<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしを生かそうとする者、彼には意思があり情がある。

2014年08月25日 15時26分59秒 | Weblog
有情(うじょう)と非情(ひじょう)についての私論。



有情は梵語ではSATTVA(さっとばあ)。生存する者の謂。情(=こころのハタラキ)を持つ者。すなわち生きとし生けるものの総称として用いられる。衆生に同じだ。あるいはまた愛憎によって揺れ動く者。その対極にあるのが、非情。感情(喜怒哀楽)を持たない木石の類いである。



わたしを生かそうとするものには、意思がある。こころがある。情けがある。

わたしにも意思がありこころがあり情けがある。



そのわたしが木や石に向かったら、わたしはわたしの情を木や石に投射する。そこに詩が生まれる。歌が生まれる。とすれば、そこに明らかな交流があったということになる。情を交換し合ったということである。こころの電流が流れ合ったということである。わたしはこれで元気を取り戻す。そして、無論、木や石も、わたしの情に包摂されて元気を回復する。溌剌となる。

ゆえに、非情もまた有情になる。もちろんこれは有情同士でもこうなる。人間同士でもこうなる。人間と魚の間にあってもこうなる。人間と虫の間にあってもこうなる。



「わたしが木石に向かった」と、はじめそう説明をしたが、それをそうせしめたのは木石の方であるから、木石にその端緒があったとしてもいいはずである。わたしが木石を誘発したとも考えていいけれども、木石の誘惑にわたしが乗ったと考えてもいい。

その二つはセットであるとしてもいい。二つが揃わなければ感情も動かなかったはずであるから。そこに一つの世界を造り上げるもの、としてもいい。



情とは生きものである。動きを持つものである。AとBとの間を行き交うものである。これがあれば、木石もまた温度を持ちうるのである。温まれるのである。



「わたしを生かそうとするものには、意思があり、こころがあり、情けがある」と記したが、そのことをもう少し膨らませてみたい。

大前提は、「わたしを生かそうとしているものがある」ということである。

非情説法がそれである。

非情説法とは、「非情(木石の類い)は仏陀の法を説いている」という意味合いである。



わたしを生かそうとしているものがなければ、わたしは生きてはいないのである。



それらがすべてその機能、役割を十全に果たしているので、わたしが生きていけるのである。

それがわたしのまわりを埋め尽くしているのである。十重二十重に、百重千重に、わたしを取り囲んでいるのである。

そしてわたしを後押ししているのである。力を貸しているのである。わたしを励ましたり慰めたりしているのである。わたしに休息の場所を提供したりしているのである。



そのハタラキをし通しのものが、非情であるわけがない。日本人はそう把握してきた。ゆえに、山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)となったのである。ここに存在しているものがすべて悉く手を取り合って仏の道を歩いているとしたのである。全体として行くべき処へ行こうとしている、としたのである。

情は血液のようなものだと思ってもいい。互いの心の栄養価を運搬する役目を担う。



ここに存在するすべてがただただわたし一人を生かすために存在しているのではないか。

「弥陀の誓願不思議をつらつらかんがうるに、ひとえに親鸞一人がためなりけり」これは親鸞聖人の述懐である。



(話があっちへこっちへ行って揺れ動いているので読み辛いでしょう。ごめんなさいね)

夕顔の花が咲き出しました。夕顔は有情か、非情か。あなたはどう思うか。

花に誘われて花を見たのであれば、あなたのエモーションは動かされたのである。動かした夕顔に情けを汲み取ったのである。であれば、あなたにとって夕顔は、まちがいなく有情だったのである。



結論。わたしは有情にも非情にも助けられて支えられて守られて導かれて、生きている。ああ、嬉しい。(なあんだ、そんなことだったのか。単純だなあ)

花を友とし、月を友とし、鳥を友とし、人を友として生きていられるわたしは果報者である。
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屁が出た。これも霊妙な神通力のわざであった。

2014年08月25日 11時02分49秒 | Weblog
屁が出た。出なかったら、腸捻転でもやりかねないところだった。それが出た。出た屁は臭いけれど、なによりこれが、出たという証拠だ。

こうやってわたしは守られているのだ。屁もまた堅実にわたしを守っていてくれるのだ。これの連続だ。生涯ずっとこの連続で、守られ続けてきたということに、神秘を感じる。

屁の神通力が備わっている男、これを自慢するとしよう。いや、人に自慢するのではない。おのれに対して、である。屁ができる神通力、これもまた霊妙なる霊力である。
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わたしに都合のいい独断解釈法

2014年08月25日 10時25分42秒 | Weblog
聞き慣れない声で鳴いている小鳥がすぐ近くまで来ています。何処かから渡ってきたのでしょう。夏空を吹き渡る夏風のように爽やかな声です。

ふふ。例によって例による「わたしに都合のいい独断解釈法」をします。

この小鳥はわたしと繋がっていますので、わたしを慕ってわたしの近くまで来ています。そうであるに違いありません。

なぜ? はい、わたしをこころよくさせているからです。わたしと繋がっていなければ、小鳥がどんなに美しい声で鳴こうともわたしの耳には入ってこないはずです。しかもわたしを魅了させるまでに。
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なんという尊いわたしを生きていることか

2014年08月25日 09時48分23秒 | Weblog
山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)ということ。

仏性(ぶっしょう)というのは、やがては仏となる性質・素性・本性ということです。

仏教は有情(うじょう)ことごとくがやがては仏となるとしています。

人間のみならず山も川も草も木もみながやがては仏に成って行くとしています。



わたしもこの例にもれることはありません。

ですからわたしもやがては仏に成って行きます。

どれくらいの歳月を要するかそれは分かっていませんが、そこにわたしのゴールがあります。

ですから、この今のいっときも無駄にしてはいられないのです、ほんとうは。



進行形なんですね。いつも。仏に成ろう成ろうとしているその進行形です。

永遠に進行形のままということもあるのかもしれませんが、とにもかくにもわたしはそっちの方角を目指して歩いているのです。

わたしは何処へ向かっているかに解答が出ているのです。

いえ、これはわたしだけではありません。生きとしいける衆生の一人残らずです。すべてが同じ方角を向いてゴールを目指しています。



一切衆生成仏。この誓願を立てられて法蔵菩薩は阿弥陀如来になられました。如来になられたということが即ち誓願が成った証しでした。



お釈迦様の「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」は、わたしが仏に成って行くという開悟の表明でした。

わたしはなんという尊いわたしを生きていることかという開眼。驚嘆と歓喜。

この歓喜は優に100万ボルトの電流を全身全霊に流さしめたことでしょう。



では仏に成るというその仏とは? そういうクエスチョンが湧いてきます。答はたくさんあるはずですが、わたしはこの「宇宙の王になること」と考えています。

よろこびの宇宙にいてよろこびの王になる、それを仏の姿としてイメージしています。

わたしの宇宙王はよろこびの極点で輝いています。



え? そうだったら、いますぐにでもできそうじゃん、と言われそうです。いますぐに成仏したらそれは即身成仏になります。

1000年、10000年を待たずに済むことになります。

写真に写るときの「はいチーズ」のように、えいやっと仏に成るきらきらマジック(経典ではこれを神力と呼んでいます)が、或いはいますぐに見付かるかも知れませんね。



ふっふっふ。インスタント成仏麺もおいしいかもしれませんが、まあ、そんなに慌てふためくことでもありますまい。ゆっくりゆっくり待っていますか。
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長々と怠惰を貪っていていいはずはないのだが

2014年08月25日 09時00分16秒 | Weblog
朝靄の中をひらひら黒揚羽蝶が飛んでいます。雨は強くなったり弱くなったり、止んだりしています。夏を閉じるツクツクボウシ蝉が鳴いています。夏にこれだけ長雨が続いたら、農作物の収穫が心配されます。日射量を欠いた台湾ホウレン草(空心菜あるいはエンツアイとも)がひょろひょろ伸びています。わたしは相変わらずだらだらして怠惰に浸っています。踏み出す姿勢がありません。無行動です。



仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔
けりょうしんし しょくどくちゅう がぎょうしょうじん にんじゅうふけ
たといわが身をして 諸々の苦毒の中に止まるしむるとも 我は精進を行じて 忍び終わって悔いざらん

(大無量寿経 上巻 讃仏偈より)

これはいまだ修行中の法蔵菩薩が師の世自在王仏にご自身の決意を述べておられるところです。ですからこの決意文の「身」は法蔵菩薩の身ということになります。やがて精進の末に法蔵菩薩は阿弥陀如来になられます。



わたしは怠惰に耽りながらも、ひょいひょいと目を覚ましてこの句を口ずさみ、法蔵菩薩のご修行を偲んでいます。

仏教は阿弥陀如来だけが成仏されるというところで終わりません。わたしを成仏させようさせようとしています。そして最終にそうなっていかねば阿弥陀如来の成仏が空を切ってしまうことになります。仏に成るということが約束されているのです。そういうわたしですから、こうやって長々と怠惰を貪っていていいはずはないのですが。

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