あまりコリアねたは書きたくないのに、今回書いたのは、日本にも似たような悪癖があることを再度指摘したいからです。
勝って兜の緒を締めよとは、昔から良く言われる事です。良く言われるのは、それなりに理由がある。やはり、この警句とは逆のことが横行しているからでしょう。
日本にとって日露戦争がその典型的な例でした。
日露戦争は、世界史的にも非常に意義の高い大事件でした。近代以降、非白人国家が、白人国家に戦争で勝った最初の事例です。この戦いでの日本の勝利に、欧米に植民地化されたり、制圧されている世界中の国々が歓声を上げたことは良く知られています(日本以外ですが)。
もちろん、日本でもこの勝利は大々的に宣伝され、国を挙げてのお祭り騒ぎになったほどです。私も一人の日本人として、この勝利を誇らしく思っています。そして同時に悔やんでいます。
なぜ、勝って兜の緒を締めなかったのか、と。
たしかに日本はロシアに勝ちました。でも、その中身はかなり問題があるものでした。一言で云えば、失敗続きの日本以上に、ロシアが大失敗を繰り返したが故に日本は結果的に勝った。それが日露戦争でした。
少しだけ具体例を記しておくと、ロシアは要塞に立て籠もり、日本軍の攻撃を防いたのだが、糧食に野菜が少なく、その結果ビタミン不足から将兵の多くが壊血病にかかり、まともに戦闘が出来なくなった。皮肉なことに倉庫には大豆の豆があった。これを発芽させてモヤシとすれば、ビタミンを採れたのだが、その知恵はなかったようだ。まァ、おかげで兵力に劣る日本軍は旅順要塞を奪取できたわけだが。
他にもいろいろあるが、それはロシア側が反省すれば良いこと。ちょっと弁護しておくと、当時のロシアは共産主義革命前夜であり、ロシア軍を率いる将校たちはロシア貴族であるがゆえに、故郷のことが心配でしかたなかった。それゆえに、すぐに撤退したがるのも無理はないかもしれない。実際、革命が起きてロシア貴族は皆殺しの目に遇っているのだから。
それはともかく日本軍である。とにかく、ひどい作戦指揮であった。司馬が美化したせいか妙に英雄的に語られる児玉総参謀長なんて、お気楽、能天気で、現場からくる慎重な意見はすべて却下して、いけいけドンドンで進軍させている。おかげでロシア軍の猛反撃に遇い、多くの日本将兵が死傷している。遼陽での戦いだけでも、日本側の被害はロシア側の二倍以上である。如何に作戦指揮が不味かったのかが分る。
日露戦争は新兵器のお目見えと披露の場でもあった。なかでも10年後の第一次世界大戦で戦場を支配した機関銃が、主役として登場した最初の国家戦でもある。機関銃はその後の戦術を一変させたと言われるほどの革新的な兵器であった。
なにしろ引き金を引き続けている限り、その銃口から途切れなく銃弾が発射される。機関銃が戦場に撃たれる度、死傷する敵兵が戦地を埋めていくのだから凄まじく悲惨である。後の塹壕戦は、この機関銃あってこそである。
もちろん日本軍もフランスから、ロシアもドイツから新式の機関銃を持ち込み、戦場で使用したのだが、その使用法はだいぶ違った。ドイツから派遣された技術者の指導の下、効果的に日本兵を撃滅するロシアに対し、日本はうまく使いこなしているとは言い難かった。もちろん日本の事情もある。まだ経済的に小国の域を出ない日本では、銃弾を雨あられの如くまき散らす機関銃は、あまりに金食い虫であるため、上層部が嫌がった。
おかげで日本兵は、ロシアの機関銃の前に死傷者の山を築くありさまである。日本軍の参謀本部にとっては、日本兵の若き命よりも、高額な機関銃用の銃弾の使用を減らすことのほうが大切であったようだ。
またこの戦場では、新型の榴弾砲も導入された。大型の砲弾を上空に放ち、敵陣地に落ちて爆発する榴弾砲弾は威力絶大であり、戦局を大いに左右する重要な兵器であった。もちろん日本軍も導入していた。
導入はしていたが、戦場ではあまり活躍していない。なぜか?榴弾砲は大型砲であり、その重量も相当なものだ。ロシアは簡易線路を引いて、移動を容易にしていたが、攻める側である日本軍は牛と馬に榴弾砲を牽引させていた。
日本よりもはるかに寒い中国東北部での戦闘である。雪が降ったら牛や馬は使えない。そのため、戦闘を急がざるを得なかった事情は分かる。しかし秋の雨が道をドロドロにしてしまい、戦場に榴弾砲を運ぶのに四苦八苦。結局、最後は人力で運搬していた。でも戦闘には間に合わないことが多く、あまり役に立たなかった。
他にも沢山あるのだが、日本軍はとにかく事前の想定と、実際の現場での違いから戦場で無用の努力を繰り返している。これで勝てたのが不思議なくらいである。戦闘での戦い方よりも、戦闘に至るまでと、戦闘後の処理など後方での失態が多いのが日露戦争での日本軍であった。
戦争に勝ったのは良い。しかし、死傷者にあふれる過酷な戦争であり、その死因は間接的には日本軍の稚拙さにあるのだから、本来ならば大いに反省すべきであった。まさに、勝って兜の緒を締めるべきであった。
しかし、反省をしなかった。とにかくあの大国ロシアに勝ったのである。勝ったのだから、良いではないかと反省をしなかった。勝って兜の緒を締めるどころか、放り出す醜態である。
日露戦争における反省点は、戦場ではなく、戦前の情報収集、その分析、そして実際の兵站での運用の失敗である。はるばるユーラシア大陸を横断してきたロシア軍よりも、はるかに距離的に近い戦場での日本軍の失態が、より愚かであるのは明白である。
でも反省しなかった。勝ったのだから良いではないかと誤魔化した。
もちろん改善した部分もある。三〇式小銃は不具合が多過ぎたので、三八式小銃へと改良された。これは良いが、その反面、小銃以上に多くの敵兵を殺したはずの機関銃には冷淡であった。この金食い虫の武器を積極的に評価しようとしなかった。この判断がのちのアメリカ軍との戦いで致命的なほどの差を産んでしまった。
重い榴弾砲の運搬をしくじったことも改善されなかった。日本軍の失態を閲覧していた各国の武官たちは、移動手段としてキャタピラ装備のトラックなどを提案したのとは大違いである。
情報入手の失敗と、その情報分析の失敗はなかったことにされた。参謀本部の判断ミスはなかったことにされただけでなく、意見を差し挟んだ現場の将官たちは、戦後更迭されたり、重要部署から外されている。その一方で判断ミスをしたほうが出世するのだから、その後の日本の迷走も止む無きことなのかもしれない。
日露戦争の勝利は、日本に重大な問題を生み出してしまった。一つは、上層部(エリート)の判断は結果責任を問われないとした悪しき前例を作ってしまった。これは今日に至るまで踏襲されていることは、是非とも覚えておいて欲しい。今も霞が関のエリート官僚たちは、自分たちの政策ミスを決して認めないし、その結果責任をとろうとはしない。その第一歩が日露戦争なのだ。
もう一つは、悪しき精神主義を確立させたことだ。兵器の技術で劣る日本が勝てたのは、日本人の精神力、大和魂のおかげである。そう精神論に逃げて、技術面での遅れを誤魔化した。そして軍隊内部における上官から部下へのイジメを正当化させた。後々、日本軍の伝統だとされた、意味なきシゴキは日露戦争の後から本格化したことも覚えておいてほしい。
歴史上の事実を直視せず、机上の理想論に逃げたが故に、日本はその後、大陸での戦争に向かい、遂にはアメリカに牙を向けて原子力爆弾の前にひれ伏した。
いきなり飛躍したように感じる方もいるだろうが、世界大恐慌からシナへの侵略、アメリカとの開戦の始まりは、不快な現実に目を背け、麗しき精神論に逃げた挙句の失態であったと私は考えています。その始まりが日露戦争という偉業であったのです。
今、隣の半島に現実忌避の理想逃避をやっている馬鹿な国がありますが、あれを見ると私は日露戦争後の日本の迷走を思わずにはいられません。
これ!映画、「二百三高地」を見た時に、私も唖然としてしまいました。
「何、これ!?」って感じで、どうして勝利出来たのか不思議なくらいです。
この映画を見た限りでは、乃木将軍が何で英雄視されてるのかも不思議なくらいでした。
幕末後、日清、日露の歴史ももっと勉強しよう~っと。
反面、実戦指揮官としてはどうでしょうか。戦いは勝てば良いのであって、人格者である必要はないです。まァ、その作戦の稚拙さは、将軍一人でなく、軍上層部が連帯して責を負うべきだと思いますけど。