へえ、そうなんでございます。見えないものはみんな<タマ・シイ>なんでございます。学者さま方はそれを識だとか、意識だとか阿頼耶識だとか、難しい名つけておられるようでございます。タマ・シイは、物質的には、つまり物質の眼鏡を通してみれば、空洞のからっぽで、そこに身を置けばからんからんとした乾燥音を立てます。ぜんたいが壁玉(ぎょく)のブルーグリーンの色をしています。
思惟する玉で、タマ・シイ。思惟が存在の中心でございます。見えているものはあれは思惟の陰影でございます。まあ、言い切ってしまえば、それは遊びのようなもの。玩具遊具のようなもの。苦しみだ悲しみだ、愛だ憎しみだ、損をした得をしたという具合に、そこそこ遊ばせてもらっているのでございますが、あくまでもその奥座敷に鎮座しているのは思惟の玉。それで全宇宙の存在を深めておるのでございます。わたしという単独の存在を深めているばかりではないのです。
全宇宙的存在が深められればそれだけわたし単独のそれは浅くてかまわなくなります。貧しくてかまわなくなります。わたしが偉くなったとか強くなったとか、或いはそうでないとかは問題にならなくなります。わたし単独が貧しくとも浅くとも、タマ・シイはちっとも恥ずかしがりません。広々として明るく温かいばかりです。へえ、思惟の陰影を、わたしやわたしたちや宇宙全体の暗さだとしなくともいいのでございます。
思惟する玉で、タマ・シイ。思惟が存在の中心でございます。見えているものはあれは思惟の陰影でございます。まあ、言い切ってしまえば、それは遊びのようなもの。玩具遊具のようなもの。苦しみだ悲しみだ、愛だ憎しみだ、損をした得をしたという具合に、そこそこ遊ばせてもらっているのでございますが、あくまでもその奥座敷に鎮座しているのは思惟の玉。それで全宇宙の存在を深めておるのでございます。わたしという単独の存在を深めているばかりではないのです。
全宇宙的存在が深められればそれだけわたし単独のそれは浅くてかまわなくなります。貧しくてかまわなくなります。わたしが偉くなったとか強くなったとか、或いはそうでないとかは問題にならなくなります。わたし単独が貧しくとも浅くとも、タマ・シイはちっとも恥ずかしがりません。広々として明るく温かいばかりです。へえ、思惟の陰影を、わたしやわたしたちや宇宙全体の暗さだとしなくともいいのでございます。