<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

僕の生命に辿り着くまでに要したエネルギー総量は?

2014年08月11日 15時07分57秒 | Weblog
僕が僕になるまでにどれくらいの宇宙的エネルギーが投入されてきたのだろう?

僕はふっとその質問を胸に抱く。



この地球に単細胞生命が誕生してからそれがヒトに進化するまでに費やしてきた不可避的エネルギー総量は計算できるのか?

この地球に生命が誕生するまでに要した何十億年の間、投入され続けねばならなかった不可避のエネルギー活動総量とは?

この地球を誕生させるまでに要した宇宙の何百億年。これをもそこに数え入れたら、エネルギー総量はいったいどれくらいになるのか?



ヒトに進化してから、それから僕に辿り着くまでにいったい何人のペアリレー走者が走り継いできたのだろう?

どこをどうやって生き継いできたのだろう?



僕にバトンを渡すリレーをした星の数ほどの先祖たちは、男役やちょうど半分で、残りの半分は女役だった。

男役は女役に愛を囁いて、女役は男役の愛を受け止めて、かろうじてかろうじて種族保存を実現してきた。



男は女を欺したことがあるだろう。女も男を欺したことがあるだろう。

男は嘗められる分だけたくさんの苦しみを嘗めただろう。女は怺えられる分だけたくさんの悲しみを怺えただろう。

殺したり殺されたりもしただろう。残虐行為をもしただろう。戦をも重ねただろう。悪道非道をも犯しただろう。



そしてその結果がこの僕に集約されている、ということになるのだが、僕は僕に至り着くまでに要したこれら厖大なエネルギー総量を僕はどう受けとめたらいいのだろう?



そしてこらからまた果てしない生命リレーは続いていくことになるのだが、僕の担う責任というのはどれくらい小さな量だろう?
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脅されてはならない

2014年08月11日 10時11分53秒 | Weblog
脅しが大嫌いだ。宗教が脅しになることがある。

死者が冥界で苦しんでいるというのは脅しだ。脅されてはならない。

仏陀が仏陀でいるのは救済を完了しているからである。

仏陀が救済を完了した世界は安心の世界である。

死者の冥界は、暗い冥界ではなくて明るい仏界である。

安心していい。

死者は仏陀によって安んじられている。
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お盆は生者の生の見直しを迫られている

2014年08月11日 08時09分54秒 | Weblog
盂蘭盆(うらぼん)が来ている。いわゆるお盆だ。

サンスクリット語でウランバーナ。「逆さ吊り」の意。死者の苦しみを指すものか。

辞書によれば、「木蓮尊者の説話に基づき、祖霊を死後の苦しみの世界から救済する仏事。陰暦7月13日~15日を中心に行われる。種々の供物を祖先の霊、新仏、無縁仏(餓鬼仏)に備えて冥福を祈って、僧侶が棚経に回る」と説明されている。



日本各地にはこの盂蘭盆会(うらぼんえ)、精霊会(しょうりょうえ)の行事が行われている。

死者、とりわけ親とか子とか愛する者が、死んだあと冥界の地獄で逆さ吊りにされて苦しんでいると(生者が)知れば、誰もが救済を願うだろう。救済の方法は供物(くもつ)を供えることである。しかもこの供物は、愛する者以外の多くの空腹霊に捧げなければならない。



木蓮尊者が仏陀に「わたしのお母さんは死んだ後どうしているのか」とお尋ねする。立派なお母さんだったからさだめし極楽の蓮の上におられると思っていたのだが、仏陀の答えはそれとは反対で、木蓮のお母さんは地獄で苦しんでいるという。どうして地獄の苦しみを受けているかと尋ねると、木蓮ばかりを可愛がって美味しい物与え、欲しがるよその子を蔑ろにしたからだという。母思いの木蓮尊者はもう黙ってはいられなくなった。どうすれば母の苦しみを救ってあげられるかをお尋ねする。



死者ができなかったことを生者がすれば救済になる、というのが仏陀の説法であった。つまり我欲の否定である。貪欲の否定である。

わが子が欲しがるものはよその子も欲しがるものである。わが子に与えるのであればよその子にも与えなければならない。美味しいものはしかしたった一つしかない。わが子はひもじがっている。ひもじさを解消させてやるにはその一つを全部与えてやりたい。

無欲になるというのは難しいことだ。わたしだけが富んでいたい。わたしだけが幸福になっていたい。わたしの欲望だけを満たしていたい。これには逆らえないのだ。

逆らって修行をするのは仏道修行者である。僧である。利他の菩薩道を実践する大乗仏教徒である。



自利のみで終わってはならない。利他を実践しなければならない。利他とは自分以外の人の利益を優先することだ。それはできない。死者もできないことだったが、生者もまたこれができない。

己が他によって生かされた者は他を生かさなければならない。己が生かされるのは嬉しいが、己の利益を削って他を生かすことは苦しみを伴う。



死者の救済どころではない。生きている者が生をどう生きるかである。生者こそは利他の実践をしなければならない。



お盆は死者の霊を弔う行事であるが、我欲の否定は生者にも突きつけられているのである。貪欲は我が身を餓鬼にしてしまうからだ。
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