<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

病まずにいられることはないか ない

2014年08月28日 13時33分22秒 | Weblog
行く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲

(行く秋を雲だけが流れていて、作者名が浮かんできません)



「の」が4連続してしだいに収縮していく。そしてぽっかりとぽっかりと一片の雲が秋を独り占めする。

大和の国には薬師寺があって、いまも変わらず厳かに仏舎利の塔が聳え立ち、「ゆ」「や」「や」のヤ行が風をこしらえて、ゆるやかに取り巻いている。



かって奈良には古い都があった。薬師寺は法相宗の大本山。680年、天武天皇の発願。白鳳時代、天平時代の仏教美術品も収められている。

法相宗は別名唯識宗。この世の一切の存在は識(こころ)の造りだしたものに過ぎないとした。その識の八番目に、全人類共通遺産の阿頼耶識(あらやしき)という識があるとした。



ここのみほとけは薬師如来、つまりお医者さまである。

ヒト属は病む。目を病み、口を病む。こころを病み、からだを病む。たましいを病み、思想を病む。

病まずにいられることはないか。ない。病んでいいのである。病んでみればそこに見えてくる仏がある。仏にゆだねていいことが分かる。



病む者にはどうしても医者がいる。仏さまとは、このお医者さまなのだ。従って、仏教の役割は医者の役割である。病む者のこころを元気にさせる教えである。



そんなことあんなことを一片の雲から考える。

秋風吹きたつ平城京の都の地に、いざや片雲の風に誘われ、とろりとろり行ってみたくなってきた。

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旅先の鴨の声は仄かに白し

2014年08月28日 13時08分45秒 | Weblog
海暮れて鴨の声ほのかに白し   芭蕉 「野晒し紀行」より



海が暮れてしまった。薄暗くなった足下を照らしてくれるのは渡ってくる鴨の声である。ぼんやりと仄かに白く涼しげな声が、今日一日の旅の疲れを癒やしてくれる。



芭蕉も旅人をしているが、海も旅をしている。遠いところから流れ着いている。それは渡ってくる鴨にしても同じだ。同じ身の上を3つ列べて、今日を慈しむとしよう。



ここには人が居ない。同行している弟子があいるはずだが、歌には現れてこない。地方地方には信奉者も待ち構えていただろう。芭蕉はこのときまだ41才の若さである。思いを届けたい人もいたであろうが、その仄かな女性の姿も現れてこない。



無常観に徹するにはこの方がましか。海を見て鴨を聞いてこころの白いキャンバスに眼前の風景を描く。季節は冬。鴨は北から渡ってくる。寄せる海の波も荒々しい。画家の芭蕉の夕暮れに、仄かに灯っているものは何であっただろう。
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障害者のパック旅行には介護者がいる

2014年08月28日 11時36分17秒 | Weblog
旅行業者からの旅のお誘いがよく来る。紅葉の東北4日間なんていいだろうな。でも、障害者は一人ではパック旅行について行けないことになっている。介護者がついて面倒をみていないと、同行者の旅を邪魔してしまうからだ。駅でも空港でも、グループの歩くスピードについて行けない。車椅子を押してくれる人がいないといけない。介護者は都合二人分の荷物を持ちながら、尚且つ車椅子も押さねばならなくなるので、大変な重労働になるのだ。家内と二人だと、老老介護になってしまうので、それほど健康に自信が持てない家内も敬遠をしてかかることになる。といって、若い逞しい人を雇うわけにもいかない。そんな大金はない。そこで、結局は諦めてしまう。ときどき旅先で労力を提供して下さる方がいるが、今度はこっちが恐縮してしまって縮こまることになる。障害者の旅とはなかなか難しいのだ。
 でも、十和田湖もいいだろうな。奥入瀬もいいだろうな。鳴子温泉もいいだろうな。パンフレットの紅葉風景を見て、それでその気分に浸るとするか。これだと人に面倒をかけないですむ。
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記憶はこれで全部です

2014年08月28日 11時25分39秒 | Weblog
そのときわたしは
揚羽蝶がひらひら舞っているのを
眺めておりました
小雨が金柑の緑を濡らしておりました

はい
生きていたときのわたしの記憶は
これで全部です

それからもう何千億年もたちましたが
これだけの情景が
ずっとずっと
それからのわたしをあたためているのです
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平和の音楽を鳴らしているだけじゃないか

2014年08月28日 10時34分38秒 | Weblog
アフガニスタンにも戦争があって
ウクライナにも戦争があって
イラクやシリアにも戦争があって
イスラエルにも戦争があって
中国の奥地でも戦争があって
各地で人間の仲間を敵にして殺し合って
緑色の地球が砂漠になるまで憎しみが広がった

というのに
黒揚羽は小雨そぼ降るこの村里に下りてきて
のんびり飛び回っているだけじゃないか
恵比寿南瓜は黄色いラッパのような花を
午後の空に突き出して
畑一面で
平和の音楽を鳴らしているだけじゃないか
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むうくふ ここは恐怖(くふ)の世界ではない

2014年08月28日 10時04分04秒 | Weblog
無有恐怖(むうくふ)の世界であれ。戦争のない世界であれ。争って脅し合えば互の恐怖は増幅する。恐怖を打ち消すために、相手を叩いて屈服させねばならなくなる。こちらの言う通りにさせても、それでも恐怖は募る。反旗を翻されることを恐怖せねばならなくなる。恐怖の鎖は連鎖するのだ。



相手が戦争を仕掛けてこないだけの強さを保持しておけば平和が保たれるか。そうかもしれない。どの国も軍備を拡大する。その拡大された軍備は、相手を恐怖させる。恐怖した相手は、恐怖を払いのけようとして、それ以上の軍備拡張をするしかなくなる。敵対が敵対を拡大していく。憎悪は敵味方に分かれて、恐怖を撒き散らす。



恐がらせてはならない。脅してはならない。草の葉を見ていると、それが思われる。同じようにこの蓮華蔵世界に身を置きながら、われわれヒト属は、草のように無有恐怖、涅槃寂静ではいられない。弱い立場の者を恐がらせ脅して、強い者になる。そこで束の間の充足を得る。



ここは千毘盧遮那仏(せんびるしゃなぶつ)、万毘盧遮那仏(まんびるしゃなぶつ)の蓮華蔵(れんげぞう)世界である。仏たちの千の祈り、万の祈りの末に、ここに生まれたのである。ここにいのちを得ているのである。その尊いいのちを、恐怖させられ恐怖させて暮らしている実態があるが、原点0の位置は無有恐怖の位置である。安らかな位置である。
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愛を抱けばからだはあたたまる

2014年08月28日 09時03分07秒 | Weblog
雨の音がぽつぽつぽつぽつしている。草の葉を叩いている音だ。空は灰色である。まだ真夏なのに、風は秋風を連れてきている。ひんやりするので、もう1枚羽織たいところだ。



さみしい。生きていてこうだから、死んだらもっとさみしくなってしまいそうだ。生きているときの余熱というのはどのくらいの期間続くのであろうか。生きている間にも、冷え冷えと冷え切っていたのであれば、どうなるか。

そうであったら、いま生きているうちに、温めておいた方がよさそうである。ではその熱源はあるか。



自分の内側に発熱器がなければ、外側のそれを頼むしかない。人に温めてもらうしかない。といっても、こちらの要求にすぐさま応じてくれるだろうか。さんざん痛めつけておいた人からのそれは難しいだろう。



人に愛を抱けばからだは温まる。人に憎悪を抱けばからだは冷えてしまう。温まりたい。人でなくともいいかもしれない。草にだって虫にだっていいかもしれない。雲にだって鳥にだっていいかもしれない。



愛は恐がらせることではない。親しんで懐かしくなることである。拒絶ではなく、受容である。受け入れて、巣で卵を抱いて雛を孵すことである。無視ではなく、声かけである。



そういえば、昨日畑の草取りをしていて草の根元で眠っていた石竜子を起こしてしまった。石竜子は土から出てきて大慌てで尻尾をくねらせながらちょろちょろと去って行った。瞬間、悪いことをしたと思った。「悪かった、悪かった。ごめんごめん」と石竜子の背中に声を掛けた。
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