有情(うじょう)と非情(ひじょう)についての私論。
*
有情は梵語ではSATTVA(さっとばあ)。生存する者の謂。情(=こころのハタラキ)を持つ者。すなわち生きとし生けるものの総称として用いられる。衆生に同じだ。あるいはまた愛憎によって揺れ動く者。その対極にあるのが、非情。感情(喜怒哀楽)を持たない木石の類いである。
*
わたしを生かそうとするものには、意思がある。こころがある。情けがある。
わたしにも意思がありこころがあり情けがある。
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そのわたしが木や石に向かったら、わたしはわたしの情を木や石に投射する。そこに詩が生まれる。歌が生まれる。とすれば、そこに明らかな交流があったということになる。情を交換し合ったということである。こころの電流が流れ合ったということである。わたしはこれで元気を取り戻す。そして、無論、木や石も、わたしの情に包摂されて元気を回復する。溌剌となる。
ゆえに、非情もまた有情になる。もちろんこれは有情同士でもこうなる。人間同士でもこうなる。人間と魚の間にあってもこうなる。人間と虫の間にあってもこうなる。
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「わたしが木石に向かった」と、はじめそう説明をしたが、それをそうせしめたのは木石の方であるから、木石にその端緒があったとしてもいいはずである。わたしが木石を誘発したとも考えていいけれども、木石の誘惑にわたしが乗ったと考えてもいい。
その二つはセットであるとしてもいい。二つが揃わなければ感情も動かなかったはずであるから。そこに一つの世界を造り上げるもの、としてもいい。
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情とは生きものである。動きを持つものである。AとBとの間を行き交うものである。これがあれば、木石もまた温度を持ちうるのである。温まれるのである。
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「わたしを生かそうとするものには、意思があり、こころがあり、情けがある」と記したが、そのことをもう少し膨らませてみたい。
大前提は、「わたしを生かそうとしているものがある」ということである。
非情説法がそれである。
非情説法とは、「非情(木石の類い)は仏陀の法を説いている」という意味合いである。
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わたしを生かそうとしているものがなければ、わたしは生きてはいないのである。
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それらがすべてその機能、役割を十全に果たしているので、わたしが生きていけるのである。
それがわたしのまわりを埋め尽くしているのである。十重二十重に、百重千重に、わたしを取り囲んでいるのである。
そしてわたしを後押ししているのである。力を貸しているのである。わたしを励ましたり慰めたりしているのである。わたしに休息の場所を提供したりしているのである。
*
そのハタラキをし通しのものが、非情であるわけがない。日本人はそう把握してきた。ゆえに、山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)となったのである。ここに存在しているものがすべて悉く手を取り合って仏の道を歩いているとしたのである。全体として行くべき処へ行こうとしている、としたのである。
情は血液のようなものだと思ってもいい。互いの心の栄養価を運搬する役目を担う。
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ここに存在するすべてがただただわたし一人を生かすために存在しているのではないか。
「弥陀の誓願不思議をつらつらかんがうるに、ひとえに親鸞一人がためなりけり」これは親鸞聖人の述懐である。
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(話があっちへこっちへ行って揺れ動いているので読み辛いでしょう。ごめんなさいね)
夕顔の花が咲き出しました。夕顔は有情か、非情か。あなたはどう思うか。
花に誘われて花を見たのであれば、あなたのエモーションは動かされたのである。動かした夕顔に情けを汲み取ったのである。であれば、あなたにとって夕顔は、まちがいなく有情だったのである。
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結論。わたしは有情にも非情にも助けられて支えられて守られて導かれて、生きている。ああ、嬉しい。(なあんだ、そんなことだったのか。単純だなあ)
花を友とし、月を友とし、鳥を友とし、人を友として生きていられるわたしは果報者である。
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有情は梵語ではSATTVA(さっとばあ)。生存する者の謂。情(=こころのハタラキ)を持つ者。すなわち生きとし生けるものの総称として用いられる。衆生に同じだ。あるいはまた愛憎によって揺れ動く者。その対極にあるのが、非情。感情(喜怒哀楽)を持たない木石の類いである。
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わたしを生かそうとするものには、意思がある。こころがある。情けがある。
わたしにも意思がありこころがあり情けがある。
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そのわたしが木や石に向かったら、わたしはわたしの情を木や石に投射する。そこに詩が生まれる。歌が生まれる。とすれば、そこに明らかな交流があったということになる。情を交換し合ったということである。こころの電流が流れ合ったということである。わたしはこれで元気を取り戻す。そして、無論、木や石も、わたしの情に包摂されて元気を回復する。溌剌となる。
ゆえに、非情もまた有情になる。もちろんこれは有情同士でもこうなる。人間同士でもこうなる。人間と魚の間にあってもこうなる。人間と虫の間にあってもこうなる。
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「わたしが木石に向かった」と、はじめそう説明をしたが、それをそうせしめたのは木石の方であるから、木石にその端緒があったとしてもいいはずである。わたしが木石を誘発したとも考えていいけれども、木石の誘惑にわたしが乗ったと考えてもいい。
その二つはセットであるとしてもいい。二つが揃わなければ感情も動かなかったはずであるから。そこに一つの世界を造り上げるもの、としてもいい。
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情とは生きものである。動きを持つものである。AとBとの間を行き交うものである。これがあれば、木石もまた温度を持ちうるのである。温まれるのである。
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「わたしを生かそうとするものには、意思があり、こころがあり、情けがある」と記したが、そのことをもう少し膨らませてみたい。
大前提は、「わたしを生かそうとしているものがある」ということである。
非情説法がそれである。
非情説法とは、「非情(木石の類い)は仏陀の法を説いている」という意味合いである。
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わたしを生かそうとしているものがなければ、わたしは生きてはいないのである。
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それらがすべてその機能、役割を十全に果たしているので、わたしが生きていけるのである。
それがわたしのまわりを埋め尽くしているのである。十重二十重に、百重千重に、わたしを取り囲んでいるのである。
そしてわたしを後押ししているのである。力を貸しているのである。わたしを励ましたり慰めたりしているのである。わたしに休息の場所を提供したりしているのである。
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そのハタラキをし通しのものが、非情であるわけがない。日本人はそう把握してきた。ゆえに、山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)となったのである。ここに存在しているものがすべて悉く手を取り合って仏の道を歩いているとしたのである。全体として行くべき処へ行こうとしている、としたのである。
情は血液のようなものだと思ってもいい。互いの心の栄養価を運搬する役目を担う。
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ここに存在するすべてがただただわたし一人を生かすために存在しているのではないか。
「弥陀の誓願不思議をつらつらかんがうるに、ひとえに親鸞一人がためなりけり」これは親鸞聖人の述懐である。
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(話があっちへこっちへ行って揺れ動いているので読み辛いでしょう。ごめんなさいね)
夕顔の花が咲き出しました。夕顔は有情か、非情か。あなたはどう思うか。
花に誘われて花を見たのであれば、あなたのエモーションは動かされたのである。動かした夕顔に情けを汲み取ったのである。であれば、あなたにとって夕顔は、まちがいなく有情だったのである。
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結論。わたしは有情にも非情にも助けられて支えられて守られて導かれて、生きている。ああ、嬉しい。(なあんだ、そんなことだったのか。単純だなあ)
花を友とし、月を友とし、鳥を友とし、人を友として生きていられるわたしは果報者である。