<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

トマトも胡瓜もはやばや夏を終える

2014年08月16日 16時22分21秒 | Weblog
もういいよね。

うん。もういい。

これ以上はもういい。



小人閑居して不善を為す。不善を為すのはもうこれくらいにしておこう。

赤恥を掻き連ねて行くのも、もうご免だ。

厚ぼったい傲岸不遜ももういい加減にしたい。



こうしてくれ、ああしてくれの願いごとの口もそろそろ閉ざそう。

わがことを祈るのも暑苦しくなった。暑苦しいのは耐えられない。



もういいよね。

うん、もういい。

これ以上はもういい。

トマトと胡瓜が会話をしている。



夏草がそろそろ枯れていく頃合いだ。

トマトも胡瓜もはやばや夏を終えたようだ。
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臂の長さでたしかめあう

2014年08月16日 16時02分42秒 | Weblog
人に会いたくないとするよりも、人にはやばや会ってみたいとする方がいい。

拒否は、する方もされる方も嫌だ。

誘いに乗ってどうするか。

機嫌取りはしたくない。上目遣いもしたくない。フラットでいたい。

昼日中は、鳴いている雀の鳴き声を聞いて、ふたりとも聞こえるくらいがいい。

ちびりちびり杯を煽って夜の暗さ寒さを臂の長さでたしかめるくらいでいい。
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人と逢う蛍の夜

2014年08月16日 15時45分20秒 | Weblog
ゆるやかに着て人と逢う蛍の夜   桂信子



この俳句が妙に好きである。「ゆるやかに」生きていたいからである。

ギクシャクはご免だ。



蛍が飛び交う夜だから、着ている物は一重の薄物だろうか。浴衣を考えてもいい。



男性か女性かは分からないが、たぶん好きな人と逢うのだろう。ならば、気持ちもゆったりしているだろう。



何度か逢っている人だろう。初めてであれば、張り詰めて緊張をしてしまう。



ゆったりした気持ちで逢ってくれる人であれば、その人だってきっとゆったりするはずである。



桂さんはご主人を早く亡くしている人だ。寂しさを通り越していなければ蛍の夜をこうはゆったりは過ごせまい。
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不偸盗戒(ふちゅうとうかい)という戒

2014年08月16日 15時16分28秒 | Weblog
仏教の五戒の一つに「盗むな」という戒がある。これは不盗戒。

それだけではなく、「盗むなと言うな」というのも加えてある。これが不偸盗戒である。

我が物にしている者はすべて盗人なのである。



宇宙のものを我が物に盗んできておいて、それを人には盗ませないようにして、鍵を掛けてしまい込んでいる。

強欲は独り占めをしたがるが、この宇宙の物は宇宙の所有物であって、そこに棲まわせてもらっている住人の所有物ではない。



仏教は無所有を説いている。



人が所有しているものはないのだ。

人は裸で生まれて来て裸で死んで行く。



資本主義世界では、人は動産や不動産を所持していることになっているが、これはそれで社会の経済を隆盛せんというためであって、本来はそれも借り物のレンタルなのだ。借り物は返却すべきだ。



強欲は強欲を呼んでくる。果てしがなく強欲になるが、それでも動き出した強欲の電車、欲望の電車は止まらない。

やがて戦争をする。戦争をしてすべてが破壊されてそこでスピードが落ちるけれども、また強欲が芽吹いてくる。

世界中が戦争の火で焼かれるようになっても、わが強欲が人の強欲に劣っていてはならないと判断を下してしまう。



人間の業火はおさまらない。繁栄は強欲と傲慢の両足で成り立っているからだ。



多く持つな。少なく持て。わが所有をできる限り少なく少なくせよ。仏教は平和の実現をこう教えているが、少なく持つことはなかなかに難しい。僧が出家して修行を重ねても重ねても、不偸盗戒の実行は難しい。まして在家の者をや。
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どうにもしようがないへま男の三郎

2014年08月16日 14時59分52秒 | Weblog
生涯にわたり、へまをし続けてきた。だから三郎はへま男である。どうしようもないへま男である。昨夜はそれを夢にまで見た。すまぬすまぬと謝っていたが、謝るくらいではすまないほどの大事件に発展していて、青ざめていた。そこで目が覚めた。目が覚めてもいたたまれなかった。夢の中の事件くらいは何度も起こしてきたので、さもあらんさもあらんと思って、夢の中の、うろうろする三郎をあやした。これだけへまを量産してきてよくぞここまで生きながらえてきたものである。うっかりミスではなく、生来の怠け者である上に、佐賀弁で言うところの「ううまんぎゃ」「ううしかつ」なのだ。物事をきちんきちんとやりこなせないのだ。無責任男なのだ。たくさんたくさんの人がどれだけ三郎をフォローしてくれたか、察して余りある。そうであるのに、三郎はお礼の一言を言って来てはいないのだ。
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楽しいことどもを悉く楽しまんがために

2014年08月16日 14時29分48秒 | Weblog
渓(たに)の水 汝(なんじ)も若し よき事の外(よそ)にあるごと 山出(い)でて行く   与謝野 寛



与謝野 寛は機関誌「明星」を創刊した人。新しい和歌運動の提唱者である。



谷川の水が山を出て行く。谷水は若き旅人。宇宙に満ちている楽しいことどもをことごとに楽しまんがために、勢いよく流れ下って行く。

着想が素晴らしい。



若い旅人は気がはやる。そおれ、最初の大滝のところまで来たぞ。先に来た者から飛沫を上げて歓声を響かせているぞ。



滝場の浅瀬には人間の若いメッチェンがいくたりかいて、薄衣1枚になって水遊びをしている。涼しい夏の風が吹き渡る。

橋の袂まで来たら、牛飼いがいて、牛を洗っている。燕が低く飛んで行く。甘草の花の敷物が広がる。

この世はどうだ、嬉しいところばかりじゃないか。



というふうにこの作品を読んでみたのだが、はずれだろう。うんとはずれているだろう。

谷水にことよせて作者自身を投入してみた心象風景か。

あるいは、善きことは外にはなく、山の内にあるとでも言うものか。


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この世のよろこびを見たまま聞いたままで

2014年08月16日 14時16分04秒 | Weblog
山鳩が来て鳴いている。
樫の木のてっぺん当たりに来て鳴いている。
ぼほうぼほう、ぶぼうぶぼう。ほうほうほう。

ここは山里である。喧噪がない。

ほうほうほうは、
「ほほうそうだったのかそうだったのか」ということらしい。
それで頷いているのだ。領下をしているのだ。
逆らうことがないのだ。

骨を喉に飲んでひっかかったりしていないので、嚥下が楽だ。
この世のよろこびを見たまま聞いたままで飲み下していける。

ぼほうぼほう、ぶぼうぶぼう。
ほうほうほう。
ひとつひとつまたひとつ、頷くことがあるらしい。
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ためしに両拳の白蓮華を開いてみるとよい

2014年08月16日 13時39分05秒 | Weblog
わがこころ一度にひらく白蓮華 常(ぜう)と無常は言ふに言はれず   木喰上人



木喰上人は江戸後期の遊行僧。22才で仏門に入り、45才で木食戒を受け、米穀を断ち、木の実でいのちをつなぎつつ、千体の仏像を彫らんと発願した。



「悟りを開く」と言うからには、閉まっているのだ、悟りというのは。その開き方は、一度にどっとである。躊躇逡巡がない。思い切りがいいのだ。こうだと思って決行するのだ。開こうと思って、それで開くのだ。

濠に蓮が広がっている夏の朝、白蓮華の蕾が一度に開く。開いて常(ぜう)(=永遠界、真理界、仏界)に歩を進める。

無常だ無常だと言って尻込みしているその瞬間、間髪を入れずに常を掴み取る。掴み取って馥郁とした香を放つ。



わがこころの夏の濠。ここにも白妙の白蓮華が開花した。すがすがしさが満ちる。



こころを開くか、開かないか。開くための理屈は無用だ。開けばそこが真理界である。

こころを開くか開かないか。これは朝のひとときの瞬時の判断であり瞬時の断行である。

これは言うに言われないところだ。つまりは断行があってそこで開く。



手の握り拳を開くことができる者はこころを開くことができる。ためしに両拳を蕾にして拳の白蓮華を開いて見るとよい。



両拳の白蓮華を開く。

わがこころをして清々しい清浄界に遊ばせる夏の朝。

めでたいことに、今朝は昨日までの雨も止んだ。空は青い。気温は涼しい。
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陽炎やけふは墓より外に住む

2014年08月16日 13時17分29秒 | Weblog
陽炎(かげろう)や墓より外に住むばかり  内藤丈草



内藤丈草は芭蕉の門人。春の昼日中、芭蕉を慕って師の墓に詣でた。これはその時の句。

陽炎は儚い。あるかないかの境目にあって春の野原に立ちのぼり、いつしか消えて行く。



師の芭蕉は墓の中、丈草は墓の外。芭蕉は白骨。丈草は老骨。内と外と住むところが違うが、二人を包んでいるのはともに春の陽炎である。

陽炎の中を生きて陽炎の中に死んでいる者ばかり。



この世にあって意を得たりとして驕る者も、失意して消沈する者も、ここを過ぎてみれば、ただ春の野に立つ陽炎を見上げているばかり。

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ここで一切が完了している

2014年08月16日 08時36分06秒 | Weblog
ワシワシ蝉がワシワシ鳴いて盆が過ぎた。

庭前にブルーの朝顔が7個も花を着けた。

これ以上の何をするべきか、と考えて朝の9時。

これ以上することが何も見付からない。

見つけることもいらない。

ここで一切が完了しているので、

わたしがことさらにすることはない。

ことさらにわたしを底上げするべきがない。

べきがない。

耳で蝉を聞いて目で朝顔を見ている。

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