入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

      ’25年「冬」(29)

2025年02月07日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

 昨日のPHと同じ日に同じ携帯で撮った写真が、サイズが大き過ぎたと、しかしこれはOKだと
 
 今もそれが定説かどうかは知らないが、確か心理学の先生が何かの本に書いていた。人間の欲望に関しては社会欲が最も強く、食欲、性欲ではないという。意外な話に驚いたのは20代もしくは30代のころだったと思う。
 人間は社会的な動物であり、意識的であれ、無意識的であれ、常に社会と繋がっていたいという欲求、欲望が他の二つの欲望よりも強いというのだ。
 単独行で有名な加藤文太郎が、冬季の長い山行が終わりにさしかかると、人里恋しさに耐え切れず走って山を下ったとか、黒部の開拓に偉大な足跡を残した冠松次郎が冬山の寂しさは「歯に沁みるようだ」と言ったことを思い出した。
 
 この社会的な欲望というのは、そういう単純なことよりか、仕事で成功して社会に認められたいとか、政治家になって世の中を変えたいとか、医学や科学の世界で名を成したいとか、そういった社会的な評価を得たいという欲望を主に指すのだと思うが、過去も現在もわが身に関しては、三つの欲望の中では最も弱いのがその社会的な欲望だと思っていた。これまでも時々口にしてきた「深い悲しみの中の諦め」でもある。

 ところが昨日、携帯電話を充電しようと思ってコードを繋いだところ、その表示が出ない。前も充電に難があり、新しくした方がいいと教えてくれる人いて、買い替えてからまだ1年すら経っていない。
 牧場では、携帯はドコモしか役に立たないことが多いし、内蔵されているカメラのことも考えて、その時も20とウン万円もしたが迷わずアイホンにした。3台目である。
 
 前段が大分長くなってしまったが、焦った。電話のどこかに不具合があって充電できなければ、当然使用することができなくなる。電気の残量も風前の灯に近かった。
 そう思った瞬間、先述した社会的欲望が頭に浮かんできた。いろいろ言っても、冬眠中のクマのように社会の片隅にいても、しっかり、すっぽり、細い糸で社会と繋がり、その中にいなければ生きていけない身だと改めて思い知らされ、万歳した。

 それが昨夜遅くの出来事で、またドコモショップとやらに行って、不快な思いをしなければならないかと思うと気が重くなってきた。そして手にした恨みの電話機とそこにぶら下がったコードとをしみじみと見た。
 と、コードの一部分に視線が走り、目が点になった。呆れたことに、ネズ公に齧られたと思しき跡がそこに残っているではないか。
 
 先ほど、携帯を買った店に行き、案の定たった1本のコードを買うためにもったいぶられ、待たされ、散々不快な思いをして帰ってきた。
 電話機は、只今充電中。
 本日はこの辺で。
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      ’25年「冬」(28)

2025年02月06日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 午前8時の外気温零下6度、室内は零度と、温度差はちょうど里と上ほどの違い。そうなると、上は零下10度を超えていることになる。
「最強、最長の寒気」だとか、いろいろな言葉で警報を出しているが、それでも避けることができない被害はいくらでもある、続く。

 こういうことを言っておきながら、能天気と取られかねないことを口にするのは気が引けるが、昨夜も散歩に出た。雪は舞う程度でも、風は結構強く吹いて荒れた天気だった。
 胆石が流れたのも、夜の散歩のお蔭でもあり、その思いを噛みしめながら歩くつもりでいたとはいえ、曇天と分かる夜空にはぼやけた月の光が見えるだけで、ヒューヒューと泣く風の音が止めとけと言っているようだった。
 ところが、いつもの晩酌が済むと、段々と気持ちが怪しくなってきた。こういう天気を押してでも、歩きたくなってきたのだ。自分でもよく分からない心境の変化で、酒の力だろう。
 もう一つ言えば、毎夜見ている政治討論の番組に飽きが来ていたことは間違いない。論者も疲れているだろう。

 きょうの写真、正面がわが古里の山、経ヶ岳。この散歩中に「長い下り」というのはこの辺りのことを指し、すでに坂の半分ほどを歩き終えた所で撮った1枚である。
 写真では草に隠れて分からないが右手に用水路があって、そこを流れ下る水の音を聞きながら大腿四頭筋を効かせて力強く歩けば、厄介な石もたまらずに落ちてくるのではと期待していた。
 そのためかどうかは分からないが、いくらかでも効果があったとすれば、あったと思うし、そう信じたい、その報告を少しでも早くしておきたくなってきたのだ。

 洞口の坂ではまだ迷いがあった。しかし、開田に出れば最早それはない。歩きながら、胆石という小さくも重い荷を下ろしたような気分がし、さらには風は意外にも南風で、押されるようにして歩く。爽快この上ない。
 貝原益軒先生が仰っていた。「歳を取ると一日は短い」と。だから老いの一日は若いころの十日分、いや百日分?、の価値にも匹敵すると思って生きなさいと。
 
 何日分の価値があったかまでは言えないが、あのまま遠い世界で起きていることを、旅の車窓から眺めるように見て聞いて過ごすよりか、散歩の方が余程良かったことはだけは確かだ。7時半出発、9時半帰宅。有難う、1合5勺の日本酒と500㏄のビール、そして夜の道。クク。
 本日はこの辺で。
 
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      ’25年「冬」(27)

2025年02月05日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

    峠の手前で伐採が始まり、クマさんの心配がなくなった
 
 経ヶ岳の中腹から山頂付近はきょうも雪雲の中、ますます積雪量を増やしていることだろう。幸い、あの雪はここまでは来ない。列島は、まるで雪に埋もれてしまったかのような映像を連日目にするが、南(赤石)と中央(木曽)の二つの山脈に囲まれたここ伊那谷は、そのせいでか寒さは酷しくも雪は比較的少ない。
 子供のころはそれが不満だったが、今となっては有難いと、テレビで除雪に苦労する人たちの様子を見ながら思う。

 そんな子供時代であったが、標高は700㍍前後のため気温は低く、一度雪が降れば日陰や里山にはいつまでも雪が残り、橇滑りができた。近くの田圃では一日中氷が張っていたから、スケートもできた。
 以前にも呟いたように、小学校の校庭にも立派なスケートリンクがあったが、ここは滑れる時間に制限があったから、滑り足りないと家に帰ってきてから田圃のリンクへも行った。
 スケートは下駄スケートと言って、下駄にスケートの刃が付いていて、それを真田紐で固定するのが一般的だった。靴下でなく足袋を履いた。橇は自作した。

 とにかく何もしないでいたら寒いのだ。家の中でもそうだった。風に乗って戸外で遊ぶ子供たちの声がすれば、家の中にいられなくなってその仲間に入れてもらった。「子供は風の子」などと言われ、身体を動かしていれば暖かくなるから、暗くなるまで外で遊ぶ毎日だった。
 先日もそんな話をTDS君としていて、今の子供とわれわれの時代とを比べ、どちらを選ぶかという話になった。二人とも今でなく、自分の育った子供のころを選んだ。今よりかわれわれのころの方が、子供らしい遊びや楽しさがあったような気がするのだ。懐古趣味の誹りを受けるかも知れない。

 もちろん、今の子供たちの方がいろいろな面で恵まれているだろう。われわれの小学生のころは、冬は教室内でも足踏みをしながら寒さに耐えた。着ている物も学生服の上に半纏(はんてん)を着る子供はいくらでもいたし、靴はゴムの短靴か長靴、穴の開いたものに藁を詰めて履いていたこともある。
 都会の子供たちと田舎の子供たちとでは明らかに違いがあったし、たまに都会からの転校生があると、双方で張り合ってすぐには仲良くなれなかったものだ。

 もうわれわれ後期高齢者が心配しても仕方ないが、このまま文明が進んでいった果てに、一体人類はどうなってしまうのだろうか。そんな大それたことを、手許の読みかけの本が問うている。
 本日はこの辺で。
 
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      ’25年「冬」(26)

2025年02月04日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

   夜間の散歩では、この300㍍ほどの距離が要注意となる
 
 2月4日、これから中央病院へ。胆石はすでに流れただろうか、それとも、これで3回目になるが、今回で流れるだろうか。昨年暮れの28日から1か月以上が経つ。相変わらず、普段の暮らしには何の問題もないから有難い。

 ここらはそうでもないが、各地で交通が混乱したり、家屋の倒壊が起こるなど、大雪の被害が出ているようだ。今冬「今季最強の寒波」はこれで二度目になる。
 粉雪ならまだしも、湿気を含んだ重い雪の雪掻きはやってみた者でなければ分からないが、大変な仕事である。過疎地化した集落では、それを高齢者がするわけである。
 
 このことからしても、次の世代にツケや課題を残し、高齢者は安気気楽のように言われたりするが、そんなことはない。それなりのものを残したし、今も闘っている人はどこにもいる。農業の実態など60代以上が支えているのは分かっているだろう。
 知識人とやらが、高齢者代表のようにして、若い世代におもねるような発言をする、如何なものかと思う。

 カンロ飴のような硬くて、それよりか小さな白い粒は、前回細く小さな水飴状に歪み、そしてきょうレントゲンと超音波で調べた結果、消えていた。詳しいことは省くが、「もしや」と思わせるそれらしき兆候はあっただけに、きょうはあの破砕処置を免れ、医師の診断だけで終わって安堵した。
 
 病院からの帰路、入笠方面を見たら雪雲の中に隠れて見えなかったが、いつ来るんだと問われたような気がした。もう、雪につぶれても、どうなっても、どうせ解体される小屋であり管理棟であるかも知れないが、であればなおさら、今冬だけでも見過ごすようなことはしたくない。幸い、石は流れた。近々にも上に行く。

 平凡な日々にあって、時にはきょうのような良いこともある。飲み尽くしたと思っていたビールケースの中に、2,3缶飲み残したビールが残っていたような、そんなささやかな、取るに足らないことでも、日常の快さにはなる。
 そんなことが最近2,3重なって、少し前から降りだした雪を眺めつつ、いつになく平安を感じ、昼酒に酔っている。

 そういうわけで、胆石は流れました。ご心配おかけしました。有難うございました。
 本日はこの辺で。
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      ’25年「冬」(25)

2025年02月03日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

      上から見た洞口の坂、勾配が分かるだろうか
 
 雪催いの天気、降ったとしても大したことはない。せいぜい西山おろしの風に乗って舞う程度だろう。昨夜も雨が降ったのか草木や地面はすでに湿っていて、こんな日に限って落ち葉焚きを思い付くも、思い留まる。
 梅の枝は、暇に任せて少しずつ枝切りを続け、それが何十本にもなった。花のことも考えてやったから、3本の老梅は今春も花を咲かせてくれるだろう。

 先日、また白馬方面でスキー事故があったとテレビが報じていた。スキー場から飛び出して野山を滑る、いわゆるバックカントリースキーらしいが、救助隊に連れられて山を下って来た人たちは60歳、中には70歳の人もいたようで驚いた。
 雪煙を舞い上げて林間を、野を、所構わず自由に滑るだいご味は分かる気もするが、いかんせん、それをするに相応しい年齢とは思えない。
 現場がどんな状況だったか知るわけではないが、技量だけでなく、体力も物を言う深雪、その意欲は買うにしても、結局自力脱出はできなかったわけで、それが結果だ。さぞかし無念に思うだろうが、大事に至らなかっただけでも良しとするしかない。

 危険を承知で出掛けていく。そういう時が遠い昔にあった。事故を起こし、人にも世話になった。だから偉そうなことは言えない。
 この年齢で、単身雪の法華道を登って、入笠へ行くことすら年寄の冷や水だと嗤う人もいる。自分ではもちろん大丈夫だと思っているし、そうでなければ行こうとは思わない。しかし、誰にでも目算が狂うことはある。
 
 山の事故は大なり小なりそういうものだと思う。誰も雪崩に襲われたり、雪庇を踏み抜いたり、滑落を求めているわけではない。ただ、その可能性を極小にすることが「挑戦」でもあるから、ゼロにはならない。
 よく言う「困難を克服する」ということは一部の人には目的でもあり、それに魅了される。「山には死があり、街にはそれがない」と言った人もいたほどで、はなはだ不条理な理屈だが、頷けなくもない。

 山の事故、遭難についてはさんざん語られてきた。しかし、それで腑に落ちたということもないし、事故もなくならない。冒険は終わらない。
 仕方がないから20万年前、アフリカを旅立ったわれわれの祖先のせいにするしかないのかも知れない。
 本日はこの辺で。

 
 

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