の難しい高所登山に挑み、時には敗退することもあったが、世界にその名を轟かす登山家としての名声を得ていた。
フリークライムの平山君と、アルパインの山野井君は、日本の登山界を牽引する実力者に育っていた。そんな彼らの姿は、登山を諦めざるを得なかった私には眩し過ぎた。
もう山関係の雑誌を購読することも止めていた。ワンゲル部に顔を出すことさえ控えるようになっていた。難病は結局治らなかったが(それが普通です)、幸運なことに、社会復帰が可能な程度には回復していた。
療養中に税理士の資格を取った私は、それを活かして未知なる業界に足を踏み入れ、もう山のことは忘れ去った。いや、忘れようと真剣に努力した。余計な雑念だと思い、ひたすらに仕事に集中した。
だから、山野井君が奥多摩で熊に襲われた報道を知った時は驚いた。奥多摩の熊はとっくに絶滅したと思っていたからではない。第一、私が学生の頃はいたしね。驚いたのは、凍傷で指を十数本失くしていた彼が、今もアルパインクライムを諦めていなかったことだ。
それも、難関中の難関である、あのオーバーハングの化け物であるマカルー西壁を狙っていただなんて。あたしゃ、記事を読んで唖然としてしまったよ。
元々、アルパインクライミングは死と背中合わせの登山である。ルールがあってないような登山の世界において、唯一無二のルールがあるとしたら、それは生きて帰ることだと私は信じている。
山野井泰史という登山家が今日まで生き延びたのは、いざと云う時に撤退の判断が出来るからだと聞いたことがある。それはそうだろうと思うけど、あの身体でマカルー西壁を狙うのかい?
正直、素直に賞賛できない。かといって反対もできない。なんだろう、このモヤモヤした気持ち。多分、妬みなのだと思う。難病ゆえに諦めた私には、あれだけのハンデを背負いながらも難関に挑む彼が眩し過ぎる。
どうも、私は思っていたよりも未練がましい性格らしい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます